〔『このうえは貴公の支援なぞ無用! 我が配下の精鋭部隊でニワカ勇者ごとき粉砕してくれよう!』〕
似ている。
四天王筆頭
〔なァーんて? 大口叩いたのはどこの誰だったかなァ?〕
ミュートの挑発的な上目遣いに、ギーツ公が握り拳を震わせていたのは言うまでもない。
ここは第2ベンズバレンから北へ1日のところにある森の中。勇者ヴィッシュの攻撃で残り少ない手勢さえ失ったギーツ公は、死にたくない、の一念のみで逃げて、逃げて、夢中で逃げて、どうにかこうにか追撃を振り切り、ここまで落ち延びてきたのである。
こうなってはもう魔王城に帰還するよりほかどうしようもないが、その前に彼には太守としての義務が残っている。それは城へ――魔王軍全軍を束ねる総司令官ミュートへ、この惨敗を報告することだった。
あぐらを掻くギーツ公の前の地面には、片手で掴めるほどの大きさの薄い水晶盤が立ててある。“通じ合う者の鏡”なる
〔なあギーツ、おれァ言ったよな? 堅く守れ、決して打っては出るなってよ。それをテメエは……〕
「お言葉だが! 街道を断たれれば補給線が……」
〔そこも言った。最悪魔都との往復路が確保されてりゃいいとな。
攻めと守りの非対称性ってやつさ。街道網のいたるところに200以上はある急所。物流を
叩きつけるような叱責に、ギーツ公は言葉をなくした。自身では気づいていまいが、目には薄く涙さえ溜まっている。その情けない表情に、ミュートは鼻で笑って追い打ちをかける。
〔言われた仕事もできないんじゃしょうがねえ。手勢をまとめて魔王城に戻ってこい。道中、魔王様への弁明でも考えとくんだな!〕
《遠話》はミュートの側から一方的に切断された。
ギーツは唸り、震え、歯を鳴らし、握り締めた水晶盤を岩に投げつけ叩き割った。
「おのれ元人間ふぜいがァッ!!
太鼓持ちで魔王様に取り入りおってェーッ!!」
荒れに荒れてわめき続けるギーツ公の背中を、周囲の兵たちはただ
*
魔王城、地下研究室。ところどころに灯る《発光》の術のみが頼りの広大な暗がりに、巨大な
魔王クルステスラがこの研究室に籠り始めて、今日でもう10日目になる。その間、魔王は不眠不休で“胎児”の肉体構築に取り組んでいた。一切の妥協なく強靭な骨格を練り上げ、緻密極まる筋繊維を編み上げ、絹糸のように細い神経の一本一本を寸分の狂いもなく全身に縫い込んでいく。苦労の
「“
うきうきと声を弾ませながら、ミュートが《
魔王は心臓への逆止弁取り付け作業に没頭しているところだった。血脂でべっとりと濡れた手を休めようともせずに、たったひとりの
「……ああ。予定より3ヶ月は遅れてるけどね」
「《悪意》の収穫に手間取っちまったしなァ。んで申し訳ねえんだが、さらに悪い知らせだ」
「そのわりには嬉しそうだ」
魔王は苦笑しながら、手を血だまりから引き抜いた。ミュートへは背を向け、桶に溜めておいた水で手を洗い始める。
「ギーツがしくじったかい?」
「勇者様が大活躍さ。第2に置いといた8万はほぼ全滅とみていいな」
「対策も考案済みだろうね」
「ご
いいか? 勝ち波に乗った勇者軍は破竹の勢いだ。ゆえに、まずその勢いを殺す!
簡単さ、相手にしなけりゃいい。街道の要所を塞ぎ、砦を築いて守りを固める。もともと総合力なら
で、この冬場だ。支配領域は第2ベンズバレン周辺のみで農作物の収穫も当面見込めない今、備蓄が尽きれば飢えが来る。勇者だってそれを百も承知だから短期決戦志向なんだろうが、付き合ってやるいわれはねえ。待ってりゃ必ず軍勢を維持しきれなくなって内輪揉めが起き始める。おれたちが打って出るのはそのタイミングだ!
兵法の極意は“実を避けて虚を撃つ”! つまり! 相手の充実した所はスルーして、不得意な所を狙えってことさ!」
ミュートは練り上げた策を開陳しながら魔王の前へ回り込み、ぐぐっと腰を曲げ、魔王のうつむけた顔を下から覗き込んだ。「どう?」などと首を
「異論はない。任せるよ」
「よし! 具体的な段取りは今日中に文書であげとくわ。
口笛吹いて《
「……君は、勇者ヴィッシュと張り合うために蘇ったのかもしれないね」
「あ?」
足元に開いた《
「ああ……そっか。そうかもな」
彼はそう穏やかに笑い、黒い門へ沈み込んで消えてしまった。
再びひとり取り残されて、静寂だけが戻ってくる。
魔王は完成間近の我が作品を――“
この広大な研究室は、さながら未成熟の竜を孕んだ子宮のよう。ならば胎児と共にここへ籠った魔王は何だ? 父権の担い手のつもりでいた。創造主か、あるいは少なくとも産婆として神の創造に携われている気になっていた。だが
魔王は思い起こす。4年前、
あの場所、ひらたく言えば“死後の世界”については、やや記憶が曖昧だ。記憶と呼んでよいのかすら分からない。何も見えず、何も聞こえず、いかなる感覚も思考も成立しない暗闇の時空に、彼はただ漂っていた。正確には闇ですらない。虚無ですらない。
「これが《死》。」
かすかに残った
「《死》は怖いお
と生前にクルス自身が
『だが』
そのとき、唐突に
『本当にそれでよいのか?』
誰だ? という疑問さえ浮かびはしない。《死》の世界に感情は無いからだ。論理などますます無いからだ。なすすべもなく
『知りたくはないか?
見てみたくないか?
そなたの愛した、ただひとりのひと……
あの白き乙女が、いかなる運命を
その瞬間、クルスは
――見たい。
と。
『
微かに含み笑いのような声が聞こえ、次の瞬間、クルスの
元は聖堂ででもあったのだろうか。身を寄せ合うように立ち並んだ3本の尖塔が、厳しい夜風をじっと耐え忍んでいる。その頂上に崩れかけた鐘突場がある。風化しきった石の床の上、不安げに揺れる月光の下、ひとりの少年が瀕死の少女を掻き抱き、顔をくしゃくしゃに歪めながら、必死に頬をひくつかせ、笑顔を作ろうともがいている。
「大丈夫。最後までオレがいっしょにいてやる」
囁きは口づけのごとく。
「好きだぜ、ロータス……」
彼の名はリッキー・パルメット。かつて
そのとき、無力感で胸ざわつかせる彼の前へ、夜空の暗闇から、ひとりの少女が舞い降りた。
夜の
カジュ!
クルスは叫ぶ。無駄なこととは知りながら。
「キミがいけないんだ。」
カジュは早口にまくしたてた。ダメだ、カジュ! 低く、暗く、呪詛のように、
「弱いものには生きる資格もない。キミが弱いからいけないんだよ、リッキー。」
キミだけは
次の瞬間、逃亡者たちは炎に飲まれた。
轟音を響かせながら立ち上った火柱が、尖塔を叩き割り、辺り一面を焦土に変える。その猛烈な熱風に吹き散らされて、クルスの
身を引き裂かれるほどの痛恨。カジュ。心の中で唱えた愛しいひとの名が、刃物のようにクルスの胸へ突き刺さる。キミがリッキーを殺すなんて。キミまでが
そう叫んだ瞬間、クルスは愕然として顔を上げた。
痛恨? 胸? 背中……
クルスは己の姿に視線を落とした。手がある。足がある。つい先ほどまで肉体はおろか精神さえほとんど消えかかっていた彼が、いつのまにか生前の姿でここにいる。
脂汗が、クルスの
「お前は誰だ」
闇へと投げかけた問いに、気品ある忍び笑いが応えた。
「一体僕に何をした!?」
『
それ――もうひとつ見せてやろう』
再び
そこで見せられたものは、地獄だった。
延々と広がる大地の上に、地虫の如く湧き出る生物、ヒト。あるところに兵があり、隣国の領土へ攻め入って幾万を殺し、幾万を犯す。またあるところには商人があり、下人の貧乏につけこんで休む間もなく働かせ、死ねば路傍に放り捨てて次の家畜を探しに行く。親を亡くした少女は伯父に引き取られ、その屋敷の奥で何年も辱めを受け続ける。人間社会に取り残された魔王軍の残党たちは毎日のように吊し上げられ、投石をもってなぶり殺される。またその
ひとの世、という名の地獄。そこで行われる悪魔の所業。苦痛にまみれた
そして涙と血と穢れに
人間どもに“魔女”として蔑まれ、耐えがたい汚辱を受けた末に、処刑台へ上げられる――
「やめろ」
クルスが叫ぶ。
「やめろ―――――ッ!!」
振り下ろされた斧によってカジュの首が飛んだその瞬間、
情報の嵐の中から自分個人の感覚へと不意に引き戻され、クルスは闇の中に倒れ込んだ。だが、常人ならばとうに精神の崩壊を引き起こしているはずの情報の暴力に晒されながら、クルスはまだ、そこに
「何が望みだ……こんなものを見せてどうしようというんだ」
その姿を満足げに見下ろしながら、闇の奥から
『こんなものとは心外だ。
これは愛。
現在、過去、未来に渡る《悪意》とヒトの蜜月の姿。
見たであろう? そなたの最も大切な少女が、ヒトに穢され、殺されるさまを。
あれこそが真実。
避けることのできぬ未来の形だ』
クルスは言葉を失った。生物としての根源的な畏怖が彼を凍り付かせた。
そこにいたのは一頭の
“
またの名を――
「《悪意の皇》……魔神ディズヴァード……!」
妖艶な目をすうっと細め、ディズヴァードはクルスへ、甘えるように囁きかけた。
『聞いてくりゃれ、小さきものよ。実はのう、
ようやくクルスにも話が飲みこめてきた。ディズヴァードの言う羽虫とやらは
『我慢がならぬのさ。ひとが《悪意》に堕ちるのはよい。だが《悪意》をひとに堕とされてはな。
数年後の未来、そなたはあの虫どもに蘇らされ、魔王の依り代となるだろう。適任であろうなあ。
「……僕に何をしろというんだ」
『そなたの望みは、分かっている』
死の世界の暗闇に囚われ、一歩も動けぬクルス。ディズヴァードは長い身体をくねらせ、クルスの周りを包み込むように取り巻いた。《悪意》の鱗が肌に触れ、意外な温もりで驚かせる。耳元で
『救いたいのだろう、愛するひとを。
変えたいのだろう、この世界を。
未来を変えてあの少女を守るには、
商人の次は
ならば、そなたの想いを遂げるためには――』
「人類の……醜い我執の全てを滅尽するしか……ない」
『それゆえに我らは利害を共有できる』
《悪意》は全てと《融合》する。
生理とも。
社会とも。
『ヒトよ――《悪意》の共犯者とならぬか?』
かくしてクルスは、魔王になった。
世界の真実を知り、この手で変えねばならぬと確信し、力と意思の全てをこの事業に注ぎ込んできた。全てはカジュを守るため。彼女をやがてくる確実な破滅の未来から救うため。
だが……
――あのとき知った世界と
カジュは語った。リッキー・パルメットは生きていると。そんなはずがない。クルスは確かに見たのだ。あの寒々しい尖塔で、カジュが級友を焼き殺す瞬間を。
それだけではない。“
かつて確かに見たはずの真理が、眼前に広がるこの世界と、徐々に食い違い始めているのだ。
「起きているんだ」
出来かけの
「この世界に……想定外の異変が」
(つづく)