「アスナちゃん、とどめお願い!」
「うん。アイさん任せて」
青い毛色をしたイノシシの横腹に深々と槍を突き刺したアイと呼ばれた女性が、もう一人の女性、アスナに声をかける。
頼まれたアスナは手にする細い刀身の
両者の視界に黒枠白地のウィンドウ、
「わぁ……アスナちゃん、だいぶ……えっと、なんだったっけ?なんとかソード?が安定して出せるようになったね」
「うん、ありがとう。あとアイさん、ソードスキルよ。やっぱり何回も繰り返すと慣れてくるわね」
槍を寝かせて両手で持つアイに、アスナは腰のベルトに吊り下げられた鞘に細剣をおさめて返事をする。かちん、と澄んだ金属音が小さく鳴った。
「あはは、なかなかゲームの専門用語を憶えるのは難しいなぁ。勉強は苦手じゃなかったはずなのに」
「勉強とは違うもの。興味のあるなしが関わってるんじゃないかしら」
「確かにこれまでは興味なかったけど、さすがにこれだけのクオリティのゲームとなったら私でも興味がわくんだけどなぁ」
ほわほわと柔らかい笑みで返すアイを見て、アスナも思わずつられて頬を綻ばせた。
「まあ、わたしもこれまでゲームなんてほとんど触ったことなかったから、アイさんと変わらないけどね。本当にすごいわよね、ゲームとは到底思えないわ……この世界は」
どちらともなく、視線を周囲に巡らせる。
見晴るかす深緑色の大海原。
冷たさをはらみはじめた秋の風が背の低い草木をなぶり、寄せては返す波のような風景をつくり出していた。
アイやアスナが口にした通り、それらの光景は現実のものではない。
ナーヴギアと呼ばれる、格闘技などで使われるヘッドギアのような形状の、全感覚投入型ヴァーチャルリアリティインターフェースマシン。頭をすっぽりと覆うその機械を使用した、世界初のフルダイブ型ゲーム。ここはソードアートオンラインというゲームの中であり、いわば人の手によって作られた世界である。
しかし内実は、人工的に生成されたとは思えぬほどの繊細さだ。
冬の訪れを感じさせるひんやりとした風。風に撫でられゆらゆら揺れる草原は微細に光を反射させる。地平線の向こうには暗みを伴い始めた太陽と思しき光源。
手にする武器の手触りや重厚感、モンスターへ攻撃を加える際の手応えや感触など、モニターに映し出される映像を見ながらプレイするこれまで存在した凡百のゲームとは一線を画すものだ。
周辺にいたモンスターは狩り尽くされたため、ぐるりと見回しても敵の姿どころか影も見えない。現実では味わえない幻想的な世界を眺め、アイは目を細めながら口を開く。
「最初に街を歩いた時にも思ったけど、細かいところまで精巧に作られているもんね。現実と遜色ないくらいだよ。最近のゲームはすごいなぁ」
「ほんとね。でもなんだかアイさん、言い方がおばあちゃんみたいよ?」
「ひどいっ!?私まだうら若き乙女だよっ!」
愕然、という大きなリアクションをしたアイを見て、口元を押さえながらくすくすと笑い声をもらした。
「ふふ、ごめんなさい」
アイがぷくっと頬を膨らませれば、アスナはなおも笑いながら謝罪する。
「まったくもう、失礼しちゃうよ」
誠意は欠片もなかったけれど、アスナに悪気があったわけではないことなど言うまでもなくわかっていたアイは気にした風もなく許した。
「それよりアスナちゃん、時間は大丈夫?もう十七時過ぎだけど、予定とかない?」
「もうそんな時間?」
尋ねられたアスナは人差し指と中指を揃えて上げて、真下に振る。
アイの視界にはただの白い板にしか見えないが、今アスナの目の前にはメインメニューが表示されているのだろう。
アスナの目が右下に動く。時間を確認したアスナはアイに向き直った。
「もうちょっと続けたいけど親がうるさいから、わたしはそろそろ終わりにしようかな……」
名残惜しそうにオレンジ色に染まりつつある草原と自分を交互に見るアスナへ、アイは背中を押すように言う。
「ゲームと実生活のバランスはしっかりしておかなきゃダメだよ?また明日一緒に遊ぼうよ、ね?」
「んん……うん、わかった。また明日もお願いするわね。今日はちょっとしかできなかったけど、楽しかったわ。ありがとう、アイさん」
「ううん、そんなの私こそだよ!初対面なのに一緒に遊んでくれてありがとっ。ゲームの醍醐味っていっても、やっぱり一人で街を出てモンスターと戦うのは不安だったから、来てくれてすごく心強かったよぉ」
素直に、そして礼儀正しくお礼を言うアスナを見て変なスイッチが入ったのか、アイは背後からライトエフェクトでも発生させているかの如き輝きを放ちながら、より一層笑みを深くしてアスナに抱きついた。
腕を背中に回してぎゅぅっと抱き締めてくるアイに、アスナは反応に困りつつも笑みを絶やすことなく、されるがままになっていた。
「それじゃあ、また明日……だね。フレンド登録……だったかな。それやってるから、ログインしたらすぐわかるよね?」
「そう、ね。フレンド登録でログインしてるかどうかはすぐにわかるみたいだし、そこからメッセージも送れるみたい。何時にこっちに来れるかはわからないから、ログインしたらすぐにフレンド欄をチェックしましょう。それならすぐに合流できるわ」
喜色満面だった顔に
「そっかぁ、それなら安心だね。じゃあアスナちゃん、また明日ね。今日はお疲れさま、ばいばい」
「うん……また明日、アイさん」
少しばかり力強さが失われたアイの
まだここで一緒に遊びたいという欲求を懸命に
だが、ここで問題が発生した。
「あれ?……ない」
ぽそりとアスナが呟いた。
友人と呼べるまで仲良くなった人がログアウトするその瞬間まで一緒にいて見送ろうとしていたアイは、
「アスナちゃん、どうしたの?なにがないって?」
「えっと……ログアウトボタンがどこにもなくて……」
「え、ほんとに?」
「わたしのだけがおかしいのかしら?アイさんのも見てもらえる?」
ん、と一言了解の意思を告げて首を縦に振ったアイは、自身もメインメニュー画面を呼び出し、ログアウトボタンを探す。テレビゲーム全般に不慣れなアイはメインメニューの操作でまず
「ほんとだ、私のほうにもなかったよ。なんでだろ?このゲームを作った人はログアウトボタンを作り忘れちゃったのかな?」
アイは小首を傾げながら自分の考察を付け加えてアスナに返答する。
アスナはアイの意見を聞いて、されど首を横に振って明確な否定を表した。
「そんなことありえないわ。ちょっと前にニュースでも大々的にやっていたでしょ?このゲームの試験的な運用テストをする人を募集したら定員の数十倍の応募があったって。実際にプレイして不具合がないか、割と長い期間にわたって調査……えっと、期間はどれくらいってアナウンサーの人は言ってたかな……」
右手の指先を額に当てながらアスナが記憶を探る。だが随分と前にちらりと目に入ったニュース、しかもその時はさほどの興味を感じていなかったこともあり、目当ての情報をすぐには引き出せなかった。
うんうんと、特に話に深く関わっているわけでもないことに、有り体に言えば
「たしか一ヶ月だったねぇ」
「そうそう、一ヶ月だったわ。よく憶えていたわね。その時からこのゲームには興味があったの?」
「興味も関心もなかったけど、なんだかすごい、って感じでニュースに取り上げられてたから頭に残ってたよ。これでもけっこう記憶力には自信があるんだぁ」
「そのわりには、ゲームの専門用語はぜんぜん憶えられていませんけどね」
「うきゅっ……、アスナちゃん意地悪だぁ……」
しょぼん、というわかりやすいリアクションをするアイに、アスナは笑いながらごめんなさい、と一言謝り、話を本筋に戻す。
「それで……えっと、そう。一ヶ月もテストしてるんだから、こんなにわかりやすいミスは犯さないはずでしょ?」
「それもそうだね。取扱説明書には、メインメニューからログアウトボタンを押してゲームを終了する、っていう、これだけしかゲームをやめる方法は載ってなかったもん。その唯一の方法が使えないとなったらゲームをやめたくてもやめられない。ゲームの中から出られないもんね。初日からそんなことになったら、ゲーム自体の評価が落ちたり、ナーヴギアの安全性にも関わってきちゃう。これから発売する分のソフトの売り上げに影響するなんてものじゃない……危険性を指摘されたら会社の存続すら危うくなるんだから、悪評に繋がりかねないミスなんてあるわけないかぁ……」
「…………」
「ん?あれ、アスナちゃん、どうしたの?」
アイが下唇に右手の人差し指の先をちょこんと当てながら自分の考えていることを口にした。
流れるような調子で語るアイを、アスナは驚きを隠そうともせずに目を丸くしてじっと見ていた。アイに名前を呼ばれたアスナはおずおずと言う。
「『どうしたの?』はこっちのセリフよ。そんな賢い人みたいな考察、アイさんのキャラじゃないわよ?」
「なんだかとっても強烈な悪口を言われたぁっ!アスナちゃんの中で私はどういう人になってるのっ?!」
「誤解を恐れずに言えば、だいぶ格の高い能天気さんなのかなぁ……と」
「どストレートすぎる印象だったぁっ?!」
「も、もちろん良い意味で、よ?」
「いまさらフォローしても手遅れすぎるよ!ていうかフォローにもなってないよぉ!」
「それより今は、どうやってこのゲームをやめるかの方が大切だわ」
「内心複雑だけど……その通りだね。とりあえず……もう一度見直してみよっか」
口元をへの字に曲げながらアイはもう一度メインメニュー画面に目を落とす。
指先でタップ、スワイプしてログアウトボタン、もしくはそれに類するボタンがないか画面内をくまなく探すが、やはり存在しなかった。
このあたりでアイは、本来発汗などの機能はないはずの
同じようにメニューウィンドウを再確認していたアスナは、アイの小さな変化を察することなく、気を落としたように弱々しく言う。
「やっぱりないわね……」
「ない、ねぇ……」
「どうしよう……。そろそろ本当に向こうに戻らないとお母さんに怒られちゃう……」
「……んぅ、そう……だねぇ……」
アスナと同程度、もしかしたらアスナ以上にゲームという分野に触れていなかったアイにはもう取れる手は残されていなかったが、それでも沈黙と静寂を避けるために声を絞り出す。この状況で黙り込んでしまってはさらに気持ちが沈んでしまう。どうすればいいかわからないことからの焦り、パニックを恐れていた。
アイは必死に頭を回し、なにか他に手段がなかったかと思い出す。
トランプや囲碁、将棋などアナログなゲームであれば多少ディープな範囲まで知識を有しているアイだが、このようなデジタルの最先端とでも言うべきフルダイブ型ゲームの情報など持ち合わせていない。それこそ、プレイ前に目を通した取扱説明書と、軽妙な文体でSAOの解説をしていた個人運営のウェブサイトを覗いた程度。知識量ではアスナとタメを張れてしまうほどだ。
と、そのあたりまで考えて、思い出した。くだんのウェブサイトで、ちらりとだけ読んだ一文を。
「あ、そうだぁ!こういう時はGMっていうのに連絡するんだ!」
「じーえむ……?」
「えっと、私も詳しくは知らないんだけどね。SAOっていうゲームがどんなものなのか調べておこうと思って検索したら、とあるサイトが出てきて、そのサイトの中で書かれてたんだぁ。SAOは初のバーチャルリアリティゲームということもあって、システムを悪用したイタズラが多くある……らしいの。そういうのを見かけたら、もしくは巻き込まれたら、速やかにGMに報告しよう、みたいな意味合いだったよ。今の状況はそういうイタズラとかじゃないと思うけど、似たようなものって言えるんじゃない?だからそのGMっていうのに報告してみたらなにか変わるんじゃないかな?」
「そう、ね。もうわたしたちにはどうしようもないもの。第三者の力を借りましょうか」
アスナはアイの提案を受け入れるとメインメニューウィンドウに目を向け、その中から製作者や管理者に問い合わせられるようなボタンを探す。解決策になるかもしれないと思ってか、いつのまにか
アスナはメインメニューの五段目、歯車の形をしたボタンをタップ。本来ならばログアウトボタンがあっただろう空欄の一つ上、ヘルプボタンを押した。
すると、赤いフード付きのマントを羽織った老人のイラストが出現した。一瞬の間を置いて、その老人のウィンドウの前面に小さな窓が開かれる。
「あ、なにか出てきたわ。ジーエム、コーリング……呼び出し中みたいよ」
「解決したらいいねぇ」
「ひとまずすぐにでもログアウトさせて欲しいわ」
じゃないとお母さんにナーヴギア取り上げられちゃう、兄のナーヴギアなのに。
そう言ってアスナは笑った。
沈んだ
「それにしても、GMってなんの略なのかしら?やっぱり……」
「ぜ、ゼネラルマネージャー……かな?」
アスナが訊いて、アイが答える。ゲームに明るくない二人は、お互い首を
「わたしもそれくらいしか思いつかないけど、いくら総責任者って言ってもこんなクレーム処理みたいなことをするのかしら」
「もしかしたら違う英単語の頭文字なのかな?詳しい人がいたら聞いてみたいなぁ。こういうのを知らないままで放置って、なんだかもやもやするよね」
「その気持ちすっごくわかるわ。わたしも同じ性分だもの」
などという、ゲーマーが聞いたら
「……繋がらないわ」
「ログアウトボタンがなくなったことを知って、みんながGMさんに連絡しようとしてる、のかもしれないね……」
「もうこっち側からゲームをやめる手段は……」
「…………」
ゲームをやめる手段は、ない。その一言を、アイとアスナ、両者はなぜか口に出すのを
悪い予感とともに、居心地の悪い空気が流れる。
ログアウトする方法は見つけられずともなんとか気持ちが落ち込んでしまいそうな雰囲気を取り払おうと、アイは言葉を
その一瞬前のことだった。
とても、とても大きな鐘の音がオレンジ色に塗り替えられつつある草原に鳴り響いた。草原だけではなく、岩石と鋼鉄で組み上げられた巨城、アインクラッド全体に轟けと言わんばかりのとち狂った大音量だった。
「ひにゅっ!?」
「きゃあっ?!な、なに?!」
突如聞こえた大音響に、アイとアスナは耳を押さえて身を縮こませる。
鐘の音自体は
「街のほうから聞こえてる、のかな……。たしか街の中央にあった広場におっきな鐘もあったし……」
「で、でもなんで急に……」
現状の把握すら許さぬまま、状況は流転する。
眩い光に、二人の身体は包まれた。
*
「ここ……はじまりの街の、広場……。やっぱりあの時計台の鐘の音だったんだ……」
視界をホワイトアウトさせた輝きが収まった頃を見計らって目を開けば、アイは広大なはじまりの街、その中央広場にいた。気まぐれに散策した時にアイも通った場所だった。
「なんで、いきなりここに……?なんだか人もたくさんいる……」
「あ、アスナちゃん!良かった、一緒にこれてたんだね」
すぐ近くから聞こえた声に気付いてアイが振り向けば、きょろきょろと辺りを見回すアスナの姿があった。
アイはてとてとと早歩きで近づき、アスナの隣につくと、怯えるように震えている彼女の手をぎゅっと握る。冷たくて小刻みに揺れていたアスナの手は次第に震えが止まり、じわじわと温もりを帯びてアイの手に伝わった。
「大丈夫だよ、アスナちゃん。きっと今日がこのゲームの記念すべき開始日だから、そのお話をしたりするんじゃないかな。朝会とかで校長先生が講話したりするじゃない?そんな感じだと思うよ?」
「例えがアレだけど……身近な話だからすごくわかりやすいわね。……そう、なのかな」
「…………きっと、そうだよ。あんまり深く考えなくてもいいんじゃないかな?」
胸中にわだかまる嫌な予感を打ち払うように、アイは言った。それはアスナに、というよりはまるで自分に言い聞かせているような音が見え隠れしてした。
しゅわ、という音とともに至る所でプレイヤーが転送されてきている。それでも全プレイヤーを招集するにはもうしばし時間が必要らしく、アイとアスナはなごやかに談笑しながら待っていた。
「……みんなでおせんべいあげてたんだけど、そしたらね、そのお友だちったら公園にいた鹿さんに……あれ?なんだろ?」
隣に並ぶアスナと雑談していたアイの視界が急に暗くなる。話を切って頭上を仰ぎ見る。
「ちょ、ちょっとアイさん、ここでお預けなんてひどいわ。オチは……そのお友だちはどうなったの?ねえ、アイさんっ」
ついさっきまで鮮やかなオレンジ色だった空が赤黒く染め上げられていた。
次いで、金属同士を擦り合わせたような不快な音とともに、赤黒いフードつきの、漫画やファンタジー映画に出てくる魔法使いが着てそうなマントが出現する。空中に浮遊して落ちることのないその巨大なマントの中に人はおらず、下から覗く限り服の内側には凝縮された闇しか入っていない。顔もなく、足もない。ただ、白い手袋に覆われた両手だけが、マントの袖から生えていた。
アスナの手をきゅっと握り、アイは空いているもう片方の手で空中に浮かんだマントを指差す。
「ほら、アスナちゃん。たぶんあれが運営してる人だよ。きっとこれから説明が……」
「今となってはあの人の話よりアイさんの話の結末のほうが気になるのに……」
アイの言葉は、しかし途中で
遮ったのは天から降り注ぐ、妙なエフェクトがかかった
『私の名前は
その一文から始められた口上は、アイの予想した通り『説明』であった。惜しむらくは、その内容が望んでいたものの正反対だったことだった。
*
『以上でこの世界、アインクラッドの説明を終了する。頑張ってくれたまえ』
呆然として言葉を発せないアイとアスナを取り残したまま、否、アイとアスナだけではない。この広場に存在する一万人弱のプレイヤー全てを置き去りにしたまま、茅場晶彦と名乗った血色のマントの男は霧のようにかき消えた。
あまりに急すぎてついていけないプレイヤーたちは、皆総じて押し黙るしかない。広大な広場には、大勢の人が集められているにもかかわらず静寂の
「ね、ねえ、アイさん……さっきのって本当なの、かな?」
ゆるゆるとした緩慢な動きで、アスナは上に向けられていた視線を隣に移らせる。
「…………」
アスナに問い掛けられたが、アイはすぐには答えられなかった。返すべき答えを持ち合わせていなかった。
アイとて、アスナと状況は同じだ。知人に勧められたことで手を出したゲーム。もちろん詳しくなんてあるわけないし、テレビゲームすらまともにやったことのないアイには道標にすべきセオリーもわからない。こんな窮地に陥った際に取るべき行動なんて全く知らないのだから、動きようがなかった。
「とりあえず……今はさっきの人が、茅場晶彦が言っていたこと、信じておいたほうがいいと思うよ、アスナちゃん」
されどもアイは、この世界は現実世界の延長線上にある、と自分の中でフィルターをかけることでどうにか指針を得た。災害など自分の力が及ばない事態に遭遇した場合、安易で無思慮な行動は控えたほうがいいという知識と、理解に
「で、でも……あの茅場って人が言ってたことはめちゃくちゃだったわ。あんなの……どう信じろって……」
彼女が望んでいた答えではなかったのだろう。眉間に皺を刻みながら、アスナはアイに反論する。
その返答を受けて、アイはオレンジ色に戻った空の中空あたりを睨めつけた。今はもう姿が見えない赤黒いマントの男の幻影を
「すぅ、はぁ……」
茅場晶彦への怒りは収まるところを知らず、轟々と燃え上がり続けるばかりだが、ひとまずその激情は脇に置く。アイは落ち着きを取り戻すべく深呼吸して、表情に緊張が入らないように努めてからアスナに向き直る。仮想の身体の、仮想の呼吸器官だったが、荒ぶる心を鎮火させるには効果があった。
「たしかに言ってることめちゃくちゃだったよね。一万人弱もゲームの中に閉じ込めておいて、自分は技術や能力をひけらかすような語り方もすごく腹が立ったよ」
「そ、そうよね。でも、だったらなんでアイさんはあの男の言ってることを信じるなんて……」
「ナーヴギアを外そうとしただけで死んじゃうとか言って、しかもそのせいでもう二百人以上も死んじゃってるとかのたまってさ」
「あの、アイ……さん?ちょっと落ち着いて……」
一呼吸置いて落ち着いたはずのアイだったが、喋っているうちに怒りが再燃してきたのかアスナの制止の声も耳に届くことなく、製作者である茅場晶彦への恨み言が
草原にいた時には微塵も感じさせなかった
「しかもこの世界から脱出するためには百層もあるフロアをクリアしないといけないとか、いったいどれだけの時間がかかるかわからない……頭のネジがダース単位で抜け落ちてるとしか思えないよ。それに左上に見えてる緑色のバーがなくなったらゲームからどころか現実世界からも退場……死んじゃうなんて……ほんとどうかしてる。こんなのを自信満々で作って、居丈高にシステムを紹介するなんて、まさしく狂人だよね。現実とゲームの世界をごっちゃにしてる痛い人だよ」
「う、うん……。私もそう思うけど、そこまで言わなくてもいいんじゃ……」
草原にいた時のほわほわした
「でも、そんなにおかしいって思うのならなんで信じろなんて言うの?」
「あの茅場っていう運営の人の言葉を信じずに外に出て、イノシシとかオオカミと戦って負けちゃって、それで本当に死んじゃったらどうしようもないでしょ?命がかかってる可能性がある以上、
「この状況が、理由?」
「確証はないけどね。えっと……」
アスナの質問にアイが答えようとしたが、途中で止まる。アイの肩に見知らぬ女性プレイヤーがぶつかってきたからだ。
意識のほとんどをアスナに向けていたアイは不意の接触に、わひゃうっ、という奇怪な声をあげ、
「あの、えっと……君は?」
ぶつかってきたプレイヤーはアイの
もう何もないはずの空、もう何もいないはずの空を見上げる彼女につられて、アイも頭を上げた。
「なんで……また、出てきてるの……?」
夕焼け色はそのままに、しかし霧散したはずのコートの男が再び現れていた。
にわかに、アイの背筋に寒気が走る。現状でも高過ぎると言っていい難易度なのにまだ引き上げるつもりなのか、そんな嫌な想像が脳裏によぎった。
だが、その想像は結果として裏切られることとなる。他の大多数のプレイヤーにとってどうなのかは知る由もないが、少なくともアイにとってはそれほど困るものではなかった。
『いや、失敬。私としたことがうっかり失念してしまっていた』
口では失敬などと言いながら、少しも申し訳なさそうな気配を出さずにマントの男はそう言った。
茅場晶彦、数分ぶり本日二度目の登場に広場がざわつく。
まだ何かやる気かよあのアンポンタン、お呼びじゃねえよ引っ込め厨二病、さっさとログアウトさせろよオタンコナス、など烈火の如きブーイングは歯牙にもかけず、茅場晶彦は袖を
『いやはや、嫌われてしまったものだ。さて……プレイヤー諸君へプレゼントがあるのだ。アイテムストレージに入れておいたので、ぜひ手に取ってくれたまえ。では、健闘を祈る』
こちらの反応など求めていないとでもいいたげに早口にまくし立てると、マントの男は一度目と同じように空間に溶けて消えた。
「結局なんだったんだろう」
アイが首を傾げて呟いた。
「アイテムストレージに入れたって言ってたわね。確認してみましょう」
アイは
「そうだね。見てみよっか。っと、君、大丈夫?」
「う、うん……ごめん、なさい。動揺、しちゃって……」
女性プレイヤーは一言謝って、アイの腕から離れる。その女性はちゃんと応答できていたが、無理をしているのが丸分かりなほど顔が青ざめていた。
アインクラッドの感情表現エンジンは多少大雑把で、プレイヤーの心理を過剰に表すふしがある。だが、その感情表現の
そんな女性プレイヤーに、アイはふにゃりと頬を緩めて笑顔を見せる。茅場晶彦への
「そりゃあいきなりこんなことになったら慌てるよねぇ。私も隣にアスナちゃんがいなかったらきっとすごくあたふたしてたよぉ」
アイは空いた左手でアスナの手を握った。
意図を察したのか、アスナは一歩前に出て二人の会話に参加する。
「たしかに一人じゃ心細いわよね。わたしもアイさんがいなかったらと思うと、すごく胸がざわざわするもの」
「やった!アスナちゃんがデレた!」
「デレてません。あと今のでアイさんの評価が一ランク下がりました」
「ツンに戻るのがはやいよぉ!九対一でツンのほうが多いっていうのは
「そんなの知りません」
「ぷっ、あははっ」
場にそぐわない
その女性は、笑いすぎて目元に浮かんだ涙を拭った。
「こんなことになっちゃったっていうのに……おもしろい人たちだなぁ。あたしはリズベット。あたしも二人と一緒にいていい?」
リズベットがおずおずと言った風に申し出ると、アイは喜びに顔を輝かせた。瞳にキラキラとしたエフェクトが発生しそうな勢いである。
「もちろんっ!一人より二人、二人より三人だよ!人が多いにこしたことはないもんねっ!いいよね?アスナちゃん」
「ええ。といっても、わたしたちもこれからどうすればいいかとかはわからないけど……」
「さっき茅場ってのが何かアイテムを送った、みたいなこと言ってたじゃない?」
アイとアスナは揃って、そうだった、という仕草をした。もともと何を送られたのかを確認しようとしていたのを、リズベット参入の話で忘れてしまっていたのだ。
「そうそう、あいてむすとれーじ、とやらを確認しようって言ってたんだった」
「……アイさんが話を脱線させたから」
「忘れてた原因まで私になっちゃうの?!」
「あははっ。二人、仲良いわね」
アイは頬をむくれさせて、アスナは朱を差して、リズベットは口元を
仮想世界のウインドウに慣れていないアイがえっちらおっちら手間取っていると、突然、シュワッ、というサウンドが耳に届いた。ほぼ同時に、手元に長方形の物体が出現する。落下し始める寸前に現れた物をキャッチした。
「なんだろ、これ。鏡かなぁ?」
アイは
端的に表せば、鏡面加工が施されたシンプルな板だった。枠もなければ装飾も施されておらず、持ち手すらない。製品として売り出す前の、置くタイプの鏡の一部といった印象のアイテムだ。
「鏡、よね」
「鏡、だわ」
アイと違って、既にアイテム欄から探し出してオブジェクト化していた様子のアスナ、リズベットが続いた。
「たぶんこれが、茅場晶彦が言ってた『プレゼント』だよね?」
「なにかしらね。これで髪を整えなさいとでも言うつもりなのかしら」
「整えるもなにも、ゲームの中なんだから髪は乱れないし、化粧も崩れないでしょ。いったい何に使えっていうのよ。しかも鏡としても使いにくいったらないわね。せめて持ち手くらいつけときなさいよ」
アイが二人に意見を求め、アスナが若干茅場晶彦を小馬鹿にして、リズベットがせっかくの贈り物をこき下ろしていたその瞬間だった。
前触れなんてまるでなく、アスナとリズベットの身体が光に包まれた。
二人だけではない。周囲にいたプレイヤーも眩い閃光に覆われていた。
何が起こっているのか。それを理解する間もなく、アイの視界もホワイトアウトする。
「な、なにが起こって……っ!あ、アスナちゃんっ!リズちゃんっ!大丈夫?!」
かたく瞑目してもまぶたを突き刺す眩しさに耐え、光が収まった頃、ばちっ、と音がしそうなほど激しく目を開く。アイは二人の安否がただただ心配だった。
視覚が復調するや否や、周囲を見回してアスナとリズベットと姿を探す。二人の姿は、もうなかった。
「っ……なんなの、もう……っ!」
二人がいない。
茅場晶彦が送って寄越したアイテムが原因なのか、それともゲーム内容の講説を垂れ流したあと自動的に場所を移されるように仕組まれていたのか、アイには知る術はない。もしかしたら何グループかに分けて攻略するようにとの運営側からのお達しなのか、とそこまで考えて、アイはふるふると頭を振ってネガティブな思考を払い落とす。
いくら狂人・茅場晶彦でもそんなアンフェアな真似はしないはず。
動揺している頭を一度クールダウンして、アイはどうするべきかと考える。しかし冷静になりきれていない部分が、右手に握り締める手鏡を
まだこの広場にいるかもしれないという可能性を試そう。慌てふためくのはその後でいい。
混乱の
「すうぅぅ……アスナちゃんっ!リズちゃんっ!どこぉっ!」
「うるさいわよ、アイさん!」
ぱこん、といういい音とともに頭を叩かれた。
アイの名を呼んだその声は、すぐ近くの、というよりも真隣から聞こえてきた。
「わあぁっ、よかったぁっ……近くにいたんだぁっ」
「きゃあっ!な、なんなの?」
数時間しか一緒にいなかったのに既に耳に馴染んだ、鈴を転がすような麗しい声。それを知覚するや、アイは声が聞こえた方向へとタックルしていた。
細いウエストに抱きつき、声の主、アスナに擦り寄る。
えぐえぐと涙ぐみながら、しかし今度は友人と再会できたことで冴えてきた頭が違和感を訴え始めた。
抱きついたことで背中に回した両手に、こそばゆさを感じたのだ。
おそらくこの感覚は手に髪があたっているのだろうとアイは予想するのだが、アスナの仮想体の髪は、肩に触れる程度の長さだった。今はどう見積もっても腰のあたりくらいまではある。
これはいったいどういうことだろう、と思い至って、アイは細くて柔らかいアスナのお腹から顔を離し、抱きついてしまっている相手の顔を確認するため頭を上げる。
「わぁお……」
アイの口から、思わず感嘆のため息がこぼれた。
そこには、耳がとんがっていないエルフがいた。
美しく艶のある栗色の長い髪に、引き込まれそうな飴色の虹彩。凄絶なほどに整った
はじまりの街に降り立ち、草原で一緒にイノシシやオオカミと戦っていたプレイヤーの姿とはまるで違う。デフォルトで用意されていたプレイヤーキャラクターをちょこっといじりました、みたいな容姿だった『アスナ』とは比べるべくもない綺麗な女の子。
そんな子がアイの目と鼻の先、距離に換算して十センチほどの位置にいた。
アイより幾つか年下と推測される、とても、とっても綺麗で可愛い女の子だ。そんな女の子にひっつけるのはアイとしては嬉しいハプニングと言えるが、今はそこには喜べなかった。
探し人の『アスナ』とは別人だったのだから。
アイは小首をかしげて呟いた。
「どなたさま?」
「あれ、アイさんじゃ……ない?た、叩いちゃってごめんなさい」
首を傾けたのはアイだけじゃなかった。至近距離に対峙する女の子もまた、不思議そうにアイを見ていた。
アイは女の子の顔に見覚えはなかったが、相手は自分の名前を知っている。それがまた謎を呼び、
「二人とも、鏡で自分の顔見てみたら?」
またすぐ近くから聞き覚えのある声がした。抱き合ったままの状態でがっしりとキープされているため離れようにも離れられない美少女とアイが揃って目を向けた。
ボリューム感のあるふわふわとしたショートの髪は少々癖っ毛なようで、ところどころぴょこんとはねている。勝気な印象を人に与えるきりっとした
「えとえと……君は?」
「リズベット。さっき大声で叫んでくれちゃってたでしょ」
「えぅえぇっ!な、なんで……」
「それはいいから、アイさんも鏡見て」
「う、うん……」
納得いかないまま不承不承といった様子で、それでもアイは素直に指示に従った。
リアルの鏡であれば、鏡としての機能を失うくらいの亀裂が入っていてもおかしくはないほどアイの右手に強く握られていたが、鏡面にはひびどころか傷一つついていなかった。茅場晶彦からの贈り物である手鏡は相当な耐久性があるようだ。
長方形の鏡の下端を指先でつまみ、顔の高さまで
ソードアートオンラインはゲーム内で動かす身体を、つまりはアバターを自由に設定できた。性別、身長、体型など序の口で、輪郭や目の色といった細かいところまで、手を加えようと思えばどこまでも可能。それらエディットの項目は百以上あるため、アイはキャラクター作成を早々に諦めて初めから用意されていた特徴など何もない普遍的なアバターを選択していた。
鏡でも
しかし、鏡に映っていたのはそんなものではなかった。
アスナやリズベットとは種類の違う美人が、そこにいた。
「あれ?……私の顔だ」
村娘アバターが綺麗さっぱり消え去ったのを確認したアイは、ぽそりと小さく呟いた。
ようやく自分の容姿の変化を認識したアイに、リズベットは手を腰に当てて困り顔で言う。
「どういう仕組みでこんなことができるのかはわからないけど……この手鏡は現実の姿に変えるためのものみたいよ。…………結構気合い入れてアバター作ったんだけどなぁ」
リズベットから現状の説明を聞いたアイはしばし
「それじゃあアスナちゃんやリズちゃんのお顔も、現実と同じ……本物ってこと?」
「んっと……ゲームの世界で本物っていうのもおかしい気がしないでもないけど……現実とほとんど違いなんてないから本物って呼べる、んじゃないかな?」
リズベットの返答を聞いて、アイは瞳を輝かせた。
逃さないように左手で捕らえたままのアスナの顔に、自分の顔をぐっと寄せる。
「すっごい!アスナちゃんすっごいきれいっ!まつげ長いし目もぱっちりしてておっきい!」
「いや、それを言ったらアイさんのほうが綺麗で……っていうかアイさん、近い……」
光を放っているかの如き青の
「アスナちゃんはそれはもう、びっくりするくらい美人さんだよぉ。……ちらり」
「ん、え?なに?」
顔を背けていたその隙を突き、アイは押してくるアスナの左手を右手で握ると、今度はリズベットに矛先を向ける。一人だけ若干の距離をあけ、我関せずといった立場を保っていたリズベットへと思考すら許さぬ速さで飛び込んだ。
「リズちゃんも可愛いよぉっ!」
アスナを引っ張りながら、アイは左腕でリズベットにくっついた。絡みついた、ともいえる。
「髪ふわふわ!目はきりっとしててかっこいいし、羨ましいなぁ」
「わあぁっ!?」
「ちょっ、アイさん、手を握ったまま走らないでっ」
ここ数時間、ともに草原でモンスターを狩るなどしていたアスナはすでに免疫がつきつつあるが、今さっき出会ったばかりのリズベットはアイの過剰なスキンシップに慣れていない。リズベットは顔を赤らめながら、これといった対抗手段も講じることができずにされるがままとなった。
*
「んー……あれ?」
ひとしきり女の子を可愛がったアイは満足したのか、ハラスメントコードに引っかかる寸前を器用に見抜いたセクハラは小康状態となる。依然としてアスナとリズベットの手はひっしと掴んだままであるが。
アイの左手側、リズベットがため息をついた。
「なんかあたしはもうどっさり疲れたよ……。嘆く暇もないなんて」
「アイさんと一緒にいるってこういう意味よ。慣れるか妥協するか諦めるかしないと、ただただ疲れることになるわ」
「
「疲れるけど寂しくならないことだけは保証できるわよ。……アイさん、さっきからきょろきょろしてどうしたの?」
「なんだか……男の人増えてる?私の気のせいかなぁ」
一時は離れ離れになったかもしれないと思って気が動転していたが、二人と再び会えたことで余裕が出てきたアイはふらふらと周りを見やる。
アイの言う通り、男性プレイヤーの数は増えていた。半々、とまではさすがにいかないにしろ、六対四の比率の四程度はいた女性プレイヤーが、今は探さなければ見つからないほどまでに減っていた。
「たしかに減ってるわね……なんでかしら?」
アイの言葉を聞いて、同じように見回したアスナが言う。
心底不思議そうにするアイとアスナを横目で見たリズベットは苦笑いした。
「ああ、なるほど……二人はゲームに詳しくない人なのか……。えっとね、それは……」
そこまで言ったリズベットのセリフを、空気が爆ぜるような絶叫が塗り潰した。全身を光に包まれて戸惑っていたが鏡を見て現実の自分の姿になったことを、他のプレイヤーも認識したようだ。
茅場晶彦へ膨大な数の罵詈雑言悪罵痛罵が噴出したが、要約すると大体下の通り。
ふざけんなよキャラクター作るのにどれだけの時間と労力がかかったと思ってんだ茅場ァっ!現実の姿形に変えるんなら先に言っとけよこのクソ野郎!リアルと同じにするってわかってたらこんな痛い名前にしてねぇんだよォ!このビビッドピンクのスカートで街中歩けってのかよボケッ!せめて名前を変更する機会をください茅場様!
至るところから湧き上がったそんな怒号、悲鳴、
「ログアウトボタンがなくなった、って言われた時よりも文句が多いわね……」
「体力がゼロになったら死んじゃうっていうことよりも容姿のほうが大事なのかなぁ?」
「まあ……コアゲーマーには色々あるのよ、色々」
こんなところに長時間いては精神に異常をきたしかねない。なのでアイは男共の
「これからのこともあるしっ、とにかくお話ができる静かな場所に行こうよ!」
アイの透き通るような声は騒音を貫いて二人にまで届いたようだ。アスナとリズベットもアイを
二人の意思を確認したのち、アイは二人の手を引いて人垣をくぐり抜けながら広場を出た。
こんな感じでのんびり進むよ。
それでも読み続けてやんよ、って人はお付き合いくださいな。