とある科学の距離操作(オールレンジ):改訂版   作:スズメバチ(2代目)

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War Game ! -ⅴ

 

 

 

 

 

一方通行は第23学区唯一の駅で佇んでいた。

 

23学区は数ある学園都市の中でも異色の区だ、宇宙開発から飛行場等通常の学生からすればほとんど利用することのない区だが、そんな区に彼が赴いたのはもちろん暗部の仕事のため。

 

彼が目指すのは『地上アンテナ』、現在とある暗部組織からクラックを受けている衛星『ひこぼしⅡ号』に電波を送っているアンテナだ。

 

このままでは学園都市に向かってレーザー照射が行われるかもしれない、その最悪の事態を防ぐために彼は柄にもなく駆けまわっている。

 

電話の男から提示された情報やここまでのやり取り、第23学区の特徴から考えてみて車でアンテナの近場まで行くのは不可能だ、能力を使って走ったほうが断然早いだろう。

 

幸い人はまばらだ、まぁこんな区に来る人間はかなり限られているのだが一方通行にとっては好都合である。

 

駅のホームから地上に出ると、そこに広がるのは巨大な空港や軍用基地を思わせる施設ばかり。

 

とっとと片づけてしまおう、と彼は首元にある電極のスイッチに手を伸ばしアンテナの破壊へと向かおうとするも無防備な背後から声がかかる。

 

 

 

「おやおや、これはいけませんねぇ」

 

「ッ!?」

 

 

 

今まで全く感じなかった気配、死角から聞こえた男の声に咄嗟に反応する。

 

拳銃を抜きつつ振り返ったがそこには見覚えのある『スパイ少女』の顔があるだけだった。

 

その瞬間一方通行の脳がフル回転する、この女がいるということは、コイツらはおそらくメンバー……そして自分を襲おうとしている男は、女から送られてきたメンバーの内の一人だ。

 

一方通行は流れるような動作で首元の電極に再び手を伸ばす。

 

 

 

「それが貴方の弱点ですね」

 

 

 

その腕を掴まれる。

 

 

 

「ッ!?」

 

「どんな強い能力も、ソレを押さなければ発動出来ない……不憫ですねぇ」

 

 

 

力技で手を振りほどこうともがく前に、鉄パイプか何かで殴られた鈍い痛みが頭から伝わってくる。

 

だが、この瞬間一方通行は勝利への方程式をくみ上げ始める。

 

 

 

「はン……空間移動能力者か」

 

「僕のことを知っているんですか?」

 

「知るも何も、てめェらは『メンバー』なンだろ」

 

「……これは驚きました、貴方の組織に私達の組織の名前は知られても、構成員まで知らせているつもりは無かったのですが」

 

「じゃァこう考えるンだな、どォして俺がてめェの能力を知っていたのか」

 

「それは貴方を始末してから考えましょう、とりあえずアンテナの破壊を止めさせてもらいます」

 

 

 

一方通行は三度目の正直で首元に手を添えるがそれはフェイク、敵の意識が一瞬逸れる。

 

それだけではなく思い切り背後で自分の腕を絞め上げていた男の足を思い切り踏みつぶした。

 

勢いそのままで一方通行は男の腕を振りほどき、振り返ると銃弾を数発打ち込んだ。

 

ヒットした感触はあったが、やはりそこには誰も居ない……が、女のほうへ視線を投げると、足から血を流した男が女の脇に立っていた。

 

 

 

「不憫なのはお前のほォみてェだなァ、他人の背後にしか移動できねェ残念極まりない空間移動能力者さンよォ?」

 

「ッ……言ってくれますね、ですが貴方を仕留める算段はもうついているんです、諦めることですね」

 

「へェ……まさか、その隣の女が切り札かァ?」

 

「よく分かりましたね……。そうです、彼女が握っているスイッチ……何のスイッチだと思います?」

 

「さァな」

 

 

 

すると勝ち誇ったような表情を男は浮かべ、自慢げに語り始めた。

 

その女が、内通者であるということも知らずに。

 

 

 

「彼女が握っているのは私達メンバーの博士が作りだした貴方専用の兵器……一種のジャミング波を生み出す装置。落ちこぼれのクローン達の協力が無ければ貴方は立つこともままならない、それくらい知っているんですよ?」

 

「へェ……じゃあ何故てめェはそンな便利なもンを最初から使わなかったンだ」

 

「使うまでも無いと思ったからです、僕の能力を持ってすれば貴方など一瞬で粉砕出来ますからね」

 

「たかがレベル3程度が吠えてくれるじゃねェか」

 

「そのレベル3に殺される学園都市最強も滑稽ですね、覚悟はいいですか?」

 

 

 

男が拳銃を構えた、次の一手で必ず仕留められる自信があるのだろう、背後に回る能力も発動しない。

 

対して一方通行は余裕の笑みすら浮かべ始めている、それが気に食わなかったのか、或いはコンプレックスであるレベルについて言及されたのが癪に障ったのか、男は語気を荒らげて言い放つ。

 

その隣では無表情に少女が佇んでおり全てを理解した一方通行は男を挑発するような笑みを浮かべた。

 

「……押せ!」

 

カチッという音がその場に響き、銃声が轟き弾丸が放たれた。

 

だが、その弾丸は発射主の意思には沿わず、敵を殺す必殺の一撃には成りえなかった。

 

変わりに自らの腹部を撃ち抜く凶器となって襲いかかったのだ。

 

 

 

「がああああ!?」

 

 

 

何が起こったのか分からない、信じられないと言った表情で男が血を流してその場に倒れ込む。

 

一方通行は嘲りの目を向けながら、一歩ずつ男へと近づく。

 

 

 

「お前……そこの女に頼ったよォだが、それがそもそも間違いなンだよなァ?」

 

「……何を」

 

「その女は、俺達グループがメンバーに送り込ンだスパイなンだよ」

 

 

 

 

 

*

 

 

 

 

 

「そ、そんな馬鹿なことが……!?彼女は!」

 

 

 

自分の放った必殺の弾丸に逆に撃ち抜かれてしまった査楽は痛みを堪えきれず地面に倒れ込み必死に本能で体を守ろうと貫通箇所を抑えつける。

 

 

 

「てめェが信頼し切ってた女はお前が信頼している間に俺達に情報を送り続けた、要するにお前らは丸裸ってことだなァ」

 

 

 

周りは人の往来がない23学区ということもあり電車のホームから聞こえてくる音以外何も聞こえない程静まり返っている、そのせいで自分の呻き声と一方通行の氷のような言葉がその場に気持ち悪いくらい響き渡る。

 

 

 

「う、嘘だ……」

 

「だからてめェが空間移動能力者だということも分かったし、何故女が俺に何も言わなかったのかも理解出来た」

 

「ッ!?」

 

「てめェみてェなゴミクズに、俺が殺されることなンざあるわけねェと思っていたからさ」

 

 

 

彼女が、内通者。

 

信じられなかった。

 

一緒に訓練した彼女が、一緒に笑い合った彼女が、一緒に会話をして時間を共有してきた彼女が……スパイで、内通者で、メンバーを敵に売った……?

 

そんな荒唐無稽なことが信じられる訳がない、というよりもこの土壇場な状況においてそんなことを言われても理解が追いつかない。

 

 

 

「ど、どういうことなんだ!?本当なんですかそれは!?」

 

 

 

打ち抜かれた腹に思い切り力を入れて彼女に叫ぶも、少女はやはりいつも通り表情を変えなかった。

 

それどころか、その小さな可愛げのある口から聞きたくも無い言葉を吐き始める。

 

 

 

「本当です。私はグループのスパイ。貴方達の内部情報を定期的に一方通行へと送っていた、そして今回のこの博士から貰ったジャミング装置も、当然私が中身は破壊しました」

 

「そんな……ことが!?」

 

「私は一方通行と取引を行いました。貴方達の情報をグループに提供し、ある一定の量をこなせば自由にしてやると。私はその取引に乗ったんです」

 

 

 

二人のやり取りを見世物小屋を見るような目で見る一方通行、その顔を醜く歪め笑い続ける。

 

 

 

「はン……豚野郎、要するにてめェは女が自由を手にするための踏み台にしか過ぎなかったンだ。俺だってもし取引がなければこの女をぶち殺す理由は腐るほどあンだよ。そンな糞みたいな女に騙された挙句、利用されて今どンな気持ちだァ?」

 

 

 

信じたくない現実が査楽の目の前に迫り混乱を極める。

 

自分と一緒にシェルターで過ごしていた少女が、馬場の秘書をしていた少女が、オールレンジと一緒に訓練していた少女が、自分が淡い思いを寄せていた少女が……少女と過ごした時間は全て作りモノの偽りで、鶴の一声で簡単に崩壊していくものだったなんて。

 

……スパイであり、敵だったなんて。

 

 

 

「貴方には悪いことをしたと思っています、でもこの世界は利害関係のみで動く世界。私は私の利益を優先します」

 

 

 

そんな査楽の思いを裏腹に、彼女の愛おしかったその小さな口は何処までも淡々と無表情で、まるで業務連絡のスピーカーの如く現実を吐き出し続ける。

 

 

 

「……く」

 

 

 

言葉に出ない怒りや憎しみ、悲しみが渦巻くはずなのにそんなものは一切湧いてこない。

 

唯々自分に降り注いできた恐ろしい現実に絶望するのみ、光が闇へと変わる瞬間とはこういうものなのかと、何も見えないただ真っ暗な絶望の世界とはこういうものだったのかと思い知らされる。

 

自分の感情すら利用される世界、それが学園都市暗部。

 

そのことを理解していたつもりだったのに、いつから自分はこんなにまで少女に惚れこんで、骨抜きにされてしまったのだろう……?

 

偽りの役を演じていた彼女に騙されていたのだろう……?

 

 

 

「その顔だ。自分がどうしてこんなふうになっちまったのか全くわからねェって顔。暗部の糞野郎共は死ぬ時全員同じ顔をしやがる、てめェも同じだなァ」

 

 

 

一方通行の言う通りだった、どうして自分がこんなことになってしまったのか分からない、そして原因となる彼女がどうして裏切ったかなんてこの期に及んで考えられる訳もないし分かる訳もなかった。

 

自分はただメンバーの一人として、学園都市を影で支えている仕事をしているだけだったはずだ、この学園都市に貢献していたはずだ、だからこそオールレンジよりもメンバー内での立ち位置は上であって……彼女に訓練だって施していた。

 

それなのに何故今殺されようとしている?何故施しを与えて彼女に、惚れた女に裏切られてあんなにも冷たい目で見られなければならない?

 

まるで自分なんてそこらへんに無数に居る虫のように思われているようではないか……。

 

 

 

「じゃァな、糞野郎」

 

 

 

あぁ、自分の終着点はどうやら此処だ。

 

自分に向けられた無慈悲な鋼鉄の銃口を色の無い目で見つめる、怒りや悲しみ生まれず唯ひたすら失望、絶望するのみ。

 

最後に思い返すのはやはりメンバーの連中のことばかりだ、おそらくこのままではオールレンジや馬場もきっと自分と同じ末路を辿ることだろう。

 

だがそんなことなどもはや彼にとってはどうでもいいことだ、そのことに対して全く何の感情も湧いてこない。

 

冷たいコンクリートが自分の棺桶、周りには野次馬も誰も折らずあるのは無機質な鉄柵ばかり。

 

学園都市の為にと殺してきた人間達の最後に今の自分が重なる、笑えるくらい同じで滑稽だ。

 

様々な思いが頭を駆けぬけて、その思いや記憶、少女に向けていた感情も、数秒後痛みと意識と共に消え去っていき、査楽という名の少年の世界が終わりを告げた。

 

 

 

 

 

*

 

 

 

 

 

終わった、少女はこう思った。

 

自分はこれでグループに情報を送る仕事を終えて、取引も完了し晴れて自由の身になれる。

 

目の前には先ほどまで一緒に行動していた男が目を開けたまま悲壮な顔つきで絶命しているが、彼女が思うことなど『彼には悪いことをしたな』、それくらいだ。

 

彼女からすれば査楽の死は『友達に嘘をついた』程度の罪悪感しか感じてない。

 

そもそも普通の罪悪感を覚えることが出来る人間が此処まで堕ちるとも考えられない。

 

普通以下の思考しか出来ない屑だから彼女は査楽を騙しメンバーを売り、代わりに自由を手にするという自己中心的なことしか出来なかった。

 

 

 

「御苦労だったなァ、糞野郎」

 

 

 

気味の悪い笑みを浮かべながら一方通行が近づいてくる、彼の靴は査楽の返り血を浴びて赤黒く染め上がっているのに能力のおかげで衣服に一切の汚れはない。

 

首元のスイッチを使わなければ確かにこの男は能力を使えないが、それだけのハンデがあったとしても、元々の生物としてのレベルがそこらへんに転がっている能力者達とは違うのかもしれない。

 

 

 

「契約は果たしました、約束通り私がグループに転属する証明書類をメンバーに送ってください」

 

「はン、そう焦るんじゃねェよ……ほォら、まずそこにてめェの名前を書きやがれ」

 

 

 

一方通行が用紙を少女に投げ渡した。

 

この書類の必要項目を少女が記入し、再び一方通行に渡す。

 

一方通行は死んだ査楽の親指を拇印として証明書のメンバー側責任者代行欄に押印、数か所記入し書類を作り上げ残すは自分の拇印を押すのみ。

 

そしてその完成した書類を一方通行がメンバーの長である博士へ渡して契約という名の実質的な『引き抜き』は成立、自分はグループの一員となりこの腐りきった闇の世界から遂に脱出して、光の世界で自由になれるはず。

 

死んだ査楽が何故最後にこのような証明書を作る行動を取ったかなんてメンバー側に分かる訳がないだろうし、例えメンバー側から詮索が入ろうと彼の好意を知っている自分からすれば幾らでも理由付けなど出来る。

 

長かった……オールレンジに助け出されてからもう数週間が経っている。

 

此処までの道のりは決して平たんなモノではなかった。

 

猟犬部隊として一方通行を始末し損ねた自分は雑貨屋に売り渡され、そこで殴る蹴るの暴行を受け人間サンドバックを数週間続けた。

 

その後オールレンジに助け出されたものの、数十分後には移送車を運転する男達に襲われそうになった。

 

そこで現れたグループ、一方通行と下手をすれば命を失う危険性のある契約を交わした。

 

オールレンジに『訓練』と偽って接近し、馬場には秘書として信頼させる位置へと自身を昇格させ、査楽にはあたかもその気があるような態度で接し骨抜きにした。

 

情報を次から次へと一方通行へと送り、常に死と隣り合わせのプレッシャーの中で仕事を完遂してきた。

 

全ては『自由』のために行ったことだ、これら全ての苦労が今報われて……。

 

報われて……。

 

そこで、書類を書く彼女の手が止まった。

 

 

 

「どォした?」

 

「……いえ」

 

 

 

最後の最後に彼女の瞼に浮かび上がってきたのはオールレンジの姿だった。

 

此処に押印すれば、報われて自由になるがオールレンジを裏切ると言うことだ。

 

彼は、査楽とは違って最初から自分と平等に接してくれた命の恩人。

 

彼がいなければおそらく自分は死ぬまで雑貨屋の人間サンドバックを続けていただろうし、数週間もすれば精神が崩壊して廃人になっていただろう。

 

そんな地獄から彼は救ってくれて、暗部で生きて行くための術を教えて、同じ距離操作能力者としてその力の使い方や制御法まで教えてくれた。

 

そして……アイテムの面子と一緒に、まるで年相応のような遊びにも出かけた。

彼は下心なんか無しに、最初から査楽や馬場達とは違い分け隔てなく接してくれたのに。

 

今までこの世界の中で、分け隔てなく接してくれた人なんて彼くらいだったのに。

そんな人を……自分は裏切って、情報を売って、彼の命と引き換えにして自由を手にする。

 

もしも、彼女が猟犬部隊の時と同じような精神状態や思考ならばこんなことは決して考えなかった。

 

だが、常に奪う側であった彼女は突如として奪われる側になり、そんな錯乱してもおかしくはない状況にあった。

 

そんな中で、オールレンジに出会い与えられる側となった彼女にとって、彼は『友達に嘘をついた』程度で裏切れる程の存在ではなくなっていた。

 

此処で押印すれば自由を得られるのは間違いない、ずっと今まで自分が恋い焦がれてきたものが、何物にも勝るであろう自由を掴むことが出来る。

 

だがそれと同時に心の中に蠢く『何か』が、すっぽりと抜け落ちる、形の無い理解出来ない何かが失われてしまう。

 

きっとその蠢く何かは大事なものだ、だがそれを捨て去らなければ自分は一生地獄の渦の中。

 

自分の中にある何かを失うことで、得られるモノ。

 

それは価値があるはずだ、これまで自分が耐え忍び血反吐を吐くような思いをしてきただけの価値が……あるはずなのに。

 

淀みの無かった決意が揺らぐ、その両手で掴みたかった自由をみすみす捨ててまでその『何か』を優先するほうがいいのだろうか。

 

分からない、両方とも実体がなく触ることが出来ない、どうやって判断すればいい?

 

 

 

「早く書きやがれ、こっちも詰まってンだ」

 

 

 

一方通行が苛立たしげに声を上げる。

 

迷っている暇はない、確かにオールレンジを裏切るという事実に対して自分が査楽の死のように何も覚えずに済むとは思えない。

 

しかし、一瞬の気の迷いで今後の人生全てをこの闇の中で生きて行くことなど出来るのか?

 

後でその選択を、死ぬ時にその選択を後悔しないか?

 

今間違ったら、もう二度とやり直せないかもしれない。

 

もう二度と光の世界で自由を手にすることは出来ないかもしれない、ならば選ぶのはどちらか?

 

そんなのは決まっている、この心の中に溜まっているもやもやは一時の気の迷いで感傷的なモノだ、人間は感情で動く生物だが感情で物事を判断したら後で絶対に後悔する。

ならば論理的に考え、最も自分にとってプラスになるであろう選択肢を取るのが賢い判断だ。

 

 

 

「分かりました、あとは私の拇印を押すだけですね」

 

 

 

身体の中から湧き上がってくる感情を彼女は押しつけるように思い切りポケットに手を突っ込み、朱肉を取り出す。

 

 

 

「あァ、そこに押せば終わりだ」

 

 

 

親指に朱肉を付け、用紙を駅の壁に押さえつけた。

 

震える左手で用紙を抑えまるで自分の意思じゃ動かない別物のような右手の親指を動かす。

 

これを押せば……これさえ押してしまえば、楽になれる、自由になれる、自分を守れる、すべての逡巡と決別出来る。

 

オールレンジとの関係なんて自分が生きてきた中で僅かな期間でしかない、それにオールレンジは自分の名前だって知らない、オールレンジだけじゃなくて誰も知らない、私の存在だって誰にも覚えられないくらい大したことはない。

 

そんな奴が裏切ったところでオールレンジは何も思わないはずだ、そんな奴がオールレンジにどう思われようが構わないはずだ、そんな奴がオールレンジに対して考えることなんて……意味のないはず、だ。

 

なのに……どうして。

 

 

 

『いいんじゃねーのか、軍服っぽい作業着より断然』

 

 

 

どうしてあの時、彼はあんなことを言ったのだろう……?

 

 

 

「てめェ、さっきから何してンだ。いい加減にしろってンだ……」

 

「……ッ!」

 

 

 

頭が心を制御した瞬間だった、彼女の身体は論理的な思考を身体へと伝えて、最も自身にとって有益であろうはずの行動を取った。

 

右手が勢いよく用紙に向かい、親指が触れる。

 

触れるはずだったのだが……。

 

次の瞬間押印した感覚も、用紙を握っていた手の感触も失ってしまった。

 

 

 

「おぃゴミクズ野郎、そして……てめぇもか。どういうことか最初から説明してもらおうじゃねぇか?あぁ……!?」

 

 

 

一番聞きたかった声が、そして『今』一番聴きたくなかった声が彼女の耳に届いてしまったのである。

 

雑音が一切ない静寂の空間で一際響いたその声の主の足音が次第に大きくなる。

 

 

 

「あァ?……てめェか、レンジ野郎。なンのよォだ?わりィが俺は今取り込み中なンだ、後にしやがれ」

 

「何の用……だ?おふざけも大概にしろモヤシ野郎」

 

 

 

少女は用紙を手で押さえていたことも、これが自分を光の世界へと飛び立たせる最後のチャンスだということも忘れて振り返った。

 

 

 

「お、オールレンジ……」

 

 

 

そこには、たった今捨てようとしていた自分の中にある大切な思いを具現化させた人が立っていた。

 

しかしその顔は、逡巡していた彼女がイメージした表情とは全くの別物。

 

 

 

「はッ……言っておくが、いくらゴミだろうが死なれちゃ良い気はしねぇ」

 

 

 

明確な怒りをその顔に刻んでいたのである。

 

そう、目の奥に焼付きそうな程の怒りの表情を、向けていた。

 

 

 

 

 

 


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