桜内梨子の消失   作:ぬらりひょん

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桜内梨子の消失②

私が梨子ちゃんの秘密を知ったのは、昨日のことだった。

その日の夕方頃、提出期限三日前になっても作詞が思うように進まず、助けを求めようと梨子ちゃんにメールを送った。けど、いつもならすぐ返信がくる時間帯なのに、どれだけ待っても返信はなかった。

もしかして怒らせてちゃったかも? そう思った私は慌ててLINEアプリを開き、言い訳混じりの謝罪のメッセージを送信した。

けど、それでも返信はなかった。それどころか、既読すら付かない。

言い表しようのない不安に駆られた私は、無意識に梨子ちゃんの電話番号を表示し、通話のアイコンをタッチしていた。

いつもの呼び出し音が、その時はやけに冷たく響いていたのを覚えてる。

結局、どれだけ待っても応答は無かった。時間をおいて何度もかけ直したけど、結果は同じだった。

不安と焦りがピークに達した私は、それを自覚する前にもう家を飛び出していた。

ただ早めに寝てるだけならそれで良い。とにかく、梨子ちゃんの無事な姿をこの目で確かめたかった。

こんな時、家が隣で本当に良かったと思う。そうじゃなければ、この言い表しようのない不安に苛まれてどうにかなってしまいそうだった。

特に何事も無く梨子ちゃんの家に着いた私は、不安を振り払うように備え付けのインターホンを鳴らし、扉が開かれるのを待った。

その間の時間はきっと数十秒にも満たないくらい短かったはずだけれど、その時はそれが何十分にも何時間にも渡る長い時間のように感じたのを覚えている。

そうして扉が開かれると、少しだけ安心した。これで少なくとも、梨子ちゃんの安否は確認できる。

出てきたのは梨子ちゃんのお母さんだった。事情を説明すると笑顔で迎え入れてくれたけど、その表情がどこか無理をしているように感じて私の心はまた不安を募らせた。

リビングに案内され、言われるがまま椅子に腰を掛けた。その間、何度も梨子ちゃんの安否を確認しようとしたけれど、家の中のどこか張り詰めた雰囲気がそれを許してくれなかった。

梨子ちゃんのお母さんが用意してくれたお茶を受け取り、それを一口飲んだ。すると、どうやら不安と焦りのせいでかなり喉が乾いていたらしく、その一口で大分落ち着くことができた。

そんな私の様子を見て、梨子ちゃんのお母さんは優しく微笑んだ。なんだかそれが恥ずかしくて、思わず視線を逸らしてしまう。

 

「……ありがとうね、千歌ちゃん。梨子のことで、千歌ちゃんには、本当に感謝してもしきれないくらいお世話になりっぱなしで……」

 

不意にそんな身に余るようなお礼を言われて驚いた。だって私にとって梨子ちゃんは最早掛け換えのない親友で、私の夢を叶えてくれた恩人で、その出会いは正に私が待ち望んでいた奇跡そのものだった。

だから、そんな私が梨子ちゃんの為に何かするのは当然で、それは今までもこれからも当たり前のように続いていくのだと思う。

だから私は、当然のことをしただけだし実際大したことはしていない、と答えようと梨子ちゃんのお母さんの方に顔を向けた。

その瞬間、息と一緒にその言葉も呑み込んでしまった。

梨子ちゃんのお母さんは泣いていた。

唇を震わせ辛そうに微笑みながら、涙を堪えようと必死に抗いながら、それでも我慢出来ずに泣いていた。

「ごめんなさい。駄目ね……こんな情けない姿見せたくなかったのに……」

 

「……何か…あったんですか?」

 

涙を拭いながら謝る梨子ちゃんのお母さんに、 私は恐る恐る訊ねた。

すると少し躊躇いながらも「千歌ちゃんになら……」と前置きして、梨子ちゃんの身に起きた事の顛末を話してくれた。

 

その日、二人は沼津でショッピングを楽しんでいた。特に梨子ちゃんは好きなピアニストのアルバムの発売日だったらしく、いつになく浮き足立っていたらしい。

そのせいで、いつもより少し注意が疎かになっていたのかもしれない。

とにかくその帰り道、梨子ちゃんは車との軽い接触事故に遭ってしまった。

怪我事態は本当に大したこと無く、外傷も殆ど無かったらしい。

ただ頭を強く打って一時的に意識を失っていたので、念のため救急車を呼んで病院に搬送してもらった。

病院に着いてすぐに精密検査を行い、異常がなかったので一般病棟に移された。

そうして数時間後、梨子ちゃんは目を覚ました。ただ、目を覚ました梨子ちゃんは、それまでの梨子ちゃんとは完全に別人だった。

脳に強い衝撃を受けたことによる記憶障害。その症状は、自分の記憶を自分のものだと認識出来ない、というもの。要するに、二重人格に近い症状だった。

「……最初は信じられなかったんだけどね。でも、話してみてわかっちゃった。あの娘ね、大丈夫、って言って笑うの。多分、私に心配させないように。けど違うの。私が聞きたいのは、そんな言葉じゃない……」

 

そこまで話すと、梨子ちゃんのお母さんの声がまた震え始めた。

 

「だって、大丈夫なはずないじゃないっ……自分が自分じゃないなんて感覚私はわからないけれど、それが普通じゃないことはわかる。だからせめて私には……母親の私の前だけでは弱音を吐いてほしいのに……あの娘は絶対にそれを良しとしないの。でも、じゃあ……あの娘が安心して泣ける場所はどこ? あの娘が、安心して自分をさらけ出せる場所はどこなの?」

 

思いの丈をさらけ出す梨子ちゃんのお母さん。その表情は、本当に辛そうだった。

私には、どんなに頑張ってもその気持ちはわからない。自分がお腹を痛めて産んだ子供が自分に対して他人行儀に接するというのは、きっと高校生の私には計り知れない辛さだ。

 

「私じゃなくても良いの……あの娘が少しでも楽になれるなら、誰だって良い。だからお願い、千歌ちゃん……」

 

そう言って、梨子ちゃんのお母さんは私の手を取った。まるで縋るように。

 

「お願いっ。あの娘が安心して泣ける場所を……どうか……」

 

その涙に濡れた瞳から、悔しさと悲しみがない交ぜになった瞳から、目が離せなかった。私の手を握る手が震えているのを感じて、どうにかしてあげたいと思った。

何より、きっと今一人で苦しんでいる梨子ちゃんが安心して泣ける場所に、私がなってあげたい。

そう思った瞬間、私はその手を握り返していた。

 

「私に……任せてください」

 

 

 

 

 

 

それから、梨子ちゃんの為に私が出来ることを一晩中考え続けた。

その結果、Aqoursを梨子ちゃんの居場所にするという結論に至った。

その為にはAqoursのみんなの協力が不可欠で、でもそうなると梨子ちゃんの事情をみんなに説明しなくてはならなくなる。つまり、梨子ちゃんが隠そうとしている秘密を、みんなに話さなくてはいけない。

私の勝手な判断でそんなことが許されるのか、悩まなかったと言えば嘘になる。

でもそれ以上に、私はAqoursのメンバーを信頼していた。みんななら、きっとどんな梨子ちゃんだって受け入れてくれると確信していた。

だから迷いを振り払い、まずは昼休みの内に曜ちゃんに事情を話して協力を持ち掛けた。

私の話を聞いた曜ちゃんはかなり驚いて、同じくらい戸惑っていたけれど、それでも梨子ちゃんの為ならと協力を約束してくれた。

そして放課後。曜ちゃんに頼んで梨子ちゃんを教室に引き留めてもらい、その間に事前に連絡を入れていた他のAqoursメンバーを部室に集め、曜ちゃんの時と同じように協力を持ち掛けた。

もちろん、みんな驚きながらも受け入れてくれた。やっぱり私は間違っていなかったと、その時は確信していた。

ただ一人だけ……果南ちゃんだけが、協力を約束してはくれたものの、私のやり方に納得していない様子だった。

 

「千歌のやり方が間違ってるとは言わないよ。私達は何があっても梨子ちゃんの味方だし、何かあったら絶対に力になる。……でもさ」

 

そう言って、果南ちゃんは真っ直ぐな瞳を私に向けてきた。

その瞳に戸惑い、身体と心が一瞬動かなくなったのを覚えている。

 

「千歌は……それでいいの?」

 

そしてその問い掛けに、何故か図星を突かれたような気がして、心臓が止まったような錯覚を覚えた。

 

「……ど、どういうこと?」

 

「なんか、千歌らしくないと思う。そのやり方」

 

私らしくない。そう言われて、ただでさえ動揺していた私の頭は完全に真っ白になった。

 

「だ、だってしょうがないじゃん! 事情が事情だし……今までみたいにはいかないよ!」

 

「どうして?」

 

「だ、だって……梨子ちゃんは記憶がっ……今までの梨子ちゃんとは違うんだよ!?」

 

私は間違ったことは言っていない。その筈なのに、何だか自分が言い訳しているように思えてきて、焦りは更に募った。

 

「それはわかってる。でも、それってそんなに重要なこと?」

 

「え? な、なに言ってるの果南ちゃん?」

 

果南ちゃんが何を言いたいのかがわからない。

そしてそれ以上に、私がどうしたいのか、私らしいやり方とは何なのか、それがわからなくなっていた。

 

「千歌はさ……誰かと友達になる時、その人のこと百パーセント理解してなきゃ友達になれないの?」

 

「……え?」

 

「その人が自分と一緒にいて楽しいかとか、自分と一緒にいて辛くないかとか……そういうこと、全部わかってないと友達になれないの?」

 

「それ……は……」

 

果南ちゃんの言葉が、鋭く私の胸に深く突き刺さった気がした。

言葉が続かない。何を言えば良いのかわからない。

そんな私を見て言い過ぎたと思ったのか、果南ちゃんは小さく溜め息を吐いて、落ち着かせるように私の肩に優しく手を置いた。

 

「………多分気負い過ぎなんだよ、千歌は。確かに梨子ちゃんの問題はデリケートで難しいことかもしれないけど、それと私達が今の梨子ちゃんにしてあげたいことって、あまり関係ないと思う」

 

頭はまだ混乱している。果南ちゃんの言葉の意味を理解しようとすればする程、余計わからなくなってぐちゃぐちゃになる。

 

「要はさ……出来るかどうかじゃなくて、やりたいかどうかなんじゃない?」

 

だけど……。

 

「千歌が……本当にやりたいことは何?」

 

その言葉だけは、何故か自然と頭に入ってきた。

 

 

 

 

 

 

「……どうして、私が怪我したこと知ってるの?」

 

梨子ちゃんからのその問い掛けに、私は頭が真っ白になる。同時に、ようやく自分の間違いに気付いた。

なんて馬鹿馬鹿しい間違いをしてしまったんだろう。梨子ちゃんからしてみれば、昨日の事故のことも含めて何も知らない筈の私が、自分の怪我のことを知っているのは明らかにおかしい。

どうやら私はそんな簡単なことにも気付けないほど、さっき果南ちゃんに言われたことを引き摺っていたみたいだ。

 

「ねぇ、千歌ちゃん……どうして?」

 

何も答えられない私に、梨子ちゃんはもう一度問いかける。

まるで何かを願うような、祈るようなその問い掛けは、停止し掛けた私の思考を強引に目覚めさせた。

 

「……それはっ……その……」

 

だが、目が覚めたところで何も変わらない。

私はこんな時咄嗟に上手い嘘を吐けるほど器用な人間ではないし、何より言葉にはしていないけれど、梨子ちゃんの表情を見ればわかる。

 

「お願い……答えて千歌ちゃん」

 

彼女は、確信してしまった。

私達が、自分の秘密を全て知っていることを。

私が、確信させてしまった。

 

「……私は……」

 

この期に及んで何の言葉も思い浮かばない自分に腹が立つ。

自惚れて調子に乗っていた昨日の私を、思いっきりひっぱたいてやりたい。

何が「私に任せてください」だ。そんな大それたことを言っておいて、選んだ選択肢はただの他人頼りじゃないか。

そしてそれさえも、自分の迂闊すぎる一言で台無しにしてしまった。

 

「……………そっか。そうなんだ」

 

言い訳すら浮かばない私を見つめたいた梨子ちゃんが、ふと諦めたような口調でそう呟いた。

そして、震える唇で確信に触れる。

 

「知ってたんだね。最初から、全部」

 

もう、本当に何もかも手遅れだった。

私は、躊躇いながらもそれに頷いて答える。

すると固唾を飲んで私達の様子を見守っていた曜ちゃんが、私を庇うように間に入ってきた。

 

「待って梨子ちゃん! 千歌ちゃんは梨子ちゃんの為にっーー」

 

「大丈夫。わかってるよ渡辺さん」

 

「ッッ!? 梨子…ちゃん?」

 

私を庇おうとした曜ちゃんを、梨子ちゃんは言葉で制した。名前ではなく名字で呼ぶことで、自分が私達が知っている『桜内梨子』ではないことを敢えて強調しているように思えた。

 

「全部、私の為だったんだよね。朝迎えに来てくれたのも、バスを待ってる間元気付けてくれたのも……最初から、全部知っていたから。私バカだなぁ……そうとは知らず、一生懸命取り繕って、必死に『桜内梨子』を演じて……そんな意味のないことを今まで続けてたなんて」

 

そう言っておかしそうに笑う梨子ちゃん。

その今にも壊れてしまいそうな程脆い笑顔を見るのが怖くなった私は、思わず目を逸らしてしまった。

 

「……結局私は……ただの幻だったってことか」

 

そう言うと梨子ちゃんは、私の側を通り抜けて扉へと歩き出した。

このまま行かせては駄目だ。そう思うのに、どうやって引き止めれば良いのかわからない。

 

「待って梨子ちゃん!」

 

「何処へ行くのですか!?」

 

扉へと向かう梨子ちゃんの前に、果南ちゃんとダイヤさんが立ち塞がった。

 

「……わかりません。けど、ここには居られないのは確かです」

 

「どうして!?」

 

「だって……Aqoursに私の居場所はありませんから」

 

「ーーーッ」

 

梨子ちゃんの言葉が私の心に突き刺さる。

その言葉は、私が一番聞きたく無かった言葉だった。

 

「ま……待って……待って梨子ちゃん!」

 

堪らず、私は駆け出した。二人を押し退け、梨子ちゃんの前に立ち塞がって、その手を離すまいと握りしめた。

 

「梨子ちゃんはここにいて良いんだよ! だって……今までずっと一緒にやってきたじゃん! なのに、なんでそんなっ……なんでそんな悲しいこと言うの!? 私、嫌だよ! 梨子ちゃんと一緒じゃなきゃ嫌だ!この九人じゃなきゃ嫌なんだよっ!!」

 

我が儘を言って泣き喚く子供みたいだ。実際、涙も出ていたかもしれない。

それでも、何とかして梨子ちゃんを引き止めたかった。これからも、一緒にAqoursを続けてほしかった。

そんな私に応えるように、梨子ちゃんは微笑みかけてくれた。釣られて、私の頬も緩んだ。

良かった、これで梨子ちゃんは何処にもいかない。今まで通り、一緒にラブライブを目指してスクールアイドルを続けてくれる。そう、思っていた。

 

「ありがとう。本当に大好きなんだね、Aqoursが」

 

「うん! だからーー」

 

「だからこそ、私はここには居られない」

 

そう言って、梨子ちゃんは優しく私の手を振り払った。

 

「だって……私は『梨子ちゃん』じゃないから。貴女と一緒にスクールアイドルをやっていたのは『梨子ちゃん』であって、私ではないの。だから、私はここにいちゃいけない」

 

そう告げて、梨子ちゃんはまた私の横を通り過ぎていく。

その言葉を否定することは出来なかった。だって、さっきの私の言葉は間違いなく『梨子ちゃん』に向けての言葉だったから。

私は無意識の内に、目の前の梨子ちゃんから目を逸らしてしまっていた。

それを自覚した瞬間、全身から力が抜けてしまった。取り返しのつかないことをしてしまったことに、今更気付いてしまった。

「……でもね」

 

ふと、その言葉と共に足音が止まった。

梨子ちゃんが振り返った気配がして、同時に私も振り返る。

 

「……今日一日、貴女が私の為に頑張ってくれたことは、本当に嬉しかったよ。こんな子が友達だったら幸せだなって、ちょっと『梨子ちゃん』に嫉妬しちゃった」

 

梨子ちゃんの言葉は、どうしようもない私を励ましているようだった。

貴女は悪くない。そう言ってくれてるような気がして、その優しさが余計に私の胸を締め付けて、その痛みで自然とまた涙が零れた。

 

「だから、ありがとう。それと……泣かせてごめんね」

 

そう言って梨子ちゃんは、今にも泣き出しそうな表情で私の涙を拭ってくれた。

私は咄嗟にその手を掴もうとしたけれど、梨子ちゃんはそれから逃げるように手を引き戻すと、躊躇い無く背を向けた。

そして、

 

「さようなら……高海さん」

 

濡れた瞳で悲しげに微笑むと、もう二度と振り返ること無く屋上を去っていった。

扉が閉まる音と同時に、両足から崩れ落ちる。

無力な私はそれを見届けることしか出来なかった。

 

 

 

 

 

 

それからどれくらいの時間が経ったのだろう。時間の感覚なんかとっくに狂っていて、もしかしたら何時間も経っているのかもしれない。

時間が解決してくれる、なんて言葉もあるくらいだから、無意識にそれを望んでいたのだろうか。もしそうだとしたら本当に救いようがない。ここにきて、未だに他力本願な自分に嫌気がさす。

結局私は、最後まで梨子ちゃんと向き合うことが出来なかった。理解して、受け入れてあげることが出来なかった。それどころか、私の心ない言葉で傷付けてしまった。

後を追いかけたいと思う気持ちはある。でも、例え追い付いたところで何て声をかければ良いんだろう。そもそも、私にその資格はあるんだろうか。

 

「もう……私じゃ……」

 

何も出来ない。そう諦め掛けた時、強い力で身体を強引に引っ張り上げられた。

「何やってるの千歌ちゃん!!」

 

「曜…ちゃん?」

 

「何で、梨子ちゃんを追いかけないのっ!?」

 

聞いたことの無い怒鳴り声に驚いて顔を上げると、そこには見たことが無い剣幕で怒る曜ちゃんの顔があった。

どうやら私は、曜ちゃんに胸ぐらを掴まれていたらしい。

 

「こんなところで泣いてる場合じゃないでしょ!? 早く梨子ちゃんを追い掛けないと!」

 

「で、でも……私にはもうそんな資格は……」

 

「資格とかそんなの関係ないっ! 大切なのは千歌ちゃんがどうしたいかでしょう!?」

 

曜ちゃんに怒られるのなんて初めてかもしれない。だからだろうか。他の誰に怒られるよりも、今の曜ちゃんの言葉は私の心に強く響いた。

 

「千歌ちゃん、私に言ったよね? 梨子ちゃんが一人で泣かないようにしてあげたい……私達の前で、ちゃんと泣けるようにしてあげたいって! けど梨子ちゃんさっき泣かなかった! 私達に心配させないようにって、最後まで自分のことよりも私達のこと考えて……一番泣きたいのは、きっと梨子ちゃんなのにっ」

 

さっきの梨子ちゃんの様子を思い出したのか、曜ちゃんの声は少し涙混じりだった。

そういえば、曜ちゃんに梨子ちゃんのことで協力をお願いした時、いつにもましてやる気になっていた気がする。

もしかしたら、私が知らないところで、私が思っている以上に、二人の絆は強く結び付いていたのかもしれない。

 

「千歌ちゃんはそれで良いの!? このままだと梨子ちゃん、また一人きりで泣いちゃうよ!? 千歌ちゃんは、それが嫌だから頑張ってたんじゃないの!?」

 

「それはっ……そう、だけど……」

 

「じゃあここでやめちゃ駄目だよ! 梨子ちゃんに一人で泣いてほしくないって今でも思ってるなら、ここで諦めたら駄目だよ!! そんなの、全然千歌ちゃんらしくないっ!!」

 

いつものように確認するのではなく、やめちゃ駄目だとはっきり言い切る曜ちゃん。いつもと違うからこそ、いつも以上に本気の想いがダイレクトに伝わってくる。

 

「曜、ちょっと落ち着きなさい。ちかっち苦しそうだよ?」

 

「ッ…鞠莉ちゃん……」

 

私達の側まで歩み寄っていた鞠莉ちゃんが、そっと曜ちゃんの肩に手を置いて冷静な声で嗜めた。

その声に熱くなっていた曜ちゃんも我に帰ったようで、慌てて私の服から手を離してくれた。

曜ちゃんに掴まれていた場所が熱い。まるで、曜ちゃんの想いが熱になってそこに残っているみたいだ。

それを確かめたくなって、上着越しにそっと触れてみる。

 

「ごめんっ、千歌ちゃん! 苦しかったよね?」

 

「ううん、大丈夫。私こそ…ごめん」

 

胸に手を当てた私を見て勘違いしたのか、曜ちゃんが慌てた様子で頭を下げた。

それに私は、首を横に振って答える。

苦しかったのは事実だ。けど、それは物理的なものじゃない。曜ちゃんの真っ直ぐな言葉が、弱りきっていた私の心に響いただけだ。

そんな私の様子を、鞠莉ちゃんは優しい眼差しで見つめていた。

 

「ちかっち……まだ本当に伝えたいこと、梨子に伝えられてないでしょう? 」

 

「………うん」

 

まるで小さい子供に言い聞かせるような口調で、鞠莉ちゃんにそう訊ねられた。

それがなんだか少し恥ずかしくて、私は俯いて視線を逸らしながら小さく頷く。

 

「んう!?」

 

突然、両側の頬っぺたを手で挟まれた。同時に、強引に顔を持ち上げられる。

そこには、相変わらず優しい表情で、それでも眼差しだけは真っ直ぐで真剣な鞠莉ちゃんの顔があった。

 

「それなら……ここで全力で走らなきゃ、きっと後悔する。それで強引にでも話を聞いてもらいなさい。その方がずっとちかっちらしいよ」

 

「鞠莉ちゃん……でも、私……」

 

「No problem.! 大丈夫です! だって、ちなっちなら出来るって、ここにいる皆が確信してるもの」

 

私の頬っぺたから手を離してそのまま腰に当てると、何故か自信満々な表情でそう宣言する鞠莉ちゃん。

その後ろから、今度は果南ちゃんが顔を出したかと思うと、少し申し訳なさそうな笑顔で私と向き合った。

 

「ごめん、千歌。きっと部室で私に言われたこと、気にしてたんだよね」

 

果南ちゃんの言葉に、私は素直に頷く。確かに、部室で果南ちゃんに言われた言葉を引き摺っていたのは事実だったから。

でも、きっとあの時果南ちゃんが何も言わなかったとしても、遅かれ早かれ似たような結果になっていたとも思う。

多分、果南ちゃんもそれを察していたんだろう。それを証明するかのように、鞠莉ちゃんに似た真っ直ぐで揺るぎ無い瞳でこう続けた。

 

「でもさ……私は後悔してないよ。だってやっぱり、あのやり方は千歌らしくない。それはあの日、千歌に救われた私達だから、自信を持って言える」

 

「……果南ちゃん」

 

果南ちゃんの言葉で、ふとあの時のことを思い出した。それは、休学を終えて、果南ちゃんが久しぶりに登校したあの日。

スクールアイドルを辞めたことに関して、らしくないと問い詰める私と、頑なに真実を明かさなかった果南ちゃん。

その時と立場が逆転していて、それがなんだかおかしくて、自然と笑みが零れる。

 

「確かに、果南さんの言う通りですわね!」

 

「わっ!? ダ、ダイヤさん!?」

 

いつの間に近付いていたのか、私と果南ちゃんの間に割って入るダイヤさん。

その表情は……なんというか……凄く、怒っていらっしゃるのは一目見てわかりました。

 

「規定の人数を満たしていない部活動申請書を何度も提出するわ、μ'sの名前を間違えるわ……貴女という人は本当に無知で強引で向こう見ずで幼稚で……」

 

「ぁう……す、すみません」

 

ここぞとばかりに、今まで貯まっていた私への鬱憤を晴らす様子のダイヤさん。

その一つ一つが身に覚えのあることばかりで、私はただ頭を下げるしかなかった。

今考えると、本当に反省するべきことばかりが思い浮かぶ。

次はどんなお叱りを受けるのだろうか。そう、身構えていると、

 

「けど……そんな貴女だからこそ、私達は着いていこうと思ったのです」

 

「………えっ?」

 

そんな予想外の言葉が耳に入ってきて、私は思わず顔を上げてしまった。

 

「何もわからないからこそ、何も恐れない。どんなことが起こるのかわからないからこそ、それを全力で楽しむ。それが、貴女の一番の取り柄でしょう?」

 

そう言いながら微笑むダイヤさんの表情はとても大人びていて、その瞳に見つめられるだけで、不思議と全身を優しく包み込まれているような気分だった。

 

「だから、最後までそれを貫き通しなさい。そうでなければ、私の知る高海千歌じゃありませんわ」

 

「……ダイヤさん」

 

力強い言葉で私を叱ってくれるダイヤさん。叱られているのに嬉しいと感じたのは、これが初めてかもしれない。

すると今度は、そんなダイヤさんの両隣から花丸ちゃんとルビィちゃんが顔を出した。

二人共どこか昔を懐かしむような顔をしていて、何となく嫌な予感がする。

 

「確かに、最初の頃千歌さん、まる達を見つける度に何度もしつこく勧誘してきたずら……」

 

「ルビィ、最初は本当に怖かったんですよ?」

 

「あぅ……ご、ごめんね」

 

嫌な予感的中だった。

うぅ、先輩だけじゃなくて、後輩にも迷惑かけてたんだなぁ私。本当に反省しなきゃ。

とほほ、と項垂れていると、二人は微笑み合いながら同時に一歩前に出て、輝くくらい眩しい笑顔を私に向ける。

 

「でも、今は本当に感謝してます。千歌さん達のステージを見て、ルビィいっぱい勇気を貰えたから」

 

「千歌さんに言われた言葉、今でも覚えてます。まる、あの言葉のおかげで一歩を踏み出せたから」

 

「……ルビィちゃん…花丸ちゃん……」

 

二人のその言葉と笑顔が、痛いくらい眩しかった。思わず、引っ込みかけていた涙がまた顔を出しそうになるくらいに。

その涙を流すまいと必死に堪えていると、ふと二人が横に視線を逸らした。

その視線の先を辿ってみると、そこには少し躊躇いながらゆっくりこちらに歩いてくる善子ちゃんの姿があった。

善子ちゃんはそのまま私の前で立ち止まると、照れ臭そうに頬を掻き視線を泳がせながらも、はっきり聞こえる声で話しはじめる。

 

「私も……沼津中しつこく追いかけられて正直参ったけど……でも、貴女が『そのままの私で良い』って言ってくれて………その、本当に嬉しかったわ」

 

そこまで言うと、泳がせていた視線を真っ直ぐ私に向ける。

顔はまだ赤いままだけれど、それでも私を見つめるその表情は、どこまでも優しかった。

 

「だから、今度はその言葉を梨子さんに言ってあげて。貴女の素直で真っ直ぐな言葉、きっと梨子さんに届くと思うから」

 

本当に嬉しかった。私のやってきたこと、その全てにちゃんと意味があったことを改めて実感できて、涙が堪えられなくなるくらい嬉しかった。

けど、ここで本当に泣いてしまうのは流石に格好悪い。だから、善子ちゃんには本当に申し訳ないけれど、ここは一つ先輩の名誉の為に協力してもらおう。

 

「……うん、ありがとねヨハネちゃん」

 

「だから善子よっ!! …………あれ?」

 

「おやおや〜? やっぱり善子が良いんだ!」

 

「ち、ちがっ! ーーもうっ! 雰囲気台無しじゃないのっ!!」

 

よし! 大分いつもの調子が戻ってきた!

流石善子ちゃん、頼りになる!

 

「アハハッ! 調子出てきたね、千歌!」

 

その様子を見ていた果南ちゃんに笑顔で声をかけられた。

その笑顔に負けないくらいの笑顔で、私も答える。

 

「うんっ! ありがとう、みんなのおかげだよ! こんなところで挫けちゃいられない! 私、まだ梨子ちゃんに何一つ伝えられてない!!」

 

そう言って、真っ直ぐみんなの方を向く。

もう迷わない。後悔も反省も後回しだ。

だって、あの日約束したんだ。これから起こるどんなことも……苦しいことも、辛いことも、その全部を楽しんで、みんなと進んで行くって。

 

「だから私行ってくる! そして、今度こそちゃんと伝えるんだ! 私がやりたいこと……私が、梨子ちゃんと一緒にやりたいことを!」

 

 

 

 

 

 

どれくらい走っただろうか。体力の限界が来るまで走り続けた私は、一度立ち止まって来た道を振り返ってみた。

呼吸を整えながら周囲を見渡す。まだそれほど遅い時間帯ではないはずなのに、人の気配はあまりしなかった。

そのことに安心した私は、少し休もうと防波堤に腰をおろした。正直かなり体力を消耗していたし、一度止まってしまうと、どうしてももう一度走ろうという気にはなれなかった。

 

「……はぁ、はぁ………はぁ」

 

呼吸と一緒に吐き出した溜め息が重い。先程まで暴れていた心臓はようやく落ち着きを取り戻したけど、胸の痛みは消えること無く未だに残っている。

その痛みを感じる度に、最後に見た高海さんの泣き顔を思い出す。

笑顔でいてほしいと思っていたはずなのに、結局私が泣かせてしまった。未だに胸が痛む理由の半分は、きっとそれだと思う。

だからと言って、あの時の高海さんの願いを聞くわけにもいかなかった。だって私は、高海さんが望む『桜内梨子』にはなれないから。

そんな私が側にいたところでなんの力にもなれないし、下手をすれば余計に高海さんが傷付いてしまう。

だって私がいる限り、高海さんが望む『桜内梨子』は戻って来ない。そうなると、きっと優しい高海さんのことだから、私と彼女の間で板挟みになってしまう。

私は、それが嫌だったんだ。だから逃げて来た。Aqoursから、高海さんから。

 

「……………いや……そうじゃない」

 

その呟きは、自然と私の口から漏れだした。自然と、その事実に気付いた。

そうだ。そんな綺麗な理由じゃない。私があの場所から逃げ出したのは、もっと単純な理由だ。

 

「そっか……怖かったんだ 」

 

そう、怖かった。

『桜内梨子』ではない私の存在を知って、Aqoursのみんながどう思うのか。それを確かめるのが怖かった。『桜内梨子』ではない私が拒絶される可能性を考えた瞬間、恐怖を覚えた。

だから、それを確かめる前に、まだ答えが曖昧な内に、もっともらしい理由で自分を正当化して逃げ出した。

 

「あはは……情けないなぁ……」

 

こんな気持ちになるくらいなら気付きたくなかった。せめて、私はAqoursを守るためにAqoursを去ったのだと、そう勘違いしたままでいたかった。

そうすれは、少なくともこんな惨めな想いをしなくても済んだはずだ。

 

(あ、まずい……泣きそう……)

 

我慢し続けていたツケが回ってきたのか、それとも一人になって気が緩んだのか、とにかく涙腺がその役割を放棄していた。

目蓋に力を入れてそれを食い止めようとしたものの、流石にもう限界だった。

 

「…………もう、我慢しなくていいよね」

 

そう呟くと、堰を切ったように涙が溢れ出してきた。

誰が見ているわけでもないのに、泣き顔を無防備に晒したくなくて、膝を抱えてそこに顔を埋める 。

肩の震えが抑えられないせいで、端から見ると泣いているのは一目瞭然だと思う。せめて声は出すまいと、唇を噛み締めて必死に堪えた。

居場所の無い私が泣いて良いのは、他に誰もいない時だけ。だから、声を上げて泣くわけにはいかない。

誰かに気付いてほしいなんて思っちゃいけない。誰かに甘えることに慣れてはいけない。そんなことをしたら、この先きっと孤独に耐えられなくなってしまう。

 

「……ッ………っく……ぅ」

 

おかしい。どうしてだろう。

わかってる。ここでそんな弱音を吐いたらいけないと。ここでそんな期待をしてはいけないと。

それなのに、抑えきれない。心の奥底に一度は封じ込めた欲望が、今更になって暴れだす。

ここから出してくれ、と。

 

「………嫌だ」

 

一人にしないでくれ、と。

 

「…………いやだよ」

 

一緒にいたい、と。

 

「…………千歌ちゃん」

 

貴女を、求めてしまう。

 

 

「ーーーー梨子ちゃんっ!!」

 

 

だから、その声が聞こえた瞬間、私はこれが本当に現実なのか疑ってしまった。その姿を見た瞬間、私の欲望が産み出した幻覚なんじゃないかと勘違いしそうになった。

 

「……高海……さん?」

 

けど、そこにいたのは間違いなく高海さんだった。

息は大きく乱れ、全身汗まみれで、途中転んだのか膝を擦りむいていて服も少し汚れている。多分、ここまで限界を越えた全力疾走で追い掛けて来たのだろう。

本当に、ズルいと思う。狙い済ましたかのようなタイミングで現れて、そんな一生懸命な姿を見せるだなんて、ズルいにも程がある。

こんなの、心を揺らすなという方が無理な話だ。

 

「ハァ、ハァ、ハァ……良かった。ッ……やっと…追い付いた」

 

息も絶え絶えと言った様子で、膝に手をついて呼吸を整えながら話す高海さん。

けどそんな状態でも、その強い意志を秘めた瞳は真っ直ぐに私を見つめていた。

最後に見た、触れただけで壊れてしまいそうな程脆い泣き顔は跡形もなく消え去っていて、今はむしろ爛々とした笑みを浮かべている。

 

「ーーーッ」

 

逃げるなら今しかない。高海さんの呼吸が落ち着く前に逃げ出さないと、きっとまた追い付かれる。

わかっているはずなのに、足が一歩も動かなかった。

 

「………どうして、追い掛けて来たの?」

 

涙をぬぐい、平静を装いながら私は訊ねる。震えないよう意識したせいで、普段より少し低いトーンの声になったかもしれない。

 

「……アッハハ……そうだよね。梨子ちゃんからしたら、今更どの面下げてって感じだよね」

 

私が怒っていると勘違いしたのか、申し訳なさそうに頬を掻きながら、高海さんは答える。

それでも、視線は外さない。変わらず真っ直ぐに私を見つめている。

 

「でも、ちゃんと聞いてほしい。まだ私の本当の気持ちを伝えてないから、今度は最後までちゃんと聞いてほしいの。その為に、ここまで追い掛けて来たんだ」

 

しっかり息を整え、真っ直ぐに堂々とした態度で立ち、満開の笑顔でそう答える高海さん。

その姿は間違いなく私が憧れた高海さんの姿で、その眩しさがまた私の心を揺らす。

 

「………高海さんの気持ちは、言葉にしなくてもちゃんと伝わってる。でも言ったでしょ? 私はその気持ちに答えることは出来ないって……」

 

だから私は、その眩しさにもう二度と視界を奪われないように、強く自分に言い聞かせる。

自分は『桜内梨子』という人間の中に生まれた、一時の幻に過ぎない。だから、私の居場所はどこにもない。

 

「私は……高海さんが知ってる『桜内梨子』にはーー」

 

「ーーわかってる!」

 

強い口調で私の言葉を遮る高海さん。

その声に驚き、思わず口をつぐんでしまう。

「……わかってる。私が悪かったんだよね。私がやろうとしてたことって、結局その場凌ぎで逃げてるだけだった」

 

そう言って、少し困ったように笑う高海さん。

ちがう! そんなことはない! 思わず否定の言葉が口から飛び出そうになり、咄嗟に呑み込んだ。

ここで私が高海さんの言葉を否定したところで何のメリットにもならない。むしろ、高海さんに諦めてもらおうと思うなら、ここは肯定するべきだ。

なのに、出来なかった。もう自分がどうしたいのか本当にわからなくなってきて、考えがちっともまとまらない。

 

「私、怖かったんだと思う。本当のことを知ったら、梨子ちゃんが私から離れて行っちゃうんじゃないかって。無意識にその可能性があることをわかってて……これからどうなるのかわからなくなって、考えれば考えるほど、怖くなった」

 

高海さんの言葉に黙って耳を傾ける。自分の考えはまとまらなくても、高海さんの気持ちは伝わってきた。

本当に怖かったんだろう。その証拠に、当時の気持ちを思い出しながら話している高海さんの身体は、少し震えていた。

 

「だから、梨子ちゃんが『梨子ちゃん』をちゃんと演じられるように、内緒で色々動いてた。そうすれば、梨子ちゃんは私達と一緒にいてくれるって思ったから。まぁ、それも私のうっかりのせいで台無しになっちゃったけど……」

 

あはは、と自嘲的に笑う高海さん。

それでも次の瞬間には一転して、どこか誇らしげな笑顔になる。

 

「それでね、みんなに言われたの。そんなの私らしくない、って。言われてみればそうなんだよね。確かに、あんな回りくどくて頭使うやり方、私には似合わない!」

 

迷いの無い真っ直ぐな瞳でそう言い切った高海さん。その瞳と言葉で察した。やっぱり、他のみんなが高海さんを励まし、もう一度立ち上がらせたんだ。

こうなった彼女は、きっともう折れない。瞳の中の光は、何があってもその輝きを失わないだろう。

そんな高海さんが、何の躊躇いもなくおもむろに私の両手を取った。

その手を振り払わなきゃいけないのに、それが出来ない。頭でわかっていても、身体が言うことを聞かない。

 

「最初からこうしてれば良かったんだ。考えても考えても答えが出ない時は、とりあえずやってみる! 今までだってそうやってきたんだもん!」

 

やめて、と心の中で叫ぶ。

 

「何より、私がそうしたいから」

 

そんな瞳で見つめないで。

 

「楽しいことも、悲しいことも、きっと色々あると思うけど……全部一緒に乗り越えて、前に進みたい!」

 

そんな声で語りかけないで。

 

「だから……桜内梨子ちゃん!」

 

私に……希望を与えないで。

 

「一緒に、スクールアイドルを始めませんか?」

 

私を……これ以上惑わせないで!

 

「……なんで? どうしてそんなこと言えるの?」

 

「え?」

 

「だって! 全部私のせいなんだよ!? 私さえいなければ……私さえ生まれなければこんな面倒なことにはならなかった! なのになんで、なんで高海さんは私に優しくするの!?」

 

堰を切ったように八つ当たりのような言葉が溢れ出し、止まらなくなった。

もう、形振りかまっていられなかった。優しく握ってくれていた高海さんの手を振り払い、折れそうになる心をなけなしの自制心で奮い起たせる。

早くも後悔が押し寄せ、身体が震え出す。それでも、ぎゅっと痛いくらいに拳を強く握りしめてそれらを誤魔化した。

 

「私と一緒にいたって何も良いことなんかない! お互い辛いだけだよ!」

 

ここで私が折れちゃ駄目だ。高海さんを傷付けてでも、高海さんを、Aqoursを守らなきゃいけない。

 

「私は千歌ちゃんの友達の『桜内梨子』じゃない! Aqoursの『桜内梨子』でもない! その殻を被っただけの、ただの空っぽな幻なの!」

 

情けない。今、自分が言い放った言葉で、自分自身が傷付いた。

でも、お陰で少し目が覚めた。やっぱり私はただの幻で、そんな私がAqoursにいて良いはずがない。

 

「なのに……なんで……」

 

こんな私が、輝けるはずがーーー。

 

「違うよ、梨子ちゃんは幻なんかじゃない」

 

耳許で優しく囁く声に思わず目を見張った。

気付いた時には抱きしめられていて、全身の震えも止まっていた。

 

「だってほら、こうして触れるし……」

 

言いながら、高海さんは私を安心させるように優しく髪を撫でる。

突然のことに驚いた私の身体はピクリとも動かない。けど、心臓の方はそれと反比例するかのように激しく鼓動を刻んでいた。

 

「心臓の音だって、ちゃんと感じる。……あははっ、梨子ちゃん凄いドキドキしてる」

 

「なっ!? だ、だってこんなのーーッ」

 

指摘されると急に恥ずかしくなり、一気に顔が熱くなった。

こんな時でもマイペースな高海さんの勢いに乗せられてしまいそうで、慌ててその腕を振りほどこうとする。

 

「もう! 高海さん、放して!」

 

「それは無理だなぁ。果南ちゃん直伝のハグだもん。梨子ちゃんが頷いてくれるまで話さないよ」

 

悪戯に成功した子供のような笑みを浮かべる高海さん。

どうやら本当にそのつもりらしく、私の背中に回されたその両腕はしっかりとホールドされているようだった。

それを察した私は、何だか抵抗するのも馬鹿らしくなってきて、全身から力を抜いてされるがままになる。

けど、諦めた訳ではない。最後の抵抗として、抱きしめ返すことだけは絶対にしない。

高海さんの気持ちは本当に嬉しい。けど、やっぱり駄目だ。

私は、高海さんの気持ちに応えられない。応えちゃいけない。

 

「……ねぇ、高海さん。私は、高海さんが思ってるような人間じゃないんだよ」

 

そう言いながら、私は高海さんの肩に手を置いた。

大丈夫。未だに心臓は落ち着いていないけれど、頭は冷静だ。

これから私は、自分の本性をさらけ出す。包み隠さず、その全てを。

さっきまでとは違う意味で心臓が暴れだした。まるで私を止めようとしているみたいだ。

それはそうだ。だって私の本性を知れば、いくら高海さんでも軽蔑するだろう。それは、私が何よりも一番恐れていたことだった。

でも、躊躇いはない。それで高海さんの、あの人達の笑顔を守れるなら。

 

「私はね、臆病で小心者で……凄く自己中心的なの。『桜内梨子』を演じようとしたのだって、Aqoursや学校の為だと自分に言い聞かせてたけど、本当は違う」

 

この位置では高海さんの顔は見えない。多分それが功を奏して、私は恐怖心を抑えられた。

向かい合っていたら、とてもじゃないけど心がもたなかっだろう。

 

「私も貴女と同じでただ怖かっただけなの。『桜内梨子』じゃない私を否定されるのが怖くて、そんな自己中心的な感情で必死になって、みんなが認める『桜内梨子』になろうとした」

 

高海さんからの反応はない。

今どんな顔をして私の話を聞いているんだろう。それを想像しようとして、やめた。

そんなことをしたら、きっと言葉が出なくなってしまう。

 

「そんな私が……Aqoursにいて良いはずないよ。だってAqoursのみんなには、学校を救うっていう立派な目的がある。そこに私みたいな不純物が混ざったら、きっと台無しになっちゃう」

 

そうだ。きっと私の存在はAqoursの足枷になる。

私はそんなこと望まないし、他の誰も望んでなんかいないだろう。

 

「だからお願い高海さん。もう諦めて。私、Aqoursや高海さんの邪魔をしたくないの」

 

はっきりそう告げると、私は高海さんの肩に置いた手に力を込めて、その身体を突き放そうとした。

 

「……えっ?」

 

それなりに力を込めていたにも関わらず、高海さんはピクリとも動かなかった。心なしか、さっきよりも強い力で抱きしめられている気がする。

まさか抵抗されるとは思っていなかった私は困惑し、続く言葉が出てこない。

 

「そっか……そんな風に思ってたんだね」

 

ようやく口を開いた高海さんの声は、予想していたものとは大きく違った。

 

「でも梨子ちゃん、ちょっと勘違いしてる」

 

それは優しさの中に厳しさも感じられる、本当に私を想ってくれていることが心に直接伝わってくる、そんな言葉だった。

 

「梨子ちゃん、Aqoursが学校を救うために活動してるって言ってたけど……別に私達、それだけの為にスクールアイドルをしてるんじゃないんだよ? もちろん、それも大切な目標。だけど私達一人一人がスクールアイドルを始めたきっかけは、もっとシンプルで個人的なことばかりなんだよ」

 

そう言うと高海さんは自ら身体を離し、私と向き合って続けて言葉を紡ぐ。

 

「例えば私はね、とにかく普通なままで終わるのが嫌だったの。普通な自分や普通な毎日を変えたくて、もっと楽しいことや特別なこと……キラキラでドキドキするようなことをしたかった」

 

当時のことを思い出しているのか、その言葉通りキラキラと輝く表情で語る高海さん。

私とは対照的なその表情を見て、素直に羨ましいと思った。思ってしまった。

 

「だから始めたの、スクールアイドル。ほら、とっても個人的な理由でしょ?」

 

私と同じ、個人的な理由。でも、私とは明らかに違う。

どうすればこの人と同じになれるんだろう。私はどうすれば良かったんだろう。

それを考えはじめたら、もう止まらなくなった。

 

「他の子達も同じだよ。みんな誰だって最初は凄く個人的な理由で始めて、それから大きな目的ができるの。だから良いんだよ。個人的だろうと自己中心的だろうと……やりたいって思ったら、それだけでやって良いの」

 

だから、その言葉は私が求めていた答えのような気がして……。

 

「ねぇ、梨子ちゃん。本当の気持ち、聞かせて」

 

それを認めた瞬間、心が、身体が、軽くなった。

 

「梨子ちゃんは、記憶の中の私達を見てどう思った?」

 

このまま、まだ知らない何処か遠い目的地まで飛んでいきたい。

そんな想いが溢れ出して、止まらなくなった。

 

「………輝いてた」

 

認めてしまえば、思っていたよりも簡単に、その想いは素直な私の気持ちとして言葉になった。

 

「………記憶の中の貴女達は、凄く楽しそうで、眩しいくらい輝いていて……」

 

同時に、今まで人前では決して流さないと我慢していた涙が、何の抵抗も無く次々に溢れ出してきた。

 

「……その輝きに、憧れた!」

 

私が望んでいたもの。私がやりたかったこと。それは、こんなにも単純なことだったんだ。

 

「本当は……本当は私もっ…一緒にやりたい! 自分の記憶のこととか全部放り出して、ただやりたいからって理由で貴女達と一緒に歌えたらどんなに楽しいだろうって、何度もそんな想像をした!」

 

想いが、言葉が、その全部が声になる度に、それに比例してどんどん涙が零れた。

 

「でもっ……偽物の『桜内梨子』の私にそれは許されないと思って……貴女達の輝きが無くなるのが嫌で……何よりっ」

 

きっとみっともない顔をしているのだと思う。涙でぐちゃぐちゃになった顔を見られているのだと思うと、恥ずかしさが込み上げてくる。

 

「貴女達に拒絶されたらと思うと怖くてっ……逃げ出したっ!」

 

でも今はそれ以上に、この気持ちを全て吐き出したかった。

 

「でもっ……やっぱり寂しくて、諦めきれなくて……逃げ出したくせに、追いかけて来てくれるのを心のどこかで期待してたりして……そしてっ」

 

欲望も、願望も、後悔も、その全てを吐き出して、楽になりたかった。

 

「高海さんが来てくれて、やっぱり嬉しかった! 感情がぐちゃぐちゃになって、自分でも自分がわからなくなって……でもそれくらい嬉しかったの!」

 

そうすればもしかしたら、この人みたいに笑えるかもしれない。

この人みたいに、輝けるかもしれない。

そうなりたいと、心が望んでしまったから。

 

「……良かった。やっと素直になれたね」

 

全てを吐き出した私を、高海さんは再び優しく抱きしめてくれた。

それが嬉しくて、私の瞳からはまた涙が溢れ出す。

 

「だって……私踊れなかった! 貴女達みたいに輝けなかった! ちゃんと覚えてるのに、頑張って踊ったのに……全然駄目だった!」

 

「そりゃそうだよ。だって梨子ちゃん、全然楽しそうじゃなかったし……何よりアレじゃただの物真似ダンスだもん」

 

幼い子供に言い聞かせるように、私の頭を撫でながらそう語る高海さん。

そうしてまた向かい合うと、その真っ直ぐな瞳で私を見つめる。

今度は、逸らさない。逸らしたくない。逃げたくない。

高海さんの言葉を、ちゃんと正面から受け止めたいと思った。

 

「真似なんかじゃなくて、貴女にしか出来ない何かがきっとある。だから、それを一緒に探そうよ……」

 

その言葉と同時に、高海さんの背後から複数の足音が聞こえてきた。

高海さんはそれが何なのかわかっているようで、振り返ろうとはしない。

ただ誇らしげな笑みを浮かべ、ずっと私を見続けている。

 

「「私達と一緒に!」」

 

その言葉は、高海さんだけのものではなかった。

 

「……みんな」

 

高海さんの背後には、他のAqoursのメンバー八人全員が、高海さんと同じ笑顔を浮かべて立ち並んでいた。

その光景に、思わず目を見張る。高海さんと言い、どうしてこの人達はこうタイミング良く現れるんだろう。

本当に、やめてほしい。これ以上、私の緩みきった涙腺を刺激しないでほしい。

 

「ルビィ、歌もダンスもまだまだだけど……それでも梨子さんの力になれるなら、頑張ります!」

 

「運動が苦手で本ばかり読んでたまるにだって出来た。だから梨子さんにだって、きっと出来るずら」

 

「どんな理由であれ、リトルデーモンが困っているなら手を差し伸べるのが堕天使たるヨハネの役目。……だから、まぁ……た、頼ってくれても良いわよ」

 

「またみんなで一緒に潜りに行こうよ。きっと悩みなんて吹き飛ばすくらい、素敵な景色が見られるからさ」

 

「今まで梨子とはCommunicationが不足気味だったんデスよね〜。良い機会だし、改めて仲良くしましょ!」

 

「梨子さんはAqoursの中では数少ない良識人ですから、居なくなられては困ります。大体貴女以外の誰が、千歌さんの暴走を止られると言うのですか?」

 

泣き崩れる私に、それぞれが思い思いの言葉を送る。

みんな言ってることはバラバラで、でも心に秘めた想いが同じなのはちゃんと伝わってきて、何だかそれがとてもAqoursらしく思えて、涙腺と一緒に自然と頬も緩んだ。

 

「……梨子ちゃん」

 

「渡辺さん……」

 

みんなの後に続くように、渡辺さんが一歩前へ歩み出る。

屋上の時とは違い、彼女らしい明るく前向きな笑顔を浮かべている。

高海さんの笑顔が大空で燦々と輝く太陽だとしたら、渡辺さんの笑顔は

その太陽に照らされてキラキラと輝く広大な海だ。

高海さんが輝けば輝くほど、渡辺さんもそれに負けないくらいの輝きを放つ。

 

「私、ちゃんと貴女と友達になりたい。貴女の力になりたい。梨子ちゃんが今までの梨子ちゃんとは違うってわかっても……やっぱり、その気持ちは変わらなかったよ」

 

渡辺さんは眩しい笑顔でそう言うと、勢い良く私を指差し、器用にウィンクしてみせる。

 

「あの時はちゃんと伝えられなくてごめんね。これからはもう躊躇わない。私らしく全速前進で、梨子ちゃんにアタックしていくから!」

 

絶好調な渡辺さんの彼女らしい宣言に、思わずまた笑みが零れた。

本当に、この人達はズルい。こんな青臭いテンプレートな青春テレビドラマみたいなことされて、ときめくなという方が無理な話だ。

けどだからこそ、私はその姿に憧れたのだろう。

 

「それじゃ、もう一度聞かせて梨子ちゃん!」

 

勢い良く立ち上がった高海さんが、その勢いのまま私に尋ねる。

 

「私達と一緒に! スクールアイドル、始めませんか!」

 

そう言って手を差し伸べる高海さん。

その手を取りたいと思う。だけど、心の中の弱い自分が、本当にそれで良いのかと未だに問い続けている。

 

「……………いいの? こんな、私でも」

 

「うん、もちろん!」

 

「歌やダンスや作曲だって……上手く出来るかわからないよ?」

 

「やってみなきゃわからないよ! もし難しそうなら、その時はみんなで協力する!」

 

「私、前の私みたいに強くないし、しっかりもしてないから……きっとみんなに迷惑かけちゃうと思う」

 

「その時はまた今日みたいにお説教して、梨子ちゃんがちゃんと前へ進めるようにみんなで支える!」

 

「………それは……凄く、頼もしいね」

 

本当に、頼もしい。

この人達の前でなら、私は安心して泣くことが出来るかもしれない。

嬉しいことも、楽しいことも、悲しいことも、苦しいことも、自分の気持ちを全て素直にさらけ出して、一緒に前へ進めるかもしれない。

何より、今の私がそれを強く望んでいた。

 

「梨子ちゃん」

 

高海さんが、私の名前を呼んで再度手を差し伸べる。

不思議だ。今まではその名前で呼ばれる度に少しだけ萎縮していた心が、この瞬間からときめくように弾んでいるのがわかる。

 

「………千歌、ちゃん」

 

差し伸べられた手を取りながら、何となくそう呼び返すことが正解なような気がして、恥ずかしさを堪えながら貴女の名前を呼ぶ。

 

「ーーーッ! うん!」

 

あぁ、良かった。やっぱり間違ってなかった。貴女の嬉しそうな笑顔を見て、幸せな気持ちで一杯になる。

立ち上がって、改めてAqoursのみんなを見つめる。

最初はこの人達が怖かった。この人達に拒絶されるのが怖かった。けど心の奥底ではこの人達に憧れて、こうなりたいと願っていた。

けどもしかしたら、それは以外と簡単なことだったのかもしれない。今なら、素直にそう思える。

 

「みんな……こんな私だけど、良いかな?」

 

やっぱりどこか恐る恐るといった聞き方になってしまう私。

どうやら、この弱気な性格はどうしたって治らないみたいだ。

 

「一緒に、ラブライブを目指しても……良いかな?」

 

でもそれで良いんだ。だって、これが私だから。

その証拠にほら、

 

『もちろん!』

 

彼女達は、一瞬の間も無く笑顔でそう答えてくれた。

 

「………うん。ありがとう!」

 

未だに涙は止まらないけれど、それを無理に止めようとは思わない。

だって、待ちわびた春の訪れに歓喜した花々が一斉に咲き開くように、私の顔には最高の笑顔が弾けていたから。




ひとまずこれでシリアスな内容は一段落です。
次回以降は中休み的な意味を込めて糖分高めな内容でいきます!
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