優しい世界のつくりかた   作:にいるあらと

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歌う教会

十一月二十四日。教会の食堂にて全員(アイ、アスナ、リズベット、サーシャ、シリカ、ティアに加えてこれまでで保護してきた子どもたち)揃って朝食を摂ったあと、アイは教会の敷地の中でいちばん気に入っている場所、聖堂にやってきていた。

 

「ほぁー……やっぱりすっごいなぁ。とってもきれい……」

 

聖堂の最奥、司教座の背後上方にあるステンドグラスを眺めて感嘆の吐息をもらす。

 

青や白など心を落ち着ける色彩を基調とした配色、透明感のある薄青の衣装をまとった女性、その周囲でこうべを垂れる子どもや老人。見ているだけで自然と不安感が薄まって消えていく、そんな芸術品。暇を見つけてはここに足を運んでいた。

 

何をするでもなくアイはぼんやりとそのステンドグラスに目を向ける。

 

「あんな人になれたらなぁ……」

 

実在した人物と実際にあった光景をモデルにしたのかなんてわからないが、色のついたガラスで作られた窓でしかないのはアイにもわかっていた。教会の窓を彩るものとしてふさわしい構図を考えて作られたのだろうということも、やはりわかっていた。

 

それでもアイは、ステンドグラスの中央で子どもたちに手を差し伸べる女性のような、相手を慈しむ精神に憧れた。包み込むような優しい表情に目を奪われ、寛大さと包容力を羨ましく思った。

 

感情表現には乏しくとも芸術品からの感受性は豊かなティアが以前、ステンドグラスの女性を女神と表現した。なるほど神々しくもある。

 

そのステンドグラスの中の女性に少しでも近づきたいという念もあってか、アイはとある歌を口遊(くちずさ)む。

 

「Nearer……my God……to thee,nearer to thee……E'en though it be a cross that raiseth me……」

 

「お姉ちゃん……それ、なんの歌……?」

 

「にゃぴゃぁっ!」

 

座っていた会衆席から飛び上がるほど驚いた。朝食の時間のあとすぐに聖堂に訪れたのでアイは誰かが来るとは予想もしていなかったのだ。

 

ずり落ちた会衆席の下から見上げると、席の斜め後ろには、艶のある長い黒髪を今日はおろしているティアがいた。あまり変化の見られない表情と肩甲骨のあたりまで流れる黒髪が相まって、まるで日本人形のようだった。

 

「ぁ……ティアちゃんかぁ、びっくりしたぁ……」

 

「この建物の前を、歩いてたら……歌が聞こえて……だから、じゃましないように、しずかに入った……」

 

「そうだったんだ。気をつかってくれたんだね、ありがと」

 

「どう、いたしまして……?」

 

アイがティアの心遣いに感謝して、その小さな頭を撫でると、ティアはわずかばかりとはいえ目を細めて心地よさそうな表情をする。この少女にしては珍しいことだった。

 

「ティアちゃんはどこかに行く途中だったの?」

 

「ううん……お姉ちゃんをさがしてた」

 

「へ?私にご用?」

 

「ちがう。ただ……いっしょにいたくて」

 

「かっ、ふ……」

 

伏し目からのウィスパーボイスで、アイの心は射抜かれた。会衆席の座席部分に突っ伏してぷるぷる震える。

 

荒くなった息を整えてから、ティアへと向き直る。

 

「そ、そうだったんだね。すぐに食堂を出て行っちゃってごめんね?街の外に出かけるまで、一緒におしゃべりしてよっか」

 

常人では違いが分からないレベルでティアが小さく頷く。色素の薄い唇がかすかに動いた。

 

「……うん。最近、お姉ちゃんいそがしそうで……あんまりしゃべれなかった、から……うれしい、かも……」

 

「はぁぁぁぁっ……っ!かぁぃぃぃっ……っ!」

 

頬を緩めて小首を傾げるティアを見て、アイは声にならない声をあげた。暴走を抑える役目のアスナやリズベットもいないし、年下(ティア)が見ている手前、あまり取り乱して喜ぶことは自粛した。その結果、拳を握りしめながら座席に顔面を押し付けて呻く女という、年頃の娘がすべきではない絵が完成してしまっているが。

 

「うん、おしゃべりしよう!なんなら今日はお休みにしてずっとおしゃべりしてもいいくらいだね!」

 

「それだと、みんな困っちゃう……。……やっぱりあたしも、お姉ちゃんたちみたいに……」

 

「ティアちゃん、どうしたの?」

 

「……ん。なんでも……ない」

 

「そこだとおしゃべりしにくいよね。よし、ちょっと失礼してっ」

 

「わぁ」

 

素早く会衆席に座り直すと、アイはティアの脇の下に手を入れ、ひょいと持ち上げて自分の膝の上に乗せる。ティアからはなんの抵抗もなかった。

 

「これで完璧だね!」

 

「そう……?」

 

「そうだよっ!万事解決だよっ!」

 

「そう……」

 

ティアは頭上に疑問符でも浮かべそうなくらい不思議そうにしていたが、アイが勢いで自分の行為を正当化した。

 

アイの膝の上、しかも顔を突き合わせる格好になっているが、特段ティアは気にすることもなく、囁くような声で『……そういえば』と切り出した。

 

「さっきの歌、なんていう歌……だったの……?」

 

「えっと……ティアちゃんは聴いたことなかった?」

 

アイからの逆質問に、ティアは頭を横にふらふら傾ける。メトロノームのように黒髪が左右に揺れた。

 

ティアの返答に、アイの表情が固まった。どこか遠い目をしながら解説する。

 

「そっかぁ……そうだよね。今じゃ聴く機会なんて少ないだろうしねぇ……。さっきのは『Nearer, My God, to Thee』っていう曲でね。日本語訳では、『主よ御許に近づかん』っていうの。とっても古い映画があってね。その映画の中でも演奏されて、とっても有名になったんだよ」

 

「そう、なんだ……。どういう、意味の歌……なの?」

 

「んー……あんまり明るい感じの歌じゃないから、訳すのはやめとこっか」

 

アイは苦笑いで誤魔化しながら、ついでにティアの髪を手櫛で()くように撫でる。

 

ティアはティアでそこまで追及するほど気になっていたわけでもないようで、誤魔化されるまま撫でられるままで受け入れていた。

 

「お姉ちゃん、歌うの、じょうず……。……歌、好き?」

 

「うんっ!好きだよ!ティアちゃんは?」

 

「あんまり……。テレビ、見なくて……よくしらない」

 

「だいじょーぶ!私も流行にはぜんぜん乗れてないよ!歌は知らなくても、歌うのはどう?」

 

「歌うのは……そこそこ……?」

 

「そこそこ……」

 

「……あたし、あんまり大きな声、でなくて……音楽の授業でも、へた、だったから……」

 

「そんなことないよっ!」

 

ティアの自分を卑下するような言い方に、かっ、と頭が熱くなったアイは、勢いよく立ち上がろうとしたが膝にティアを乗せていることを思い出して急停止した。胸に(わだかま)る熱をどうにも発散できず、仕方がないので両手をわたわた動かした。

 

「歌っていうのは、ただ大声を出せばいいってものじゃないし、声が小さいからってダメになるわけじゃないの。歌っていうのは、もっと自由で、楽しいものなんだから!ティアちゃんなんてすっごく繊細で綺麗な声をしてるんだから、自信をもっていいんだよ!」

 

「……ほんとう、に……?」

 

「あたりまえだよ!そうだ、ちょっと練習してみよっか?」

 

「……練習?」

 

「そうっ!一緒に歌おうよ!」

 

アイは再びティアを担ぎ上げ、席を立つ。司教座の前に移動して、ようやくティアを下ろした。

 

「でも……できる、かな……」

 

不安そうにするティアに、アイは屈んで目線を合わせる。

 

「だれでも最初はうまくできないよ。でもね、やり続けていたらだれでも絶対うまくなれるんだ。だから、いっしょにがんばってみよ?デュエットとか歌えるようになったらきっとたのしいよ!」

 

アイの真摯な眼差しに、ティアはこくりと首肯した。

 

 

 

 

 

 

「アイさん、絶対忘れてるわよね。絶対忘れてるわよね!」

 

アスナのブーツがはじまりの街の石畳を強烈に踏み鳴らす。破壊不能(イモータルオブジェクト)設定がなされていなければ、亀裂くらい入ってもおかしくない力が込められていた。

 

「まあまあアスナ、そうぷりぷりしなくても。アイさん夜は忙しそうにしてるし、昼間はあたしたちと狩りに出てるし、自由な時間は朝くらいしかないんだからさ。大目に見てあげようよ」

 

「そうですよ、アスナさん。最近は夜もいっしょにいれないってティアちゃんがさみしそうにしてましたし、これもティアちゃんと会話する時間をとるためと思って……」

 

「……そうね。すぐに怒っちゃってちょっと大人気なかったわ。……でも『どんな緊急事態が起こるかわからないから常に備えは完璧に』って言ってた本人が、生命線である武器の修復を忘れるってどうなのかしら?」

 

「武器のリペアならあたしたちでもできるんだから、そこはフォローしとこうじゃないの。あたしたちにできない仕事を、アイさんとサーシャ先生が夜にやってるんだから。まあ?アイさんにはあとでリペアを忘れた件についてつっこませてはもらうけど?」

 

「結局、アイさんに言うんですね……」

 

アスナ、リズベット、シリカの三人ははじまりの街の門付近の一角、武器の商店が並ぶ通りに来ていた。その理由はアスナが述べたように、先日の戦いで消耗した武器の修復(リペア)のためだ。

 

武器は使うたびに損耗し、次第に刃毀(はこぼ)れし、最終的には武器が壊れて使えなくなる。戦闘中に武器が壊れてしまえばもちろん戦えなくなり、それはそのまま死に直結するので、武器が壊れてしまう前に武具職人のもとまで(おもむ)き、自分の得物の修復(リペア)を依頼する必要がある。

 

とはいえ、アスナたちは一度に倒すモンスターの数は多いが、四人でカバーし合って防御よりも回避に重きを置いて戦闘を行っている。よって武器防具の消耗はそこまで激しくないのだが、心配性なアイ(リーダー)の指示でこまめに装備品のリペアを行っていた。

 

「そりゃ言うわよ。アイさんが言い始めたことだもん。せっかくイジれる材料があるんだから、イジらなきゃね」

 

「なんだかちょっかいをかけるのが義務みたいになってますけど」

 

「だってアイさんってゲームの知識以外ならほぼ無敵みたいなもんだから、誰かさんとちがってちょっかいかける隙がないのよ」

 

リズベットが言いながらちらりとアスナを見る。

 

アスナの眉間にしわが寄った。

 

「誰のこと言っているのかしら?リズ、教えてくれる?」

 

「い、いやぁ、誰だろねー……」

 

氷柱のように冷たくて鋭い視線なのに口元だけは笑みをかたどっているアスナに睨まれ、リズベットは速やかに意見を翻した。

 

視線を逸らした先には、邪気など一切ないシリカの笑顔。少女の口は、純粋ゆえに無意識に毒を吐く。

 

「たしかにアイさんはリズさんとちがってなんでもできますね!」

 

「誰があたしと比べろって言ったのよ!」

 

「にゃあぁっ!」

 

シリカの頭を左右から掴んでぐらぐらと揺する。ちょうどいい高さにシリカの頭があったようだ。

 

「ねえ、あれ、なんだろう?」

 

「なにって、ただのNPCでしょ?」

 

リズベットを宥めてシリカを解放したアスナが、道の前方で歩く人影を指さした。

 

プレイヤー、NPC問わず、時間帯にもよるが街の中にはたくさんの人が歩いている。アスナたちがいるのは武器屋や防具店が並ぶ通り。しかも今は朝方。これから街の外に出るというプレイヤーも多く、この付近で人の姿を発見するのはさしておかしなことではない。

 

ただ、アスナが見かけたものは、この人通りの多い道の中でも一部の点において特に際立っていた。

 

「……NPCの人が、あんなに集団で動くもの?」

 

アスナが気になったのはその人数だった。同じ方向を目指して歩くNPCの人数は簡単に数えても十五は超える。二十人弱のNPCが一塊になって道を歩いていた。

 

「た、たしかにめずらしいですよね……なにかのイベントでもあるんでしょうか?」

 

「自然ではない人数だわ……。なんかしらのクエストの発生フラグかも」

 

「武器の修復は全部終わらせたのだし、ちょっと後ろからついていってみましょう」

 

「はい、行きましょう!あたしも気になりますし」

 

「えー、行くの?」

 

アスナの提案に、リズベットから逃げてアスナの背後に隠れるシリカも同意する。

 

ただリズベットはあまり乗り気じゃない様子だった。

 

「何よ、もしかしたらクエストの前兆かもしれないんでしょ?リズは嫌なの?」

 

「あたしここから買い物に行こうと思っててさぁ」

 

「え?たしかPOT(回復アイテム)はアイさんが補充してくれてたはずですよ?」

 

「何を買いに行くの?」

 

「いやー……いつものアレを補給しに」

 

「いつものアレ……ですか?」

 

「ああ……あの煙草の代わりに(くわ)えてる味付きの木の枝ね」

 

「味つきの木の枝って?!あれはちゃんとした食べ物だってば!まずいけど」

 

「というかリズさん……よくくわえてるなぁって思ってましたけど、あれはタバコの代わりだったんですか……」

 

「そこからつっこむべきだった!ちがうちがう!前にもアスナとアイさんにそう揶揄(やゆ)されてたの!何度も言うけどあたしタバコ吸ってないから!」

 

リズベットの懸命な弁解に、シリカはアスナの背に隠れながら顔だけ出した。

 

「は、はは……そう、だったんですね、リズベットさん……。まぁ、人それぞれですから……」

 

「ぜったい信じてないわねあんた!他人行儀になってるし距離が遠くなってるし!」

 

「はい、それじゃNPCを尾行しましょうか」

 

「アスナも訂正してよ!シリカがあたしに疑いの眼差しを向けてくるのよ!」

 

「ちゃんとついてきたらね。ちょうどわたしたちがきた道を通るみたいだし、教会に帰るのも楽そうね。ほら行くわよ、リズ、シリカちゃん」

 

「そうですね、アスナさん。見失わないようにはやく行きましょう」

 

「いや、アスナ、先に発言の撤回を……ちょっと!シリカ、ちがうからね?ちがうからね?!」

 

無言で足を送り続ける集団の数メートル後ろから、騒がしいリズベットを落ち着かせながらアスナたちも来た道をもどった。

 

 

 

 

 

 

「もしかしたら……なんて徐々に考え始めていたけれど、本当に目的地がここだなんて……」

 

「見間違えようもなくあたしたちが暮らしてる教会だわ」

 

「神父さまから受けたクエストの続き、なんでしょうか?」

 

「どうなのかしら?アイさんは昨日のリタさんのお手伝いで『記念すべき二十個めだぁ!』なんて言ってたから、クエストに進展でもあるのかもしれないわね」

 

「アスナ、あんたのアイさんのモノマネ致命的に似てないわ」

 

「う、うるさいわね!そこは重要じゃないでしょ!」

 

「街の人たち、教会に入りますよ!あそこは聖堂の扉……ですよね」

 

ほら行くわよっ、と照れ隠しに声を張り上げたアスナを先頭に、NPCたちの背中を追う。教会前の広場、色とりどりの花が植えられている花壇を横目で流し、噴水を回り込んで聖堂の扉を開いた。

 

「やっぱり、というべきかしら」

 

NPCの人集(ひとだか)りの向こう側、司教座の手前にアイの姿があった。アイの隣には黒髪無表情のティアもいる。そしてアイを囲むように多くの子どもたちまでいた。

 

「ああ、やっぱりクエスト絡みみたい。ていうかアイさんは聖堂に子どもたち集めてなにしてんの?」

 

「うた……歌が聴こえますよ?」

 

シリカが手を耳にあてて(そばだ)てる。

 

アスナとリズベットも集中してみると、たしかに歌声が聴こえた。

 

「本当ね。アイさんの声だけじゃないから、みんなと一緒に合唱でもしてたのかしら?」

 

「昨日せっかく歌のスキルをゲットしたのに、これはたぶん使ってないわね」

 

「子どもたちに合わせているのか、それとも単純にスキルを取ったことを失念しているのか……」

 

「確実に後者でしょ。それにしても、これなんの曲だろ?」

 

「あたしも聴いたことあるんですけど、題名を思い出せないです……」

 

「たしか……『明日へ』だったわね。きっとこの選曲はアイさんよ。合唱にも適しているし、わたしたちの境遇的にもこの歌の歌詞はぴったりだもの」

 

アスナたちは改めて耳を澄ました。

 

聖堂内に響く子どもたちの声。決して驚嘆するほどの技巧はないし、全員の息も合っているとは言い難い。音程もリズムも揃っておらず、粗が目立つ。歌詞を満足に憶えていない子もいるようだ。

 

「なんかあたし、小学校の歌の会を思い出した。こんなかんじだったわよね」

 

「あはは、音楽の授業とかでもこういう合唱ってやりますよね。そういう時ってだいたい男子がふざけるせいでちゃんとできないんです」

 

「そうね。でもなんでだろう……すごく、楽しそう」

 

たどたどしく、覚束なく、拙《つたな》い合唱なのに、なぜかその歌声は人の心にするりと入り込み、不思議と気分を穏やかにさせる。その理由は、歌っている子どもたちにあった。

 

身体全体で歌に乗り、満開の笑顔を咲かせて声を出す。歌っている子どもたちみんなが、心から楽しそうに嬉しそうに元気よく、一つの輪になって合唱しているからこそ、その想いが周囲の人間へと伝播(でんぱ)する。

 

「そうだね。子どもたちのあんないい笑顔、デスゲームになってから初めてみるわよ。まあ……あの中で一番楽しそうにしてるのはアイさんなんだけど」

 

「久し振りに大声で歌えて、しかもみんなで合唱が出来て、アイさんも嬉しいんでしょうね」

 

「NPCの人たちが……あとあたしたちが入ってきたことにも気づいていませんもんね」

 

街の住人たちの背中越しに聴こえてくる声に『たのしそう……』と少々羨ましげにシリカが呟いた。

 

そうこうしているうちにアイたちの合唱が終わる。一瞬の静寂のあと、きゃあきゃあわーわーとはしゃぐ。最後まで歌いきれたことを喜んでいるようだ。

 

一頻(ひとしき)り騒ぐと、子どもたちは互いが互いに、ここが良かった、次はこうしたほうがいいんじゃないか、と評論する。その光景を、アイはうむうむと頷きながら静観していた。子どもたち同士に良いところ悪いところを注意しあわせることで、技術の向上を促進しているようだ。

 

「みんな吸収はやいなぁ、やっぱり楽しんで歌うのがいちばん勉強になるね!……ってわぁっ!なんかいっぱい人がいる!」

 

「今気づいたのね。随分前からいたのに」

 

聖堂中央に位置するNPCの集団を迂回したアスナが、アイに声をかける。

 

NPCに気を取られて真横から近づいていたアスナにはまったく気づかなかったアイは、びくんと肩を跳ね上げた。

 

「ひゃぁ!あ、アスナちゃんもいた!忍び足かなにかのスキルでも持ってるの?!」

 

「ただただ普通に近づいたわよ!」

 

「それよりアイさん、これはいったいどういう(もよお)し?」

 

「こんなに楽しそうなことをするんなら先に言っててほしかったです!」

 

アスナに続いてやってきたリズベットとシリカが、この合唱大会について尋ねた。シリカの場合は、この楽しげなイベントを知らされていなかったことについての文句みたいなものだった。

 

アイは困り顔を浮かべつつ、えへへ、と笑う。

 

「それがね、最初はティアちゃんと二人で歌のレッスンをしてたんだけど、歌声につられてミナちゃんがきてね」

 

まだ評価し合っている子どもたちにアイは目を向けた。

 

自分の名を呼ばれた少女はアイのほうを振り返った。紫色の瞳が印象的な女の子だった。サイドの髪はピンク色のヘアゴムで小さく結い、残った長い茶色の髪は背中のあたりで三つ編みにしてバレッタで留めている。

 

なぜ呼ばれたのかわからずきょとんとしているミナに、アイが手を振る。ミナも笑顔で手を振って返し、また会議の輪に戻った。

 

「するとミナちゃんと仲良しのギンくんとケインくんもやってきて一緒に歌うことになって、その時聖堂の扉をちゃんと閉めてなかったみたいで声がだだ漏れになってて……。結局十人くらい集まっちゃったから、この際だし、と思ってみんな呼んだの!」

 

「……で、合唱大会になった、と。さすがアイさん。あたしたちにはできないことを平然とやってのける。そこにシビれる」

 

「あこがれっ……こほん。さすがにここで大声で歌うのはまずいんじゃないですか?」

 

「よりにもよって聖堂で、って……。神父様から許可は頂いたの?」

 

「だいじょーぶだよ。教会で合唱するのはままあることだし。ミサとか。ゴスペルとかあるでしょ?それに……」

 

この急遽開催された合唱大会が神父様の耳に触れれば叱られるんじゃないか、と危惧(きぐ)するアスナとシリカに、アイは呑気に答える。一度区切って、とある場所へと手のひらを向けた。

 

「おじいさんならいちばん近い席で聴いてるからね」

 

「ほっほ、みな元気がいいわい。心が洗われるようじゃ」

 

「神父様いたんだ?!まったく気づかなかった!」

 

「……お、驚いたわ。でも、それもそうよね、ここまで自由にやってるんだもの、許可を取ってないわけがないわね……」

 

「お茶まで持ってます。しっかり用意されてますね……」

 

「それは先生が持ってきてくれたんだよ!今は子どもたちの飲み物を準備してくれてるはず」

 

「サーシャ先生のバックアップまであったんだ……」

 

「はぁ……どこまでも用意がいいのね。それじゃあ、ここに来ている街の人たちもアイさんの差し金?」

 

いきなり催されたわりにはしっかりと根回ししているアイの手際に、アスナは嘆息した。ここまで手配しているということはもしかして、と後ろのNPCをちらりと見やる。

 

しかしそちらに関しては、アイは首を横に振った。

 

「ううん、そっちの人たちについては私もなにがなんだか……ん、あれ?」

 

アイが困惑しながらNPCの集団へと身体ごと振り向くと、聖堂に入ってから反応のなかったNPCたちが動き始めた。先頭にいたNPC、腰の曲がったお婆さんがアイに近づいて手を握った。

 

「ああ、シスターさま。あの時は助かりました。今日はそのお礼に来たのです」

 

「あっ!やっぱりあの時のおばあちゃんだ!いいよいいよ、お礼なんて!お孫さんには喜んでもらえた?」

 

「あの、アイさん……あの時って?こちらの方は?」

 

なにやらお婆さんと歓談を始めたアイに、アスナが説明を求めた。

 

ちょっと待ってね、とアスナに一言置いてお婆さんを会衆席に座らせてから、アイが思い出したように答える。

 

「こっちのおばあちゃんとはね、街で出会ったんだよ。息子さん夫婦のお家に行って、お孫さんにプレゼントを渡しに行く途中だったんだけど道に迷っちゃったらしくて。そこで商店めぐりをしてた私が……もとい、さびしがってる小さい子がいないか街中を探し回っていた私が、その息子さん夫婦のお家まで送ったの」

 

「話の途中に気掛かりな箇所があったけれど今はスルーしてあげます」

 

「あ、あり、ありがとうごじゃいましゅ……。ほっ……たすかった」

 

「てことは、お婆さんはクエストに関わってた人ってこと?」

 

「そうなんだよリズちゃん!なんとっ、おばあちゃんはお願いごと解決の記念すべき一人目なのだっ!」

 

「……そういうことなら、あちらにいる人たちもですか?」

 

「んー……そうみたい。みんなどこかで見たことあるなぁって思ってたんだよ。そうだそうだ、お願いごとの時の人たちだ!」

 

アイに礼を言ったお婆さんを皮切りに、続々とNPCがアイのもとに近寄っていく。NPCたちが口々に感謝の意を述べた。

 

大勢に取り囲まれて戸惑いながらも一人一人にちゃんと接するアイを、アスナは距離をとって眺めていた。

 

「依頼をしてきた人の顔を忘れてたみたいな言い方してたのに、話し始めればお願いごとの内容まで全部思い出せてるのね……」

 

「まあそのあたりはアイさんだから、としか。…………問題はここからどうなるのかだけど……」

 

「こんなにたくさんの人のお願いを聞いてたんですね。すごいです!」

 

最後の一人がアイに礼を言って下がった。

 

ようやく感謝の嵐が止んだことで、アイが安堵のため息をつく。もともと見返りを求めてやっていたわけではないので、礼を言われることが気苦労になっていた。

 

「ねえ、アイさん。なにかポップアップメニューが表示されてない?戦闘終了(リザルト)画面みたいな」

 

少々疲れた様子のアイに、リズベットが訊く。険のある口調だった。

 

「どうしたの、リズちゃん?お顔が怖いよ?」

 

「今はそういうのいいから」

 

「へぅ……リズちゃんが怖い……。えっと……なんにも出てきてないよ?」

 

「クエストログのほうは?」

 

「んー……そっちも変化はないや。リズちゃん、それがどうしたの?」

 

「……なにもなし?クエストの進行に関わりがなくて……報酬もなにもなし?クエスト攻略の労力と見合ってない……やっぱり、アスナの言う通り教会の家賃代わり……この規模の家なら釣り合うっちゃ釣り合うのか……でもキリのいい数字でこんなイベント……ん?そういえば、井戸の近くでなにか……十字架?」

 

「り、リズちゃーん……おーい」

 

アイが声をかけても、リズベットは深く考え事をしているようでなにも答えなかった。

 

アイからの、リズちゃんどうしたんだろ、という目配せに、アスナもシリカも首を傾げた。

 

頭の上にクエスチョンマークを浮かべる四人に、低く落ち着いた声がかけられる。

 

「……そうじゃ。せっかくじゃから、も一つ歌ってはくれんか?」

 

「へ?歌?」

 

リズベットの異変に頭を悩ませていたアイへ、神父が歌を所望した。

 

顔に疑問を表出させていたアイに、神父は説明を加える。

 

「街の者も来ておるし、子どもらも集まっとることじゃしの」

 

「うーん、そうだね。せっかくだしね!」

 

「何がどう『せっかく』なのかしら……」

 

「せっかくのお祭りだもんね!」

 

「何が『せっかく』なのかはわからないけど、この集まりがお祭りじゃないことだけは断言します」

 

「そうですよ、アイさん!屋台もないのにお祭りはおかしいです!」

 

「シリカちゃん?露店や屋台のあるなしが論点じゃないんだけど……」

 

アスナがシリカに注意している隙をつき、アイはてててっ、と軽いステップで移動する。司教座を背にして会衆席を向いた。

 

「そこじゃあ後ろの者には見辛(みづら)かろう。そこの段の上のほうが良いじゃろうて」

 

神父が司教座のほうを指す。会衆席側と司教座とは段差があり、司教座側が一段ぶん高い。その段差のおかげで、後ろのほうの会衆席に座っている教徒にもよく見えるようになっている。

 

神父から勧められたが、アイはあまり気が進まないようだった。

 

「いいの?私、その道でなにかを修めたりとかしてないよ?」

 

「良い良い。儂が許可する」

 

「だいじょうぶかな?神様が怒ったりとかしないかな?」

 

「その程度で怒る神なんぞたかが知れとるじゃろう」

 

「そっか……そうだよねっ!神様は寛容で寛大だもんね!」

 

「それでいいのかしら……」

 

「いいのいいのっ、細かいことは!」

 

「そうじゃそうじゃ、ほっほ」

 

「神父様まで……」

 

後生(ごしょう)じゃ、後生」

 

「縁起でもない事言わないでください」

 

神父に諭され、簡単に考えを切り替えたアイは出すのを躊躇ってふらふらさせていた足を段の上へと置く。一度上がってしまえば二歩目も三歩目も変わらないのか、気兼ねせずに司教や神父が教導するための司教座の前まで小走りで向かった。

 

「ええっと……私、不勉強で聖歌は知らないんだけど、ゴスペルで使われてる曲なら知ってるから、それを歌わせてもらうね!じゃあいきますっ!」

 

「アイさんっ!こういう時の為の歌唱スキルでしょ!」

 

アイが目を(つぶ)り、胸元に手をやって深く息を吸い込み、歌い始める瀬戸際にアスナが指摘した。

 

つい先日、というか昨日、アイは歌唱(シンギング)というスキルを入手し、スキルスロットに登録していたのだ。子どもたちとの合唱では、子どもたちとの声量の均衡をとるためにもスキルを使わないほうが良かったのかもしれないが、アイの独唱ならばスキルを使ったほうが聖堂にいるみんなに届きやすいだろう、というアスナの判断だった。

 

「あ、そうだった……すっかり忘れてた。ありがとアスナちゃん」

 

「いいえ、どういたしまして」

 

スキルを使用状態にするため、アイは指を振ってメニュー画面を操作する。

 

未だに操作に不慣れなアイを待っていたアスナの裾がくいくい、と引かれる。シリカだった。

 

「朝ごはんのときに言ってた新しいスキルですか?」

 

「そうよ。やっぱりアイさん忘れてたみたい。アイさんなら、それほど広くないところならスキルに頼らなくても声が響くから気にならなかったみたいね」

 

「そのスキルって……クエストの途中でもらったんですよね?」

 

「クエストの途中……?えっと……そうなる、のかしら?二十件目のお願いごとを叶えた時にリタさん……依頼してきた人から頂いたの」

 

「あのですね、ゲームでちょくちょくあることなんですけど……長いクエストとかだと、クエストの最中で手にはいったアイテムがクエスト攻略のカギになったりするんです。それと同じように、もしかしたら……アイさんがもらったそのスキルも……」

 

「……え、でも……っ!」

 

シリカから(もたら)された情報は、パズルを解く基盤となった。

 

アスナの頭に、これまでの出来事がフラッシュバックする。その出来事の一つ一つはわざわざ気にするようなことではない。思考を深めるほどの重要性はない。考察を進めるほどの緊急性はない、はずだった。

 

しかし、パズルの基盤が浮き彫りになった今、閃光のように思い出される光景はたしかな意味を持った。パズルの穴を埋めるピースとなった。ぱちり、ぱちりと、欠けていた部分にピースがはめられていく。アスナの頭の中で、答えが形作られていく。

 

アスナに足りていなかったもの。

 

パズルの基盤。

 

それはゲームという知識であり、クエストの定石であり、この世界の常識だった。

 

「アイさんっ!ちょっと待って!」

 

「歌っちゃダメっ!」

 

アスナと、そしてリズベットが叫んだのは同時だった。

 

アイの空色の瞳が大きく見開かれた。だがそれは、アスナとリズベットの声に驚いたわけではない。アイの視線は、メニュー画面に注がれていた。アイの指は、メニュー画面に触れていた。

 

一秒にも満たない時間、動きが完全に停止する。次の瞬間には、ソードスキルを使った時のように人の意志を感じさせない動作を取った。手を広げて、口を開く。紛うことなくアイの声で、言葉が紡がれ、旋律が形成される。くしくも、(まぶた)は固く閉じられていた。

 

「アイさんの声……だけど、日本語じゃない。英語でも……ない。どこの国の言葉なの?」

 

「遅かった……。でも、もしかしたら、これでよかったのかな……」

 

アスナとリズベットには歌の歌詞はわからなかったが、この歌声の響き方は知っていた。昨日、スキルを取ったばかりのアイが歌った曲の冒頭。その際の歌声は、今のようにお腹に響くような、直接頭に届くような、そんな音の聴こえ方をしていた。

 

「『ーーーーーー』っ!」

 

アイの口から(つむ)がれる、アイたちの知らない言葉。()み渡るアイの声で(つづ)られていく、聞き覚えのない言語で構成された旋律。意味なんてわからないはずなのに、その歌は聴衆の心へするりと染み込んで、入り込んで、沈み込んでいく。

 

あたたかく癒し、不安を氷解させ、穏やかで安らかな気持ちにさせる。優しく、前向きであると同時に、とても寂しく、悲しい歌。そんな印象を聴衆に植え付ける。

 

しばしの間アイの歌を聴き入ってしまっていたアスナは、ふと現在の状況を思い出した。アスナが導き出した答えは未だ確証のあるものではないが、それでもこのままアイが歌い切ってしまえば取り戻せない位置にまでストーリーが進んでしまうという確信はあった。

 

「アイさんっ、もうやめて!嫌な予感がするの!アイさんっ!」

 

アイの歌唱スキルは、ソードスキルのようにシステムがプレイヤーの身体を自動で動かすようなものではなく、本人の意思で歌い、その歌声をより強く響かせるという、言うなれば娯楽系のスキルだったはずだとアスナは思い至る。

 

アイがスキルを使った時に違和感はあったけれど、歌唱スキルである以上自発的に歌っているものだろうと考えたアスナは、アイに歌うのを、これ以上スキルを使うのをやめるように叫ぶ。

 

だが、アイはやめなかった。悲愴(ひそう)な表情でかたく目を閉じて口を開くばかり。閉じられたまぶたの端にはきらりと光を反射する水滴が見えた。

 

呆然とするアスナに、リスべットは苦虫を噛み潰したような苦渋の表情で言う。

 

「ムダよ、アスナ。これはクエストの強制進行……プレイヤーに止める方法はないわ」

 

「どういう、こと……」

 

「クエストをクリアするための条件をこの場にそろえちゃったってこと。クリアするための項目をすべて満たして、そしてアイさんがシナリオの進めるためのアクセルを踏んでしまった。あとはクリアまでノンストップよ」

 

「どうにかっ……どうにか止める方法はないの?!だって、クリアしてしまったら……っ!」

 

「……アスナ」

 

クエスト完了まで動き出してしまった現状を止める手立てはないのかと、アスナはリズベットに詰め寄るが、リズベットはアスナの肩に手を置き、首を振る。

 

「もう手遅れよ。歌うのをやめられるんならアイさんはもうやめてるわ。そうしないってことは、強制的に進めるタイプってこと。ゲームをプレイしている側には手出しはできないわよ」

 

「……今からでも舞台に上がってアイさんを押し倒すなりなんなりすればまだっ!」

 

会衆席より一段高い、司教座がある場へとアスナが強引に向かおうとする。

 

舞台へ一歩足を踏み出したが、リズベットがアスナの腕を掴んで引き戻す。

 

きっ、と視線鋭く突きつけてくるアスナに、しかしリズベットは毅然と真正面から相対する。

 

「あのね、アスナ。これはクエストなんだからクリアしなきゃいけないのよ。そのためにあたしたちはこの場にいて……自覚はなかっただろうけど、アイさんは街の人たちのお願い事を解決してきた。内容がどうであっても……クエストをクリアしたあとあたしたちを取り巻く環境がどうなっても、クリアして終わらせるべきなのよ」

 

「そんな……っ!」

 

会衆席側の最前列で、リズベットに引き止められる形でアスナは立ち(すく)む。

 

そうしている間にも、アイの歌は続けられる。

 

本人にもスキルの発動を停止させられないのだろう。アイは強く瞳を閉じ、スキルを止められないのであればとでも言うように、逆に魂を込めてシステム以上の歌声を発揮する。

 

歌声に反応したのか、そういうシナリオが組み込まれているのか、それともただの偶然か、アイの背後上方にあるステンドグラスを通して白と青の光が降り注がれた。瞳を閉じ、両手を広げ、祈りを捧げるような姿勢で聴いている人々に歌を届けるアイの姿は、まるでステンドグラスに描かれた女性のようだとアスナは見惚れた。

 

(つぶ)った瞳から幾筋も涙を流しながら、それでも懸命なほどに、凄絶なまでに歌い続けるアイを、もはやアスナもリズベットも止めることはおろか、動くこともできなくなっていた。

 

アイの独唱が始まってしばらく経った時、スポットライトを当てるようにステンドグラスから射し込まれていた光が徐々に弱くなっていることにアスナは気づいた。同時に、光が消えたころに、歌も終わりを迎えるのだろうとも。

 

その予感めいた感覚は正しかった。

 

射し込む光が途切れた瞬間、ばたっ、と物音がした。司教座の前で歌い続けていたアイが、その場でへたりこんでいた。

 

崇高にして壮絶なアイの歌の余韻(よいん)にこの場にいる全員が陶酔(とうすい)していた中、アスナがアイの異常にまっさきに反応した。

 

「アイさんっ?!」

 

「ちょっ、アイさん!大丈夫?!」

 

しゃがみ込み、顔を手で覆うアイにアスナが、次いでリズベットも駆け寄る。ばたばたと子どもたちも近寄り、心配そうな表情をアイに向ける。

 

「アイさんっ、さっきの歌はっ……」

 

力が抜けたように座り込んで泣きじゃくるアイの肩を抱きながら、アスナが問う。

 

嗚咽(おえつ)をもらしながら、アイが何かを呟く。それはアスナに向けられた言葉ではなく、言うなれば自分に向けて放ったものだった。

 

「ぐすっ、うぅぁっ……うっう……ちゃんと、ぐすっ、ちゃんと確認したら……っ、わかったはずなのにっ……っ!」

 

「何があったの?!アイさんっ!何がわかったの?!」

 

今度は強い語調で、再び問い直す。

 

己の意思に逆らう呼吸を、深く息を吸い込むことで無理矢理押さえつけながら、努めて冷静に、しかし震えを止めることができない声で、アイは答える。

 

歌唱(シンギング)スキルを押したら……ぐすっ、も、もう一つ……スキルがあったの……っ」

 

「スキルMod(モディファイ)……?それともイベント専用の……?」

 

眉間にしわを寄せて頭をひねるリズベットを今は頭の端に寄せ、アスナは再度訊く。

 

「もう一つのスキル……?」

 

「ぐすっ、うん……。その、スキルは……」

 

まるでタイミングを合わせるかのように、開け放たれていた扉から一陣の風が聖堂に舞い込んだ。

 

微かな冷たさを(はら)む疾風は、教会前にある花壇から花びらを抱き込んで聖堂内で吹き荒れる。たくさんの花びらを天井付近まで押し上げ、花びらを踊らせた。司教座から会衆席まで余すところなく花びらをひらひらと咲き散らすと、アイやアスナやリズベット、更にはその周りにいる子どもたちを守るように、ぐうるりと一周回り、風は会衆席と会衆席の間の通路を吹き抜け、掻き消えた。

 

聖堂には無数の花びらと静寂だけが残された。

 

小さな花びらがゆらゆらと揺れ落ち、床につく。数秒後に、しゅわっと音を立てて消滅する。

 

花びらが舞い散る中、少しの間を置いてから電子音が聖堂の中で(むな)しく響いた。アイの目の前にウィンドウがポップしていた。

 

アイが突然現れた画面に視線を落とす。画面に映し出された文字を目で追うと、鮮やかな青の瞳からさらにぽろぽろと涙をこぼした。

 

「な、なに?アイさん、なんて書いているの?」

 

他人でもメニュー画面に示し出されている情報を見れるよう設定することもできるが、基本的には本人にしか見ることはできない。

 

覗き込んでも白い板しか見れないアスナはもどかしい気持ちを抑えられずに尋ねた。

 

「クエスト……完了、だって」

 

ぽそりと、アイは俯きながら弱々しく呟いた。

 

アイは小刻みに震える手をポップされた画面に向ける。

 

二、三、画面をタップすると、しゅっ、という音を立ててアイの手元にとあるアイテムが出現した。

 

「報酬は……すごくたくさんの経験値と、幾許(いくばく)かのお金と、アイテム。あと……この鍵」

 

そう言って、アイはオブジェクト化したアイテムをアスナに見せる。

 

鈍色(にびいろ)をした金属製のリングでまとめられ、繊細な装飾が施されたいくつかの鍵だった。現代ではアンティークなどでしか目にしない、ウォード錠。中世ヨーロッパで普及した形の鍵だった。

 

「この鍵って、どこの鍵なの?閉じられている扉なんてあったかしら?」

 

「ちがうの、アスナちゃん……。これはただの鍵じゃないよ……」

 

アイは司教座の段から会衆席の一角へと目をやり、次いで聖堂の入口付近に目線を移動させる。そこにあったはずの影はもう、なくなっていた。

 

かちゃりと小さく音が鳴る。アイが鍵の束を握り締めて、鍵同士が擦れ合った音だった。

 

「きっと、これは……神父のおじいさんのメッセージなんだ」

 

「あ、アイさん、それってどういう……」

 

アイは肩に添えられていたアスナの手を握り、そっと押して、ゆっくりと立ち上がった。

 

聖堂の最奥、その上部に(しつら)えられたステンドグラスを見上げて、アイは口を開いた。

 

「歌唱スキルの中にあったスキルの名前は……挽歌。おじいさんは私たちに……教会を任せてくれたんだよ」

 

教会の中にいたはずの大勢のNPCと、いつも穏やかな表情で笑う神父。アイの手に鍵を残し、彼らはいなくなっていた。

 

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