再びここに戻ってきた。
2日前、為す術もなく敗北した、遺跡の奥のドーム。広大なその空間の中央で、ヴィッシュと
張り詰めた静寂の糸を、断ち斬るように靴音が響いた。
中枢へ繋がる通路の奥に、ぼんやりと浮かび上がる白い影。狂気の笑顔を貼り付けたまま、ぴくりとも動かない道化の仮面。
靴音がひとつ、ゆっくりと重なるごとに。その仮面がひと回り大きさを増すごとに、心臓まで凍て付く冷風がふたりを押し潰さんと迫ってくるかのよう。
「来たか。
氷の声。
――シーファ。
*
「分断完了。続きましてー。」
カジュは大きく杖を振り上げた。
「せーのっ。」
『《暗き隧道》!』
どんっ!!
魔法陣のあった場所に、巨大な縦穴が口を開く。一定範囲の土を消し去り、トンネルを造る魔法である。本来なら人ひとりがようやく這って通る程度の穴しか空けられない、その長さも知れたものだが、12人の術士が共同すれば、丘の頂上から遺跡の中枢まで一直線に繋ぐくらいはできる。
魔法陣の上に立っていたカジュは、ぽっかりと開いた穴にそのまま飲みこまれた。
「行ってきまーす。」
カジュはまっすぐに落下した。心配そうに覗き込む術士たちの顔が、頭上の光が、見る見る遠ざかる。だがそんなこと気にも留めない。空中でくるりと反転し、頭を下にして落ちていきながら呪文を唱える。その落ち着き払った歌声は、荘厳なる聖頌歌めいてすらいた。
相も変わらぬ半開きの目に、しかし凛とした光を湛えて。
吹けば飛びそうな小さな体に、しかし折れることなき自信を抱いて。
カジュは術を発動した。
「《風の翼》。」
彼女の背中に陽炎のような翼が現れた。身をひるがえし、翼を羽ばたかせ、穴の底にふわりと舞い降りる。白き衣に身を包んだその姿は、まるで伝承にある天使のよう。
カジュは長杖の先端を、まっすぐ敵に突きつけた。
「おひさ。」
敵は――ネズミ頭は、突然の
「わーお! ぼくちゃんびっくりー! まぁーたキミかよ、邪魔してくれちゃってさー」
ネズミの顔が醜悪に歪む。苛立ちと嘲りと、この世の悪意の全てを込めて。
「雑魚は死んだ方がいい。生きてる価値ねーんだよ」
カジュは軽く鼻で笑って、
「あ、そ。」
*
シーファとヴィッシュたちは、数mの距離を置いて対峙した。まだまだ遥か間合いの外――そのはずなのに、なぜかヴィッシュは身動きひとつ取れない。下手な動きを見せた瞬間、斬られる。その光景が目に浮かぶかのようだ。
――だが、今度は呑まれてなるものか。
ヴィッシュの決意を体現すべく、
「よう。待たせたな」
道化は深く頷いた。
「退屈だった」
「いいじゃねーか。我慢した分まで、たっぷりと――」
だが、これこそが真剣勝負。
「愉しもうぜ、シーファ」
「
三者が三様に、剣を抜いた。
やがて、彼らから心が消えた。
思考は果てしない空虚に飲まれ、あらゆる音もまた遠ざかっていった。残るのはただ、積雪の朝を思わせる澄み切った
しん、と。
沈黙が、3人の肩に降り積もる。
刹那、
弾ける!
先手を取ったのは
「オォラァ!!」
裂帛の気合と共に
が。
シーファを前にしてはそよ風にも等しい。
道化の剣が走り、唸り、
道化の姿が、闇色に融けた。
「――
途端、シーファの放つ数十の斬撃が、
凄まじい剣速は、まるで剣が幾十に分裂したかに見えるほど。
だが、不安定な体勢から仕掛けた苦し紛れの一撃、そんなものがシーファに通じるわけもない。
「
鉄火闇を切り裂いて、剣戟の響き耳を
初めて見せた激情と共に叩き込まれたシーファの剣が、すんでのところで
その肩が大きく上下する。彼女の息は苦しげに乱れていた。僅か数秒の間の攻防。しかしお互いに放った打ち込みの数は百に届くほど。これまでに経験したことのない密度の闘いが、
だが――疲れがどうでもよくなるほどに、悔しい。
「てめェ! 本気出してねェだろ!」
「その価値が有らん
氷のように冷たい声だった。
どちらも違う。これは奮起だ。
これでは
ヴィッシュは
――こんなザマで終われるかァ!!
咆哮とともに
シーファの剣が閃いて再び
が。
地を踏み割るがごとくに踏み留まって、
肉食獣そのものの動きで彼女が繰り出したのは
「む」
小さく声を上げながら、シーファは跳んで回避した。そのまま空中から
飛ばされたシーファは膝立ちに着地した。
千載一遇のこの好機を、
風よりも速く駆けより斬りつけ、膝立ちのシーファと縦横に切り結ぶ。互いの刃が火花を散らし、その剣閃がひとつに溶け合い、太陽めいて闇を切り裂く。
達人の域を超えた者同士の、力と力、技と技の真っ向勝負。
制したのは――
やはり、シーファ。
シーファは無数の打ち込みを的確に
「
そのとき、ついにシーファの剣が
一瞬、ほんの一瞬、
――死ぬ!
と、
背後。
完全にシーファの意識の外にあった死角から。
「!」
声にならぬ驚きの声とともに、シーファが反射的に振り返った。
蛇のように素早い一撃。タイミングも完璧、踏み込みも充分、まさにヴィッシュの全身全霊を込めた一太刀である。たとえシーファと言えど喰らえば死ぬ。
これこそがヴィッシュの策だった。彼の実力は
その一瞬にヴィッシュが斬り込む。たとえ超人的な剣達者といえど、これなら不意を衝けるはず。
だが、シーファは恐るべき反応速度で異変に対処した。すなわち
しかし、このままで終わらせる
こうまで燃えた
転がったシーファが体勢を立て直そうとするまさにその瞬間を狙い、
「く!」
シーファが大きく後ろに跳んで離脱する。だが避け切れない。
すぐさま
シーファが起き上がる。
彼女から放たれる気配が、変わった。
ゆっくりと、陽炎のごとく揺らめきながら立ち上がり、シーファがそっと、仮面のひび割れに指を
その口の端から、つうと一筋血が流れた。それと同時にシーファの含み笑いが聞こえ始めた。
「
シーファがぽつりと漏らした言葉は、飾り一つない本音に思えた。
――本番は、これからだ。
(つづく)