四月二十七日、早朝。
篠ノ之束は珍しく母屋の自室で、夜十時という彼女にしてみれば異常なまでに早い時間からぐっすり熟睡していた。故に目覚めたのは午前五時。普段なら徹夜でもしていない限り寝こけている時間帯である。
そんな健全な夜を過ごしたからか、肉体の疲労もかなり回復していた。右腕にある傷も、昨日貼ってもらった絆創膏の中で完治していることだろう。
布団の上に投げ捨てていたうさみみを頭につけるのは忘れず、ボサボサの髪の毛を乱暴に手櫛で整えれば、嫌に冴えてしまっている頭を持て余して外に出る。
そしてとりあえずは地下に潜って昨夜の成果を試さんと、自分の城たるあばら家に向かうその途中。
神社の敷地内にある剣道場から、人の気配がするのでこっそり中に潜れば、父親の柳韻が道着姿で素振りをしている。
そういえば、と束は思い出した。この男は毎日早朝、四時半には起きて剣の鍛錬をしているのだ。
まるで生活リズムが違うので、情報として知っていても見たことはなかった。
静かな道場の中に、竹刀を降る音と、落ち着いた息遣い。まっすぐに前を見据える柳韻の様子はいかにも堂に入っていて、そのまま墨と筆を使って模写すれば、さぞかし見事な水墨画として描かれることだろう。
束はそれを、道場の隅に隠れてこっそりと見ることにした。これから起こることのために、必要であると感じたからだ。
「……」
ちら、と柳韻の瞳が束の方へ向く。束は何も語らず、そして柳韻もまた、すぐに視線を戻して鍛錬を続ける。
その一挙一動、呼吸法、それから筋肉一つ一つの動きまでをも、束は目で見て把握し、床の揺れを感じ、想像する。
そこから、剣術にして同時に古武術でもある、篠ノ之流というものを覚えている知識と合わせて習得していく。
見稽古と例えるには、見ている側の経験値取得率が少々高すぎる。なにせ彼女の脳髄は、人間が行えるどんな動きでも、何度か見てしまえば再現できてしまうのだ。
要は、例と同じように筋肉を動かし、体重を傾ければそれで済むのだ。体格差や性別的な違いなど、計算すればいともたやすく補正できる。
そして実際、束にとって不可能な動きなどは存在しない。常人離れした肉体は、鍛えずともオリンピックの金メダリスト顔負けのポテンシャルを十全に発揮する。
だから、口で習うでも、体で覚えるでもなく。ただ見ているだけでいい。
そうして、二十分間ほどじぃ、と見つめていたら、その間に一通りの動きを終えた柳韻が竹刀を下ろす。そして、束へ向かって話しかけた。
「……束……おはよう」
「ん、おはよう」
朝の挨拶。実にそっけなく淡白ではあるが、この二人の間にそれが為されたことだけでも、見る人が見れば大きな進展と述べて喜ぶだろう。
「今朝は、早いな」
「久しぶりにぐっすり眠れたからね」
それからすぐに押し黙る二人の、これを会話というべきか。
いや、それよりも前の段階にあるような、ごくシンプルで簡易的な意思のやり取りかもしれない。
小学三年生の少女とその親が交わすコミュニケーションとしては、いたく淡白で虚しい。
しかし、二人共それ以上踏み込むには少し時間がいるのだった。
互いにどこか、不器用であるのだ。
「何故ここにいる?」
「束さんがそうしたいからだよ」
「……では何故そうしたいんだ?」
柳韻の問に、束はふふんと笑いながら答えた。
「必要だと感じたからさ」
「……つまり、篠ノ之流を習いたいということか?」
「まぁ、そういうこと」
「意外だな。天才には武術など必要ない、と思っているのではなかったのか」
束は右手の人差し指だけを立てて、ちっちっち、と左右に振った。
「まぁ、束さんは天才だから、常人相手にゃ身体能力だけでゴリ押しできるさ、でも、今回はそういかないみたいでね」
「……つまり、そうしなければならない程の何かと戦うのか」
柳韻の理解は早い。彼が本当に一般的な常人であるなら、こう素早く状況を飲み込む事はできないだろう。彼は古武術の師範代であり、セミプロ級の棋士であるのだ。
とはいえ、束からしてみれば、自分の予測から外れない時点で、相対的に常人と位置づけられるのだが。
「まあ、ね。女の子が喧嘩しちゃいけないぞ、とか前時代的なこと言わないでよ?」
「それは言わんさ」
そして、柳韻は束の皮肉めいた発言に対し、こう切って返した。
「篠ノ之流。その根本は非力な女が戦うための武術だ。女とて男と同じように戦わなくてはならんから、生まれたものだ。それを今に伝えるために習い修めている私が、女であるお前に喧嘩をするなとは言えん」
「ふふふ。そりゃあありがたいね」
「まあ最も……親としては出来る限り自重しろと言っておくが……」
言っても聞きはしないのだろう? という問は、嘆息とともに吐き出され。
束はそれに、躊躇いもせず首を縦に振って答えた。
「当たり前さ。こちとらちょいと、譲れないものがあるからね。そのためには例え古臭い武術だって、なんだって使ってやるのさ」
「ほう……お前からそんな言葉を聞くとは思わなかったぞ」
「はあ?」
「そして、自分一人で何でもするし解き明かす、というお前が……見るだけとはいえ私の稽古に習う。これも不思議だ」
柳韻は竹刀を持たぬ左手を顎に置く。そして何秒か考えるそぶりを見せてから、こう語った。
「もしかしてお前、誰かに敵わなかったのか?」
束はそれを、内心ムカムカして手をギュッと握りしめ、父親を見る目を睨む険しさに変えながらも、辛うじて怒らず受け入れた。
この剣道場に踏み込んだ時点で、そう言われるのは分かっていたのだ。この小賢しくもそこそこ頭の回る父親ならば、僅かな、ほんの最小限のヒントでそういう事実までたどり着いてしまうということも、全部すっかり分かっていた。
それはとても悔しいことだが。
だがまあ、受け入れてやらんこともない。屈辱と天秤にかけても、いまこの時、彼の朝稽古を見なければならないのだ。
「……まぁ、そういうことだね」
だから束は怒らぬだけでなく、事実を素直に認めてやったりもした。
無論詳しい事実――異世界の魔導師の少女相手に戦いヘリ五機を犠牲にし、大立ち回りをしたが結局撃墜された――ことは語らない。
いずれ話してやってもいい。だが今は、まだその時ではないのだ。
「ふふ、そうか。お前が……相当強いのだな、その相手は」
「そうだよ。年は私と同じくらいだけど、お前なんかとても敵わない。なのちゃんパパと二人でやってもキツそうかな」
「それは……私が士郎君と組んでもか。中々豪気だな」
そうして娘の話に呵呵と笑う父へ、束は聞きたいことがあった。
普段なら、こういう凡人の意見や心持ちなど、読むだけで気にせず無視するのだが。
無性に問いたくなって、束はこう切り出した。
「ねえ、お父さん。私、そいつに……負けたのかな」
それは、以前自問自答して、とっくのとうに答えを出していたはずの問題だった。
世間一般の尺度で見れば敗北というだけで、束の中では決して負けではない。ただその時点での実力を判断できただけだ。
そう、答えを出して、ならばそれでいいはずなのに。
その検算を、してみたくなったのだ。
「……ふむ、束。お前は……」
柳韻はふっ、と笑みを止め、瞳を引き締め。まるで門下生に対してするような目を束に向けて答えた。
「負けた、と、事実を語ればそうだろう。だが、お前は
「はぁ? ねえそれ、理屈としておかしいと思うんだけど」
「いや、おかしくない。何故なら」
柳韻は竹刀を動かし、その先端を束の左胸に向けた。
「心で負けていないからだ。お前は戦おうとしている。心は挫けていない。ならばまだ、負けではない」
「……精神論?」
「有り体に言えばそうなるが……これは、篠ノ之流の教えに繋がることでもあるのだ」
それから、柳韻が語るに曰く。
篠ノ之流の原点は、室町時代中期、圧政を敷いた土豪に対して立ち上がった農民にある。
土一揆という形で立ち上がった彼らの内、最初は男のみが武器を持ち戦っていたが、やがて、女も戦わなくてはいけないという流れが生まれた。戦いが長く続いたことで、男だけでは豪族の軍勢に抗えなくなったのだ。
そしてとある名も無き剣豪が、当時既に存在した篠ノ之神社に逗留して海鳴の女へ教え伝えたのが、篠ノ之流古武術であった。
既存の武術の中から非力な女でも最大限に効果を発揮しうるものばかりを抜き出した、極めて実戦的なこの武術は一揆の成就に大きく貢献した。
また、その教えの中には、権力者に歯向かうという難事へ望む農民たちを大いに勇気づけただろう、金言が存在した。
――どれだけ劣ろうと、どれだけ退こうと、諦めなければ負けではない。
――何度でも挑み、どのような困難が眼前にあろうと、全て跳ね除け、己の意志を成し遂げよ。
「これが、篠ノ之流の教えだ。人間、男だから女だからとて、何も変わらぬ。挑み掴み取る。この力は、その為のものだ」
故に、心を強く保ち、決して諦めるな。身体で負けようが鍛えればいい。頭で負けようが学べばいい。
しかし心で負ければ、それで何もかもお終いなのだから。
そう締めくくられた、柳韻の教え。
しかし――束にとって、それは。
「ふん、実につまらない」
あくびをしてしまうくらいに既知であり。当たり前で至極当然、今更言われようが何にもならない教えであった。
「挑み掴み取る? ああ、確かにそうさ。束さんはいつもそうしてきた」
分からないものがあれば、分かるまで解き明かし理解する。
届かないものがあれば、届くまで手を伸ばし掴み取る。
「今更言われようが釈迦に説法だよ」
「……ああ、そうだな」
柳韻もそれに同意する。
彼からも、いや他の誰から見ても、篠ノ之束とは即ちそれであるからだ。
「束。私はお前に篠ノ之流を教えていない。いや、今まで教えようとすら思っていなかった……思えば不思議な事だが、それはもしかすると……既にお前自身が篠ノ之流の、精神を体現しているから、なのかもしれん」
それは、この父親が娘に掛ける、精一杯の褒め言葉であったかもしれない。
「……まぁね、まぁそうさ」
それを受けた束も、にぃ、と唇を歪ませ勝ち気に笑った。
父親から、曲がりなりにも認められたのが――嬉しかった、のだ。
最も本人は、それをありのままには認識していない。
検算の結果が完璧に正答であったことが嬉しいのだ、と考えていて。
あくまで、このハゲ親父にしてはいいことを言うな、と思うだけであった。
「……そうか、ならばいい」
そして柳韻も、久しぶりに、そして二人きりで娘と触れ合えた嬉しさを表には出さず、道着を着替えに更衣室へ向かう。
束はそれを見送る素振りも見せずに、自分もそっぽを向いて駆け足でラボへ向かい、今度こそ昨日の成果をデータとして記録端末に入力し始めた。
やがて沙耶が起き、箒が起きて。篠ノ之家の朝は、いつもと何も変わらずに始まっていった。
次回は2017年06月11日(日) 15:00投稿です。