とある科学の距離操作(オールレンジ):改訂版 作:スズメバチ(2代目)
絹旗と滝壺ははあれからメンバーと別れて第七学区に帰るため地下鉄に乗車した。
帰りの電車は休日ということもあり、都心とは逆方向へと向かう電車の車内は人が少なく快適だったが、七惟と別れる前と変わって絹旗はむすっとした表情だ。
理由は単純明快、七惟の後ろに引っ付いていた少女のことを思い出していたのだから。
「だいたいなんなんですかあの女は、ぱっと湧いて出たような奴が偉そうな顔をしてるのが超気に食わないんですけど」
「仕方がないよ、なーないはメンバーじゃ実質ナンバー2だから。私たちと同じで下の面倒は見るのは上の仕事」
「そんなのは超わかってますよ、私はあの女の態度が超腹が立つんです。最後に一発くらい入れておけば…………」
「なーないが怒るよ」
「むぅ」
確かに滝壺の言うとおり、アイテムにはアイテムの事情があるようにメンバーにはメンバーの事情がある。
実際メンバーは暗部の戦闘で戦力になる人材はレベル5の七惟しかいない、その後ろに一応レベル3の転移能力者が控えているようだが、レベル3程度では戦闘能力のインフレ化が進む暗部では使い物にならないのだ。
おそらくメンバーとしてはオールレンジの仕上がりや彼のメンタルに大きく左右される他の暗部組織との戦闘状況を改善したいのだろう、そこで七惟同じ距離操作能力者であるあの女をメンバーに迎い入れ、戦闘要員として育て上げるといったところか。
絹旗から言わせれば、そう簡単にレベル3がまともに戦えるような戦場など今の暗部には存在しないので無駄な努力、と切り捨ててしまうのだが。
「そういえば」
「なんですか?」
「あの人、名前は何て言うんだろう?」
アイテムの不思議天然系少女が何の脈絡も無しに口にしたのは、話題の女の名前だった。
言われてみれば。
絹旗もそこで初めて気づいた、思い返してみればメンバーの誰一人あの女の名前を口にしていなかったし、送られてきた書類にも記載されていなかった。
だが、自分が腹を立てている相手の名前なんてどうだっていいというのが本音だ。
「さぁ?私は超知らないですよ、たぶん名前を知る価値もないくらいの奴なんです」
「きぬはた、もしかしてご立腹?」
「そういう訳じゃありません、あんな奴に腹を立てるなんて私のお腹が超無駄使いですから!」
名前を知らない奴に腹を立てる、か。
でも本当に、アイツの名前は何ていうのだろう?
馬場も博士も、そしてあの七惟ですからアイツの固有名詞を呼ばなかった。
もしかして、名前がない…………とか?
「とにかく、あの女の名前なんて知ったところで意味なんて超ないんですから、帰りましょう滝壺さん」
「そうだね、早く帰って皆で見に行く映画を選ぼう」
「最近私が超気になってる作品が何本かあるんですよ、是非それにしましょう」
「ごめんきぬはた、きっとたぶんそれは皆首を縦に振ってくれないと思う」
「む……滝壺さんもあの素晴らしさが超分からないんですか?こちらをあれだけ期待させといて最後突き落とし、頭の中が納得いかないもやもやで埋め尽くされる感じで終わるあの感覚ですよ」
「ごめん、わからない」
「むぅ……超残念です」
そうだ、気にしたところで自分に何か得があるわけでもないし、知らないことでマイナスになることなんてもっとない。
ならば知らないなら知らないままで、七惟にくっつく腹が立つ金魚のフンみたいな奴だと思っていればいい。
行動に伴うおかしな点があったことなんかも、気にする必要もないのだ。
接している間ずっと、まるで頭で考えていることと身体のアクションが上手く制御出来ていないように感じたことなんて、どうでもいいことだ。
足らないこと、気にするだけ損。
自分をそう納得させているうちに、地下鉄は第七学区へと到着したのだった。
*
「まずは照準をしっかり合わせろ、それ以外に気を使うなって言ってんだろが」
「はい、すみません」
「言った傍からスカって何がしたいんだお前は……」
七惟はメンバーのアジト…………ではなく、地下シェルターをカモフラージュしてくれている高級ホテルのロビーで距離操作の訓練をしていた。
訓練と言っても、ソファーを吹き飛ばしたりシャンデリアを粉々に砕く訳でもない、ロビーの待合室にある椅子を、七惟が指示した場所へ彼女が移動させるだけだ。
右に何メートル、左に何メートル。
こういった地道な作業の繰り返しが距離操作における可視距離操作の制度を徐々に上げていくのだ。
「お前はまだレベル3だ、焦って他の距離操作のこと考えるんじゃねぇぞ」
「わかりました」
偶々拾ってやった命、ただの偶然でその場に自分が居合わせたから救ったであろう命、別に身を粉にして助けたかったわけじゃない。
どうでもよかったはずなのに、今となってはこうやって手取り足取り指導してしまっている。
「…………」
しかしこうやって手取り足取り指導しているうちに気付いてしまった。
何かが、此奴はおかしい、と。
目の前で必死になって距離操作の訓練をしている…………一見そのように思えるのだが、どうもしっくりこない。
「あ、出来ました!上手くいきましたオールレンジ」
「あぁ…………」
そう言って少女は表情を一切変えずに喜びの声を上げた。
あまり感情を表情に出さない、というか一年中無表情にも近い自分がこう言うのも何だが、今のシーンでは表情を変えるべきではないのだろうか。
これが、七惟がメンバーのアジトにこの少女がやってきてから感じている違和感。
まるで…………まるで『からっぽ』なのだ、行動から言動、何もかもが。
そして気付いた、此奴の名前すら自分が知らないということに。
どうして今まで気にしなかったのか不思議なくらいだ、馬場や査楽、もちろん博士も此奴の名前を呼んでいるところを見たことがない。
そう言えば、ついこないだロッカーを見たときにショチトルという少女の横に、この少女の名前の表札が入ったロッカーがあった気がする。
「どうしましたか、オールレンジ」
「なんでもねぇよ、次いくぞ」
…………思い出せないが、今更直接本人からは聞きづらい。
まぁ、次にメンバーのアジトに帰った時に聞き出せばいいだろう。
七惟は頭の中から少女に対する疑問や名前のことを一旦弾き出して、再度名前も知らない少女への指導を始めたのだった。
*
七惟はロッカーの名前に気付かなかった?いや、七惟が気付かないのも当たり前だった。
馬場も、査楽も、ショチトルも、あの博士ですら気づかなかった。
それは何故だろう?
理由は単純明快、その表札には名前は書きこまれていなかったのだ。
メンバーの構成員は基本的に必要がなければ下っ端の名前なんて記憶することなどなかった。
特に今回この幸薄い少女など、死んだからすぐに入れ替えるための雑用要因としか考えていない。
オールレンジに訓練させて多少の戦力になれば御の字と言ったところだ、初めから期待などしていない、それ故にすぐに死ぬだろうと思われ、誰も少女に注目しない、それはきっと考え方は違えど七惟も同じであろう。
一部、例外はあるかもしれないが。
それ故に、名前なんて誰も聞こうとしない。
だから誰もロッカールームの表札なんて見ようとしない、もしかしたらそこには嘗て何かが書いてあったのかもしれないのに。
そう、表札には七惟がロッカーを確認したその日に、名前はまだ書かれていた。
『レイア』と。
消しゴムによって乱雑に擦られたであろうそのボロボロの表札には、そう書いてあった。
少女の名前は、今となっては誰も知らない。
だが、名前は確かにある。
『レイア』、これが少女の名前であった。
誰も知らない、名前である。