まだ、頭に靄がかかっている。たとえ談話室に入って明りが灯っても、物音を聞きつけた那珂さんと萩風さんが現れても、私の髪と肌が取り返しのつかないほど脱色していても、自分とは関係ない誰かのことの様で、現実感がないのである。ただ、心の底に溜まった得体の知れぬ澱みが、体を痺れさせている感覚だけはあった。多分、私は何か大きなものに食われかけている。あるいは、もう既に腹の中にいるかも知れなかった。
「記憶がない?」
「ええ。気づいたら、そこの廊下を……」
彼女らは3人それぞれに、戸惑ったような、思い詰めたような顔をしている。私はただ、成り行きに身を任せていた。
「ここ数日、行方がわかんなかったんだよ」
那珂さんに経緯を説明され、少しずつ事の重大さを感じとった。嫌な汗が背筋を伝う。白髪が増えた、と皆に心配された日の翌日、私は自室の布団から消失していた――らしい。艦載機の発着艦がどうのとか言い出した輩は、率先して居なくなった。
「み、皆で探したんです。で…でも。居なくて…!何処にもっ、いなくてっ……う、海の底まで、行って」
「す、すみません。本当に、本当に、心配を」
釣りに行って、溺れてしまったのではないか、と思ったそうだ。朝から晩まで、この辺り一帯の海岸線をくまなく探してくれたそうだ――随分と心配をかけたらしい。ヒトミさんはベソさえかきかけている。ひたすら謝った。
「で、それが……今日になって、ふらっと帰ってきた?」
「そろそろ、然るべき所へ届け出ようか、なんて話し合ってましたよ。基地の事情が事情ですから、外部機関に頼るのは憚られたけど、3日も進展がないとなると……流石に、ね?」
萩風さんが、ヒトミさんの背中をゆるゆると撫でながら説明した。基地司令官が行方不明などと漏れたら、隊全体の醜聞にすらなり得る。津田さんの判断で、取るものも取り敢えず内々に留めておいて、二進も三進も行かなくなったら……と。なんとも、危機一髪であった。
「外履きが置いたままだったから、多分遠くへは行っていないだろうと、思ってましたけど」
「ふぅむ……。私自身どうにも覚えが……」
「ちょっと失礼しますね。足の裏、見せてください」
「は、はぁ…?」
「ふーん……?あ、潮風の香り」
「うわ。ちょ、ちょっと、嗅ぐのやめてくださいよ」
足の裏は――というより靴下の裏は――濡れていた。那珂さんが何かに気付いた。
「濡れてる、ってことは……ついさっきまで、雪が積もった所を歩いてた、とか」
「むぅ、靴下で?そんな、夢遊病のような……」
「あ……。ねぇ、覚えてる?3日前、発着艦訓練を提案したのは、天候が回復しそうだったからだよね?予報では、1日、2日は晴れ間がのぞく、とかってさ」
那珂さんの言を頼りに、記憶を手繰る。そう、そうだ。確かに、海の荒れは多少なり有れど、発着艦訓練は出来そうに思えた。赤城さんの艦載機は論を待たず、瑞穂さんの零式水上観測機も、ヒトミさんの彩雲も、格納庫の肥やしにしておくには、いくぶん豪勢だ――少しでも良いから何か実践が出来ないか、と、あの時はそんなことを思って提案した。那珂さんは続ける。
「実際、晴れたんだよね。海佐の居なくなった前の日の午後くらいから日が出始めててさ、つもりかけてた雪も融けて地面が見えてた」
「はあ……それが?」
「それで、昨日からまた降り始めてる。さっき言ったように、そこそこ積もってるわけ」
萩風さんが、何かに気付いた。
「そっか……。靴下、濡れてはいますが汚れてませんね?あの日の午後以降外に出て、しかも外履きを履かず、でも靴下を汚さずに、って無理ですよね。……1人では」
「なるほど……私が居なくなった時、官舎の中は探して回った…?」
「ええ。まぁ、その……私のことも……ありましたし。各部屋は勿論、ちょっとした物置まで、隅々を。でも、司令はいなかった。1度官舎の外に出たのは間違いないと思います」
「誰かに何かを、された…のか。無抵抗の私を運んだか、外におびき寄せて意識を奪った後、靴だけ戻したか……或いは、ええと。靴も履かずに外へ飛び出した私を不憫に思い、靴下だけ履き替えさせたか」
「最後のは、まぁ、無いとして。記憶が落ちているのが、気になりますね。ずっと意識を失って――」
沈黙を守っていたヒトミさんが、声を上げた。
「あの…海佐。その日のこと…いつまで、覚えてる…?私、彩雲の整備…してて、気付かなかった。ずっと…格納庫で」
「ええと。あの日は……1日中、天井を眺めていた記憶しか……あ、そうそう。昼に、瑞穂さんがおにぎりを届けてくれて、その後確か、ひと眠り――」
「……瑞穂さんが?」
彼女たちは、揃って顔を見合わせた。困惑の表情。萩風さんが言葉を繋ぐ。
「その日は瑞穂さん、朝から夕方までずっと格納庫にいたんですよ?赤城さんとヒトミさんも。せっかくだから、偵察機まわりも併せて全部整備しよう、って」
「え……」
「お昼もそこで一緒に食べたんです。神通さんと私でおにぎりとお味噌汁を作って。津田さんと司令にもお裾分けして」
具は、鮭と昆布とおかか、だったはずだ。
「それで、格納庫の方へは、私と萩風ちゃん。海佐の方へは……お姉ちゃんか、津田さんかな……?とにかく瑞穂さんは、1日中格納庫にいたんだよ」
「それで、夕方帰ってきたら、私はいなかった……と」
この矛盾をどう解釈すべきか判断しかねていると、ヒトミさんが思い出したように顔を上げた。
「そ、そういえば…あの。あの日の朝は、海佐おかしかった…です。瑞穂さん、瑞穂さん…って」
「私が?何か言ってましたっけ…」
「言っては……。あの、思ってた…と云うか。私のことも、瑞穂さんって、呼んで……。いえ、思ってて、頭の中で呼んで…?」
「ええと…?」
思ってた――つまり私の、思考の話らしい。どうも説明し辛そうにしている彼女へ、那珂さんが助け舟を出した。
「わかる。わかるよ、云いたいこと。ヒトミちゃんのことを、瑞穂さんだと誤認してたってことでしょ…?私も思った。朝に廊下で会った時、そんな感じだったもん。私のこと、瑞穂さん、ってさ」
「そ、そう…!私だけじゃ…なくて、みんなのことも、瑞穂さんって。……ちょっと、怖かった」
なんだ、それは。相貌失認の1種か?いや、そんな症状は聞いたことがない。あらゆる顔が、特定の人物に見えていた、などと――暫し沈黙が下りた後、萩風さんが控えめに欠伸をしてから、提案した。
「あの、取り敢えず、皆さんに報告しませんか?司令が無事に戻ったんですし、一応、良しとして、ね?」
「うん……無事で。……ホントに、無事?だって…これ、髪の毛が。肌の色まで……」
「ヒトミさん、いったん、置いておきましょう?私も気になるけど、もう色々ありすぎて……。ちょっと頭を整理したいです」
その後、各部屋をまわった。津田さんと赤城さん、そして神通さんにも息災を伝えた。自惚れでなければ、三者三様に私を案じてくれていたように思えた。3人とも今の私の様子を見て甚だ驚いたようだが、神通さんだけは少し様子がおかしかった。ある種の諦観の様な感情を滲ませていて、氷柱のような冷たさや鋭さは影を潜めていた。そして問題の瑞穂さんだが、本日深夜シフト――つまりは夜の散歩――に当たっているので、不在である。
兎に角、今晩のところは休むことにして、各々自室へと戻る。しかし結局、私はすぐにこの談話室へ戻ってくることになるのだが。
***
それから5分ほど後――私は敷いた布団の上に胡座をかいて、ぼんやりしていた。すると、廊下の軋む音が耳をつく。人の気配がして、小さなノック。真夜中の訪問客はヒトミさんだった。
「ヒトミさん?なにか――」
「一緒に…寝ます」
「え」
彼女は枕を抱えたまま、部屋に踏み込んだ。畳を踏みしめて、1歩、2歩。切れかけの蛍光灯に照らされて、藤色の光が消えた。深海棲艦としての貌は、一瞬で元のヒトミさんに戻る。私は訳が分からず、彼女の次の言葉を待ったが何も続かない。彼女は部屋の中を数歩進み、布団の横に膝を下ろした。
「な、何を……。この部屋、布団は1つしかないんですよ。いえ、それ以前に。私と同室というのがもう、不味いでしょう」
「だって……また、いなくなる…かも」
「そんなことは……ない……と、信じたいですが」
「あった…もん。ありました。海佐は、大丈夫だ…って言って。いなくなった…から。一緒に、います」
「しかし、ねぇ……。心配お掛けしたのは、本当に申し訳ないですが、流石に」
難色を示しても、彼女は私の顔を不安げに見つめるだけだ。部屋を出ようとする気は無いらしかった。頑として動かない――私は折れて、毛布を引っ掴み立ち上がる。
「では、今夜はお話しましょう。私も起きていますから、それでなんとか勘弁を」
「……はい」
ついさっき消した談話室の暖房をつけなおしたのには、こういう経緯があった。そうは言っても、朝までしっぽりおしゃべり、とはならなかった。互いに疲れていたのだと思う――2人はどちらともなく意識を手放して、毛布に包んだ体を談話室の机に預けることとなった。
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ーーん、あ…。……?
ーーーーヒトミさん?風邪をひきますよ、こんなところで……。
ーーあ、瑞穂、さん…。おかえり、なさい。
ーーーー提督は、無事戻ったのですね。
ーーそ…!そう、です。私、眠っちゃってた。
ーーーー提督……少し様子が変わっていますね。
ーーうん、どうして、かな。どう…すれば、戻る…かな。
ーーーー戻る、ですか。ふふ。
ーーえ、な、何…か?
ーーーーね、ヒトミさん?ちょっとだけ……素敵だと思いませんか?今の彼。
ーーす、素敵……?
ーーーー感じるでしょう?提督の中にある私たちと同じモノを。
ーーそ、それは……。いえ、そんなの…やっぱり、おかしい…です。海佐は人、だし。
ーーーーおかしいかしら?そもそもこの泊地自体、正常で、正当で、正道だと思いますか?
ーーそうは、思ってない…ですけど。
ーーーーそうでしょう?私たちが深海棲艦であれ、艦娘であれ、人間とは違う生き物です。
ーーうん…。
ーーーーでも今、彼は正真正銘、この基地の……私たちの一員になってくれました。
ーーそんなの…。へ、変です、今までだって一員で…。
ーーーーさっき、格納庫で指を切ってしまったんですよね。
ーーえ…?あ…絆創膏、部屋に…なら。
ーーーーいえ、良いの。そう、これが、良いの。
ーーえ、と?
ーーーー寝る時ってどうしても、口が半開きになってしまいますよね。自分では気づけないのだけど。
ーーな、なに、やってる…の?
ーーーーふふ。アハ、口の中って、暖かイのね。
ーーえ、な?な、何、を……!
ーーーーちっトも起きマセんね、提督。結構かき回してイルのに。ほラ、ぐちゅ、ぐちゅ、ぐちゅ。
ーーっ……お、おかしい、です…。瑞穂さん、どうしちゃった…の?
ーーーーおかシいカシラ?元々おかしカッタのカシラ?それとも彼に、おかしくさレタのカシラ?
ーーもう、や、止めて…!
ーーーーはい。やメましタ。さァ、ヒトミさんもどうデすか。
ーーどう…ですか、って……。
ーーーー彼に私たチの一部を、分けてアゲるの。そうスレば、もっとモット、私たちと彼はチカヅケます。
ーーい、いや、です。そんな…ことは、いや……!
ーーーー本当にいやナの?もっト、深いとコろで提督ト繋がれるノに?
ーーそんな…ゆ、歪んで、ます……!
ーーーー簡単デすよ?何でもイいノ、彼に分けてあげるんです。私たちのココロを溶かしこんダものを。
ーーい、嫌…。いや。
ーーーー彼は無防備にも、深ぁく眠っていますね?
ーーいや…!そんなの、ぜ、絶対…!
ーーーーああ、そう云えば、ヒトミさんハもう、経験済みダったわネ。
ーーえ……?
ーーーー彼が着任する前日デシたか。確か提督は、談話室で倒れテいたトカ。なんの理由もなく、健康な男性が倒れるカシら?
ーー頭が痛い、って…。
ーーーーそうでスか。きっト、ダレカの心を、たっぷり吸い込んでしまったのデしょうね。高濃度の怒りや悲しみ、そして恐怖……反射性失神の1種デしょうか。誰の心……カシらね?
ーー心、を……?どういう、こと?
ーーーー悪いことではナいのです。妖精さんのイタずらのヒトつ。貴女は差しのべらレた手をとったダケですよ。そして、彼はこウなった。
ーーえ、え…。
ーーーー貴女は、無自覚に、彼をこちら側へ引きズり込モうと。彼がこうナッタキッかけは、多分ヒトミさんかラ始まってイマす。
ーーち、ちが。
ーーーーヒトミさん。提督とずっと、一緒に、いらレますね。
ーーい………いっしょ、に?
ーーーーソうです。人ノ隣には、人。デは、中間体ノ隣には?
ーーあ……う。
ーーーーほら、彼の口。あいテますよ?
ーーで、も……。
ーーーー大丈夫、この場だケの秘密。
ーーあ……。
ーーーーふふ。そう、そのまま唇を、チカヅケて?
ーーあ、あ…ぁ。
ーーーー貴女の心を、唾液にタっぷり溶かスの。そう……そうです。
ーーん……っ。は、ぁ。ん。
ーーーーふ……フフ、ふふフ、とっテもお上手、ですよ。もっト、もっとデす。まだ、足りまセン、さぁ。
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ヒトミさんの顔が見える。
嬉しそうに私の顔を覗きこんでいる。彼女が何かを取り出して、私の口元に差し出していた。その何かは、水晶をイメージさせた――美しく透き通っている。そこから、甘い香りがすることに私は気づく。飴玉だろうか。私が口を開けると、ヒトミさんの艶っぽい笑みが一段と深くなった。口に含むと、とろける様な甘さ。意外と柔らかい。舌の上で転がして、舐め融かす。彼女の息が荒くなる。奥歯でクチャクチャに噛み砕く。彼女が体を震わせる。最後に飲み下すと、彼女は膝から崩れ落ちた。私が支えると、悩ましい顔で見上げてくる。頬を上気させ、再び彼女が差し出した。人を狂わせる甘い香り。また、口に含む。甘い味、満足感、背徳感、支配感。ヒトミさんは、私に抱きかかえられた格好で肢体を痙攣させる。私の服の裾を掴んで、口の端からは唾液が溢れている。喉が鳴った――堪らない。ゾクゾクする快感。彼女が聞こえる、彼女と触れ合う、彼女が香る、彼女を味わう。五感の全てを使って、彼女の何かを受け取り、蹂躙した。もっとこれが、水晶みたいな飴玉が欲しい。
彼女が差し出した。もっと。彼女が差し出した。もっと、もっと。彼女が差し出した。もっと、もっとだ。私は直接、ヒトミさんの唇にむしゃぶりついた。じゅるじゅる、じゅるじゅる。最後の一滴まで逃すまいと、浅ましく吸い上げる。彼女の舌がそれに応える。2人は狂う。2人で狂う。もっと、足りない、もっと――。
「あ!……ああぁ!」
叫びで、目が覚めた。傍らで眠っていたヒトミさんが、驚いて飛び起きた。
「ど、ど…どうし、たの?」
「い、要らない。もう要りません、ヒトミさん。ひ、ヒトミさん、ごめんなさい!返します、返しますから!ごめんなさ……。あ?」
「…!………お、起きて、た…の?」
「起き…、いや、今、何か大切なもの、を……夢?」
「あ……うん」
「す、すみません。顔を洗ってきます……」
異様な夢。股ぐらに熱く固いものを感じた。自律神経の働きが活発になることで生ずる生理現象――自然なことだが、最低の気分だ。寝ぼけ眼の阿呆は、気まずくなって談話室を飛び出そうとした。しかし、立ち眩みがきたことで、それは叶わなかった。
「うぐ……」
「だ、大丈夫…?ごはん食べないと、力…出ない、です」
散々心配をかけて、その上また気苦労を重ねさせるのが心苦しい。もし私が、3日ほど意識を失っていたならば、その分、飯もまともに食っていないのだろう。もう外は明るい、朝食の時間だ。暫くして津田さんと赤城さんが起き出してくるまで、彼女を直視できなかった。
赤信号、みんなで渡れば、怖くない。
誰かが初めの一歩を踏み出せば、良くも悪くもそれがルールになります。でも、その一歩は果たして、前に踏み出したのか、或いは道を踏み外したのか、どちらなのでしょう。
PS
アーケードの水母棲姫さん。
控えめに申し上げて愛。