「それで……。本当に、食わせるっていうのか」
いきおい、格納庫まで足を運んだはよいが、いざという段になって、躊躇いが生まれた。本当に、私を食おうとしていたのだとしたら?折角、神通さんに救われた命を、みすみすドブに捨てることになるのじゃないか。
「いや。大丈夫……大丈夫だ」
尻込みする自分を説得するように、反芻する。少なくとも、あの妖精さんから、艤装から、敵意を感じなかったのは事実である。今、その目の前にまでやって来た。他とは異なり、淡い光が機構の継ぎ目から漏れている。その上に、あの瑞穂さん似の妖精さんが、ちょこんと座っていた。
「こ、こんにちは?」
似たような言葉をさっきもかけたが、しかし、向こうからの反応は幾らか異なっている。
振り向いた彼女は、すぐに私から顔を背けた。見事な膨れっ面である。ある意味で困ったし、ある意味で安心した。少なくとも害意を感じない。
これはあれかーー拗ねている、のか。
「ごめんよ。さっきは、その。吃驚しただけなんだ」
そっぽを向いたままーー無理もない。吃驚で砲口を突き付けられては、命が幾つあっても足りない。尤もな態度だ。この愛くるしい低気圧を沈静化せしめるのに、私は半刻の時間を要した。
もうひとつ付け足せば、某デパートの高級チョコレートとマカロン、某老舗和菓子屋の羊羮と栗きんとんを奉納する約定を結んで、なんとか和平にこぎ着けたのであった。
いよいよだ。
闇が固化したような塊を眼前に、私は正座して、そのときを待っていた。暗闇にすら映える黒は、私の鼻先30cmで、低い唸りを吐き出した。トロリと糸を引いて、そこに亀裂が走り、不健全に健康的な白い歯が覗いた。私の半身を〝縦〟に呑み込めそうなくらいの大口を開けて、静止する――どうぞ、と聞こえた気がした。背筋が強張った。
「っ……。臭うな」
やるしかない。お辞儀をするように、磯くさい口の中へ頭を差し出す。まだ、艤装は動かない。もっと奥へ来い、と――それはそうか。赤城さんによれば、口の中に丸っきり収まっていたそうだし。なるべくぬめりの少ない場所に手をかけ、思い切って上半身を突っ込んだ。
そこで漸く、艤装に動きがある。口が閉じ始めた。
「うわっ」
そう思ったのも束の間、私の体は、ぐい、と持ち上げられた。人がうがいをするときのような具合で、艤装が天井を仰いだ。必然、私の体は天地を反転した形になる。反射的に足をばたつかせたが、艤装の巨大な腕が、足首を掴んで、手際よく動きを封じられる。私が諦めておとなしくしたのを見計らって、艤装の〝捕食〟が始まった。私の身体は、大口の中へゆっくり滑り込んで行く。抵抗を許されず、されるがままに、奥へ奥へ。へそを過ぎ、腰を過ぎ、膝を過ぎ、足首を過ぎた。意外にも奥行きがあるんだな、と暢気な感想が浮かんだが早いか、艤装の口が完全に閉じて、ゴクン、と喉を鳴らす音がした。
「っ…?……!?」
足が伸ばせない。というか、艤装の咽喉だか、食道だかが非常な圧力を加えるので、身じろぎ1つできなかった。本当に、完全に、呑み込まれた。粘膜が蠕動する。全身をギチギチに固定されながらも、奥へ滑り込んでいく感触がある。どうにも、先刻の心配が結実したかと叫びたい衝動に駆られたが、とりあえず消化が始まる気配はない。臭いのきつさ以外、不思議と呼吸に不都合もなかった。意図して口元に空間を作ってくれているのか。器用なものだ。
ふと、肉壁のうねりが静止した。粘液がたまに顔にかかるが、存外悪くない居心地だ。適度に温かい粘膜が身体に密着して、マッサージをされているような気分でもある。私のものではない拍動を感じた。艤装にも心臓があるのか?
5分くらい経った頃だった。妙に顔が火照るのに気付いた。目頭がジンと沁みた。暗闇の中で何度か瞬きをしても収まらない。朝一番、寝起きの眼で太陽を見た時のように、目を開こうとしても反射的に閉じてしまう。ベトベトの粘液の中で、自分が涙を流していることに気がついた。涙?いや……。
どうやら、これが〝海〟らしい。
あのとき飲み下した黒い液体を、私は排出しているのだろう。よく見えないが、恐らく涙のように流れ出ている。瑞穂さんと同じように。
どうひっくり返っても異常な事態であるが、心は異様に安穏として、呼吸もすこぶる穏やかである。あるべき場所にあるべきものを返却している自然が、心底好ましい。艤装の粘液が体にまとわりつくのも、今は悪くない。来て良かったと本当に思った。チョコレートとマカロンと羊羮と栗きんとんに、チーズケーキやプリンを上乗せしても良い。
少し、眠い。ああ、いい心持ちだ――。休もう、このまま……寝てしまおう。
***
目が覚めると、私のすべては変質していた。
「だ、出してくれ!」
腹から叫んだ。先刻までの記憶は残っている。妙に心地よくなって眠ってしまったことに――自分自身に――恐怖を覚えた。この異常な状態を、異常だと認知できる能力が戻った、と言えるかもしれない。歯の根が合わない。体が震え、酷い不安を覚えた。このまま、一生ここから出られないのではないか。説明しづらい不安が喉を締め付けて、段々と呼吸が苦しくなる。
「た、たのむよ。だして、く……、あ?」
懇願が通じたのか、身体の固定が緩くなった気がした。そして、徐々に上へと昇るような感触。肉の蠕動が、私を押し上げる。暗闇の割れ目が見えた。外だ。
げえ、と不快な音を伴って、娑婆へ転がり出た。
ひどい臭いだ。磯くさいなんてものではない――下水の臭いだ。体にまとわりついている。不快感にたえかね、思わず身体をかきむしる。そして、信じられないくらいの吐き気に襲われた。
「うっ…ぶ。げぇ……え」
墨汁のような色のねばつく液を――これも海?――繰り返し吐く。次から次へ、喉の奥から夥しい量のナメクジが這い出すようだ。止まらない。不快だ。
吐き気がいくらか収まって、漸く周囲の様子に気を配る余裕が生じたとき、うずくまる私の傍らに、瑞穂さん似の妖精さんがいるのに気がついた。酷く戸惑ったような表情をしていた。
「あぁ…だ、大丈夫だ。君の、せいじゃない…。多分」
荒い息を吐きながら、彼女の頭を撫でるが、それでも、彼女は不安げな面持ちだ。どうも、この反応が不思議だ。何か、妖精さんにすら予想しえなかったことが起きたのか?こんな惨い拒絶反応が生じるのは一般的なことではないのだろうか――大体において、何かに呑み込まれるなんぞという事態が、そもそも一般的ではないのだけれども。
なんにせよ、先日まで身体を包んでいた浮遊感が消えている。代わりに、残酷な現実感が胃や食道の辺りをぐにゃぐにゃに混ぜっ返している。私の膝にそっと手を置いた妖精さんに慰められながら、しばらく、心と身体を落ち着かせた。
***
萎れた足取りで格納庫を後にしようとした私を、あの妖精さんは、最後の最後まで心配していたようだった――要するに、格納庫の出口寸前まで着いてきたのだが、やはり明るいのは苦手なようで、最後は奥に引っ込んでしまった。
日差しに眩んだ目を庇った右手を視認する――血の通った薄桃色が妙に懐かしい。
「わ!え!なんで?!」
庁舎に入ると、那珂さんと赤城さんがいた。私を一目見た那珂さんは、すっとんきょうな声を上げた。それくらいに、私の変化は著しいのだった。
「どうも……まぁ、あれです。寝ていたら治りましたよ」
ある意味、嘘は言っていなかった。寝ていた場所は、先刻同様伏せたが。当然2人とも、頭から信じた訳では無いだろうが、怪訝そうな表情を引っ込めて笑顔を返してくれた。
「本当に、もう大丈夫なんだよね?……良かった」
「はい、何とか。少し、瑞穂さんと話――」
「絶対に駄目ですよ。休んでください」
そりゃそうだ――赤城さんが許してくれるはずもなかった。彼女は私を方向転換させ、背中を押す。交代の時間なのだそうだ。またね、と手を振る那珂さんと別れた。
「津田さんに注意されたでしょう?1度に色々やろうとし過ぎです」
「そう、でした。いや、しかし、やはり今こそ――」
「ダメですって……これ以上抵抗すれば、締めオトシてでも休ませますよ?」
怖い――彼女は上品な笑顔で私を威嚇する。妙に距離が近く、耳元で脅された。艶っぽい吐息が首筋に当たり、変な気分になる。私はこれを、赤城さん流の脅迫であると解釈した。観念して抵抗を弱めると、ギュンギュン歩が進んでいく。彼女の手押し車と成り下がった私は、庁舎を出て、官舎に入り、廊下を進む。すると、官舎の階段から人影が現れた。
「あ、神通さん?」
「あら、まだ休んでいなかったの」
一瞬のすれ違いざま、それだけ言葉を交わす。彼女の声にドップラー効果がかかっていた気さえする勢いで廊下を疾走した後、私は自室へと押し込まれた。赤城さんは、柔道の達人みたいな動きで滑らかに私をなぎ倒した。まさか自室で、受け身をとることになろうとは。
彼女は暫く、私の肩を押さえつけて逃亡を阻止していた。彼女の吐息が顔にかかって、心臓に悪い。
「あのぉ、赤城さん?」
「っ……」
「ええと、そこまでしなくとも、逃げませんが…」
「あっ…、あぁ、はい。……失礼、しました」
彼女は、私に布団をひっかぶせた。
「では、おやすみなさい」
「お、おやす――」
「ご飯どきになったら起こします。昼食は何がいいでしょうか」
「え。なんでも――」
「解りました。おにぎり作っておきますね」
「あ、ありが――」
言いも終わらぬうちに、物凄い勢いで彼女は出ていった。少し不自然だった。なんだろう――怒っていたのか?確かに、散々心配をかけたあげく、何らの相談もなく、気付いたときには全部元通りでした、とは。大小の怒りを覚えても仕方あるまい。普段優しい人が怒ると1番怖いのは世の常だ。変な気を起こさず、眠ることにしよう。
***
――――危な…かった。
――赤城さん…あの、どうしましたか。
――――いえ、少々、良くないことが。
――良くないこと?
――――彼の肌や髪の色、治りました。
――え…。本当に?良かったではありませんか。
――――それは、良いとして。強烈な、その…違和感、が。
――違和感。
――――さっき、自分を見失いそうになりました。
――は?
――――あの人から、強烈に……、良い匂いがしたのです。
――良い…匂い?彼、香水でも?
――――いえ、あれは、潮風の香り?彼の、首筋に、しゃぶりつきたくなりました。
――あ、貴女でも…………冗談言うのね。
――――いいえ。本気です。本気なんです…。
――赤城さん?
――――思い出すだけで、たまらなくなります。っ……すっ、すみません。
――い…一体、何が?
――――解りません。何にしても、これは良くない事態です。ヒトミさんのこともあるし。
――確かに……それはそうですが。
――――数日ほど、彼と距離を置くつもり。
――根本的な解決には、ならないですよ?
――――解っています。でもあの匂いを前に、自分を保つことが出来るか判らないの。
――貴女ほどの人が?
――――私だけなのかしら。一歩違えば、瑞穂さんと同じ行為に。いえ…それで、済むかどうか。
――何が…起きているの…。
――――私が、ききたいくらいですってば。
――とりあえず津田さんにお願いして、彼に伝えてもらいましょう。
――――私、今から瑞穂さんに、話の続きを。
――ええ、それは、同じ思いです。「うみねこ」という言葉。私も少し、気になっていますから。
――――神通さん、この後、時間ありますか?
――逆に……ないと思います?
――――ふふ…では、行きましょう。
食われて吐かれて倒されて大変だなぁ。