天才少女リリカルたばね   作:凍結する人

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第八話-E:篠ノ之一家

「楽しかったね、束ちゃん」

「うん、そこそこねー……」

 

 月村家の部屋から息せき切って出てきた束は、その時ちょうどアリサやすずかと一緒に旅館内を探検していたなのはと出会っていた。

 それまでのやりとりなど露知らず、無邪気に遊ぼうと誘うなのはの手を取って、束も温泉旅館内をそれなりに楽しみつつ、なのはの一挙一動足に萌えていたのだが。

 

「それにしても、まさかあの犬の使い魔さん……」

『狼だよ、なのは』

「あ、そうだった。狼のアルフさんがこの旅館に居るなんて」

 

 魔法の関係者であるアルフがそこに割り込み、なのはへある種の挑発を行ってきたのだ。

 念話により、なのはにだけ伝えられたその内容は掻い摘むと、自分たちのジュエルシード集めに手出しをしたら容赦はしない、というものだった。

 彼女――変身した人間体は、グラマーな女性であった――のはどうも攻撃的な性格らしく、挨拶と称して脅しをかけたのだ。

 数秒間の念話の後、もうひとっ風呂浴びるかと去っていった女性に、連れのアリサはマナーが悪いと憤慨していたが。

 束はそれ以上に激怒していた。

 

「ふん! あの狼め、今度会ったらぎったんぎったんのめっためたーのぼっこぼこーにしてやる!」

「にゃはは、束ちゃん、そんなに大声出しちゃご迷惑だよ?」

 

 現に今も、なのはが止めさえしなければ、狼の居場所を突き止めて奇襲してやろうと目論んでいる。

 なのはが何の理由もなしに脅されたことだけでもそれに値することではあるが、束にとっての更なる問題点は、今の束にはどう頑張っても聴けない『念話』という通信手段を使われたことであった。なんだか見返されたようでとても悔しいのだ。

 しかも、悔しさ全開な束を煽るかのようなニヤつき顔でじっと見つめられもしたのだがら、これはもう確信犯と言ってもよく。

 

「この束さんを蚊帳の外にするとかマジあり得ないよね!」

「あははは……」

 

 と、怒気を露わにしながらなのはへ愚痴をぶつけるのであった。

 

「なのはー!」

 

 そんな二人に呼びかけたのは、高町桃子である。

 

「そろそろ晩御飯だから、お部屋にお料理来るわよ?」

「はーい! それじゃ、束ちゃんさよなら!」

 

 どうやら歩き回っていた間に相当の時間が過ぎたらしく、窓を見ればいつの間にか日は沈み、すっかり夕餉時である。

 なのはに手を振りながら見送ると、束も束で、自分の夕食がある場所――すなわち、篠ノ之家の部屋――に入らねばならない。

 入口の手前で、束は一瞬迷って立ち止まった。あの両親と夕食を取るべきか、取らないべきか。

 懐石料理なんて好きでも嫌いでもないし、シカトして外で何か軽食でも摘むという選択肢も、あるにはあった。とはいえあんな話をされた手前、黙って逃げることはそれこそ何かに負けるような気がして、束は襖を開き、部屋に押し入った。

 結果として束は、何か言われることも怒られることも無かった。柳韻もそれから沙耶も、食事中はずっと、黙して無言であったのだ。その空気の重さたるや、尋常なものではない。当然箒がぐずりだし、沙耶はそれを宥めるのに必死になって。その両脇で向かい合う柳韻と束が、互いに目線すら合わせずひたすら御膳を平らげていた。

 そんな、どうにも奇妙な晩餐も終わり、そろそろ子供は寝る時間と相成った。

 どうやら、束以外の三人の子供は月村家の部屋へ移り、仲良く川の字で寝るようだ。

 だが、しかし。

 

「……束」

「なんだよ」

 

 束は何故か、そこに混じろうとしなかった。

 

「友達の所に行かないの?」

「そういう気分じゃないんだよ」

 

 沙耶が恐る恐る聞くと束は、不機嫌だし触るな、という攻撃的な表情を浮かべながら、自分ひとりで布団を取り出し、部屋の隅の隅にさっさと敷いてしまった。

 柳韻と沙耶は二人、途方に暮れたような表情で顔を見合わせるも。束の秘めた意図など分かるはずがないようで、納得行かぬ雰囲気のまま、自分たちも布団を敷く。

 争いは無いが、ひたすらに無言。互いに語る言葉を持たない。

 今年に入ってから喧嘩ばかりをしていた親子の間にとっては一応の小康と表現すべきであるかもしれないが。そんなことは長くは続かないと、誰にだって分かるほど不穏な沈黙でもあった。

 そして、数時間後。

 一つ隣の部屋から、ぐっすり熟睡しているはずの高町なのはが唐突に、かつこっそりと部屋から出ていったのに合わせて。束がむくりと布団を跳ね除け、部屋から出ようとすると――その眼前に、柳韻が立ちはだかっていたのだった。

 

「束」

 

 柳韻が束を見る。その目はいつもの無理解な親よりも、恭也と忍のそれに近いように見えて、だから尚更、束は苛立ちを覚える。

 

「なんだよ。何時もながら邪魔なんだよハゲ頭。退きなよ」

「その前にだ、聞かせてくれ」

「そうよ、束」

 

 後ろからの声に振り向くと、箒と一緒に寝ていたはずの沙耶まで起きていた。窓際に立ちはだかって、そこからの逃走を防いでいるようだ。

 

「は、なんだよなんだよ、二人揃って狸寝入りとは流石の束さんもちょっと意外に思ったよ。可能性の一つとして考えてはいたけど、余りにも馬鹿馬鹿しすぎて。まぁでも、そうまでして束さんのことを止めたいんなら、こっちだって」

 

 束は両腕を握りしめて、構えた。目線と表情の険しさは、たとえ生みの親が相手だとしても全く陰りや躊躇いを映さない。

 

「実力行使で望んでやろうじゃないか。ええ? 体罰? 上等だよ、私は絶対に負けないから」

「……」

「篠ノ之流剣術師範? そんなちゃちぃ武術で束さんを止められるものか。いや、ひ弱な女が男に勝つための武技なら、あぁそりゃお前にとって束さんは相対的に強者だから、確かに有効かもしれないね。でも、お前と束さんには武術の一つや二つなんかじゃ埋められない、絶対的な格差がある」

 

 それが天才という存在なのだ。と束は嘯いた。凡人の小手先の技術などでは絶対に、そう、絶対に追いつけないし超えられない。唯一無二にして完全無欠。篠ノ之束とはそういうものなのだ、と束自身が固く信じていた。

 柳韻はそんな束を見て、僅かに苦笑した後――半歩踏み出す。右腕を前に、左腕を後ろに構える。

 

「くは――束さんの言葉が聞けなかったのかな? 耳なし芳一になっちゃってるのかな?」

 

 束の顔面は狂奔の笑みに歪み、声は夜更けの静けさに甲高く鳴り響く。こんなに煩くしてたら、朝の車の時みたいに箒が起きてしまうかもしれないな、と考えもした束であるが。しかしなお、大声を出さなければならない理由があるのだった。

 

「君たちは一生かかっても束さんには勝てない。篠ノ之流剣術も古武術も、束さんはぜーんぶ知ってるんだよ? お望みとあらばこの場で実演……してもいいけど、使わない。天才に武術なんて必要ないんだからね」

 

 罵り、からかい、そして脅しながら。しかし束は踏み込まない。

 

「強情だなぁ、お前ら二人。私をそんなにまともにしたいか? 籠の中の鳥で居させたいか? 残念、もし私を捕らえたいのならば、暗黒物質で出来た檻でも持ってくるべきなんだよ。それ以外だとあっという間に解体できちゃうからね」

 

 一刻も早くこの部屋から出たい。なのちゃんが魔法を使い、ジュエルシードを集めるのを。金髪の魔導師の少女と戦い合うのをこの目で見て、魔導師同士の戦いがどういうものか焼き付けたい。そう、本当の本気で焦がれるように願っている。

 そして、束は両親など屁とも思わない。いつも彼らの意志や言葉など無視して、常に自分の道をひた走っていた。

 そのはずだ。

 そのはずなのに。

 しかし、束は踏み込めなかった。一歩踏み込んで、沙耶か柳韻をぶちのめせば済む話なのに、それをどうしてか、やらない。

 いや、出来ない。

 

 獰猛な笑みを浮かべつつも、束の内心はその事実に荒れ狂う。

 なんだ、どうしたというのだ、篠ノ之束よ。不世不出で掛け値なし、世界最高の天才少女が何を躊躇う? 何をから退く?

 この両親に情が湧いたとでも? 下らない。私の中でこの両親は、一向に塵以下の価値しか持たない。それは何も変わっていない。

 この旅行をぶち壊しにしたくないから? そんな下らぬ価値観や善悪に拘るのは天才のやり方ではない。もっと大きな、自分のエゴと果たすべき使命のために邁進するべきだと、それもはっきり分かっていて。

 ならばなぜ、戸惑う? 何を迷う? それを突き止めるためには、基本的数式から見直すしかない。

 篠ノ之束は両親のことをどう考えているのだ? どうしたくて、どうされたいのだ?

 

「……いや、大っ嫌いだ、大っ嫌いなんだよ」

 

 束は答えを弾き出した。

 

「私を止めようとする親なんて大嫌いだ。でも止めようとしなくたって大嫌いだ。だって私は私、篠ノ之束だ。天才なんだ。天才に親も姉妹も必要あるものか。そう、天才には、私には、なのちゃんがいればいい。天才の私に予想外を見せてくれる愛しい愛しいなのちゃんがただ一人いれば、それでこの世は面白い。他には何も要らなくて、だからお前ら要らないんだ。私の前から消えろよゴミクズが」

 

 その言葉はまるで、教会の神父が聖書を音読するかのようにとうとうと淀みなく流れて。しかし、その目線は父にも、母にも向いておらずに。本当なら覚えているべき内容を、机に置いた紙から読み取り告げているような、淡々としたものだった。

 そして、両親はそれに答えない。無言のまま、立ちはだかる。

 すると、束の口は段々と速く動き、言葉尻は強くなって、睨みつけるその目は赤く血走り。

 

「うっとおしいんだ纏わりつくな、私のやることに干渉するな。箒ちゃんがいるじゃんか。そいつだけ愛すりゃいい。もし二人分愛のストックがあって、一人だけだと余るなら、二人分箒ちゃんに注げばいい。きっといい子に育ってくれるよ。だったら私が何したっていいだろ。さあ、分かったら退けなよ。早く退けよ、退け、退けって、退けってば……!」

 

 最後を締めくくるのは、脅しではなく、懇願であった。

 どうか、傷つけさせないで欲しい。何も問わず、何も止めずに通してくれと。

 そういうお願いであり、そういう強請りであった。

 だが。

 

「来い」

 

 帰ってきたのはたったの一言。武道家の篠ノ之柳韻が、相まみえる相手に向かって語るような、無骨で、故に覆しようのない宣戦布告。

 ああ、どうして、どうしてこうも――お前たちは束さん(てんさい)を分かってくれないのか。

 

「…………ッ!!!!」

 

 束の思考は、そこでぷつんと切れた。

 余りにも大きな激情が彼女を包みこみ、畳を蹴ってしなやかに飛ぶ一匹の肉食兎へと変貌させた。

 柳韻の柳のように細い身体へ真っ直ぐ飛びかかる。その速度は正に瞬速無比。

 速度は火薬で飛ぶ銃弾の早さすら容易に超えて、目指すは相手の心の臓。

 振りかぶった平手を思い切りそこにぶち当てれば、肉体ごと胸元を刳り取ったり、貫けたりするだろうか。それが無理でも動きを止めることは出来るはずだ。

 後悔はない。私の譲歩を取り消したお前たちが悪いのだ。

 天才相手に立ちはだかって通せんぼなんて、一死どころか万死に値する真似をしやがったのだから。

 親殺し――ああ、それも天才としては、至極最もで、らしいお話だろう。

 だが、しかし。

 柳韻はそんな束の、一拍子前を動いていた。

 

 寸前、束の怜悧な頭脳が再起動を果たし、目の前の人間が何をしているのかを分析していく。

 それは、篠ノ之流古武術に伝わる奥義、しかも裏奥義の一種だ。

 相手が動き出す一拍子目。その更に前で動き出す。

 どんな相手だろうと状況だろうと、先の先を取って一撃で仕留めれば、即ち勝つという理論を具現化したもの。

 だが、それがどうした。

 柳韻の肉体、そして体勢を考えれば、そこからどんなに強い一撃がどんな急所に向かって叩きつけられたとしても。

 篠ノ之束は揺るがない。壊れない。乱れない。

 痛みなど無視し、負傷など無いように動きを変えず、父親の左胸をぶち抜ける。

 例え、どんな攻撃が来ようとも。

 

 では、攻撃以外の何かならば、どうなるか?

 

「…………なッ!?」

 

 束の腕から、力が抜ける。あっという間に抜けていく。

 それだけではない。何かに包まれて、それが理由で、全身が脱力していく。

 まるで、そこにあるべきだったのだと身体が理解しているように。

 同時に、戦意も何故だか萎えていく。何があっても進もうと脈打ち動いた肉体も、心も。今は只、これでいいのだと納得して、動けないほどに緩んでしまっていた。

 一体何が起きている? あの親父は何をした? まさか、私の知らない奥義や秘伝があったとでも言うのか?

 違う。そんなことはありえない。私は全て知っている。

 ならばどうして? こんな、一瞬で戦意も力も奪われてしまう無様を、篠ノ之束に強制させたのは、一体何だ?

 混乱を理性で無理やり押さえつければ、その答えはすぐに明らかとなった。

 

 抱きしめられていた。

 

 篠ノ之束は、父親に抱きしめられていた。力強く、ぎゅっと羽交い締めにされて、地面から足が浮いていた。

 後ろに居た母親も、駆け寄って、抱きついてくる。父親の体に腕を回しながら、体温を背中になすりつける。父母二人のサンドイッチ・ハグだ。

 

「え……」

 

 束には――分からなかった。

 どうしてこの程度のことで自分は脱力しているのか?

 どうして父母はこの選択を選んだのか?

 どうして――私など愛していないはずの両親が、私を抱きしめてくれたのか?

 

「愛しているよ、束」

「ええ、愛してるわ、束」

 

 その疑問のうち一つは、二人の言葉によりすぐに打ち砕けた。

 

「ずっとこうしてやりたかった」

「ずっとこうしてあげたかった」

「でも、最初は私たちがあなたを恐れていた。とても速く成長していくお前に、そうするだけの勇気がなかった。だが、それはもう終わっている」

「でもそうしたら、今度はあなたが私たちを信じずに、拒み続けた。自分はもう成長しているからと、それから離れ続けていた」

 

 柳韻と沙耶は語る。

 でも、そう、それでも。

 

「それでもこうしてやりたかった。だからお前がどこかへ行くのが怖かった」

「それでもこうしてあげたかった。だからあなたを止めようとした」

 

 それが、親の感情。

 

「束、お前は賢い子で、なんでも分かっていると言ったな」

「でも、私たちのこの気持ち……分かってた?」

「……」

 

 こうなった以上。もしくはこうやりこまれてしまった以上、束がその事実を知らずに動いていたことは確かだ。

 だがしかし、分からなかったわけではない。これはむしろ、常識で考えれば当たり前すぎる程に陳腐な展開だ。でも、束はそれを――

 

「忘れてた」

「……?」

「わ、す、れ、て、た。あぁ、そうだよ忘れてた。忘れてたんだ。別に、何も分からなかった訳じゃないんだ」

「そうなの?」

「当たり前じゃないか『お母さん』。親というのは須らく子を愛するものなんだって。そんな当たり前の事実、束さんが……分からないわけ、ないじゃん。なのちゃんのパパママだってそうなんだし。でも、忘れてた。それだけなんだよ」

 

 束の、恐らくは生まれて初めてであろう両親への気持ちの告白。

 それを聞いた二人は、小さい子どもの体躯をますますぎゅっと捕まえて。その体温を、束は不思議に、煩わしくも汚らわしくも思わない。

 むしろ、自分にこんな暖かさに包まれていい資格があるのか、とすら考えるくらい弱気になって。その弱気すら、包み込まれて。

 

「束」

「……『お父さん』」

「ハゲ親父でもいいんだぞ。実際禿げているからな」

「まあね。でも、今はストレートに言いたいんだ」

 

 二年前、自分から歩み寄った時。その時は、せいぜい赤の他人から同居人という距離に、近づいた程度だったのだろう。束はそれで十分、いや、それで限界だと思ってしまっていたのだけれど。

 もっと温かい距離があると、今気づいた。

 だからそのまま暫くは、抱きしめ続ける両親の間で、自分も父親の背に(かいな)を回してじっとしていたが。

 

「……あ」

 

 それではきっと間に合わない。むしろ、構えたまま止まっていた時間を含めたら、かなりの大遅刻であるかもしれない。もしかしたら戦闘は終わっていて、勝つか負けるかどちらでも、へとへとのなのはを迎えることになるかもしれない。

 だから、今からでも向かわなければ。

 

「下ろして。行かなきゃ」

 

 束がそう言うと、両親ともに腕を緩めて離れてくれた。どうやら、もうずっと離さず何処かに行かせない、というわけではないらしいが。

 口に出して、色々と聞いてくる。

 

「どこに行くんだ」

「ひみつ」

「何をしに行くの?」

「ひみつ」

「いつ頃帰ってくるかしら」

「……さぁ」

 

 それに束は答えられない。なのはの魔法に関することであり、彼女やユーノは魔法を秘密にしようとして行動しているのだから。

 だが、そうしていると……胸の奥が、僅かに揺れる。自分を見てくれる人に真実を言えないことへの、もどかしさ故か。

 

「……そうか」

 

 それでも。

 

「なら、一つだけ約束してくれ」

「んー?」

「どこに行っても、何をしても、何時でもいい。出かけたら、帰ってこい。私たちの居る場所に」

 

 父は娘を送り出す。

 信じてくださいと言われて、そして自分が束を愛しているのだと、改めて気づけたから。

 

「私からも。危ないことは控えめに。でも、もし怪我したら言いなさい。どんな時でも手当してあげるわ」

 

 母も信じて送り出す。

 愛の形は保護や引き止めることだけではなく、他の子供とはまるきり違う彼女の異端を、個性と認めて肯定し、思うままに振る舞う娘の姿を、見守ることだと分かったから。

 

「……ごめんね」

 

 そんな親に、娘が送るは謝罪の言葉。「忘れていた」事実に気づいて、それを要素として含め、今までの父母の行動を再計算すればよくよく分かるのだ。

 二人が強制したり、止めたりするのは、ひとえに束のためを思ってのことであると。ただの厚かましい押しつけでなく、束の将来を真に思いやって、だから手を出してしまっていたのだ、と。

 でも、篠ノ之束の芯は硬い。

 二年前のあの日あの時、束は未知(なのは)から逃げないと誓い、そうでないと自分は天才じゃない、なんて定義を自らに課した。

 それまでは無条件で自分を天才だと思いこみ、自画自賛していたところに、逃げない、という明確な条件を設けた。

 その時。篠ノ之束の中の「天才」は大きく変質し、それまでよりずっと硬く重く潔く尊い、正しく神聖不可侵ともいうべきものに変質したのだ。

 だから硬い。この夢を諦められないし、諦めたくない。

 例えなんと言われようが、その先に何があろうが――

 

「束さんはね、おとしやかな大和撫子にはなれなくて、快活な剣道少女になるのも嫌だ。神社の神主も継ぎたくないし、将棋のプロ棋士なんざつまらなすぎて反吐が出ちゃう。じゃあ、いったい何になりたいかって? ああ、私は――」

「天才に、なりたい」

 

 柳韻と沙耶、二人の言葉は重なって、束の耳朶を揺らしたが。

 

「……違うね」

 

 しかし背中を向けて、襖をがらっと開きながら、振り向きざまに浮かべるのは不敵にして自信満々な笑い顔。

 

「私はもう天才だ。でも、まだまだ。まだまだもっと天才になれちゃうんだよ。大きくなれる。だって私、まだ9歳なんだから。脳味噌だけじゃないよ。身体だって大きくなって、ナイスバディになって、それで――いつかきっと。この世界を、変えてみせるんだ」

 

 その言葉を受け取った両親は、無言でこくん、と頷いた。

 束は思う、ああ、こいつらまだ信じてないな。きっと、将来は宇宙飛行士だのF1ドライバーだの言い出す子供を見ているような、生暖かい目をしているのだろう。

 でもまあ、一応応援してくれてやがる。それは認めようじゃないか。

 そして疑うならば、じきにはっきり見せてやろう。篠ノ之束が天才である、その証左を。

 

「行ってらっしゃい、束」

「行ってきます」

 

 そのためにも。まずはなのはに会いたい。話がしたい。

 しいんと静かな旅館の廊下に、束は踏み出し駆け出した。




次回は6/5の19:00投稿です。
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