それは、まるで他人の記憶を覗き見ているかのような感覚だった。自分の記憶であることは間違いないのに、どうしてもそれを実感出来ない。記憶を辿ってみても、その時の自分がどんな感情を抱いていたのかわからない。
自分自身のことですら、確信を持てない。
「桜内梨子……か」
私のものだと言うその名前を呟いてみる。そうすれば、何かが変わるのではないかと、無意識に期待したのだろうか。
音ノ木坂学院。
浦の星女学院。
μ's。
ラブライブ。
続けて、記憶の中で特に明確に思い出せる単語を呟いてみる。
だが、結果は変わらない。やはり全て同じだ。
自分の名前も、前の高校の名前も、今の高校の名前も、目標にしているらしいスクールアイドルと、その大会の名前もーーーそして。
「Aqours……」
私が所属しているらしい、スクールアイドルのグループの名前も。
全部、同じだった。こうなる前は恐らくその名前の一つ一つに違った思い出があり、違う想いを寄せ、それらを一言呟く度に何らかの感情が湧き水のように溢れ出てきていたはずだった。
それが、今は何の感情も浮かばない。思い出として、確かに記憶に残っているというのに。
心が荒野のひび割れた地面のように枯れてしまったみたいだ。それなのに、色とりどりの草花は美しくそこに咲き続けている。
「なんか、苦しい……」
記憶の中の思い出にふける度、心がぎしぎしと軋み、胸が苦しくなる。
私の大切なものに触るな!と、誰かに言われているような気がする。
「じゃあ……私は誰なんだろう?」
この記憶が私のものではないならば、私の記憶はどこにあるんだろうか。
私が桜内梨子ではないのであれば、本当の私は一体誰なんだろうか。
ここが私の居場所ではないのであれば、私は何処に行けば良いんだろうか。
「わからない……わからないよ」
より苦しさを増す胸の痛みに震えながら、眠れない夜は更けていく。
このままずっとこの夜が続けば良いのにとさえ思う。夜が明けなければ、明日はやってこないのだから。
明日になれば嫌でもあの人達に会わなければならない。恐らく私が家族以外で最も信頼を寄せていた、思い出の中でも眩しく光り輝くあの八人に。
「Aqours……」
その光を掴もうと、もう一度その名前を口にしてみる。 けれど、思っていた以上にその光は遥か遠くにあったようで、今の私では到底手が届くとは思えなかった。
◆
結局、一睡も出来ないまま夜が明けてしまった。一晩考えてもどうするべきか答えは出ず、考えれば考えるほど悩みは深くなっていった。
鏡を見て顔を確認すると、自分でも思わず引いてしまう程酷い顔をしていた。こんな顔、間違ってもあの人達には見せられない。
スクールアイドルの活動を通して精神的に成長したあの八人は、以前にも増して仲間や友人の些細な変化に対して敏感になっている。Aqoursのリーダーとしての自覚と共に急成長した高海千歌さんや、大きな挫折を乗り越えた経験のある三年生の三人は、特に注意しなければならないだろう。
「………シャワー浴びよう」
ひとまず、それで一旦落ち着こう。 そうすれば顔色も多少はマシになるはずだ。もしかすると、汗と一緒にこの不安も流れ落ちてくれるかもしれない。
そんな淡い期待を抱きながら部屋を出る。ただ、どんなに前向きに考えようとしても、私の顔に笑顔が戻ることはなかった。
◆
「おはよ!梨子ちゃん!」
「…………え?」
それはあまりにも唐突すぎるエンカウントで、何の備えもしていなかった私の頭は真っ白になり、恐らくこれまでの人生で一番の間抜け顔を晒していたと思う。
でも、これは仕方のないことで、言うなれば不可抗力というやつだ。
なぜなら、心配する母親を安心させる為精一杯の作り笑顔でリビングを後にし、不安と自己嫌悪から生まれた大きなため息を一つ吐き、異常に重く感じる扉を開けたその先に、一番警戒しなければならないと考えていた要注意人物ーー高海千歌さんが待ち構えていたのだから。
「た、たかっ……千歌…ちゃん!?」
正気に戻った私は、それでも咄嗟には動揺を隠せなかったようで、思わず名字で呼びそうになったのをぐっと堪えて、何とか普段通り彼女の名前で呼び掛ける。
「ん? どうしたのそんなに慌てて。バスの時間ならまだ余裕あるよ?」
そう言って小首を傾げる高海さんのその仕草は、平常時であればその幼い顔立ちも相俟ってとても可愛らしいはずなのだけれど、今の私の心境的にそんな余裕は無かった。
「う、ううん。そうじゃなくて、ドアを開けたら目の前に千歌ちゃんがいたからビックリしちゃっただけ。どうしたの、こんなに朝早く。珍しいね」
記憶の中の高海さんは、内浦に住んでいることもあって普段から朝には強い印象だったけれど、平日の朝に私を迎えに来たことは今までに一度も無かったはずだ。
そんなことをしなくても、バスの時間の都合上必然的にいつも一緒に登校していたし、家も隣なのでわざわざ迎えに行かなくても自然と同じ時間帯に家を出ていた。
それなのに、なぜ今日に限って迎えに来たのか。まるで示し会わせたかのようなそのタイミングの悪さに、もしかして全てを知られているのではないかと思ってしまう。
そんな私の内心の動揺を知ってか知らずか、高海さんはプクッと可愛らしく頬を膨らませると、少し怒った表情を見せた。
「どうしたの、じゃないよ! 昨日からずっとメールもLINEも電話もしてるのに全く音沙汰無いから心配してたんだよ!?」
「え!? そ、そうだったの!?」
慌ててスマートフォンを確認すると、確かに着信履歴やメールの受信ボックスが大変なことになっている。これだけ見ると思わずゾッと鳥肌が立ってしまう程だ。
「ご、ごめんなさい。昨日は……ちょっとバタバタしてて、色々確認が疎かになってたの」
「そうなの? まぁでも無事で良かったよ〜。本当に心配したんだからね?」
ころころ変わる高海さんの表情に、思わず笑みがこぼれる。同時に、心配してくれたという事実に冷えきっていた心が少しだけ温かくなったのを感じた。
けれど、勘違いをしてはいけないと改めて自分に言い聞かせる。
高海さんが心配しているのは『私』であって私じゃない。
その認識を誤ると、きっと後々お互いにとって良くない結果に繋がってしまう。
「うん。ごめんね、心配かけて」
「ううん。ていうか私こそごめん。改めて見るとちょっと心配し過ぎだよね〜……あはは」
私のスマートフォンの着信履歴等を見て改めて実感したのか、高海さんは申し訳なさそうに苦笑いを浮かべる。
確かに心配し過ぎだとは思うし、正直に言うと少し引いてしまったけれど、でもそれは高海さんの『私』に対する友情の表れだと理解していたし、彼女からそれだけ大切に想われている『私』のことを少しだけ羨ましく思った。
「…………ねぇ、千歌ちゃん」
だから、なのだろう。
「もし、友達が……ある日突然別人みたいに……他人みたいに変わっちゃったとしたら……どうする?」
こんな、今までの苦労を水の泡にしてしまうような、馬鹿みたいな質問をしてしまったのは。
「………え? 何それ? 何かのドラマの話?」
案の定、面食らったような表情でポカンと口を開ける高海さん。
当然だ。突然なんの脈絡もなくこんな質問をされたら、きっと誰だってこうなる。
そもそも、私はどんな答えを期待していたのだろうか。いや、例えどんな答えが帰ってきたとしても、きっとそれは私の望んだ答えではないんだろう。
それを無自覚にわかっていた上で聞いたのだから、本当に今の私は救いようが無い程愚かだと思う。
「う、ううん! 何でもないの! ごめん、今のは忘れて……」
砕けそうだった理性を冷静になった意思で固め直し、溢れ出てしまった本音を急造の笑顔で必死に誤魔化す。
それでも誤魔化しきれなかったのか、高海さんからの返答は無い。
その沈黙が怖くて、思わず視線を逸らした。
そんな私の様子を見て何かを察したのか、それともただ単純に質問に対する答えを見つけたのか、そのどちらなのかはわからないけれど、視線を逸らしたままの私に対し、高海さんはゆっくりと口を開いた。
「…………ん〜っとね。私バカだから、正直梨子ちゃんが何を悩んでいるのかはわからないんだけど……」
そこまで言うと、高海さんは自然な動きで私の手を取った。まるで、そうすることが当たり前だと言わんばかりに、なんの躊躇いもなく。
その行動に驚き、私は視線を戻す。
そこにあったのは、同じようにそれが当たり前だと言わんばかりの、根拠の無い自信に満ち溢れた、素敵な笑顔だった。
「また友達になれば良いと思う。別人みたいに変わっちゃったなら、それも引っくるめてまた好きになれば良いと思う。そっちの方が……何か素敵じゃない?」
「ーーー」
それが、私が望んでいた答えなのかは依然としてわからないけれど、きっと今の私にとって、その笑顔と言葉以上の答えは無かったと思う。
幼稚で単純で馬鹿馬鹿しく聞こえるかもしれない答えだけれど、不思議とそうは思わせない説得力が高海さんの言葉にはあった。
「……あはっ」
自然と笑みが零れた。先程までの自嘲混じりのものではない、純粋な笑顔。
別に不安や恐怖が無くなった訳ではない。それだけで今の状況を楽観視出来るほど能天気ではないし、そんな単純な状況ではないと重々承知している。
それでも、暗く沈んでいた心は少しだけ輝きを取り戻していた。
「何か……千歌ちゃんらしいね」
「え? そ、そう?」
「うん。千歌ちゃんらしい、変な答え」
「あはは、いやぁそれ程でも…………ん? あれ? 私バカにされてない?」
「ううん、そんなことないよ。じゃ、行こっか! バス停まで競争ね! 」
「えっ!? ちょ……ま、待ってよ梨子ちゃんっ! 今絶対バカにしたでしょ!?」
あの笑顔が今も脳裏に焼き付いている。あの言葉が今も胸を熱くさせる。
手が届かないと思っていたあの輝きに少しだけ触れた気がして、胸の高鳴りが抑えられない。
「本当……変な人、だね」
例えそれが一時的な気休めにしかならないのだとしても、今はその耀きに視界を奪われたまま、ただひたすら前へと駆け出したい気分だった。
◆
「バス停とうちゃーく! へっへーん、私の勝ちね!」
「はぁ…はぁ…はぁ…ッ」
余裕の表情でバス停にある時刻表の看板に触れる高海さん。
対して私は膝に手をついて肩で息をしている。
勝敗は歴然で、私は先に駆け出したにも関わらず、その次の瞬間にはあっさり高海さんに追い抜かれてしまっていた。
(あれ? 元々自分に体力がある方では無いのはわかってたけど……でも毎日Aqoursで一緒にトレーニングしていたはず。それなのに、なんでこんなに差が開いてるの!?)
自分と高海さんの体力の差に愕然とする。記憶の中の私は、もう少し高海さんと張り合えていたはずなのに……。
「梨子ちゃん、大丈夫?」
「う、うん。大丈夫……ちょっとびっくりしちゃっただけだから……」
息を整えて、笑顔で高海さんに応える。
記憶との齟齬に若干戸惑ったけれど、考えてみればそれほど大きな問題でもない。
そもそも、秋葉原という都会で育った私と、内浦の自然に囲まれて育った高海さんとでは地力が違うんだ。
(そうだよ。普通怪獣?を自称しててもあの渡辺さんや松浦先輩の幼馴染なんだもん。よく考えなくても基礎体力に大きな差があって当然だよね……)
冷静になってみると、我ながらなぜあんな勝負を挑んだのかわからない。高海さんの眩しさにあてられて正気を失っていたのかもしれない。無駄にテンションも高かったし。
そう思うと、急激に恥ずかしさが込み上げてきた。
「いやでも梨子ちゃん珍しく朝からテンション高いねー。ちょっとビックリしちゃったよ」
「うん。今自分で反省していたところだからあんまり追い討ちをかけないで……」
いけない。考え始めると色々思い出して余計恥ずかしくなってきた。
「なんで!? 反省しなくていいよ! この調子で今日一日テンション上げて行こうよ! 今日は元気全開Dayだよ!」
「行きません! わ、私はいつも通りで良いから!」
「そんなこと言わずに! ほら、出会った時を思い出して!? 4月の海に全力疾走で飛び込もうとしてたあの梨子ちゃんはどこに行ったの!?」
「それ一番思い出したくない記憶だから! やめて! お願いだから忘れたままでいさせて!」
いや本当に何してるの前の私!? ピアノのことで悩んでいたとはいえそこまで自棄になるような性格じゃ無かったはずだけど……。
「ぅ〜……梨子ちゃぁん……」
「ッ……そ、そんな甘えた声を出しても駄目です!」
上目遣いで懇願してくる高海さんに思わずたじろいでしまう。
こういうことが自然と出来る辺り、意外とこの子は小悪魔の素質があると思う。
「…………ちぇー。今日の梨子ちゃんならどんな無茶ぶりにも答えてくれるかもーって期待してたのに」
「そ、そんな期待しなくて良いから!」
「えーなにそれつまんなーい!」
「つまらなくて結構です! もう、私そういうのは本当に苦手なんだから……」
赤くなった頬を隠そうと両手で覆い、効果があるかわからないけれど何となくむにむにと揉んでみる。
そんな私を見ていた高海さんが、不意ににやりと不敵な笑みを浮かべた。
……記憶が確かであれば、この表情をした高海さんは毎回ろくなことを言わない。
どうしてこんなどうでもいい記憶を明確に覚えているかと言うと、その被害を被り毎回ろくでもない目に遭っていたのが私だったからだ。
…………少し、前の私が可哀想になってきた。
「じゃあその苦手を克服しようよ! 手始めにしいたけを抱いてみるとか!」
「え? しいたけちゃんを? そんなので良いの?」
「え?」
「………?」
「いや、あの……梨子ちゃんしいたけ苦手なんじゃ……」
「ーーーーーあっ」
しまったぁぁぁぁ!! そういえば私大の犬嫌いだったぁぁぁぁ!!
なんでこういう大事なことに限って忘れちゃうの私!?
「ちがっ……そう! 椎茸! 茸の椎茸のことかと思ったの!」
「えーそんなわけないじゃん。茸の椎茸なんて全然可愛くないし」
「え? じゃあなんでそんな名前を自分の愛犬に付けたの?」
「ほら、『椎茸』だと全然可愛く無いけど、『しいたけ』だと何となく可愛い感じするでしょ? アホの子っぽくて」
「えーっと……どちらかと言うとその発想の方がアホの子っぽいかなぁ」
「ガーン! そ、そんなぁ〜……」
力無く項垂れる高海さんを見て、ようやく私は一息ついた。どうやら、何とか誤魔化せたらしい。
それにしても、良かった。高海さんがアホの子で本当に良かった。
これが渡辺さんや小原さんだったら多分誤魔化せなかったと思う。それぐらい苦し紛れの立ち回りだったと自覚している。
(はぁ。とにかく、今後はもっと気を引き締めないと……)
心の中で改めてそう決意すると、未だに横で項垂れている高海さんを見る。
すると、向こうも丁度こちらに視線を向けていたようで、ばっちりと目が合ってしまった。
「………えへっ」
「な、なに?」
目が合った瞬間微笑まれ、何となくどきりとしてしまう。
……いや、なんでドキッとしてるの私?
「ううん。ただ、良かった…って思って」
「え? どういうこと?」
「だって梨子ちゃん、最初ちょっと元気無いみたいだったから……」
「あぁ……うん。えっと、その……お陰様で」
そう言いながら、こちらをじっと見つめてくる高海さん。
その瞳から何とも言えない熱を感じ、それが私に対する親愛だとか友情だとかの類いであることを察して、今度はさっきとは違う種類の恥ずかしさが込み上げてきた。
そんな私の心境を知ってか知らずか、高海さんは更に追い討ちをかける。
「何かに悩んだりしてる時の梨子ちゃんも儚くて綺麗だけどね……やっぱり私は、そうやって笑ったり照れたりしてる時の梨子ちゃんが……一番好きだな」
「ーーーーーッ」
今わかった。確信した。
この子は小悪魔でもアホの子でも無い。天性の天然ジゴロだ。
それも最近作詞なんかしてるせいでボキャブラリーが増えて、更に磨きがかかっている。
自分の顔から今までとは比べ物になら無い程の熱を感じ、それを見られたくなくて瞬時に顔を逸らす。
同時に、今も尚変わらない真っ直ぐな瞳で私を見つめてくる高海さんの顔を右手で押し戻した。
「わぷ!」
顔を押し戻され、可愛らしい悲鳴を上げる高海さん。申し訳ないとは思うけど、これ以上その瞳に見つめられるとどうにかなってしまいそうな気がして怖かった。
「も〜う、なぁに梨子ちゃん。急にどうしたの?」
「……千歌ちゃん、暫く私を見るの禁止」
「えぇ!? なんで!?」
私の理不尽な要求に不満げな声を上げる高海さん。その後も「なんでなんで〜」と私の手を離そうとジタバタしていたけれど、こればっかりは譲れない。
結局、バスが到着するまでの間、私の顔の熱が冷めることは無かった。
◆
「お、千歌ちゃんに梨子ちゃん! おはヨーソロー!」
「おはヨーソロー! 曜ちゃん!」
「お、おはヨーソロー……」
バスに乗った途端に聞こえてきた賑やかな挨拶に視線を向けると、そこには同じ二年生の渡辺曜さんと、一年生の黒澤ルビィさん、国木田花丸さん、津島善子さんの三人が座っていた。
この時間帯に浦ノ星女学院前を通過するバスの本数は限られている為、ここでAqoursのメンバーと鉢合わせすることは予想していたけれど、いざその場に立ってみるとやっぱり緊張する。
というより、渡辺さんのテンションの高さに驚いた。この子の凄いところは、初めて会った時からこのテンションがデフォルトなところだと思う。
「お、おはようございます」
「おはようございます、ずら!」
「おはよう! 花丸ちゃん、ルビィちゃん!」
「クックックッ……漆黒の闇が眠りにつき、聖なる灯りが再びこの世界をーーー」
「おはヨーシコー!」
「ちょっ!? その挨拶はやめて! それと、私はヨハネよ!!」
「え〜? 良いと思うんだけどなぁ。曜ちゃんとお揃いの挨拶」
「お? しちゃう? 私とお揃いの挨拶にしちゃう善子ちゃん!」
「しないわよ! ていうか善子言うな!!」
「あ、あはは……」
最早恒例となった津島さんとのやり取り。楽しそうに弄る周りに対して津島さんがわりと本気っぽいのが逆に面白い。当人はちっとも面白くないだろうけど。
それはさておき、私は一考する。
先程の高海さんとのやりとりでいくらか前向きに考えられるようになったとはいえ、どうやら私の本質は照れ屋で尚且つ人見知りらしい。
その証拠に、一年生の三人に対してどう声をかけたら良いのかわからず、その場で硬直してしまっている。
(あ、あれ………『私』って、一年生の子達とどんな風に話してたっけ?)
記憶の中からこの三人と会話してるシーンを急ピッチで探すものの、高海さんの時のように明確には思い出せない。
正確には、『私』が三人と何の話をしていたかは思い出せるのに、『私』が三人とどんな風に話していたのかは思い出せない。
仲が悪いというわけでは決してない。それこそ、同じAqoursの仲間として高海さんと同じくらい信頼していたのは記憶を通して確信している。
だから、これは多分私の問題。記憶の中の情報だけでは向こうが『私』をどれくらい信頼していたのかがわからないから、今の私は自信が持てないんだ。
(……ぅう……どうしよう。よく考えたら高海さんの時は突発的なものだったら逆に色々考えなくて済んでたんだ)
いざ自分から誰かに話しかけるとなると、途端に緊張が高まってきた。
ここに来て、いかにさっきまでの自分が高海さんの積極的な部分に助けられていたのかを理解する。
「? ……梨子さん?」
ふと、高海さんと堕天使がどうこう言い合っていた津島さんから声を掛けられた。
ただでさえ高まっていた緊張が、ここにきて臨界点に達する。
「ひゃい!? な、なぁに津島さ……よ、善子ちゃん?」
「いや、大丈夫? 何か顔色悪いけど。……ていうか今名字で呼ぼうとしてなかった?」
「ち、違う違うそんなことないよ!? ちゃんと善子ちゃんは善子ちゃんだってわかってるから!」
「そ、そう。なら良いんだけど……」
「え? 善子ちゃん善子で良いの?」
「ヨハネじゃないずらか?」
「ハッ!! そうだった! わ、私の真名はヨハネだから!! 善子は仮の名前だから!!」
「あ、うん。そうだよね! そういう設定だったよね!」
「設定言うな!!」
「ヒッ!? ご、ごめんなさい!!」
語気を強めた津島さんに、思わず萎縮してしまう私。何だかもう泣きたくなってきた。というかちょっと泣いていた。
そんな私の反応が想定外だったのか、津島さんが困った様子で首を傾げる。
「え? あれ? な、なんで梨子さんが謝るのよ?」
「……確かに。いつもなら『バスの中なんだから静かにしなさい!』って善子ちゃんが叱られてるところずら」
「梨子さん。本当に大丈夫ですか? もしかして体調悪いんじゃ……」
どうやら今の私の反応は元の『私』とはかけ離れてしまっていたらしく、一年生の三人は一様に首を傾げ、私を心配そうに見つめていた。
どうにかしなくてはいけないのに、どうすれば良いのかわからない。そんな自分が情けなくて、必死に塞き止めようと堪えていた涙が溢れだしそうになった。
そんな時だった。突然高海さんが私と一年生の間に割って入ったかと思うと、見ていて少しだけ腹が立つようなドヤ顔でこう言った。
「あのね……実は梨子ちゃん『最近一年生のみんなに怖がられてる気がする〜』って悩んでてね……それで私がさっきアドバイスしてあげたの! 怒ってばかりいるから怖がられるんだよ! たまには私みたいにもっとおしとやかに対応してあげないと! って」
えっへん! と腰に手を当てて自慢気な様子でそう語る高海さん。
そんな高海さんを、一年生の三人は胡散臭そうな表情で見つめている。
「………? お淑やか? 誰が?」
「正直千歌ちゃんは二年生で一番『お淑やか』からかけ離れてると思うずら……」
「ちょ!? まるちゃん、善子ちゃん!?」
「そ、そんなことないよ! 私が本気を出せば凄いおしとやかだよ!?」
「じゃあ『お淑やか』の意味言ってみなさいよ」
「えっ!? あ〜……う〜んと………え〜っと…………こう何て言うんだろう…………ダイヤさんみたいな感じ?」
「うん、間違ってはないんだけど……その例えだと自分がお淑やかじゃないと証明しちゃってるよ、千歌ちゃん」
呆れた様子で苦笑する一年生の三人。そんな中、渡辺さんだけが高海さんに優しく諭してあげていて、その姿が少し微笑ましかった。
「でも、そういうことだったんだ。梨子さん、私達に気を遣ってくれてたんですね……」
「え? あ、いやえっと……それはその……」
思い出したように私にそう確認する黒澤さん。恐らく、さっき高海さんが入れた横槍のことだろう。
確信こそ持てないけれど、あれは高海さんなりの私へのフォローだったのだと思う。それに乗るべきかどうか判断に迷うけれど、せっかくのフォローを無駄にするわけにもいかない。
「う、うん……実はそうなんだ。私、一年生に対しては少し厳しく接してたかもって反省してて……」
結局、高海さんの気遣いに甘えることにした。何だか嘘を付いているようで気が引けるけれど、今の状況だとこうするしか手はないと思う。
それを肯定するかのように、私を心配そうに見つめていた三人の表情が一斉に和らいだ。
「なんだ、そんなこと。別に気にしなくても良いのに……」
「そうだよ。それに、叱られてるのはほとんど善子ちゃんだし、まるは全然梨子さんのこと怖いなんて思ってないずら」
「うん! ルビィも梨子さんのこと凄く頼りにしてます!」
そう言ってくれた三人の笑顔を見て、ようやく私は安堵する。
いつの間にか心の方も落ち着いており、臨界点に達していた緊張も今は大分解れていた。
「ありがとう。そう言ってくれると、ちょっと安心かな」
「どういたしまして。これからも善子ちゃんを叱ってくれると、まるの苦労も減ってすっごく助かります」
「アンタさっきから私に対して酷くない!? それと、私はヨハネよ!!」
「あはは…。善子ちゃん、バスの中だからそろそろ静かにしようね」
「うっ……わ、わかったわよ」
「花丸ちゃんも、いくら善子ちゃんが可愛いからってあんまり弄りすぎちゃ駄目だよ?」
「あはは……ご、ごめんなさいずら」
国木田さんの容赦ない弄りに対して激しく突っ込みをいれる津島さん。流石にバスの運転手さんにも迷惑かと思ったので、そこはしっかり注意を入れておく。
ふとそこで、自然な流れで一年生達と会話が出来ていることに気付いた。
その後も無難に当たり障りの無い言葉を交わし、一年生との会話を切り上げる。
(結局、また高海さんに助けられちゃった)
これまでのやりとりを振り返り、反省と共に短く溜め息を吐く。
一年生の三人は、実際に話してみてもとても良い子達だった。だからあの場で問題があったとしたらそれは間違いなく私で、高海さんがいなかったら取り返しのつかないことになっていたかもしれない。
「梨子ちゃん、こっちこっち」
軽く自己嫌悪になりつつあった私に、いつの間にか後ろにある二人用の席に座っていた高海さんが、気遣うような笑顔でそう声をかけてくれた。
その姿を見て、私はもう有難いやら情けないやらで、とにかく色んな感情がごちゃ混ぜになったような心境でそれに応える。
「う、うん……」
「席確保しておいたよ! 隣空いてるから座って座って! 」
高海さんからしてみれば先程の出来事はそれほどのことでも無かったようで、あっさりとした笑顔でそう言うと、言葉通り自分の左隣の席をポンポンと手の平で叩いて、そこに座るよう私に促した。
けど、何となくそのまま座ってはいけないような気がして、私は高海さんに伝えるべき言葉を探す。
「あ、あの……千歌…ちゃん」
「ん? なぁに?」
首を傾げる高海さんに何を伝えるべきか、未だに答えは出ていない。
だからひとまず、
「あっ……ありがとう、色々と」
在り来たりな言葉で、感謝の気持ちだけでも伝えておこう。
「ん、どういたしまして!」
そう言って微笑む高海さんを見て、また少し気持ちが前向きになった気がした。
何となく肩の荷が降りたような気分で促された席に座ると、ふと身体の右半分が重くなる。
見ると、高海さんが私の肩に手を置き、顔を耳元に近付けてきた。
「何に悩んでるか今は聞かないけど、いつか話してくれると嬉しいな」
「ーーーえっ」
驚いて振り返ると、少し大人っぽい表情の高海さんが、悪戯っぽく微笑んでいた。
そんなはずないのにまるで見透かされたような気がして、途端に顔が真っ赤になっていくのを感じる。
「お? なになに何の話?」
私と高海さんの会話が聞こえたのか、前の席に座る渡辺さんがひょこっと背もたれの上から顔を出した。
「えっへへ〜。内緒だよ! 私と梨子ちゃんだけの秘密!」
「なんですと!? 仲間外れは良くないですぞお二人さん!」
「え〜どうしようかな〜。まぁでも確かに曜ちゃんすぐ嫉妬しちゃうからな〜」
「ちょぉっ!? そ、それは言わない約束でしょ千歌ちゃん!!」
騒がしく話す二人の会話も、今は耳に入ってこない。
というよりむしろ、私の心臓の方がうるさくてそれどころじゃなかった。
ようやく落ち着きかけていた心臓が、思い出したかのように再び暴れまわる。
その元凶を横目で軽く睨みながら、心の中で悪態をついた。
(もう……本当にズルい)
その恨み言がこの人に届くことは無い。届いたところで、それは八つ当たりにしかならないこともわかってる。
ただ、どうしても気持ちの収まりがつかなかった私はとりあえず、
「あいたっ!?」
「千歌ちゃん!?」
彼女の無防備な手の甲を、軽くつねっておくことにした。
◆
浦の星女学院。内浦湾の西に張り出した岬にある、全校生徒が100人にも満たない小さな高校。
辺境と言っても過言ではない立地のせいもあって不便も多いけれど、その分自然豊かな環境で、学校の周りはなんとみかん畑に囲まれている。
更に比較的高所にあるため駿河湾が一望でき、天気が良ければあの富士山も見える。高海さん達は「もう慣れたから〜」なんて言っていたけれど、これって結構凄いことだと思う。
そんな浦の星女学院は、今廃校の危機に瀕しているらしい。厳密には、沼津の高校との統廃合ということらしいけど、当人達からするときっとどちらも大差無いだろう。
このまま何もしなければ、自分が通う学校が無くなる。どちらにしろ、その事実に変わりはないのだ。
だから、学校を救うためにラブライブを目指すというAqoursの目標は、凄く立派なものだと思う。
それはきっと他の生徒や先生達も同じ気持ちで、恐らくAqoursはこの学校に残された最後の希望なんだ。
それらのもう覆しようのない現実を改めて再確認したところで、一つ気付いたことがある。
(……あれ? よく考えなくても、私の立場ってかなり責任重大なんじゃ?)
緊張と不安に苛まれる中なんとか本日の授業を終え、精神的にへとへとになりながら迎えた放課後。
机に突っ伏してぼうっと今日の出来事を振り返っていると、そんな衝撃の事実に今更気が付いた。
そうなのだ。Aqoursというスクールアイドルはこの学校の最後の希望。ということは、それに所属するメンバーの責任はかなりのものだ。
その中でも私は作曲を担当しているらしく、それはつまり私が作った曲がAqoursというスクールアイドルの評価に大きく関わってくるということだ。
(いや………いやいやいやいやいや!)
無理だ。不可能だ。作曲云々の前に、今の私にそんな重役は不相応すぎる。
そもそも、記憶を引き継いでいるとはいえ今の私に作曲など出来るのだろうか。更に言えば、既存のAqoursの曲を歌って踊ることが出来るのかさえ怪しい。
作曲にしても、歌やダンスにしても、そのパフォーマンスやクオリティはその人の精神状態に大きく左右される。
それは、トラウマのせいでピアノを引けなくなっていた『私』の記憶から確信をもって断言出来る。
そう考えると、お世辞にも良好とはいえない今の私の精神状態で、今後Aqoursの一員として上手くやっていけるとは思えなかった。
「……ど、どうしよう。でも私以外にAqoursで作曲出来そうな人なんていないし……いやそもそもその私ですらまともな曲が作れるか怪しいわけで……」
今後のことを考えて頭を抱える。前向きに考えたくても、根本がネガティブな今の私は物事を常に悪い方向へと考えてしまう。
というのも、この浦の星女学院で一日過ごしてみて改めて気付いたことがもう一つある。
それは、この学校の人達の、心の豊かさ、心の温かさ。
とにかく、この学校の人達は、他と比べると心の温度が違う。
自分の学校が廃校の危機に瀕しているというのに、希望を捨てず、それどころか今の自分に出来ることを各々がちゃんと考えている。
そしてその殆どの人が、この状況下であっても、限られた時間の中で輝きを目指し楽しんでいる。
思い出すのは、ラブライブ東海地区大会で見たあの風景。
会場がAqoursのパーソナルーカラー一色で染まったあの瞬間の景色。
実感こそ湧かないけれど、想像は出来る。あの景色がくれた可能性と希望。それが、どれだけこの浦の星女学院の生徒達を勇気づけたか。
そしてその勇気を与えてくれたAqoursへの感謝と期待は、きっと計り知れないものだと思う。
だからこそ、なのだ。だからこそ私は、この状況を軽視できない。
この学校の人達の想いを知れば知るほど、Aqoursへの期待を感じれば感じるほど、この状況下での不安や絶望は大きくなっていく。
「……どうしよう」
いくら悩んでも答えは出ない。むしろ悩みが深くなるばかりだ。
これが私個人の責任だけで済む問題だったら、どれだけ楽だっただろう。
私だけが責められて済む問題なら、私が我慢すれば良いだけの話なのだ。
その場合『私』には申し訳無いけれど、それでも事情さえ正直に話せばその被害は最小限に抑えられるはずだ。
けど、現状だとそうはいかない。Aqoursの失敗は、この浦の星女学院の廃校に直結する。
そうなったらもう、私一人の責任だけで済む問題ではなくなってしまう。
「………ぅうぅっ……胃が痛い……胸が苦しい」
こんなの、一介の女子高生に背負える責任の重さではない。
……というか何でこんなもの背負っておいて笑っていられるのあの子達。
はぁ、と今日何度目になるかわからない溜め息を吐く。ただ、間違いなくその重さは本日のランキング一位だと思う。
どれだけ重い溜め息を吐いても、この胸のモヤモヤが解消されることはない。
むしろ、どんどん酷くなっていってる気がする。モヤモヤどころか、モミモミというか………こう胸を手で鷲掴みされている感覚に近いような………。
「おっ! 梨子ちゃんちょっと大きくなった? これは改めてサイズ計らなきゃ駄目でありますな!」
「………………………………………………へっ?」
思いっきり渡辺さんに揉まれていました。後ろから。ワシワシと。
「ッーーーわ、渡辺さん!?」
慌てて振り返りながら距離を取り、自分の身体を守るように両手で抱きしめた。
そんな私の一部始終を楽しそうな笑顔で見ていた渡辺さんは、何事もなかったかのような様子でいつも通りの敬礼ポーズを取る。
「ヨーソロー! 梨子ちゃん! 」
「ヨーソロー!じゃないよ! 何してるの!?」
「鞠莉ちゃん直伝の……直伝の……ん〜なんだろう? 挨拶? 必殺技?」
「セクハラだよ! あれはまごうことなきセクハラだよ!!」
純粋な表情で腕を組んで首を傾げる渡辺さん。なぜこんなピュアな表情をする子があんな奇行に走ってしまったのか。とりあえず小原さんには後で小一時間程お説教しなくちゃ。
「……もぅ。本当にビックリしたよ」
「あっはは〜、ごめんごめん。何か梨子ちゃんぼうっとした顔で独り言呟いてたから目を覚ましてあげようかと」
「え〜と……他にやり方なかったのかな?」
けろっとした笑顔で言う渡辺さんに苦笑いを返す。愛嬌があって可愛いのは認めるけれど、それだけで許されるなら警察はいらない。
「はぁ……もう二度としないでね。一応女の子同士でもセクハラって成立するんだから。訴えられたら大変だよ?」
「そうだね。私も鞠莉ちゃんにされた時驚いて一本背負いしちゃったし」
「一本背負い!? だ、大丈夫だったの!?」
「大丈夫大丈夫。ほら、私高飛び込みで鍛えてるし」
「いやそうじゃなくて! おはっ……鞠莉さんの方だよ!」
「え? う〜ん……とりあえず大丈夫そうだったけど」
「そ、そうなの? 鞠莉さん身体丈夫なんだね……」
「そりゃそうだよ! 内浦の女子高生は一味違うからね!」
そうなんだろうか。いや、多分そうなんだろう。
普通の女子高生は同世代の女子相手に一本背負いなんてまず出来ないし。
というかそもそも一本背負いって受け身がちゃんと取れないとかなりの確率で怪我をする危険な技じゃなかったっけ?
…………いや、これ以上考えるのはやめよう。きっと沼津ではよくあることなんだ。そういうことにしておこう。
「あ、そうだ! そんなことより放課後だよ梨子ちゃん! 一緒に部室いこっ!」
「そんなことって……」
「まぁまぁ。何悩んでるのか知らないけど、ここでじっとしてても仕方ないよ! 身体動かせばすっきりするかもだし!」
「……まぁ、それはそうかもね」
渡辺さんの言うとおり、ここで悩んでいても仕方がないのは確かだ。
作曲やダンスにしても、身体が覚えていて思いの外上手くいく可能性だって無いわけじゃない。
もしそうなれば、今の私の悩みの大部分はひとまず解決する。
うん。そう考えると少しは落ち着いてきた。
高海さんにしろ渡辺さんにしろ、やっぱり浦女の女の子が一味違うのは確かかもしれない。だってこんなにネガティブな私を、少し話しただけでここまで前向きにさせるんだから。
「よし。それじゃ行こっか」
荷物を持って立ち上がり、笑顔で渡辺さんに声をかける。
そんな私につられてか、渡辺さんの笑顔もみるみるうちにより一層輝きを増していった。
うん、やっぱり子犬みたいで可愛いなこの子。無性に頭を撫でたくなる。
「うん! 全速前進、ヨーソロー!」
「曜ちゃん、ちょっとその決め台詞乱用し過ぎだと思う……」
「えっ……そ、そうかな?」
私のちょっとした仕返しに本気で頭を抱える渡辺さん。
その純粋さが微笑ましくて、思わずくすりと笑ってしまった。
と、そこでふと高海さんの姿が見当たらないことに気付く。
「そういえば千歌ちゃんは?」
不思議に思って渡辺さんに聞いてみると、その瞬間分かりやすく表情が固くなった。
「あ、あ〜千歌ちゃんね。えっと……何か用があるとかで先に部室行ってるって!」
あからさまに怪しい渡辺さんの様子に首を傾げる。
何か他人に知られたくない隠し事でもあるのだろうか。二人は幼馴染なのだし、そういうことの一つや二つあってもおかしくはないけれど、何だか少しだけ寂しい気持ちになってしまう。
「そっか。それじゃしょうがないね」
そんな気持ちが少し表に出てしまったのかもしれない。口から出た言葉は、それを仄めかすようなニュアンスを含めたものになってしまった。
「……梨子ちゃん?」
「ごめんね。それじゃ行こっか」
本当にどうかしてると思う。まだ半日程度一緒に過ごしただけなのに、もうここまで心を許してしまうなんて。
単純すぎる自分に呆れると同時に、それだけ彼女達と一緒に過ごす時間を心地良いと感じていたことに気付く。
「待って、梨子ちゃん」
「え?」
とん、と背中に感じる衝撃。直後に背後から両肩に手を置かれる。
視界に映りはしないけれど、それが渡辺さんのものだということは何となくわかった。
「……よ、曜ちゃん?」
「ちょっと待って。今、伝えたいこと整理してるから……」
聞こえる声の距離感から、さっき背中に感じた衝撃は渡辺さんの頭だということは理解できた。どうやら今、額を私の背中に当てたまま話しているらしい。
その距離感に少しどきりとする。何だかよくわからないけど、胸の奥がくすぐったくて心拍数も上がってきた。
そんな私の心境などお構い無しに、渡辺さんは言葉を続ける。
「……あ、あのね。上手くは言えないんだけど……私、梨子ちゃんには凄く感謝してて。千歌ちゃんには絶対に言えないような悩み聞いてくれて……八つ当たりみたいなこと言ったのに、励ましてくれて」
渡辺さんが言っているのは、恐らくラブライブ予備予選前のことだろう。
確かあの時、渡辺さんは高海さんとの関係性に疎外感を感じ、少し弱気になっていたはずだった。
『私』の記憶の中でも、あの時に渡辺さんと話した内容は鮮明に覚えている。
「だからね、梨子ちゃん。もし、千歌ちゃんに言えないような悩みがあったら……私に話して。千歌ちゃんに比べたら頼りないかもしれないけど……でも私…が、頑張るから!」
「……曜ちゃん」
少し言い淀んではいるものの、一生懸命な気持ちが真っ直ぐに伝わってくる言葉だった。
拙くても、伝わる。その想いは、今の私には痛いくらい心に染みる。
本当に、沼津の女の子は一味違うな。
優しくて、温かくて、可愛くて、ズルい。
「……えっへへ、私からは以上であります。ごめんね、引き止めて」
「ううん。ありがとう、曜ちゃん」
そう言って前に回り込んできた渡辺さんの顔は、余程照れ臭かったのか真っ赤に染まっていた。
そんな所も、やっぱり可愛いなと思う。
多分これから先、 一緒に過ごす時間が増えれば増えるほど、Aqoursのメンバーやここで暮らす人達のことを好きになっていくだろう。
だからこそ、私はこの人達の期待を裏切るようなことはしたくない。
この人達が悲しむ姿を、見たくない。
(私が……私が頑張れば良いんだ。私が頑張って、『桜内梨子』を完璧に演じきれば良い)
弱音なんて吐いていられない。弱気になんてなってる場合じゃない。
優しくて、温かくて、可愛くて、ズルい、この人達の希望の光を、こんな私のせいで失わせるわけにはいかない。
「行こう、曜ちゃん。千歌ちゃん達が待ってる」
「うん!」
大丈夫。私だって『桜内梨子』だ。それなら『桜内梨子』を演じきれない道理はない。
浮かんだ焦燥や不安を強引に胸の内側に仕舞い、覚悟を決めて歩き出す。
そうして踏み出した足が震えているのを、私は現実から目を逸らすかのように、必死に見て見ぬふりをした。
◆
どんな気持ちなんだろう……と思った。
確かに覚えているのに、それが自分のものではないように感じてしまうなんて、当たり前だけど私は経験したことがない。
試しに想像してみた。生まれてからこれまでの思い出が実は他人のものだったらと考えて、その時の気持ちを想像してみた。
けど、駄目だった。想像できなかったんじゃない、想像したくなかった。
だってそれは私にとって命にも代えられないくらい大切なもので、それが無くなったら私はもう私では無くなってしまうから。
つまり、あの子もきっと同じ気持ちなんだろう。自分が誰だかわからなくて、痛くて、辛くて、寂しいんだろう。
それなら、やっぱり何とかしてあげなくちゃと思った。
正直まだ不安は残ってる。実際会って話したとき拒絶されたら、私はきっと立ち直れないだろう。
それでも、逃げちゃ駄目だと思った。
だって私は託されたから。あの子のことを、世界中の誰よりも大切に想っている人に。
何より、きっと今頃部屋で一人で泣いているあの子に伝えたい。
貴女は一人じゃない。私が、私達がいるって。
その為に今の私に出来ることを考える。考えて考えて、考え尽くす。
きっと、今夜は眠れない。けど、それで良いと思った。
一人ぼっちで泣いてるあの子の側にいてあげることは出来ないけど、同じ夜を明かすことは出来る。その間、私は誰よりもあの子のことを考えよう。
こんなの自己満足でしかないけれど、そうしたいと思った。
ふと窓を開けて、カーテンに閉ざされたあの子の部屋を見てみる。
どれだけ待っても、そこが開く気配は無かった。この先、そこがもう二度と開かない可能性のことを考えると、胸が張り裂けそうになる。
おもむろに視線を上げて、夜の空を見上げてみた。当たり前だけど、昨日までと何も変わらない空が広がっている。
その夜空がまるで何でも知っているかのように思えて、何も知らない自分が無性に情けなくなって、少しだけ泣きたくなった。
◆
渡辺さんと一緒に教室を出た後、今日の授業の感想や他校の有名なスクールアイドルの話題などで無難な会話を交わしつつ、特に何のトラブルも無いまま部室までたどり着いた。
部室のドアに手をかけ、それを開くのに一瞬だけ躊躇する。
ここを開けば、私はAqoursの『桜内梨子』だ。もう後戻りは出来ない。
(……大丈夫。ダンスも歌もちゃんと覚えてる。きっと出来るはず)
性懲りもなく弱気になりかけた心にそう言い聞かせ、思いきってドアを開けた。
「こんにちは!」
「こんちわ! 遅れてごめんねー!」
無難な挨拶と共に部室に入る。少し堅いような気もしたけれど、幸い一緒に入った渡辺さんの挨拶が軽めのものだったお陰で良い具合に中和されたと思う。
「あっ……り、梨子ちゃんに曜ちゃん! 待ってたよ!」
私達の入室にいち早く気付いた高海さんが挨拶を返してくれた。
が、その様子が少しおかしい。
(……何か、慌ててる?)
一瞬だけだったけれど、高海さんの表情から動揺のようなものが見えた気がする。
何かあったのだろうか。そう思って見渡してみると、どうやら私と渡辺さん以外のメンバーは全員揃っていたようで、皆一様に何とも言えない難しい表情をしていた。
「えっと……な、何かあったの?」
一番近くにいた高海さんに率直に聞いてみる。
その瞬間、わかりやすくどきりとした表情で固まった。
「あっ……いや〜……え〜っと……な、なんと言いますか、その〜……」
今朝の格好良かった姿はどこへやら、わざとやっているのでは? と疑いたくなるレベルで怪しい挙動の高海さん。
本当に何があったんだろう?
そう首をかしげていると、高海さんのすぐ側にいた松浦先輩が呆れた様子でため息を吐き、おもむろに右手を振りかざすと、無防備な高海さんの後頭部に軽めのチョップをくらわせた。
アダッ!? と突然の不意打ちに少し大袈裟なリアクションで驚き、松浦さんに不服そうな視線を向ける高海さん。
松浦さんはその視線を涼しい表情で掻い潜り、軽やかな足取りで私の前へと躍り出た。
「ごめん、気にしないで梨子ちゃん。千歌のいつもの無茶振りに全員で反対してただけだから」
「へ? ど、どういうことですか?」
何やら雲行きが怪しくなってきた。記憶にある高海さんの無茶振りは、確かにろくなものが無い。
「ん〜……簡潔に説明すると、今度のAqoursのPVは全員水着で踊ろう! みたいな?」
「ーーーんなっ!?」
衝撃の提案に頭が真っ白になる。
水着? 私達が? 一体どうして?
「ラブライブの本選に向けてもっと注目度を上げる為、ってことらしいけど……流石にね〜。私は別に構わないんだけど、他の子達は抵抗あるだろうし……特に梨子ちゃんなんかはーー」
「無理ですっ!!」
言い終わる前に食い気味で答える。
普通に歌って踊るだけでも今の私にはハードル高いのに、それに加えて水着だなんて……駄目だ、想像しただけで恥ずかしくて死んでしまいそう。
そんな私の反応が想定内だったのか、だよね〜、と苦笑いを浮かべる松浦先輩。
「ま、そういうわけでこの話はおしまい。千歌も梨子ちゃんもそれで良いよね?」
「え? あ、うん……」
「と、当然です!」
未だに釈然としない様子の高海さんを見て危機感を覚えた私は、力強くそう返答した。
こういう時、高海さんに考える余地を与えてはいけない。その危険性は、身に染みてはいないけれど、記憶に染み付いてはっきりと覚えている。
「それでは、練習を始めましょう! 全員着替えて屋上に集合しますわよ!」
話の決着が着いたと判断したのか 、黒澤先輩が手を叩いて練習開始の指示を出す。
良かった。あのまま高海さんに押し切られていたら本当に色んな意味で終わってしまうところだった。
それでも、良かれと思って提案したはずの高海さんには、やっぱり少しだけ申し訳ない気がした。
多分今朝みたいに頬を膨らませて不貞腐れたような表情をしているんだろうな、と想像して、横目で彼女の表情を窺ってみる。
「ーーーー?」
私の予想は外れていた。高海さんの表情は、私が想像していたのよりも遥かに真剣だった。
真剣に、何かに迷っていた。多分、先程自分の提案を却下されたのとは、別の理由で。
これは『私』の記憶の中にも無い表情だ。
(何があったんだろう……)
何に対しても前向きで明るい彼女にこんな表情をさせるなんて、きっと余程のことなのだろう。
その原因を知ったところで、今の私では力になれないかもしれない。
(それでも……知りたい)
それをわかっていながら、私は自然とそう望んでいた。
高海さんの力になりたい。力になれなくても、せめてその悩みを共有して支えてあげたい。
自分のことだけで手一杯なくせにそんなことを考えるのは不相応だと理解してる。
それでも、高海さんがあんな顔をするのは嫌だ。高海さんには、可能な限り笑顔でいてほしい。
(……頑張らなきゃ。私が『桜内梨子』として側にいれば、きっといつか相談してくれるはず)
その時がきたら、高海さんが望む『桜内梨子』として、精一杯力になろう。
不思議なもので、そう思えば思うほど、弱気な自分からは考えられないくらい心が前向きになれた。
◆
ダンスにしろ歌にしろ、覚えて披露するだけでは見ている人の心を動かすことは出来ない。
歌詞や曲に込められた想い。その振り付けで表現したい想い。それらをちゃんと理解し、その上で自分の本気の気持ちを乗せなければ、見ている人には伝わらないだろう。
自分が本気で楽しまなければ、誰かを楽しませることは出来ない。自分が本気で感動していなければ、誰かを感動させることは出来ない。
詰まるところ私が言いたいのは、どれだけ外観を取り繕っても、中身が伴わなければそれは張りぼてでしかないということだ。
そしてまさに今、自分自身がそれを痛感しているところだった。
Aqoursの練習が始まり、ウォーミングアップを終えるまでは問題無く無難にこなせていたと思う。
問題はその後、三人一組で行うダンスの確認の際に起こった。
振り付けを確認する楽曲は『未熟Dreamer』。Aqoursがこの九人となって初めて披露した曲で、その時のライブは『私』の記憶の中でも特に思い出深いものとなっている。
ダンスも歌詞もしっかり記憶に残ってる。だから、大丈夫だと思った。思ってしまった。一番大切なものが欠けていることに気付きもせずに。
やってみてすぐに、私が踊るダンスと、他のAqoursのメンバーが踊るダンスとでは、明確な違いがあることに気付いた。
それは恐らく、興味が無い人からすれば些細な違いなのだろうけれど、Aqoursを応援している人達からすれば致命的な違いに映るだろう。
その致命的な違いとは、至ってシンプルなものだった。
要は、想いの差だった。私と彼女達とでは、そこに決して埋められない致命的な違いがあった。
私は正直、記憶にあるダンスを再現するのに手一杯だ。そこに『誰かを楽しませたい』なんて想いを乗せる余裕は無い。
けれど、彼女達は違う。各々が抱えた想いを、伝えたい想いをダンスという形で表現している。
再現と表現。この二つは似てるようで決定的に違う。私のダンスは所詮借り物で、それを再現するだけでは彼女達のように輝くことは出来ない。
でも、それならどうしたらいいんだろうか。だって私にはそれしかない。私は『桜内梨子』という殻を被っただけの、何者でもない幻のような存在に過ぎないんだから。
「ッ……はぁ、はぁ、はぁ………ご、ごめんなさいっ」
腕の振りが遅れてしまい、それを気にするあまり足元が疎かになってしまった私は、ステップがもつれて動きが止まってしまった。
一緒に踊っていた津島さんと黒澤先輩に申し訳なくて、私は繰り返し何度も頭を下げる。
「わ、私は大丈夫だけど……それより、ちょっと休んだ方が良いんじゃない?」
「えぇ。調子が悪い時は誰にだってあります。善子さんの言う通り、あまり気にせず肩の力を抜きなさい、梨子さん」
「は、はい。すみません……」
津島さんと黒澤先輩の言葉に従い、一度大きく深呼吸をして肩の力を抜く。
それでも身体は依然として重く感じた。身体的な疲労だけが原因じゃないことはわかっている。わかっているからこそ、どうしたら良いのかわからなくて焦りばかりが募る。
「……なんでッ」
口から零れ出そうになった弱音を寸前で呑み込む。
ここで悟らせてはいけない。彼女達にとって、私のこの不調はあくまで『たまたま調子が悪いだけ』と思わせないと。
「大丈夫です。ダンスに関しては、貴女が自分で思っている程悪くありませんわ。そうでしょう、千歌さん」
私に気を遣ってか黒澤先輩がそう声をかけ、私たちのダンスをチェックしていた高海さんに同意を求める。
「……う、うん。大丈夫…だと思う」
高海さんはそう同意したものの、それが本心ではないことを表情が物語っていた。
「……千歌さんっ」
歯切れの悪い高海さんの返答に、黒澤先輩が咎めるような表情を浮かべる。
直後、同じく私達のダンスをチェックしていた松浦先輩が、高海さんの頭を軽く小突いた。
「あだっ」
「千歌わかりやすすぎ。全く……それだと逆に調子悪いって言ってるようなもんだよ?」
「あぅ……ご、ごめん梨子ちゃん! 私、そんなつもりはなくて……」
松浦先輩に注意され、慌てて弁明するようにそう声をかける高海さん。
「大丈夫。ごめんね、気を遣わせちゃって……」
これ以上高海さん達に心配をかけてはいけない。そう思って必死に笑顔を作る。
けど、自分でもわかる。今私が浮かべた笑顔は、きっとこれ以上無いくらいに痛々しい。
「……梨子さん、やはり少し休みましょう。そんな状態ではどれだけやっても良いパフォーマンスは出来ないでしょうし……」
私の側まで歩み寄り、先程よりも柔らかい表情で、優しく諭すようにそう言ってくれた黒澤先輩。
すると、高海さんもそれに続くように、より一層心配した様子で私の側まで駆け寄って来た。
「うん、その方が良いよ! 調子悪いのだって昨日の怪我のせいだろうし、無理しないで休も?」
私の肩に手を置き、休むよう促す高海さん。
確かに、二人の言う通りだ。このまま続けても、きっと自分が納得できるパフォーマンスは出来ない。
「……うん、わかった。それじゃお言葉に甘えてーー」
二人の言葉に甘えよう。そう言おうとしたその瞬間、違和感に気付いた。
今、高海さんが言った言葉を思い出す。
「ーーちょっと待って、千歌ちゃん」
「なに? 何かやってほしいことある?」
「ううん、そうじゃなくて……ちょっと聞きたいんだけど……」
首を傾げる高海さんの顔を真っ直ぐに見る。
私の聞き間違いであってほしい。そう願わざるを得ない。
だってそうでなければ、今までの私の行動や決意が全て無駄だったことになってしまう。
だから、お願い。嘘だと言って。
「……どうして、私が怪我したこと知ってるの?」