そこは水に満たされた、重い静けさに支配された世界。
微生物が
気泡の周りに、やがて陽の光が満ちてゆく。
そのときが来れば一瞬の出来事で、気泡のイメージは小波立つ
開かれた窓から入り込む朝の冷気をはらんだ風が、顔の起伏に砕けては部屋の空気に馴染んでいく。
心地良い肌寒さから目を覚ました俺は、肩まで掛けられた布団を折って上体を起こし、ヘッドボードに背を預けてあくび一つと大きく背伸び。体の調子はいいようだ。
「———ンん?ここは・・・どこだ」
揺れるクリーム色のカーテンの向こうには植樹の緑と快晴の青空が窺えて、土の匂いと・・・消毒用のエタノールか?なぜか薬品の匂いがする。俺はしきりに右腕を揉みながら、ベット脇に置かれたスリッパを素足で履いて立ち上がるのとほぼ同時に、リノリウムの床をコツンコツンと叩く足音が部屋の外から近づいてくる。
足音の人物は黒いエナメル革のサンダルの、細面で長い茶髪を掻き上げた眼鏡の優男風であり、扉を開けた彼の服装と自分の置かれている状況から推察するに、自分たちは医者と患者の関係なのだと把握した。
「目が覚めましたか。ですがまだ立ち歩かないでくださいね。私はこの治療所で医師の入江です。その分ではもう大丈夫だとは思いますが、念のためこれから診察を受けてもらいます」
「はい、分かりました。・・・あの、自分は」
聞きたいことがあったが彼は意図せず被せるように「鷹野さーん」とよく通る声で呼ぶと、ミステリアスな眼差しに心臓がドキリとする、邪魔なロングのブロンズ髪を後ろでまとめた看護婦がすぐにやって来た。
「なんでしょう、入江先生」
「彼の診察をここでするので、補助をお願いします」
「分かりました」
慣れた様子で眼球運動や脈拍数やらを測られて、幾つかの質問を無難に答えると、彼はニッコリと笑って「どこも異常ありません」と言い、カルテにすらすらと何かを記入して看護婦に渡した。看護婦はカルテをもってどこかへ行ってしまった。
「あの、先生。この施設の名前を教えてくれませんか」
「?ここは入江診療所ですよ。それが何かありましたか」
入江診療所という名前を聞いても、よく知った町に該当する憶えが無い。ここはどこなんだ、と難しい顔をして考えていると、無言を不審がって再び真剣みを帯びた眼差しで観察されていることに気がついた。
俺は小さく深呼吸してから笑顔を作り、患者の顔になった。
「先生ありがとうございました。さっそくですが電話を借りてもいいですか、親に連絡して入江診療所まで迎いに来てもらいたいので」
「———ああ、なるほど。もちろんいいですよ。いや、私の方で連絡をしておきますよ」
「いえ、お忙しい先生のお手を煩わせるに及びません。それに元気な声も聴かせてあげたいですし」
「いやはやこれは失礼を、積もる話もあるでしょう。・・・ですが電話は着替えてからにしてください。ベッド脇にあるその箱、そこにあなたの私物が入っていますので、着替え終えたら扉を開けて廊下を左に行った先の窓口で、誰かに声をかけてから電話を使ってください」
「廊下を出て左、ですね」
「はいそうです、お着替えになるのでカーテンは閉めますね。では」
淡い
やっと一人きりになれた。
俺は着ていた病衣をベッドの上に畳んで置き、箱から取り出したカッターシャツと濃紺のズボンの学生服に着替えて他の持ち物を物色した。出てきたのは塾用の手提げ鞄に勉強道具
病衣は空になった箱の中にしまって元のベッド脇に置くと、シーツの皺が気になっったので整えた。もうこの病室でやり残したことは無いので、聞いていた窓口へ向かおうと俺は廊下に出た。
開け放たれたままの窓から、気まぐれに背を押すような風が通り抜けていったような気配がした。
◆
蛍光灯の青白い光と窓の明かりが足元を照らす廊下を少し歩けば、黒いソファが並ぶフロアに出た。観葉植物の置かれた脇にさっそくダイヤル式の電話をみつけたが、俺は医者に言われた言葉を守って、受付窓口の向こうで事務処理作業をしている女性にまず入江先生の名前を出して話しかけ、事情を話して電話を使わせてもらうことが出来た。
『お掛けになった電話は———はい、藤枝です』
家の電話に掛けて呼び出しのコールを待ってもなかなか相手が出ず、一度切ってから掛けなおそうとしたまさにその時に電話が繋がって、俺は慌てて受話器を持ち直す。この不機嫌そうな声には覚えがあった。
「
『肇っ!?本物なのかっ、今どこにいる!・・・ああ、もうやっと。ちょっと、冷静になる時間をくれ』
激的な反応で動悸でも起こしたのか、無理に落ち着かせようと絞り出したような深呼吸の息遣いが受話器越しに聞こえてくる。が、長くは続かず次第にしゃくりあげてむせた。
「大丈夫?ちょっと大袈裟すぎない父さん、はははっ」
『お前なぁ・・・まあいい。小言は後だ。それで今どこにいる』
「入江診療所ってところ。初めて聞いたんだけど場所分かる?」
『診療所って、どこか悪いのかっ!』
「この体は健康だって先生のお墨付き。診療所はビジネスホテルより快適だったよ」
『こんな時に冗談を、気が抜けた。・・・入江診療所だな。すぐ向かうから中で待ってなさい』
「はーい」
「楽し気な会話をしていたわね、ウフフっ」
背後から掛けられた声に受話器を置いて振り向くと、病室で見た看護婦が唇に手をかざして上品に笑っていた。楽しかった気分が冷めていくのが自分でも分かる。
「悪趣味ですね、盗み聞きなんて看護婦さん」
「ごめんなさいねぇ、盗み聞きするつもりは無かったの。・・・でも、大きな声で話していたあなたも悪いのよ」
「それは・・・配慮が足りずすいませんでした。電話は終わりましたので、もういいですか看護婦さん」
「嫌われちゃったかしら?私は鷹野
「そうでしたか。ありがとうございます、鷹野さん。花は好きですか」
俺は主導権を握る事をとうとう諦めた。この鷹野という看護婦は男の物の考え方をよく理解しているらしく、俺は苦手意識を抱いたが邪険にはできなかったのだ。だから俺は唐突に話題を振った。
「花?ええ好きよ。可愛らしくて」
「では今度、お礼に
「あら、素敵ね。楽しみにしているわ。ウフフっ」
鷹野さんはまた上品に笑うと、どこかへ歩き出した。俺は肩の荷が下りた気持ちで黒いソファにドカリと座り、カッターシャツのボタンを一つ外してため息を吐いた。
父親が迎えに来たのは電話から約15分後のことで、隣に座りハンカチで額の汗を拭いている。玄関扉のガラス越しに父の車を見ていたが、あの様子では法定速度を守っていたかは怪しいところだ。窓口で父が事後処理をしている間に俺はトイレを済ませ、家に帰る運びになった。
「学校には明日から行けるようにしないとな」
「うん。父さん、そういえば会社はいいの?」
「連絡はしてある、早い昼ご飯を食べてから出勤だ。肇は食べたい物あるか?」
車の進路は家ではなく興宮に向かっていたのが先程から気になっていたが、外食をする為だと知って納得した。食べたい物と聞かれて考えはしたが、何でもいいのが本音だ。
「油っこくないのがいいかな」
「うーん、難しい注文だな。よし、美味しいそば屋にいこう!」
今日はよく笑う父の姿を助手席から横目に見るのが、それだけで心が満たされて尊い幸せに感じた。
◆
畳に敷かれた布団で寝ていた俺は、余裕をもって設定された目覚まし時計の二度目のアラームで目が覚めた。アラームを切ってまだ寝ている父を跨いで洗面所に向かい顔に水を打ち付けると、すっかり眠気は無くなった。
朝食を作る合間で弁当箱に昨日の夕食の残りをおかずに詰めていると、空きがあったので冷蔵庫から卵を二つ取り出し、小さじの砂糖と醤油数滴をかきまぜたのを熱したフライパンに流しこんで玉子焼きを作る。
焼いた音か甘い匂いのせいか、どうやら父も起きたようで、出来上がったら一緒に朝食をとった。
「仕事に行くが、一人で学校に行けるか?少し気まずいだろう」
「大丈夫だよ。昨日の夕方一緒に学校へ行って先生に事情も話してあるしさ」
「それもそうだな。じゃあ行ってくる」
「いってらっしゃい」
昨日学校でせっかくだからと渡された宿題のプリントを10分もかからず終えるとクリアファイルに入れて筆箱と一緒に鞄にしまう。時計を見るといい時間になったので、制服に着替えて登校することにした。
家から学校まではほど近く、徒歩で少し背に汗が滲んでは風がさらっていく。昨日職員室に来るようにと言われていたので、名前の書かれたシールが貼られていない適当な下駄箱に靴を突っ込み、袋から取り出した25.5cmの真新しいシューズを履いて職員室に向かった。
「ごらんになりまして梨花っ!?」
「みぃ!みましたのです」
「をーっほっほっほ!!これは大スクープの予感ですわ!!こっそーり尾行しますわよ」
「みぃーー!」