時間を戻したい。
そう思った事はないだろうか。
取り返しのつかない事をしてしまった時。
たとえば、朝起きたら、裸の女性が横に寝てた時。
ああ、時が戻ればいいのに。
「……やっちまった」
最初に思ったのはその一言だった。
部屋の窓からは朝の光が差し込んでいる。
そして、俺の隣りには、あどけない表情で眠る少女の姿があった。
正直、何があったのか、さっぱり覚えていないが、状況的にアウトだろう。
……どうしよう、オッサンにばれたら殺される。
それより、シアちゃんにばれたらやばい。
昨日の今日で、もう手を出しましたなんて知れた日にはどんな仕打ちを受けることか。
さいわい、シアちゃんは出掛けてくると言ったまま、昨夜から戻って来てない。
せめて、この状況から抜け出そう。
「姫、姫、起きて下さい」
隣りで眠る少女を揺さぶる。
「……ふ、ぅん……あ、勇…者さま?」
目が覚めたようだ。
……しかし、これは目に毒だ。
薄いシーツに包まれた姫の身体は、俺を興奮させるには充分だった。
うぉ、やばい。
俺の体の一部分に、血液が集まるのを感じる。
「まあ、勇者さま。ゆうべはあんなに激しゅうございましたのに。ぽっ」
は、激しく? ……何やったんだろう、俺?
何で覚えてないんだよ、俺!
こんな、こんな、人生の一大イベントなのに。
俺は、思わず頭を抱えた。
「あら、二日酔いですか? 昨夜はたくさん飲まれてましたから……」
酒? ……そうだ、酒だ!
昨夜は初めて酒を飲んだんだ。
昨日の事を思い出そうとした……が、そんな場合ではない。
「それより! 姫、早く着替えてください!」
「わかりましたわ。でも、その前に……」
姫は、こちらを向いて目を瞑る。
こ、これは、まさか、おはようのキスって奴ですか?!
俺は、何となく辺りを見回してから、唇に触れるだけのキスをした。
「ふふっ、こういうの、夢だったんです」
そう言って笑う姫はとても可愛かった。
シアちゃんが帰って来たのは、支度が終わって朝食を食べている時だった。
腕には、長い棒状の包みを抱えている。
「お疲れ様です。アリシアさま」
「シアちゃん、何ソレ?」
「後のお楽しみじゃ」
そう言って、シアちゃんは笑う。
どうやら、昨夜の事はばれてはいないようだ。
ほっと胸を撫で下ろす。
そこへ、宿の主人がやってきた。
「お早うございます、勇者様。ゆうべはお楽しみでしたね」
イキナリ何言うとるか?!
「ん? 何の話じゃ?」
シアちゃんは、首をかしげている。
「いや、昨夜、酒を飲みすぎちゃって……」
「ふむ、そうか。程々にするんじゃぞ」
はあ、良かった。
「では、わらわも支度をしてくるとしよう。あるじ達はゆっくりしておれ」
そう言い残すと、シアちゃんは機嫌良さげに鍵を指先でクルクルと回しながら階段を登っていく。
ドアが閉まる音を確認して、俺は主人へと詰め寄った。
どくばりを手にして……。
「おっさん、わかるな。余計なことを言うんじゃないぞ。死にたくなければ、な」
俺は、主人の首筋にどくばりを突き付けながら、お願いをする。
そう、これはお願いだ。
決して、脅迫などではない。
主人はぶるぶると震えているがきっと寒いのだろう。
「あの……、勇者さま」
はっ、そういえば姫の事を忘れてた。
振り向くと、姫がこう言った。
「口封じ……いたしましょうか?」
あの、姫、満面の笑みを浮かべながら、立てた親指で首を掻き切る動作はやめて下さい。
夢に出そうですから。
いえ、ですから、剣に手を伸ばさないで下さい。
主人の震えはいつの間にか「ぶるぶる」から「がたがた」に変わっている。
「いえ、さすがに、そこまでは……」
「そうですね。さすが、勇者さま。……後始末が大変ですものね♪」
いや、そういう事ではなくて……。
やっぱり、オッサンの娘だ。
いや、正直言って、こっちの方が怖い。
思わぬところで、血のつながりを確認した朝の出来事だった。
「準備は良いな」
支度の終わったシアちゃんが号令をかける。
いつものように、青いローブを身にまとい、フードはかぶらずに銀色の髪を後ろにたらしている。
「はい、大丈夫です」
そう答えた姫は、動きを阻害しない程度に軽量化された鋼の鎧を身にまとい、腰には鋼の剣を吊るしている。
長い黒髪は結い上げて、銀色の髪留めでとめられていた。
盾は持たない主義なんだそうだ。まあ、両手で剣を握るからなんだけど。
しかし、あれだな、何と言うか、オッサンと同レベルくらいらしいんだよ、剣の腕。
何で、さらわれたりしたんだろうな?
「あるじ、忘れ物なぞしておらんか?」
「ああ、問題ない」
そういう俺はというと、旅を始めた頃に買ったひのきの棒と、980ゴールドで買ったどくばり、それにシアちゃんにもらったみかわしの服しか装備がない(なべのふたは壊れた)。
後は、旅に必要な保存食や調味料、薬、調理道具等の入ったリュックだけだ。
勇者が荷物持ちなんてパーティーは後にも先にも俺達だけだろう。
「では、主人、世話になったの」
シアちゃんの呼びかけに、宿の主人はこくこくと頷いた。
何故か、声が出ないようだ。
……やりすぎたか?
シアちゃんはいぶかしげにしていたが、そのまま玄関を出て行った。
「あの話、くれぐれもお願いしますね。では、ご健勝をお祈りしております」
姫は、そう声をかけて出て行った。
それって、裏を返せば、何か洩らしたら命は無いってことですか?
主人もそう考えたのだろう、またがたがたと震え始めた。
「あー、悪かったな」
主人は白目を剥きかけている。
俺はなけなしの50ゴールドをカウンターに置き、外に出た。
これで、美味いもんでも食って、さっきの事は忘れてくれ。
そう呟きながら。
外は、快晴だった。
城下町の街並みが、朝日に照らされて輝いて見える。
シアちゃんは、俺が宿から出てくると、街の外に出るよう促した。
しばらく歩き、街から充分離れた草原に来ると、立ち止まった。
「この辺で良かろう」
何をするんだろう?
シアちゃんは、手に持った布包みを解き始めた。
中から出てきたのは、装飾の施された杖だった。
先には宝石のような緑色の石がはめ込まれている。
「アリシアさま、それは?」
姫が問うと、シアちゃんはその杖を掲げた。
「これは、伝説のいかづちの杖じゃ!」
「いや、偽物だろ。どうせ」
間髪入れずに発した俺の返事に気分を害したようだ。
指先に炎が浮かんでいる。
「ほほう、あるじは余程死にたいと見える」
やば、何かフォローをせねば。
「いや、昔、俺が勤めてた武器屋に持ち込んできた奴がいてさ、それが見事に偽物で。そういうことがあったからさ、はっはっは」
「む、そういうことならば仕方あるまい。実際に使って見せようぞ」
シアちゃんはそう言うと、杖を大きな岩に向けて「いかづちよ!」と叫んだ。
杖から閃光がほとばしると、前方の岩が吹き飛んだ。
「おお! すげー!」
「まあ、すばらしいですわ」
「ふふ、ざっとこんなもんじゃ」
シアちゃんは勝ち誇っている。
「疑ってゴメンナサイ」
俺は素直に謝った。
でも、一つ不思議な事に気が付いた。
「あのさ、シアちゃん。今の、ギラ系の効果だったと思うんだけど、どうしていかづち、つまり雷なんだ?」
「……あるじ、それが世界の理じゃ。気にしては負けぞ」
「ん、わかった」
これは口にしてはいけない事だったらしい。
素直に引き下がることにした。
「で、の。これをあるじに渡そうと思っての」
「俺に?」
シアちゃんは頷く。
「うむ、これを使うには魔力はいらぬ。あるじには願っても無いことじゃろ」
「俺のために、苦労して?」
「……う、うむ。その、あるじのためじゃからな」
そう言って、照れたようにうつむく。
俺は、大人しく受け取ることにした。
「ありがとう、シアちゃん。使わせてもらうよ」
「うむ」
「私には、何もないんですか? アリシアさま」
姫が、うらやましくなったのか、シアちゃんに尋ねる。
いや、そんなポンポン出てくるもんじゃ……。
「もちろん、忘れてなぞおらぬ」
そう言って、指輪を取り出す。
あるんかい!
「これは?」
「疾風の指輪じゃ。すばやい動きが出来るようになるそうじゃ」
「ありがとうございます。では、少し試してきますね」
そう言って、姫は走り去った。
「あまり遠くへ行くでないぞ!」
「わかってまーす!」
遠くから返事が返ってくる。
まあ、俺より強いし大丈夫だろう。
「では、あるじも試すと良い。宝石を相手に向けるのじゃぞ」
シアちゃんが指差した先には、奴が、あのスライムベスがいた。
俺にはわかる。
別の個体ではない。奴に、俺のライバルに相違ない。
向こうも、俺を認識したのか近付いてくる。
「今度こそ! 今度こそ、シアちゃんにもらった愛の力で、お前に勝ってみせる!」
「あ、あるじ、恥ずかしい事を言うでない……」
スライムベスの攻撃。
体当たりを仕掛けてくる。
勇者は、身をかわした。
「お前の攻撃は、既に見切った! 今度はこちらの番だ!」
勇者の攻撃。
勇者はいかづちの杖を使った。
「いかづちよ!」
「あるじ! 向きが逆じゃ!」
シアちゃんの忠告は一瞬遅かった。
宝石からほとばしった閃光が俺の視界を真っ白に染める。
「おお、勇者よ! 死んでしまうとは情けない!」
また、これか……。
俺は、杖を掲げたまま、オッサンの前に立っていた。
もっと、使い方を聞いとくんだった。
あの時に戻れたならば……。
俺は、後悔に包まれていた。