(冬&夏)
太陽が東京のコンクリート・ジャングルを照りつけ、逃げ場の無い熱が陽炎となってる。
通勤途中ですら相当なものだったのだ、この時間帯の外出行為は人権を損なうのではないだろうか。
幸い、この執務室は適度な空調が効いていて何の不快も無い。
その分、室外機から排出された熱気は外気温の上昇に一役買っているわけだが。
「いつの間にか騒がしくなりましたね」
私が執務室で涼んでいると、隣から元気にはしゃぐ声が聞こえてきた。
シンデレラプロジェクトの部屋はその気になれば走り回る事が出来るほど広い。
「学生達は夏休みの季節だからな」
ならば何故学生である筈の私に夏休みが無いのか。
増毛Pに送った長期休暇申請は、今日も保留中のままだ。
理由は簡単。
増毛Pは「学生達」と言ったが、細かいことを言うと中学・高校生である「生徒」と小学生を指す「児童」が適当だ。
華の女子大生の夏休み期間はもう少し先にある。
現に、シンデレラプロジェクト唯一の大学生、新田美波は未だ期末試験を終えてはいない。
まぁ、大学生の夏休みは9月からが本番だ。
残暑が長引く中、登校する中高生を横目にクーラーの効いた喫茶店で優雅なモーニングを頂く事が、最高に大学生活を満喫している気がする。
今年の夏もそうありたいものだ。
346プロダクションのOAシステムを操作して9月に3週間ほどの休暇を申請する。
未だ正社員ではないただのアイドルだが、一応上長の承認を得るに越した事はないだろう。
「おい、ふざけているのか」
大真面目だとも。
世の中の大学生らしく、ツクツクボウシが鳴き終わる頃までダラダラするのだ。
「却下だ。君に幾ら投資していると思っている。投資分の10倍返すまでキリキリ働いてもらおう。喜べ、仕事には事欠かないように計らうつもりだ」
嬉しいのやら悲しいのやら。
こんな我侭な労働者に仕事が与えられるだけでも有り難いのだろう。
「とりあえず直近の仕事だ。夏フェスのセットリストが決まった。後ほど正式に展開されるだろうが、この通りだと思ってもらって間違いない」
彼が先日出ていた会議のメモから起こされた書面が送付された。
私の出番と使用曲、そしてその前後しか記されていない簡潔なものであったが、増毛Pが会議でどのような調整を行ってきたか理解するには十分であった。
ともあれ、彼の飽くなき出世欲や妙な拘り・美学はこの際どうでも良い。
この、高垣楓のMCと"こいかぜ"で挟まれた"Ace, High"と、城ヶ崎美嘉のMCと"GOIN'!!!"でサンドイッチになっている"World Wonders"から、私が何をすべきかを考えることの方が重要だ。
まぁ、同じ事務所内のアイドルがライブでバトルという事はないだろう。
私達の仕事はファン目線ではないため、正面から殴り合えばシンデレラプロジェクトにすら打ち負けかねない。
その辺は765プロダクションと仕事をした時点で、増毛Pも十分に分かっている筈だ。
「夏フェスの客数はフラコンの撮影用ライブの比ではない。346プロらしい金の掛かった大規模なものだ。しかし、その客数については我々が特に注目すべきところではない」
当然、私の心配は杞憂に終わる。
私を売るのではなく、私が何かを売るのがフラッグシップ・プロジェクトのスタイルである以上、他のアイドル達とは目的が異なる事が多い。
以前はフラコンの販売宣伝が主目的であった。
では今回は?
もちろん、作曲家の先生の希望を叶えるのも目標の1つであることは間違いない。
彼が歌いたかった曲を、彼の思い通りに歌い上げる事は、彼と約束した事でもある。
だがそれでは次に繋がらない。
フラコンは私が出演するDLCの制作が約束されていたため、販売宣伝をすることは直接的な私達の未来にも繋がっていた。
しかし、今回は事情が異なる。
私達が資金や発表の場といった資源を用意して作曲家の趣味の曲を世の中に出せる程、余裕やボランティア精神に溢れている訳ではない。
彼は曲を提供する、私たちは資金を提供する。
ビジネスとしてはそれで終わり。
誰相手に売るのかは、こちらの自由だろう。
「我々が注目すべきなのは”関係者席”だ」
万余の観客を差し置いて、100名程度の人間に的を絞る。
増毛P曰く、アイドルにとっては「歌って踊ってファンが増えて物販が捌ければ良いね」と考えているライブも、視点を変えれば営業の場だ。
次のドラマや映画の企画に携わっている人間を呼んで、346プロダクションのアイドルを売り込まなければならない。
幸い、アイドル事業部設立からは日が浅いものの、芸能界では老舗に部類される346プロダクションだけあって、関係者席は豪華な面子が並ぶ予定だ。
新大陸をほっつき歩いているらしい会長の娘の営業努力もあってか、その面子は意外と国際的だという。
「我々が先生の夢を叶える理由はここにある。クリエイターが自身の作品を作るにあたり”君を使いたい”と思わせることだ。どちらかといえば、定められた資金の中でやり繰りする資本家の犬じゃない、作ると決めたらそれに対して周囲が出資するような良いクリエイターを相手に、だ」
この不景気なご時勢にそんなパトロン付きの人間が居るのか。
いや、居て当然だろう。不景気だからといって、金の総量が減ったりはしない。
あるところにはあるのだ。
「幸い、"World Wonders"を用意してくださった先生は国内外に名が通っている。先生を満足させる事が出来れば、巷が不景気に喘いでいようとも他所から仕事は舞い込んでくるだろう。フライト・コンバットの海外販売が順調なのも我々にとっては追い風だ」
増毛Pは自信満々だ。
その自信はどこから出てくるのだろうか。
一見順調に見える我等がフラッグシップ・プロジェクトの状況は、お隣のシンデレラプロジェクトと大差ない。
場合によっては、シンデレラプロジェクトより悪いといえるだろう。
増毛Pの左遷先であるフラッグシップ・プロジェクトこと第2企画第2プロジェクトは、小さな事務室とシンデレラプロジェクトの半分程度の予算を与えられて出発した。
そう、シンデレラプロジェクトの半分「も」予算があるのである。
単純に考えれば、7人のアイドルをデビューさせられる予算だ。
事務室だけはお隣の半分どころか4分の1以下だが、7人詰め込めない事もない。
しかし、増毛Pがデビューさせたのは私1人だ。
今後もフラッグシップ・プロジェクトとして新人をデビューさせる事はないだろう。
お陰で、事務室のレイアウトは動線を考慮した効率的なものであり、プロジェクトの売りとして潤沢な資金を使った高い顧客満足度を謳う事が出来ている。
初期予算の比ではないとはいえ、初シングルの売り上げという十分な成果もある。
将来についても中長期的にはともかく、短期的にはフライト・コンバットのDLCが控えており、順調な滑り出しといえよう。
だが。
「確定していない未来を楽観視するのは危険ではありませんか。"World Wonders"の表現方法とて、まだ完成したわけではありません」
その自信に水を差された筈の増毛Pは、少し眉を動かしただけで直ぐに表情を戻した。
「無論、100%完成しているわけではない。しかし、現在まで先生も満足しており、君と専門技術委員会の能力を考慮すれば夏フェスまでに完成度を十分高める事は容易だ」
私と専門技術委員会か。
定時脱走と完全週休2日制を謳歌している無個性なアイドルと、有能だが金食い虫の専門家集団。
増毛Pの自信の源泉だという。
これは――漠然としているが――彼の美学なのだ。
今世、私はホワイト企業と目される企業に入社(未だ社員待遇としては内々定だが)し、勝手にホワイトな勤務条件でアイドル活動を行ってきた。
しかし、彼にとってはそれこそが自信の源なのだろう。
――部下を定時に帰すことが。
――部下に適切な休みを取らせる事が。
――部下が彼の思惑通りに動く事が。
――必要な技術に必要なだけ資金を投入する事が。
彼が自分自身を納得させるのに必要なのだ。
確かに、人間は適切な休みを取らなければ労働のパフォーマンスが低下する事が、学術的には分かっている。
専門技術に適切な対価を支払わなければ技術は進展しないことが、統計的には分かっている。
皆、分かってはいるのだ。
だが、そんな知識は数多のしがらみや風習のなかに埋没し、かき消された物が殆どだ。
実際に出来る人間など居ない。
だからこそ増毛Pは、関係者が最高のパフォーマンスを発揮できる環境を用意することに始終し、関係者が増毛Pの思惑通り動いて成果を上げることで満足するのだろう。
いつだったか、"成功を約束するためにプロデューサーは存在する"と増毛Pは言ったが、まさにその思考を体現してるといえる。
しかし増毛P、残念ながらそれは貴方の出世願望とは相容れない。
彼の美学の実行の為に、社内のカウンターパートが悲惨なことに成る事が容易に予想できるからだ。
誰もが貴方の様に、既存の儀式を踏み倒していく勇気を持ち合わせてはいない。
誰もが貴方の様に、イニシアティブを持ちながら物事を進めていく知能を持ち合わせてはいない。
世の中の凡百は皆、誰かに振り回され既存の轍を踏み歩いてゆくのだから。
しばらく私が考え事に耽っていたためか、増毛Pが外出してしまった。
「おたくの所掌だから」と根回し無しで仕事を放り投げにいくのだろうか。
いや、「直接会いに行くなど非効率極まりない」と、角が立とうがメール1本で済ませそうな人間だ。
事実、私のメールボックスにはCcで宛先に入った増毛Pの業務メールが入っていた。
用件は簡潔で、指示は具体的。
けれど、相手への気遣いは欠片もなかった。
***
角の向こう側に据付けられた自販機から、ガコンと飲み物を吐き出す音がした。
音の重さから言えば、ペットボトルではないだろう。缶コーヒー辺りの可能性が高い。
そこまで考えた後、買ったのは誰かと予想する。
ここ30階休憩スペースの自販機を利用する人間は限られている。
シンデレラプロジェクトのメンバーか、フラッグシップ・プロジェクトのメンバー、そして偶にやってくる今西部長だ。
今西部長は役員会議に出席中なので、とりあえず候補から外す。
シンデレラプロジェクトメンバーは夏フェスに向けたレッスン中だ。ユニット毎にローテーションで休憩しているとはいえ、缶コーヒーを買うとは考えにくい。買うならば水かスポーツ飲料だろう。
ここまで考えて、武内は立ち止まった。
残る候補は千川ちひろ、安曇玲奈、そして増毛Pである。
千川さんなら何の問題もない。
残りの二人が問題――というより、会う事に引け目を感じるのである。
そしてそういう予感が働くとき程、悪い方へと物事の天秤は傾く。
「変なところで固まってるんじゃない。お前程かくれんぼに向かない人間は居ない、と以前言った筈だが」
自販機から転がり出た缶コーヒーを片手に増毛Pの隣に武内は腰掛けた。
気まずい時間が流れている、と少なくとも武内は考えている。
缶を開けてコーヒーを口に流し込むが、全く味がしない。
どうしてこうなったんだろう。少なくとも入社当時はこうではなかったはずだ。
武内のOJTであった増毛Pは、無愛想であったものの指示や指導は的確であり、武内自身の実直さも相俟って良い関係を築けていた筈であった。
また、仕事においても増毛Pと組んでいる間は、お互いの欠点をフォローしあって順調に運べていた、と武内は感じていたのである。
「どうした、しけた顔をして」
貴方の所為です、とは咽まで出かかったが飲み込むことに成功した。
同時に、自分の所為だ、という言葉も飲み込んだが。
増毛Pは安曇玲奈と専門技術委員会という、346プロの他の職員の影響を受けることが無い独自の戦力を手に入れた。
咽から手が出るほど欲しかったそれを手に入れた彼は、武内の目から見ても随分と変わった様に思う。
増毛Pの下から自分が離れてから彼は目に見えて不機嫌になったが、今よりは周囲の目を気にして言葉や行動に移す事は無かった。
ところが今や、邪魔するものは居ないと言わんばかりに、夏フェスのセトリ決めにおいて他のプロデューサたちの胃を合法的に攻撃している。
勿論、自分の胃もだ。
ただ、それを「ズルい」と言うことは出来ない。
増毛Pは自力で正面から殴りかかってきている。
むしろ、社内政治に手を染めた搦め手を使っているのはこちらの方だ。
「・・・・・・羨ましかったんですよ、先輩の自信が」
346プロの売れっ子アイドルを抑え、他の先輩や役付きに遜ることなく自分のアイドルが一番だと言える。
自分もそうでありたかった。
多少張り合ってみたものの、その判断を後悔しないと言えば嘘になる。
言いたい、自分の担当アイドルが一番だと、自分の考えている事が最も優れているんだと。
――言えない。
お世辞、謙遜、配慮、忖度・・・・・・。
そういった社会人としての生活の中で身に染み付いた思考が、その選択肢を排除する。
例えそれが建前だとしても、本音を通す為に必要な事だとしても、担当アイドルや自分自身を下げる後ろめたさは常に付きまとった。
「武内にも自信があったから、プロジェクト曲をぶつけたんじゃないのか」
「そうじゃ・・・・・・いや、そうかもしれませんね」
セットリスト調整会議の場で手を挙げたとき、自分の中に何かがあった。
それが、増毛Pに煽られた意地なのか、第1企画への配慮なのか、あるいは自信なのかは判断がつかない。
「何かがあったから、プロジェクト曲をぶつけました」
それを聞いた増毛Pは破顔する。
不気味だ。
「なんだそれは。手に持っているのが小道具の剣なのか霊剣なのかも分からないのに、俺に殴りかかってきたのか」
「分かっていたら、もう少しキレイに殴ってますよ」
あのように突発的にではなく、十分な準備をしていただろう。
ステージを見て、自分が「これだ」と思ってから、増毛Pに挑んだだろう。
「だが、その方が武内らしい。お前には用意周到という言葉は似合わない。周囲の人間と状況に振り回されるのが、お前だ」
否定できない。
だが、その言葉で思い出せるのは、主に目の前の人間に振り回された記憶だ。
苦言の1つぐらい許されるだろう。
「新卒だった自分を振り回すようにしたのは、主に先輩ですよ」
「そうだったか。まぁ、俺とお前の組み合わせならそれ以外に無い」
こちらは真剣に言ったつもりだったのだが、増毛Pはなんとも思っていないようだった。
過ぎ去った過去の話ということだろうか。
それとも、最近は上手く行っているが故の余裕だろうか。
出会い頭に軽口を叩かれた事があった。
帰り際に口論になった際にあった煽るような発言は、よくよく考えると適切なアドバイスだった事があった。
2人の関係を良好と呼ぶにはあまりにも距離があるが、最悪のときに比べれば遥かにマシだろう。
人は常に変化し、それに伴って人間関係も変化する。
何も、悪い事ばかりではないのだ。
雨降って地固まるとも言う。
お互い口喧嘩で相当な事を言い合ったからこそ、忌憚の無い事が言い合えるようになった。
そんな今だからこそ、言っておきたい事がある。
「先輩はもう少し、我を抑えて周囲に気を配ればいいんです。”損をしている”とよく言われませんか」
仕事が速く正確で、頭も切れ、体力も気力も十分。
そんな増毛Pは、絶望的なまでに社内政治が下手糞であった。
いや、”無関心”といったほうが正しいかもしれない。
効率を追求する作業の1%でも気を向けていれば、彼の社会人生活は大きく変わっていたように思うのだ。
先程までの、悪役が悪巧みをしているような笑みが消える。
何時に無く真面目な表情でこちらを見つめた。
睨み付けている訳でもなく笑っている訳でもないが、窓から差し込んでいた太陽が雲に隠れ、彼の顔に影を落として不気味な雰囲気を作り上げていた。
「……そうだな、よく言われる。いや、”言われた”が正しいな」
返ってきたのは否定ではなく、同意だった。
「俺だって社内政治を考えなかった事は無かったさ。それをすることで俺の望みが叶えられるのならそうしただろう」
決して社内政治が出来ない人間ではない。
業務以外で他人と話したのは挨拶だけ、といった人間でないことはよく理解している。
「だが、それでは俺の望みは叶わないんだよ、武内。社内政治は手間が掛かる。”自分の処理能力の7割をそちらに裂いて、残り3割でしか本業を出来ませんでした”では話にならん。例え”人は感情の生き物である”と分かっていてもなお、公の場において給与を貰っている企業人は”論理の生き物”であって欲しいと俺は思っている」
世迷い事だ。
社会人になって未だ日が浅い武内ですらそう思う。
論理だけで生きている人間どころか、感情より論理を優先する人間ですら居るか怪しいというのに。
だが、増毛Pの目は真剣だった。
「
増毛Pが咽から手が出るほど欲しかった”論理を優先する人間”安曇玲奈。
どのような手段を使って就職試験に来た彼女を
しかし、彼の夢が、美学が、彼女によって実現しようとしているのは確かだ。
それがどうしようもなく、羨ましかった。
***
手短に用件を済ませる増毛Pにしては、やたらと帰りが遅い。
デスクチェアのリクライニングを最大まで倒してゴロゴロするのも限界だ。
何か気晴らしになるものは無いかと見渡したが、この事務室には何も無い。
コーヒーしか用意していないのは大きな過ちだった。
宜しくない事ではあるが、執務室を空にして飲み物でも買いに行こう。
受話器は全て上げて置くことで、内線を全てシャットアウトする。
私がお留守番の間に1件も着信が無かったので心配要らないとは思うが、保険はかけておこう。
事務室のセキュリティは隣の部屋と異なり、身分証によるオートロックなので心配要らない。
・・・・・・PCといい身分証といい、まだ346プロの正社員ではないのだが。
気分よく脱走し、休憩スペースの自販機に向かう。
何かさっぱりする飲み物が欲しい、甘くない炭酸系のものはあっただろうか。
そろそろ自販機が目に入るであろう廊下の角で、奥を覗くアイドルが1人。
なにやら面白そうな事をしているではないか。
「どんな感じ?」
「Pチャンと増毛Pが並んでコーヒーを飲んでるにゃ。この2人の組み合わせですらしんどいのに話している内容も・・・・・・ってムグッ」
私に気付いた猫耳アイドルの口を封じ、休憩スペースからの死角に引き込む。
騒がれると面白みが半減するではないか。
腕の中で暴れるので、適当に撫で回してご機嫌を取る。
ほう、この辺が良いと? まるで本当の猫のようではないか、いや、犬か。
「な、なにをする……にゃ!」
いや、盗み聞きを2人でばれない様にやろうと思っただけだ。
角の向こう側に全神経を集中させている前川みくに後ろからくっ付いたところで、良い結果が得られるとは思えない。
さっさとこちらの存在を認知させた上で、2人仲良く悪い事をしようではないか。
「玲奈……チャンが、そんな事を進んでする人だなんて思わなかったし」
残念だったな、前川みく。
仕事をしている姿しか見ていない君は未だ知らないだけで、安曇玲奈は休憩時間を全力で休憩する人間なのだ。
勤務時間中に346カフェでお茶をしばいているのを島村卯月や渋谷凛に目撃されているにもかかわらず、シンデレラプロジェクト内にあまり伝わっていないのは予想外である。
人生の後輩達に悪い遊びを教えるのも、先輩の務めかもしれない。
「他のプロジェクトメンバーには内緒にしてね」
真面目な猫耳アイドルに、この背徳感がどの程度通じるかは分からないが。
増毛Pと武内Pが346カフェの前でみっともない口喧嘩をしてから未だ月日が浅い筈だが、いつの間にやら仲直りモドキをしていたようだ。
どちらか、あるいは両方ともが確りと謝った訳ではないだろう、お互い罪悪感を持っているためかシコリが残る会話だ。
年頃の男共はプライドが高くなりすぎるキライがある。
「玲奈チャン」
前川みくが私の袖を引き、この盗み聞きから退散しようとしている。
頃合ではある。しかし、ちょっと悪い事をして楽しんだ顔ではなく、やけに神妙な表情であった。
「玲奈チャンは、増毛Pの”夢”なんですか?」
”夢”か、難解な表現だ。
それなりに長い付き合いだ。増毛Pの夢を想像する事はできるが、直接彼の口から聞いたことはないから確証を持って理解しているとは言えない。
しかし、彼が私に求める事は簡潔且つ明瞭であり、業務上必要な事に絞られている。
私もそれに応えることを拒んだりはしない。
「強いて言えば”良いビジネスパートナー”といったところじゃないかしら」
人並み以上に社会人経験はあるつもりだ。
その経験の中から「くだらない」と思ったものを切り捨てて生きる私に付き合ってくれている増毛Pこそ、夢みたいな人間ではないだろうか。
「じゃあ、Pチャンにとっての今のみく達は何? ”夢”じゃないの?」
過剰なほど自分を信じる増毛Pと異なり、武内Pは周りの様子を窺いながらシンデレラプロジェクトを立てている。
増毛Pの様に背中がかゆくなるような言葉が出ることはないだろう。
だが、前川みくはそれが不満なようだ。
やはりアイドルを志したからにはNo.1を目指すのだろうし、背中を預けるプロデューサーにも自信を持って公言してもらいたい気持ちは理解できる。
そして、それを要求できる潜在能力を持っていることも。
しかし、世の中はそんなに簡単ではないのだ。
不用意な突出は、有象無象の理不尽や不合理に寄って叩き潰されかねない。
「勿論、”夢”でしょう。でも、増毛Pのような人以外にとって、それを言葉に出す事はとても難しい事」
武内Pは良くやっている。
アイドルの雛達の為とはいえ、ああも私が「くだらない」と切り捨てた事柄にも熱心に励める人間を見たのは久しぶりだ。
「それでも、みくはどこに出しても恥ずかしくないアイドルになるにゃ。Pチャンが口に出す事を憚ることのないアイドルに」
ええ、なりなさい、なれるでしょう。
「そのために必要な事は、貴女自身が夢を見るのをやめない事よ」
2人のうちのどちらかが、缶をゴミ箱に放り込む音が聞こえた。
潮時だろう。
休憩スペースの角からは十分離れており、ここで見つかっても聞き耳を立てていたとは思われないだろう。
しかし、組み合わせに違和感がありすぎるため、変に疑われる可能性がある。
更に死角になるエレベーターホールを経由して、1階まで行ってしまうのはどうだろう。
346カフェまで逃げ込めばこのペアであろうが違和感はない。
だが、前川みくは缶の音を聞いた途端、プロジェクトルームに戻ろうとするそぶりを見せた。
ここに1人で突っ立っている訳にも行かない。
内線も上げっ放しであることだし、私もプロジェクトルームに戻るとしよう。
不自然ではないように、女2人でお花を摘んでいたような振りをしながら、休憩スペースの方を振り返った。
「気をつけろ、武内。振り回されるのも良いが、引いてはいけない所、自分を押し出していかなければならない所、は見極めろよ。他人に嘘を吐くのはともかく、自分に嘘を吐くと叶うものも叶わなくなる」
C92/93/94と3度もスペースに足を運んでくださった方、ありがとうございます&お待たせいたしました。
C95までには完結させたいなぁ(願望)