私は夜の浅瀬を歩いている。黒い水に浸かっている。腰の辺りまで浸かっている。徐々に深くなる。水の抵抗が大きくなる。反して心は軽くなる。進むべき方へ進んでいる予感がある。
胸の辺りまで浸かったとき、水が急に冷たくなった。じわじわと染み上がって、服にまとわりつく。肌にまとわりつく。首もとまで、黒く染まる。喰われる。水に喰われる。嫌だ、嫌だ。口まで、染み上がってくる。鼻まで、染み上がってくる。息ができない、嫌だ。誰か。
***
「うぉ!」
飛び起きる。服がベタついている。ひどい夢を見た。寝汗をかいた。決して贅沢な布団ではないのだが、毛布を重ねると暑いし重い。布1枚隔てて向こう側は、4℃くらいしかない筈なのに、ままならないものだ。少し頭痛がする。深くため息をついて、布団から這い出した。
着替えて部屋を出ると、薄暗い廊下の先、大ぶりのベンチコートを着込んだヒトミさんが、階段を下りてきたのが見えた。背後から聴こえた床の軋み、或いは私の思考を捉え、彼女は振り向いた。
「う、あ、う。お、おは、よう、ごご、ござ、ま」
「……寒いですねぇ、今日も」
歯の根があっていない。そのコートの下はいつもの水着か。普通に服を着たら良いのでは……いや、有事の際にいちいち着替えるのも手間か。おそらく挨拶であろう何かの言葉を私に投げかけるや否や、彼女は小走りに談話室へかけていく。私はゆっくり後を追った。彼女のベンチコートの背中には、野球選手のシルエットが大きくプリントされている。形を見るにアンダースローのピッチャーだ――随分渋いチョイスだが、これはサブマリンにかけているのか――駄洒落なのか。ヒトミさんは独特のセンスをしている。神出鬼没の潜水艦にあやかった、浮き上がりの投げ。穏やかなヒトミさんは、とても話しやすい人だ。また頭痛がした。
「おはよー」
「あ、どうも。おはようございます」
談話室手前辺りの一室から、那珂さんが現れた。普段の制服姿で、髪型もキッチリ整えられている。一方で、普段と違う明るい色の髪留めが目についた。すると那珂さんはすぐに、はにかんだ。
「へへー。わかる?日曜にちょっと寄り道してさ」
「少し印象変わりますね」
「良いでしょ」
「良いですねぇ」
「それはそうと、なんか白髪増えた?」
「ええ……」
「じょーだん」
悪戯っぽく笑う。雑草の中から一番に突きだし、空を目指す花の力。那珂さんの笑顔はいつでも私に元気をくれる。また頭痛がする。消えない。談話室の戸を開けて中に踏み込むと、もういつものメンツが揃っていた。
「おはようございます」
「おや、萩風さん。今日はここで朝食を?」
「まあ、はい。せっかくですし」
斜向いに座った萩風さんは、今日もトーストした食パンにかぶりついている。イチゴジャムが好物なのだと聞いた。割りと子どもっぽいところがあるのは知っていたが、朝食をともにするようになって以来、その思いを強くしている。やはり頭痛がした。
「今日1日で、お惣菜の山を片付けないと」
「いぃぃいなぁ……」
赤城さんはやっぱり食いしん坊だ。彼女の生き方はまっすぐ芯が通って歪まない。私の方こそ羨ましい。そういう彼女は、大きめのおにぎりを食べている。まだ少し湯気の立つそれは、外からだと具が何か判らない。以前、赤城さん本人から塩気の多いものを好むと聞いたことがあるから、鮭とか梅干しとか、色々想像はできる。
「ヒトミさんは、やはり菓子パンなんですね」
「あ、あの。今週だけは、その……」
「ええ、まあ、追々ね?」
今すぐ習慣を正すのは難しい。朝は手を抜きたくなるものだ。私とて、人のことは言えない。かといって樋口提督とヒトミさんは極端ではないかしら。机の端ーーいわゆるお誕生日席ーーに座った瑞穂さんの咎めるような視線に気付き、目を反らした。那珂さんも同じく、彼女の様子に気付いたらしく、私に水を向けた。
「瑞穂さんが、どうかしたの?」
「さ、さあ。なにが何だか」
「……?」
赤城さんから送られる熱視線を手元口元に感じながら、並び立つお惣菜の品々を咀嚼していく。電子レンジで温め直しただけだが美味である。
朝食の最中、これからの話が出た。基地と、私たちのこれからの話だ。
「漁場の警備、一区切りついた訳ですけど、これからは演習を主に?」
「ええ、形ばかりですが」
津田さんが答えた。
「如何せん、資源は潤沢にない。かといって、夜半の出撃を無しに出来ないことは御承知の通りです。例えば航行演習とか、スクランブルのシミュレートとか」
「ふぅむ。たとえば艦載機の発着艦訓練は」
「あまり……頻繫には、ねぇ」
これには、赤城さんが答えた。
「プロペラ音は、けっこう大きいですから」
世知辛い。我々の為すべき仕事は、ご近所迷惑なのだ。津田さんが説明を継ぐ。
「敏感になっているんですよ。関係各所へ事前の連絡をしていても、有事なのかどうか毎度毎度確認されて、あげくクレームがついてね」
「なんと、まぁ……」
私の眉間に深いしわが寄ったのと同時に、瑞穂さんが無言で席を立って、談話室を出て行った。あまり顔色が良くないように思えた。ヒトミさんが私の視線を辿る。
「瑞穂さん……珍しい、です。何も言わずに」
「ええ、はい。どうしたんでしょう」
「ちょっと、様子を見てきましょうか」
津田さんがそう云って席を立ち、彼女の後を追って出て行った。未だに眉間にしわを寄せた私を那珂さんが見て、なだめるように笑いかけた。
「まぁ、最近は、ちょっとした勉強会とかしてるよね。お菓子つまみながらだけど」
「ほう?それは例えば、どんなことを」
「気象予報士の勉強とか。何が役に立つか分からないし」
「なるほど、大切だ」
衛星画像をリアルタイムに確認できる現代の常識を、生身で海上に立つ彼女らに適用はできない。現場の小さな選択が、生死をも分かつ。
「あとは、体力づくりですよね。地味ですが、基本ですよ」
赤城さんの言に同じく頷いて、食物を呑み込んだ。食後の茶を飲んでいると、津田さんが戻った。
「瑞穂さん、体調が優れないそうです」
「ええ。せっかくの送別会なのに」
違いますよ、樋口提督の歓迎会です、と瑞穂さんが訂正した。
「越川さん、もうすぐいなくなっちゃうのになー」
仕方のないことです、と瑞穂さんが那珂さんを諌める。瑞穂さんが?いや、なんだろう、これは。頭痛がした。しかし、朝に感じた小さな違和感は、生活という名の慣性に押し流されていく。私は発着艦訓練を実施したい旨を強く主張するが、皆さん渋い顔でなかなか首を縦に振ってくれなかった。
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また、服を汚してしまう。ごめんなさい。
ごめんなさい。彼はやっぱり喉が乾いている。
もう少し、我慢して下さい。
あと、もう少しで、安定するはず。きっと。
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温かく暗い海。私は浅瀬を歩いている。少しずつ深くなる。温かい、心地よい。体に、その中心に、熱が灯る。消えない熱は私の存在を全て肯定してくれる。此処にいて良いのだと教えてくれる。もっと欲しい。先へ先へ、深く、深みへ、もっと。
突然、熱が冷気に代わる。水がまとわりつく。毛穴という毛穴から、黒い水が浸透する。
冷たく、冷たい、が不快ではない、かも。
慣れてくると案外良いじゃないか。冷涼な水が喉元までせりあがる。顎まで、口まで、鼻までせりあがる。悪くない。このまま、顔を沈めたらどうなるか、興味が湧いた。
***
「んん?」
目を覚ます。服がベタついている。奇妙な夢を見た。このベタつきは、寝汗でないような気がする。あれだ、粘膜のぬめりけだ。この基地に粘膜をもつようなものが在ったろうか。心当たりはないが、取り敢えず不快だ。さっさと着替えよう。布団を這い出した。小さな頭痛がする。最近は割と体調が良かったのに。釈然としない思いで着替えを済ませ、廊下に出ると那珂さんと目が合った。
「……おはようございます」
「おはよう、那珂さん」
彼女はまだ、慣れてくれていないようだ。この基地に着任してしばらく経つのに、まだ私との会話にはぎこちなさが見受けられる。水雷屋ハ元気ガ取リ柄、だとか前の前の基地で聞いたのだけど、彼女には当てはまらないのだろうか。いや、案外慣れたら人懐っこいかも知れない。ふと、談話室の向いの扉から、神通さんが顔を見せた。那珂さんの表情が柔らかくなった。
「あら、2人とも」
「神通さん。おはようございます」
「今日も冷えますね」
軽い世間話を叩きながら、談話室の扉を開ける。今朝は萩風さんがいない代わりに、神通さんがいる。それ以外はいつもの面子。津田さんに、赤城さん、瑞穂。全員揃っている。
「今日も、いつも通り、か」
「……仕方ないでしょう。燃料もカツカツなんですから」
「航行演習さえ出来ない。しからば、まずもって体力づくりに励む。まぁ、それは良しとして。何かの変化が欲しいと思うのは僕だけだろうか」
「例えば、どんな」
津田さんが片眉を上げる。彼の発問につられ、周囲の艦娘らも私を見た。少し考え、兼ねてから考えていたことを口にした。
「戦いが終わった後のことを考える、とか」
瑞穂が、目をまん丸に見開いた。口も開いたが、何も言わなかった。
「この戦いが終わっても、君らの人生は続くだろう。それならそれなりに、何か小さな目標を立てようじゃないか」
「何、言ってるの……」
那珂さんが疑問を呈する。ええ、ええ。何言ってるのでしょうね、この人は。掴みどころのない、楽観主義。生き残れる保証なんて何処にもないのに。ああ、でも、彼のこういうところに惹かれたんですよね。瑞穂が呆れたように、しかしどことなく嬉しそうに呟いた。
「ところで、越川さんの歓迎会をやりませんか。いつまで一緒にいられるか、判らないもの。その話はまた、追々」
神通さんが、場をとりなすように切り出した。赤城さんが頷いて、津田さんも同意する。他愛のない会話には、私の違和感をかきけすだけの「普通さ」があった。
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だいぶ安定してきた。
彼はやっぱり、喉が、乾いて。喉が?
まだ、我慢ですよ。まだ、しばらく我慢です。
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暗い水の底に沈んでいく。良い、これは良い。気持ちいい。やさしい何かに、抱かれている。冬の朝のまどろみだ。疲れた後の一番風呂だ。息はできない、する必要もない。この水が、全てくれる。酸素をくれる、栄養をくれる、熱をくれる、命をくれる。
良い、良いな、これは。ずっと、此処にいても良い。此処にいたい。
***
「あ。あぁ…………夢か」
とても心地よい夢を中断されて、ひどく落胆した。この日ばかりは、目覚まし時計を恨んだ。もう一度あの夢をみたくて、目を瞑るが、何1つ再現されない。しぶしぶ着替えて廊下に出る。談話室の前の扉から、瑞穂さんが現れた。
「おはよ。なんか、暗い顔してるね?」
「あぁ、まぁ、個人的なことです」
「ふぅん。体調でも悪いの?」
「いえ、そんなことは」
「そっか……。ほんとに、白髪増えたね」
「はぁ、そんなに変わってないと思いますけど」
「えっと……??」
瑞穂さんが、私の顔をのぞきこみ不思議そうな顔をした。やっぱり変だよ大丈夫、と聞かれた。実際に何1つ自覚症状はない。強いていうなら、いつも通りの頭痛がある程度だ。廊下を小走りで進む。寒いのも同じく、いつものこと。
「あ、おはよう……ございます」
「どうも」
談話室にはまだ、1人だけ――瑞穂さんがいるばかりだ。彼女は珍しくベンチコートを羽織っている。この部屋、そんなに寒くないと思うのだが。
「???……あ、海佐?髪の毛、が…その」
「はい、何か」
「……いえ」
瑞穂さんの隣に瑞穂さんが座った。私はその向いの席に着く。なんだかモジモジしている瑞穂さんに、瑞穂さんが耳打ちした。そうこうしていると、瑞穂さんと瑞穂さん、そして瑞穂さんが、連れだって談話室のとびらから顔を覗かせた。
「……なんか白髪増えてませんか」
「同じこと言われましたよ、さっき」
声の低くなった瑞穂さんに、やはり同じ指摘を受けた。みんなして、私を中年扱いしたいらしい。実際にそろそろ老け込み始めているのかも知れないが、昨日今日で白髪が増えるわけもなかろうと思う。私はいたって正常だった。
「や、やっぱり、おかしいよね?だいいち、さっきから瑞穂さん瑞穂さんって……」
全員が奇異の目で私を見る。私はもう、戸惑うばかりだ。遅れて瑞穂さんがやって来た。
「あら、提督。今朝はお早いのですね」
「ああ、瑞穂さん。那珂さんたちが妙なことを言うんですよ」
「え、え?」
思わず助けを求めると、瑞穂さんが目をしばたたかせた。状況がつかめないらしいが私も同じ気持ちだ。だが彼女も、私の髪については言及する。
「失礼ながら、その……急に白髪が増えたような。顔色も優れないように見えますね……」
「はぁ、それも言われましたが。自覚無いんですよね」
前からこれくらいだったように思う。それはもう打ち遣っておくとして、なんともはや、ヒトミさんは慄いてさえいる。
「なんだか、こ……怖い、です。海佐、どうしちゃったの」
「そ、そうだよ。今日、休んだ方が良いんじゃないの……」
「むぅ……?」
那珂さんにも同意され、私は部屋を見回す。赤城さんや津田さんも頷いている。自覚はない、が、岡目八目ともいう。大体私という奴は、何かしら無自覚に場を引っ掻きまわしては、他人様に迷惑をかける節があって、その代表的被害者が大淀さんであった。ここはひとつ、素直に従っておくのが吉か。
「わ、分かりましたよ……。少し休ませて頂きます……が。昨日の話、是非検討してください」
「発着艦訓練のことね?わかりました。海佐がしっかり休んでくれれば、考えます。艦載機も整備しておきますから」
駄々をこねる子をなだめるような調子で、瑞穂さんが返答した。瑞穂さんが不安そうに私を見た。瑞穂さんはまたもや、慄いている。大丈夫ですよ、と軽く返し、談話室を出て自室に向かう。結局この日は、昼に瑞穂さんがおにぎりを差し入れてくれたくらいで、ただ布団に寝転がって、ひたすらに自室の天井を見上げ続けた。
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よかった。これで、ようやく終わりです。
耐えてくださって、本当にありがとう。
これで、本当に本当に、貴方はこの基地の一員です。
ようこそ、提督。
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イベントがあまりできておりません。
ホーネットさん好き。