官舎の壁は、本来届くはずの電磁波を遮断するのに長けている。電波の届きが悪いのも、昼夜問わず薄暗いのも、分厚いコンクリートのなせる業だ。そう云う訳で、電話口に聞こえた大淀さんの声からは、普段の透明感が幾分減じられていた。
「申し申し。樋口様の携帯電話で宜しいでしょうか」
「は、はい、もしもし大淀さん。私です、樋口です」
「どうもお久しぶりです。樋口海佐。お変わりありませんか?」
「は、いや、はい。大丈夫です。お変わりありませんとも」
自分自身に敬語を使うーーどこの国の王族か。充分間抜けを晒したことは、ありがちな挨拶よりも雄弁に、私が「お変わりない」ことを彼女へ伝えたかも知れない。
「先般ご依頼頂いた、情報提供の件で連絡致しました」
「あぁ!成る程、ありがとうございます。つい先日お願いしたばかりなのに、仕事が早いですね。流石大淀さんです。本当にいつも、助けて貰ってばかりでーー」
「あぁ、はいはい。わかりました。大丈夫ですから」
長くなりそうだ、と察知したのだと思う。サッパリと話を切り捨て、要件を端的に述べ始めた。大まかに前任者の情報をまとめたので、PDFデータで送信してくれるとのことだった。
「後々面倒になるのが嫌で、個人を特定できる情報は伏せました。退任の理由、その後の本人希望程度しか、掲載しておりません。一目見ただけで、その基地の前任者情報だと判る者は、海佐のご僚友にしかいないことでしょう」
リスク管理は、やってもやり過ぎることがない。万一の事態にも言い逃れが可能なように、とのこと。何と言っても、こういう所で頼れる人だ。
現状に鑑みれば、足りない所は基地の面々に確認し、補填することも出来そうである。全く無関係の基地のことに、十二分すぎる程の助力だ。姿は見えもしないのに、返すがえす礼を述べたし、その度あしらわれた。流れのまま訊ねる。
「しかし……なぜ態々、電話を?メールで十分かとも思いますが」
「パスワードを口頭でお伝えするためです。外部者に見られて困るほどではないですけど、念のためロックがかかっているので。私の性格、知っておいででしょう?」
彼女は、面と向かわぬコミュニケーションを嫌う。強いて言えば、電子メールより通話がマシ、そう云う論理だーー勿論理解していた。
「では、記憶してください。メモしてはいけませんよ?」
彼女には、私の動きが手に取るように分かっているらしい。いそいそと胸ポケットのボールペンに伸ばした手を、元の位置に戻した。
「…まぁ、いつものなんですけどね」
「〝いつもの〟…。あぁ、サプライズのやつですか」
「そうです。それの末尾に半角数字で1、9を加えてください」
基地のごく一部でやり取りされ、かつ重要度は低め、しかし、多少の機密性を保ちたい文書がある。なんてことはないーー艦娘の改装祝いサプライズパーティーの人員配置、及び実施要項とかが、それだ。
そういう機会は、決して頻繁にある訳ではなく、出来れば成功に収めたいと艦娘たちが云う。その要望に応え、基地の誰かが秘密裏に企画・運営をこなすのだが、大がかりな仕掛けを独力で成すのは至難ーー協力者が多数必要だった。必然、申し合わせの機会が要るのだが、事の性質上大っぴらにやるのは得策でない。
従って、事前の情報交換は次に示す通り、必要最低限で行われていたらしい。
まず、関係者に対してのみ、パスワードを知らせる。継いで、図書館内の共用PCに、隠しフォルダが作成され、秘密文書はその中に格納。パスワードを知る者のみが、ファイルを発見できる、という手順だったーー気がする。
「すみません、なんでしたっけ。1、9の前は」
「忘れたんですか…?」
「そういうのに、余り関わらせて貰えないんですよ。私だけ」
「らしい」とか「気がする」とか。私が一々伝聞表現を選ぶのは、悪巧み(?)に関わる機会が少なかったせいである。敵を欺くには、まず味方。聞くに私は、その初めに欺かれる味方に最適だったそうだ。知らず知らずの内、計画の一部に組み込まれるーー甚だ不服である。
それはともかく、身内に対しての秘匿性を担保するためか、年がら年中、全く同じ文字列という訳ではなかった。読みを保ちつつ文字を置換したり、文頭・文末に数字をくっつけてみたり、都度の変化がある。何故か、骨格だけいつも同じだったのは覚えている。何故そのセンテンスなのか、誰が最初にはじめたのか、多少疑問に思いつつも、ずっと追及しなかった。そして私は今それを〝やむを得ず〟失念していたのだった。
「然もありなん、ですね。全て半角小文字でa、l、l、c、o、r、r、e、c、t、そして、1、9です」
「え…?」
小さな静電気が、目玉の裏に走ったような気がした。つまり、例の栞のパスワードを大淀さんは告げたのだった。
「聴こえました?allcorrect19です。アルファベット10文字で、末尾に〝19〟」
「は……はい。聴こえ…ました。その言葉、大淀さんが自分で考えた物でしたっけ?」
「いえ、私では」
「誰なんですか?」
「大島海将だと聞いてます。私が着任してすぐの頃には、もうあったと思いますよ。とかく、あの人はこう言う悪巧み染みたことが大好きですし」
「そう…ですか。やっぱり悪巧みなんですね…?」
彼女の声が、嫌に遠く聞こえる。奇妙な符号だ。大島海将の考えたパスワード?確かに、珍しい英単語ではない…ないのだが、しかし。……ただの偶然だろうかーー。
「ところで最近……体調は大丈夫なんですか」
「え…!はい。え?」
思索にふけった意識が、電話から遠ざかっていたことと、大淀さんに心配されたこと。2倍の面食らいで、思わず聞き返した。
「充分、気を付けてください。何だかキナクサイですよ、其処」
「ええ、それはもう、ひしひしと。なんとかやってますが」
「ファイルの方にも載せましたが、前任の19人が全員、精神の不調を訴えて職を退いているんです」
「ええ。基地の人から何となく、聞き及んでいますが……19?」
「何か?」
「いえ、こちらの人の話では、20と」
「……ふぅん?」
暫しの沈黙があった。そこはさすがに大淀さん、ひとり分の矛盾の意味は、直ぐに判明した。
「調べたのは、退職記録のみです。お恥ずかしながら、大島海将の流刑地談義に引っ張られて、転勤・転出を頭から考慮に入れていませんでした」
「成る程、それだ。今も今、それらしき話を聞いたところなのですよ。19人の内に、コシカワケンイチという人物は?」
「恐らく、居なかったかと」
それであれば、足し算が合う。これで良し、考えの材料は十分だ。パスワードのことは、ひとまず置いておこう。赤城さんたちとの、情報の共有が優先だ。私が息巻いている所に、しかし、大淀さんは声を潜め、暗い宣告をした。
「しかし、そんなことで楽観視をしてはいけませんよ?…先ほど申し上げた通りです。貴方も精神の不調を訴えて、職を退くことになるかも知れないんですから」
多分、心配してくれている。彼女は自覚していないが、結局優しい人なのだ。全く有り難い。自身の実感としても、赤城さんの言に照らし合わせても、すでに不調の兆候は有るようなのだが、じたばたしたところで如何ともし難い。諦めの境地なのか、私は気味が悪いくらい、冷静だった。
「ご忠告ありがとうございます、なんとか頑張りますよ」
「精々、そうしてください」
「ところで、そっちの様子はどうでしょう。皆息災ですか?川内あたりは、騒がしくしてやいませんか」
「大丈夫です、いつもの通り。新しい方とも、上手くいっていますしね?」
「じゃあ安心です。大淀さんの残業を減らせたなら、私の左遷も悪いことばかりじゃなかった」
「あら…自覚あったのね?」
「まぁ、はい。その節はどうも…」
大淀さんにかけた迷惑なら、国中探したって、私の右に出る者はないと自負している。
さて、あまり3人を待たせるのも良くない。懐かしい話もそこそこにーーまだ転任して1月も経っていないのだがーー私は自分の仕事へ戻る気になった。
「それでは、大淀さん。また、機会があればお会いしましょう。本当に、ありがとうございました。ではーー」
「あ、そうだ。訊いても良いですか?」
「はい?何でしょう」
「遊覧船うみねこ、って知ってますか?」
彼女が。
ノイズ交じりの声で。言い放ったのは。
全く聞き覚えのない。船の名。私はそれに。
大きな不快感と。おぞましさを感じた。
こんな不愉快な。異常な。醜悪な。
悪臭を放つヘドロみたいな名前。
人命を預ける。大切な乗り物に。よくぞよくぞよくぞ。
付けられたものだ。命名者の気が知れない。
きっときっとその者は。
精神の異常を抱えていたに相違ない。
「解りません。聞き覚えもありません」
「あぁ、いいんです。知らないのなら、それで」
「気味の悪い船名です。物凄く」
「え……そうかしら?」
「はい。最低ですね。極めて不愉快。大淀さんも、忘れてしまうに限ります」
「は、はぁ……そう、ですか?」
「全く、命名者はどんな気持ちで付けたんでしょう。やだやだ」
「どうしたんです?海佐?」
「忘れましょう。早く忘れてしまいましょう。ああいやだ」
「大丈夫ですか?もしもし?」
「私はもう忘れました。思い出したくないんです」
「ねぇ、ちょっと……樋口海佐!」
「は……え?どうしました?」
「こちらの科白です。一体どうしたんです?」
どうしたもなにも、此方が訊きたい。急に声を荒げて、どうしたと云うのだろう?
「え……はい?どうも、すみません。それで訊きたいこととは?」
「は…?ですから…。え?」
「大淀さん?」
彼女は急に、黙りこくってしまった。先程から、沈着な彼女らしくない。妙な具合に狼狽えるのは、私の仕事だった筈だが。
「もしもし、大淀さん?聴こえていますか?」
「あ、はい。大丈夫です。考えてみれば大したことではありませんでした」
「そうですか?それなら良いんですが」
「はい。お引き留めしてすみません。これにて失礼します」
「はい。重ね重ね、ありがとうございました」
「では、海佐。本当に、本当に。ご自愛くださいね?体調にだけは、気を付けて」
「ええ。ありがとうございます。ではーー」
プツン、とブレーカーがおちるような音と共に、向こうと此方は切り離された。最後、大淀さんが妙な様子だったのは気になるが、基本的に充実した通話だった。
さて、材料も手に入れた。赤城さんの説得に戻るとしよう。
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ーーあ。やっぱり此処に居た。
ーーーー明石。
ーー好きだね大淀。この物置き。
ーーーー狭いと、落ち着くのよ。
ーーふーん?新しい人が呼んでたよ。えーと…何だっけ。
ーーーー篠田くん?
ーーうん、その人。何か相談あるんだって。
ーーーー判った。ありがとう。
ーーどうしたの?怖い顔してるけど。
ーーーー別に、何でも。
ーー意外と嘘、下手だよね?
ーーーー………。「遊覧船うみねこ」っていう船、明石は知ってる?
ーー聞いたことない。どっかにありそうな名前だけど。それが何?
ーーーー樋口海佐のこと。
ーーふぅん?あの人、その船に何か関わってるの?
ーーーー分からない。これから調べてみるけど。
ーーなるほど。
ーーーーさっき、樋口海佐と電話してたのだけど。
ーー電話って、何の?
ーーーー業務連絡よ。それでね、同じように訊いてみたの。その船の名前。
ーーうん。
ーーーーそのときのあの人、明らかに様子がおかしかった。らしくない、と云うか……。
ーーへぇ。なに?いきなり明るく、元気になったとか?
ーーーーううん。物凄く不機嫌になった。船の名前が気に入らない、って。
ーー何、それ。
ーーーー解らない。でも、あの人があんなに毒づいたの、初めて聞いた。
ーーへ、へぇ。想像できないなぁ……。
ーーーー少なくとも、正常じゃなかったのよ。何か、嫌な予感がして……。
ーー心配なんだ?
ーーーー心配…あの人を、私が?
ーーだって、業務連絡ってことは、仕事の電話だよね?
ーーーーそうだけど…。
ーーまた、助けてあげてるんでしょ?何か頼まれごとでもされた、とか。
ーーーーよく解るわね。
ーーでもさ、普段の大淀だったら、突っ撥ねるはずだよ。こう言ったらなんだけど、もう基地にいない人で、残業製造機なわけだし。自分で何とかしろー、って。
ーーーーそれは、まぁ、ね。
ーーでも、しなかった。深層心理で、心配してるんだよ。樋口海佐のこと。
ーーーーモヤモヤは、してる。でもこれって、心配かしら…?なんだろう?
ーーピンと来たよ…!
ーーーー何?
ーーそれはきっと、こ…!
ーーーー恋じゃないから。あり得ないから。
ーーえー。早ー。つまらーん。
ーーーーやめてよ。明石まで大島海将みたいなことを。
ーーだって、最近の大淀、恋する乙女なんだもん。
ーーーーだから、違うって…。あぁ、でも。
ーーお。でも?なになに?
ーーーー海佐のこと知りたい、って少し思った。知らない儘じゃ、いけない気がしてるの。
大淀さん始動。
勝ったな。
41話でした。