10年前。騎士叙任を受けたギリアンは第二師団に配属され、激戦の北部へ送られることになった。
王都を離れるその日、彼はルクレッタと約束した。戦が終わって戻ってきたら結婚しようと。彼女は驚きもしなかった。ただ、微笑とともに頷いただけだった。きっと予想済みだったのだろう。結婚を申し込まれることも、そのタイミングも、ことによるとプロポーズの言葉までも。
ともあれ彼は意気揚々と出陣した。浮かれているのは否定できなかった。が、剣さばきには一片の慢心も浮つきも見られなかった。常に己を
彼の
多くの将兵はギリアンを讃え、また我も後に続かんと奮い立ったろうが、中には真っ直ぐに受け取れない者もいた。いつの世も、羨望を歪んだ形にしか発露できない者はいるものだ。
彼らは高名な貴族の子弟、いずれは軍の要職に付くことを約束された者たち、であった。彼らにとって、下賤の出でありながら運良く騎士の位を掴んだだけの男(事実ではあった)は、決して許せぬ悪だ。ましてそんな下衆が勲章を授かるなど――言語道断。
次の日から、ギリアンへの執拗ないじめが始まった。過失を装って泥水をかけられる、鎧を汚される、馬の
いじめは次第に悪質さを増し、悪戯では済まされぬ領域にまで至りつつあった。直接的な暴力を受けたことも一度や二度ではない。それでもギリアンは耐え続けた。理由はいくつもあるが、まず、相手が有力者だけに反撃は面倒なことになる、と踏んだのがひとつ。いざとなれば自分の方が強い、と自負していたのがひとつ。そして、誰が自分を
ところがある時、ついにどうにもならぬ事態が
その日、師団はとある農村のそばに布陣した。偶然にもその村はギリアンの故郷であった。
上官や仲のいい同僚たちは、家族に会ってきてはどうだと勧めてくれた。心遣いは嬉しかったが、ギリアンは断った。今の彼は老師の子。父母や兄姉らとは、もう他人となってしまったのだ。それに従軍中でもある。公私混同は避けたかった。
石頭のお前らしい、と同僚たちは笑った。
その話を、少し離れたところで耳ざとく聞いている者たちがいた。いつもギリアンに嫌がらせを仕掛けていた連中である。彼らが何かひそひそ話しているのをギリアンは目撃した。そのときは、また何か良からぬことを企んでいるのだろうと思っただけだった。いつものことだったからだ。
異変が起きたのは、その夜のことだった。
ギリアンの所属する中隊で、隊員が3名、野営のテントから消えているのが発覚した。脱走は言うまでもなく重い罪である。もし何か不祥事でも起こしたなら、部隊全体も連帯責任を問われることになる。そこで、残りの隊員たちによって深夜の捜索が始まった。
ギリアンは妙な胸騒ぎを覚えた。
居なくなった3人というのが、先ほどギリアンの故郷のことを聞いて密談を交わしていた、あの連中だったからである。
ギリアンは、走った。故郷の村へ駆け込んだ。星空の下に広がる田園には、まだ青臭い稲や麦が、絨毯のごとく敷き詰められている。その根本では蛙たちが、陰気な歌声を飽くことなく響かせている――
と。
ある一角だけ、蛙の歌が途絶えているのが分かった。危険の気配を察して鳴き止んだのに違いない。
穴の空いたような静寂に包まれているのは、まさに、ギリアンの生家であった。
悲鳴が聞こえた。いや、嗚咽だ。
――姉の声だ!
ギリアンはあぜ道を猛然と駆けた。かつて何度となく走ったこの道を、当時に数倍する速度で駆け抜けた。飛ぶように田畑を越え坂を登り、生家の戸を叩き壊さんばかりに押し開けた。
中に広がっていたのは危惧したとおりの光景。鍛え抜いた騎士たちが、卑劣にも三人がかりで、ギリアンの姉を組み敷いている姿であった。
「やめろッ!!」
ギリアンの怒声が、騎士たちを家ごと吹き飛ばすかに思われた。騎士たちの二人が立ち上がる。ひとりはまだ姉の上にまたがったままだ。あたりに目を配れば、父と母は頭を殴られたらしく、血の匂いを漂わせながらうずくまっており、幼い妹は震えるばかり。兄と弟の姿はない――きっともう結婚して家を出たのに違いない。兄たちさえいればきっと犯行を諦めていただろうに、この卑怯者どもは!
姉にまたがったままの騎士が、にやにやと下卑た笑みをギリアンに向けた。
「おうギリアン。一緒にやるかい? 行き遅れの田舎女だが、この土臭いのがまあまあいけるぜ」
むせ返るような邪悪の気配に、ギリアンの怒りは留まるところを知らず膨れ上がっていく。
「やめろと言っている」
「空気悪くする奴だなあ。こういう女は、後で金貨の2、3枚も投げてやりゃ納得するんだ。ノリが悪いんだよ、百姓上がり!」
「……これが最後だ。やめろ」
「やめないね。王都にいるお前の妹、あのブスだ、今度あいつにもいい思いさせてやるよ。あの顔じゃあどうせ嫁の貰い手も……!」
それが、彼の最後の言葉となった。
一瞬の出来事だった。ギリアンは音もなく、そよ風のように肉薄し、ただ一刀にて彼を斬り捨てた。反撃はおろか、悲鳴を挙げることさえできぬままに。
驚いたのは、立ってギリアンの行く手を塞いでいた――はずのふたりであった。自分たちの間をギリアンがすり抜けたのに、彼らは気付きさえしなかった。その時点で彼らは思い知るべきだったのだ、圧倒的なまでの実力差を。しかし残念ながら彼らは、恐怖と驚愕に駆られて、剣を抜いてしまった。
抜けば、もはや殺し合うしかない。
ギリアンは振り返りざま、流れるように刃を走らせた。ひとりの顔面を斜めに切り裂き、返す刀でもうひとりの右腕を二の腕から切り落とした。余りにもその手際が良すぎたために、相手ははじめ、切られたとさえ認識できなかった。
少し遅れて、血が吹き出し、ついで地獄の痛みが彼らを襲った。絶叫が響く中、ギリアンは溜め息をついた。姉と妹の肩を叩いて慰め、父母のそばに
「ギリアン……あなた、ギリアンでしょう?」
震える声で姉が言う。問には答えず、ギリアンは立ち上がった。
「すぐに軍隊の連中が来るだろう。恐れることはない、今夜起こったことを全て包み隠さず喋るといい。隊長は話のわかる人だ」
「あなたはどうするの?」
ギリアンは、家の戸口へ向かった。
「さようなら。みんな、どうか元気で」
その言葉だけを残して、ギリアンは生家を飛び出した。
そのまま彼は軍を脱走した。どんな事情があろうと、名族の跡継ぎを殺した罪からは逃れられまい。たとえ軍法が
己のしでかしたことの報いだ。潔く殺されてやるのも良いが。
彼はまだ、命に未練があったのである。恥ずかしいことに――いや、当然のことながら――
*
ギリアンにやられたふたりの騎士は、今もなお、あの夜の怨みを忘れてはいなかった。
軍法は彼らの蛮行を厳しく裁いたが、刑の執行はうやむやにされた。彼らの親兄弟から圧力がかかったことは言うまでもない。死をもって償うこともなく、地位を失うこともなく、少々配置換えと訓告を食らった程度で、彼らはのうのうと生き続けた。
無論、無くしたものがないわけではなかった。切り落とされた腕は二度と戻らぬし、顔につけられた大きな傷は嫌でも目立つ。彼らの“若気の至り”、その報いたる一生ものの傷跡は、親族の間でも宮中でも物笑いの種だった。
彼らは何度も屈辱に震えた。そして互いを慰めあった。いつか、あの悪党ギリアン・スノーを
あれから10年経った今、ついにギリアンを見つけたのだ。この好機を逃す訳にはいかない。
二人組の騎士は、充分な距離をおいてギリアンの後をつけた。相手は死にかけの病人、容易いことだ。やがてふたりは何やらひそひそと申し合わせた。傷顔の方が街道を外れ、林の中に消えた。
一方、ギリアンは歩きながら、妙に落ち着いた気分を味わっていた。
午後の街道は平穏そのもの。作物が刈り取られた後の田園に雀の群れが舞い降りて、忙しく跳ね回りながら土を突く。一羽が虫か何かを捕まえ、口移しで他の一羽に分け与えた。
ほう、とギリアンは感嘆の溜め息を吐いた。雀とは、あんなふうに獲物を分け合うものなのか。野鳥などという生き物は、早い者勝ちの奪い合いをしているとばかり思っていた。
これは発見であった。皮肉なものだ。死を目の前にした今になって、新しく何かを知ったとて何になろう?
ギリアンは、そんなことがどうでも良くなっている自分に気づいた。ただ目の前で懸命に糧を求める雀たちが、たまらなく愛おしく思えた。いつまでも眺めていたかった――
ふと、腕が剣の柄に触れた。
剣に叱られた気がした。甘えるな、と。
――行かねばならぬ。私は私の人生を。
と、そのときであった。
ギリアンは、ひたと足を止めた。道の先に、じっと立って行く手を塞いでいる男がいる。ただならぬ気配、殺意の臭いが鼻をついた。
ギリアンは剣に手をかけた。残り少ない体力を振り絞り、その男に
「あなたは誰だ? 私に何か用なのか」
男は答えず、その代わり――剣を抜いた。
と、そちらに気を取られていたのが悪かった。応戦しようとギリアンが愛剣を引き抜いたその時、背中に熱い衝撃が走った。
背を、肩から腰まで、ばっさりと斜めに切り裂かれていた。
よろめきながら振り返り、背後から襲ってきた二人目の敵を見た。あの邪悪に歪んだ笑み。切り落とされた右腕――ひと目で思い出した。そして理解した。
――あの時のふたり! 意趣返しか!
片腕の男が、二の太刀を叩き込もうと振りかぶる。行く手を塞いでいた方、傷顔の男も迫ってくる。挟み撃ちだ。
しかし。
――生兵法が!
ギリアンは喘ぎながら剣を振るった。無造作に、力さえ込めず。
刃は
敵が倒れたとたん、猛烈な痛みがギリアンに襲い掛かった。脂汗がどっと体中から噴き出した。膝を付き、呻き、朦朧とする意識の中で、彼は必死に痛みを堪えた。
雀がそばによってきた。慰めてくれようとしたのだろうか? 妄想に過ぎぬとは半ば自覚しながらも、彼はその甘い妄想に
ここで倒れてしまいたい。心優しい小鳥たちに囲まれて、何もかも忘れて眠りたい――
だが。
ギリアンは、剣を杖に、立ち上がった。
行かねば。
行かねばならぬ。10年前のあの時と同じように。
温かいもの、甘やかなもの、心潤わしてくれる愛、その全てを――かなぐり捨ててでも。
(つづく)