誰がいる誰かいる私がいる彼女がいる?わたしはずっと前から貴方の中に。私は船の上にいてわたしは水の底にいる。貴方と一緒に其処に行く。何処で私は溺れている。息が出来ない。暗い、どんどん意識が。わたしと貴方はずっと暗い所にいて、貴方の意識はずっと暗いままで。
暗転。
私は海を見ていた気がする。あれはいつだったか。何かに悩んでいたような。思い残しが重い重しが心を繋いで止めていたような。誰かの声を聞いて振り返ってわたしは揺れたような。あれは黒い何かクジラのように大きな暗い重いがわたしの側を掠めていく。
暗転。
暗い。寒い。何処だ。水?上がってくる。氷のように、刺すように。足が腰が胸が首元まで。感覚がない。痛みがない。変な感じだ。眠い。寒い。
暗転。
気付くと体が動かない。わたしはずっと私の中にいたけど私はずっと眠っていた。呼びかけて呼びかけて呼びかけて。朝昼晩で千九十五回だっけ。やっと、気付いた。気付くとそこは白い中にある。声が出ない。目が開かない。体が動かない。細い半透明な管がスルスルと伸びていて。ここは、病院?泣いている。誰かが泣いて私が消えてここまでどうやって?ああ、どうやら死んだらしい。
暗転。
おはよう。上の方が明るいな。わたしも、皆といられるのかな。貴方も、もう起きていい?私の目が覚めたら貴方はもう、居なくなっているかもだけど、いいかな?だめかな?
暗転。
まだやりたいことがあるんだ。もう少し、時間をくれないか?
そっか。わかった。もうあんまりないけど、行ってらっしゃい。
明転。まぶしい。
「あ、あ?」
「!……起きましたか。良かった」
神通さんの声だ。発声しようとして、掠れた音が喉から漏れた。じっとり湿ったシャツの不快な感触で、自身の状態を知る。
「あ…、かは」
「ひどく汗をかいていました。喉が渇いておられるのでしょう」
神通さんはスポーツドリンクを差し出した。ありがたく頂き、喉を潤す。
「何か……これは。そうだ、瑞穂さんはーー」
「大丈夫です。いまは落ち着いておられます。貴方が倒れたときはひどく狼狽えていましたが」
倒れた?そうか、私はまた倒れたのか。そしてまた、医務室にいる。スポーツドリンクが唇にしみる。倒れたときに切ったらしい。あのとき瑞穂さんが何かを言いかけて……、あれは何だったのか。
「神通さん、瑞穂さんのこと、どう思いました?」
「予想の斜め上と申し上げますか。瑞穂さんの心の深淵に触れてしまった心地です」
「赤城さんが以前、艦娘や中間体が誰かの記憶に残ろうとする営みは、生殖行為に近いのでは、と言っていました。それがズバリだった訳です」
「私も、何時だか聞いたことはありますよ。でも、彼女もきっと喩えのつもりでしたでしょうからね?瑞穂さんのように露骨な意味ではなく……はぁ」
「どうしたんです?ため息なんて、らしくない」
神通さんは、苦い顔で視線を逸らす。視線の先には那珂さんが寝ていて、その隣のベッドに赤城さんがいた。2人ともぐっすりと寝入って、起きる様子はない。
「何でもありませんよ。どちらかといえば、貴方は大丈夫なのですか?聞くところによると、誰かの記憶を受け取った後ひどい頭痛を催すとか」
「あ、ああ、そういえば。なんともありませんね。ありがとうございます」
「あら、そう?受け取った……訳ではない?」
言われるまで気付かなかったが、確かに違和感はある。今までのように「誰かの記憶」と断言できるものではなかったが、確かに先ほどまで私の瞼の裏で上映されていたのは、今までの〝夢〟と同じ類いのものだった。
「ああ、起きた……大丈夫ですか?」
医務室と扉が開き、津田さんが顔を見せた。聞けば、ここに運び込んでくれたのは彼だそうな。
「お、お世話になりました」
「やれやれ……びっくりしたんですよ?何でもあの後、瑞穂さんに会いに行ったとか。しかもその途中、貴方が突然倒れたとかで…。もう何が何やら」
時計を見る。倒れてから、15分も経過していないようだ。呼吸も心拍も正常で、ただ眠っているようだったらしい。ただし、ひどくうなされて時折、意味の伝わらない言葉を発するだけだった、と。
「そうだ……ヒトミさんは?」
「恐らく、もう帰っていますよ。先刻それを取りに行った時、談話室の流しに夜食のお皿が置いてありましたから」
神通さんはペットボトルを指差しながら言った。
「少し、彼女と話をーー」
「ダメです。もういい加減、休むように。考えをまとめ、赤城さんと那珂さんにも結果を教えてあげて……そこからです、動くのは」
津田さんが、ピシャリと宣言した。
「一度に色々やろうとし過ぎなんです。処理能力が高くない自覚はありますか?」
「は、はい。全くその通りで」
「今回のこと、ヒトミちゃんが関わっていそうだというヤマ勘は、やはり正しかった?」
「はい。全く、その通りで」
「じゃあ、なおさらだ。そのことも、キチンと話すんでしょう?なら、寝惚けた頭じゃいけません。キチンと寝るべきだ」
「はい……全く……その通りで」
津田さんと神通さんはため息を、萩風さんは苦笑いをこぼした。
***
朝、一◯三◯。いま、談話室には私と津田さん、赤城さんと那珂さん、そしてヒトミさんがいる。極力、私に話させてくれと頼んだから、津田さんたちは静観しているだけだ。
「もう、無理です。呑み込んで…しまい、ました」
「呑み、込んだ?」
「貴方も…同じ、でしょう?私の…が心に染み込んで、ます。もう、取れない…筈です」
ヒトミさんは、薄く微笑んだ。彼女の左手が、憚りなく私の手の甲に重ねられた。彼女の体温は、不思議と熱く感じた。
「嫌…ですか?」
「わかりません。戸惑っている、というか」
「私は…嫌じゃない、です。不思議な気持ち。私の、正しい…生き方?わからないけど」
ヒトミさんは、船だ。自分の中に誰かを乗せていることが、彼女のあるべき姿なのだろう。
「少し聞かせてくれますか?貴方はどんな方法で、その、あれだ。〝呑み込んだ〟のか」
「え、う。…その、それは。ちょっと……。あの、夢を、見たって…確か」
「ああ、なるほど。……ここに?」
私が自らの唇を指差すと、彼女は顔を赤らめて下を向いた。つまりは、そういうことか。あの夢にあったような内容のことが行われた、と。
「一昨日の夜、瑞穂さんと話しませんでしたか?」
「あ…はい。そうです、瑞穂さんに…言われたのが、きっかけ、で」
那珂さんが、何か言いたげだったが、掌で制した。
言われた、か――「唆された」とは表現しなかった。悪いことだとは思っていない。いや、実際どうだ?彼女の行いは悪か?
彼女は元々、船だった。しかしその無機質な鉄の塊は、ある日突然温もりを知った。そしてすぐにそれを失い、今は取り返しかけているという。そこに純粋に喜んでいるだけだ。自身の行いが私の身体や周囲の人々へ及ぼす影響に、考えが至らない状態だ。そもそも、それは、悪影響かすら定かではないわけで――。
「ヒトミさん。私は、貴女をとても素敵な女性だと考えます。キレイだし、優しいし、真面目で、働き者だ」
「え、え。あ、あり…がとう、ございます?」
「しかしです。まず、パートナーでもない人間の唇を、無断で奪ってはいけない。これは常識ですね?」
「その…、はい、ごめん…なさい」
「それと、瑞穂さんの言動に、何処か怪しさをおぼえませんでしたか」
ヒトミさんはハッとしたように顔を上げた。
「そ、そう…!お、思い…ました。少し、怖かった…けど。あの…」
「けど…?」
「アレをしたら…貴方と、ずっと一緒に…いられる、って」
「そ……そうでしたか。一緒に、ね」
彼女の言葉があまりにストレート過ぎて、全員が気恥ずかしさを覚えたようだ。那珂さんや赤城さんは妙にそわそわして椅子に座り直したし、津田さんは口を真一文字に結んで前髪を弄っている。
ヒトミさんはゆっくり思い出すように、あの夜の出来事を語った。それを聞く限り、瑞穂さんが語ったことは真実が多い。確かに、記憶を受け取ったのはヒトミさんのものが最初だ。私を「コチラ側」に引きずりこんだのは、ヒトミさんだとも言えるだろう。
「ヒトミさん。貴女は、すこし勘違いをしているように思います」
「は、はい…ごめん、なさい。あのときは…冷静じゃ、なくて」
「いえそうではなく。一緒にいる、というのにも色々程度がありますが……とにかく、そのための手段は、こんなに早まったものだけではないのです」
瑞穂さんが昨夜、涙ながらに告白したことは真実なのだろう。どうしようもないことも有るだろうさ。だが今回の手段は、認めたくない。
宣言した通り、ヒトミさんは素敵な人だ。彼女が真に望むなら、いい関係になるのも吝かでない。しかし、歪だ、と思う。不可抗力のなし崩しで関係を設けたとして、それは持続可能だろうか?いつかお互いに後悔するのじゃないか?
「ヒトミさん。瑞穂さんの言葉がきっかけだとしても、貴女の行動はほめられたものじゃない。同じく、私も無防備が過ぎました。お互いに、良くない部分があったと思います」
「……はい。そう、思い…ます」
「今日は17日、幸い日曜日だ。謹慎――と、までは言いませんが。今日は、頭を冷やす時間にしましょう。私も貴女も。そして、瑞穂さんも」
「は、はい…。ごめんなさい」
「その間に……いや、なんでもありません」
言わなくても伝わる。それは彼女も解っている。だから、口には出さなかった。小っ恥ずかしいのもある。
「あ……はい。わかり、ました。出来るだけ、頑張り…ます」
「どうか……お願いします」
***
「津田さん。今回の件、非違行為に該当すると思います?ヒトミさんはともかく、瑞穂さんの方は?」
那珂さんは、瑞穂さんの監督当番に当たっている。赤城さんは艦載機の整備に行った。ヒトミさんは自室へ帰った。2人になった談話室で、彼に尋ねた。
「強いていうなら〝職場内秩序を乱す行為〟とか…」
「暴言とか暴行とは、少し離れますけどね」
津田さんは頭を掻いた。
「こちらの裁量で処分していい部分では?この基地の特殊性は重々把握しているんだから、大したことしないでしょう、貴方?」
「軟禁は、かなり大したことですよ」
「じゃあ……解放します?」
津田さんが眉を顰めた。
「納得、しますか?特に、赤城さんと那珂さんは」
「出来ないでしょうね……。一度は歩み寄ろうとして、突っぱねられたんだ」
かと言って、このまま、彼女をあの薄暗い部屋に閉じ込めておくことを、良しとは思えない。
「わかりました。ちょっと話してみますよ。那珂さんと赤城さんに。で……貴方、今日は謹慎でしたね?今日は部屋で休んでください」
「い、いや。しかし……」
口の端を持ち上げて、彼は笑った。
「せっかく助けてあげたのに、ハブにされたんでね」
「す、すみません。あからさまに記録がとられると、瑞穂さんの本音が出ないかも、と…」
「はいはい。わかりました。さっさと帰った帰った」
彼はヘラヘラして、本気かどうかよくわからない。8割は本気で、2割くらいは心配してくれたのかも知れない。
「ああ、そうださっきの最後のやつ、何だったんです?ヒトミちゃんに、何かお願いしていたでしょう」
「いえ。本当に大したことでは。頭の中でね、お願いしたんですよ」
那珂さんにも、伝わっていただろうと思う。私は念じたのだった。「今、私に向けて抱く感情に名前をつけてくれ」と。
それは多分大したことですよ、と津田さんが苦笑した。
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――大淀?どしたの、難しい顔して。……ああ、例の。
――――明石……そう、遊覧船うみねこ。18年前の新聞記事。
――どれどれ。うわ、ぁ……結構悲惨だったんだ。
――――あの人、この事故の被救助者かと思ったんだけど。
――いなかった?
――――わからない。年齢的に当てはまる人はいたけど、名前までは…。
――違うなら違うで、むしろいいことじゃない。
――――そうかもね。でも、あれだけ過剰に反応して、なんの関連もありませんじゃ納得できないのよ。
――じゃあ……うーん、家族に不幸があった、とか。
――――かもね。まぁどのみち、新聞記事からじゃ限界があるわ。
――事故のあった場所、割と大湊にも近いじゃん。今度、そっち行く予定あるんでしょ?大規模合同演習だっけ。
――――……慰霊碑とか、立ってるかしら。
――海佐の実家も近くじゃなかった?確か、ちっちゃい港町の生まれだって。
――――え?山奥だって聞いてるわよ。なんでも、親戚一同が田植えに駆り出されるくらいにはド田舎だって。
――んん?親戚とは疎遠なんじゃなかったっけ。片親でおじいちゃん子だって。
――――違うわよ。父と母の3人家族で……。
――え……?
――――ええ……?
――私たち、嘘つかれてた?
――――そんな人かしら。
――じゃあ、つまり……どういうこと?
――――知らないって、そんな。
――なにこれ。
――――さぁ?
目安箱も終わりかぁ……。