静かな部屋の中で、慧音はすらすらと筆を動かして、時おり手を止めては外に耳を傾ける。そうして、今日も平和だなんて考えながら、また仕事に精を出すのだ。紙に歴史上価値のある文面を書き起こし、それを生徒の数だけ複製する作業である。
「少し、休憩するか……」
んん、と伸びをすると、彼女はひょいと立ち上がる。隣の職員休憩室に移動すると、お茶を淹れる。今日は他の職員達は来ていない、といっても里のそこら辺に住む大人達なので、呼ぼうと思えばすぐだが。
ふと、玄関先でガタンと音がする。肩をびくりと跳ね上げてから、誰かがぶつかってしまったんだろうと冷静になる。一つ咳払いをしてから、暖かい湯呑みを両手で抱えて飲む。
(うん、美味い。)
まだ四月の半ばで、この時期の慧音は忙しい。寺子屋には新しい生徒が入ってくるし、年頃になった子供達が何かとやらかす季節でもあるからだ。
つい先日も、寺子屋に通うようになったばかりの少女が、誤って外に出てしまうといった事件があった。まぁ彼が居れば、どうということは――。
「……いやいやいや!」
頼ってはいけない。あくまで人里の守護者は慧音自身なのだから。彼にこれ以上頼ることなど、許されない。
そこまで思考を追いつめ、湯呑みから最後の一滴を受け取った時、慧音は扉の向こうで誰かが、こちらに話しているのに気づいたのだった。
――――――
「すみませーん……」
少々手荒に戸を叩いてしまった後なので、大きな声は出しにくかった。それでも、慧音という人物には歴史を教えてもらわなくてはならない。そのためにはまず、戸の向こうにその女性が居るのか確かめる必要があった。
「あのー……、!」
「すまない、少し待ってくれるか?」
「は、はい」
扉越しにくぐもった声が聞こえる。予想通りの優しい声音だったが、やはり緊張してしまう。咏夢は橙の手を握ると、ドキドキしながら戸を上目で見つめた。
がらりと戸が半分ほど開く。青い服を着ている女性は長い髪を揺らし、こちらを見つけると目を細めた。
「君、人里の子供では……」
「はい。私、違います。」
「……何か事情があるのか、まぁ、中に入ってくれ。」
外の温い空気から、静かな室内に入った咏夢と橙は、無意識に一つ息を吐いた。こういった雰囲気の場所へと入るのは、咏夢にとって初めて――少なくとも彼女自身はそう考えていた。
慧音は、教室を抜けるとさらに廊下を抜けて、二階へ続く階段へ案内してくれた。
「ここを上った所の部屋で、待っていてくれ。」
「は、はい。」
にこりと笑って、慧音は玄関口へ引き返していく。橙は躊躇なく少し軋む階段を上っていく間に、咏夢に小声で尋ねる。
「ねえ、この上って寺子屋じゃなくて自室だと思うんだけど、どういうつもりなんだろ。」
「え?そうなの?」
「一階は、寺子屋の教室と職員室、個別の教室が何部屋か……あと、今後ろにある私用の玄関か。二階は完全にプライベートだよなぁ。」
その言葉に、うーんと考えさせられながらも、足は全く止めないあたり、特に気にしてはいない様子の咏夢。窓からは、向かいの屋根の上に空が広がり、少し高めに造られている事が分かる。
とにかく、今は試練についてだ。内容も歴史も謎だけの試練ではたとえ時間が与えられていても、対策は何もできない。
――――――
「ふむ、"博麗の試練"といったか……」
「は、はいっ。何かご存じですか?」
緑茶を一口含むと、慧音は少しの間黙っていたが、顔を上げると申し訳なさそうに言った。
「すまない、私は聞いたことが無いな。」
「そう、ですか……。」
「役に立てなくて、申し訳ない。ただ此処の伝承には、伝えられていないようなんだ……一体どういうものなんだ?」
「え、えーと……それは……」
「ごめんなさい、慧音先生。その質問には答えられないです。」
橙は真剣な眼差しで咎めると、慧音は少し驚いたようにそうかと頷いた。咏夢は代わりに、自分の事を覚えてもらおうと、慧音と話し始めた。
「ああ、そうだ。君は、人里の子では無いんだよな?」
「はいっ。来ちゃいました、外から。」
「む?外から、か。」
「うん、咏夢は現惣村から来たの。」
「そうか……橙とは、仲が良いのか?」
「はい!」
「ちょっ!?」
満面の笑みを浮かべる咏夢と、頬を紅くする橙を前にして、慧音は優しく微笑んだ。それからふっと目線を外に向けると呟いた。
「それにしても、現惣村か……」
「知ってるんですか?」
「ああ。ちょっと、知り合いがな。」
「へえ~!あ、もしかして李瓜ちゃん?」
「違うな。もう、此方に来ているんだよ。その村から、自分は来たと言っていた。」
咏夢は頷く。現惣村から幻想入りする例は珍しくないが、本当の実力者でなければ生きていけない。今の咏夢のように結界を通り抜けるのではなく、神々に招かれたということなのだから。一体どんな人なんだろう、と頭を別の方向に使い始める。
そんな咏夢達を咎めるように突然、階下でばたんと戸が開いた。軒先に吊るされた鈴が暴れながら、客の慌てようを知らせる。
「すまない。少し見てくる。」
「はーい。」
橙は、一般教養として寺子屋に通っていた時期があるため、慧音とは親しい。適当に返事をしながら、彼女も大変だなぁとぼやく。茶を一口飲むと、ふと隣に座っていた咏夢がいない。
まさかと思って、階段を静かに駆け下りると、玄関口には慧音の後ろ姿と涙目で立つ教師の一人、案の定それを後ろから覗いている咏夢がいた。
「ちょっと、咏夢!」
「ごめんごめん。気になっちゃって……」
「どうした?……生徒に、何かあったのか。」
「はい!今年、入ってきたっ、生徒達が……
――全員、里から姿を消していて……!」
「「!!?」」
それを聞いた瞬間、慧音と咏夢は同じ予感に襲われていた。どこかの荒れ野で、固まって震える少年少女達。武装なんてものは一切無く、泣きながら大人の助けの手を待っている。
すうっと背筋が冷えた。きゅっと胸の奥を、心細さが凍らせていく。一瞬の共鳴が、咏夢を奮い立たせた。手を握りしめると、目の前の慧音に宣言した。
「……私、行きます。」
「え、咏夢?」
「私が行って、子供達を助けます!」
「私たちじゃあないの?」
「橙まで……。良いのか、相手は子供を拐うような……」
慧音が最後まで言わないうちに、咏夢と橙は強く頷くと、寺子屋を飛び出していった。途中で振り向くと、手にした札をヒラリと見せた。
「!」
「あ、あれって……え?!」
「博麗……彼女は、一体……」
青い巫女服を靡かせて、少女は力強く叫んだ。
「任せてください!私だって、"博麗"なんだから!」
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