それからしばらくは彼と慧音の生活は続いていた。季節は巡り、彼らの出会いは春頃だったのだが、山の紅葉が見えはじめ、秋が近づいていた。この頃には彼も少しずつ言葉を理解し、感情というものを理解し始めていた。また慧音の言っていることもある程度理解できるようになり、コミュニケーションを取れるようになっていた。
「さて、今日はここまでだ。」
「うん。」
「最初の頃から比べると、随分成長したな。悪さもしなくなったし。」
「頭突きは痛かった。」
言葉がしっかり通じるまでは彼の育て方はしつけのようなものだった。悪いことをすると叱りつけても通じないので、慧音は頭突きでそれをわからせていた。
「それじゃあ、私は少し外に行くから。帰ってくるまで大人しくしてるんだぞ。」
そう言って慧音は彼の寝床から出て行った。食料や水の調達は彼が全て行なっているのだが慧音は時々この寝床から出て行っていた。こうして出て行った日は一晩帰ってこないのだが、大人しくするよう言われているので彼も慧音が帰ってくるまでは寝床から出ないのだが、少し寂しい思いをしていた。
「・・・はぁ。」
一人でいる時はこんな感情を知らなかったが、知ってしまうとこの寂しさを感じずにはいられなかった。やる事もないので彼は慧音が書いた字をじっと見ていた。慧音が書いた字は最初に書いたひらがなまで全て残っており、もう時期壁一面を文字が埋め尽くそうとしている。
「寂しい。」
壁に書かれたその文字を見てつぶやいた。彼もその感情を理解していた。
「慧音は…どうなんだろう?」
彼は慧音の事を考えていた。今どんな感情なのかを考えて見たが、彼がそれを理解するのは至難の技だろう。人の感情を理解するなど、言葉をどれだけ知っていても難しいのだから。
「聞きに行くか?でも痛いしな。」
おそらく頭突きの事を恐れているのだろう。大人しくしてろと言われた以上彼も大きく動くわけにはいかない。だが彼も心の中で生まれた疑問を放っておくことはできなかった。
「よし!行こう!」
彼は勢いよく立ち上がり寝床の外へ出た。後を追うにも姿は見えなかったが、足跡が続いていたので簡単に後をつけることができた。
足跡は次第に獣道へと入り、進むたび獣道からも外れ、やがて道とは言えぬ林の中へと続いていた。さらに後を追うとひらけた場所に慧音がいた。そこには木々がなぎ倒され、近くの岩は粉々に砕かれていた。
「慧音…?」
そこにいたのは彼の知る慧音では無かった。その髪は少し緑がかり、頭から二本の角が生えていた。そして彼女が彼の方を見た時、その瞳は鋭く、いつもの優しさなど感じられなかった。
「慧音⁉︎」
慧音は突如彼を襲った。くらったのは今までと同じ頭突きだったが今回はわけが違う。二本の角が腹部に深く突き刺さり、彼もこの事態の異常さを悟った。急いで彼は角を引き抜き慧音を突き放した。どういう訳か慧音はそのまま宙に浮かび、手足をばたつかせてもがいていてる。しばらくの間もがき続けると、体力の限界が来たのだろう。慧音はそのまま意識を失ってしまった。慧音が意識を失ったのは夜明け前で、月が沈むと彼女の姿は元に戻っていった。
「ん〜ここは?」
慧音が目覚めたのはいつもの彼の寝床だった。
「昨日は満月だったはず、なんで…。」
彼女の隣にはいつもと同じく隣に彼が眠っていた。一つおかしなことがあるとすれば彼の腹部に布がまかれており、その布が二箇所を中心に赤く染まっていたことだ。
「なっ!いや、今は起こさないほうがいいか。ちゃんと処置はしてるみたいだけど、私がさせたんだよな、この怪我。」
この前にも彼が怪我をした時に、慧音が余っていた天狗の衣装を加工して包帯がわりにしたのを彼も覚えていたようで最低限の傷の手当ては施されている。
「ん、慧音おはよう。」
彼は何も無かったように慧音の顔を見て挨拶をした。
「お、おはよう。それ、私がやったんだよな。痛くないのか?」
「これは、痛くない。」
彼は嘘をついた。傷は一眠りしただけでは癒えず、慧音も彼が身体を起こした一瞬、彼の顔が歪んだのを見逃さなかった。
「そんな事ないだろう。痛かったら痛いと言えばいいし、辛かったら辛いと言ってくれ。その傷は、私に責任があるんだから。」
「慧音は、辛くないのか?」
「え?私は…」
「いつも慧音が出て行く時、目が辛いって言ってるみたいだった。こんなのよりも、いつもその顔を見ていてなんだか、辛かった。」
「私は、駄目なんだ。これ以上お前に辛い思いはさせられない。」
「そうか、でもわかったことがある。俺が辛いと俺は辛い。でも慧音が辛いのも俺は辛い。だから、どうにかしよう。」
「・・・ありがとう。お前がそんな事を考えていたなんて、成長してたんだな。」
その後慧音は自分のことを話した。とは言っても彼には彼女の詳細を知るには言葉の理解が足りず、いつもの言葉の勉強と同時に少しずつ話して行った。自分が人妖であり、満月の夜に変身して破壊衝動が抑えられないこと。そしてそれが原因で里を追い出されてこの山に迷い込んだこと。彼はそれを次の満月までになんとか理解することができ、彼なりに手を考えた。
結果として彼が考えた手というのは簡単なものだった。満月の夜に慧音が暴れるのを無理矢理押さえつけて呼びかけ続けるだけだった。
「慧音!落ち着け!」
満月の夜はいつも夜明けまで彼の声が山に響いていた。効果があるのかは初めはわからなかったが、長い時間同じ事を続ける事で徐々に慧音は満月の夜に正気を失うことはなくなった。その頃には季節は何周も巡り、彼の言葉遣いもなかなかのものになっていた。
「おはよう慧音。」
「あぁ、おはよう。」
いつもの挨拶を交わす。さすがに互いに生活リズムが生まれていた。
「それじゃ、軽くとって来る。」
「いつも悪いな。いってらっしゃい。」
「いってきます。」
今日は彼が食料調達しに外へ出向いた。いつも通り木の実を採っていると、この日はいつもと違うことが起きた。
「あなたがこの山の主かしら。」
満月の夜…
「うが〜!」
バタバタ
慧音は宙に浮き身体をバタつかせている。
「慧音、慧音〜。」
(これ、効果あるのか?)