私の名前はラベンダー   作:エレナマズ

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第二十二話 ラベンダーの決断

 みほが始めにしたことは、まほと会話を重ねることだった。

 西住流の後継者の件をないがしろにはできないが、みほにとってはまほの方が大事である。まずはまほの心のケアが最優先。後継者の件は二の次だ。

 

 みほは毎日まほの部屋に向かい根気よく話しかけた。

 聖グロリアーナ女学院での生活、二人の親友、尊敬する先輩たち、そして聖グロリアーナの戦車道。みほは自分の身に起こったことをすべてまほに話した。その中には、問題児トリオと呼ばれていることや島田愛里寿と友達になったことも含まれている。

 

 まほからの返答はほとんどなかったが、みほは諦めなかった。

 そんなみほの助けになったのが犬童姉妹である。二人はみほに付きそい、積極的に会話に参加してくれたのだ。

 姉の頼子は話術が得意であり、みほが言葉に詰まっても的確にカバーしてくれる。妹の芽依子はしゃべるのが不得手だったが、まほと会話を重ねていた芽依子がいることで話が弾むこともあった。

 

 自分は一人ではない。その思いがみほを前へと進ませてくれる。

 

 

 

 クリスマスの夜はまほの部屋の前でパーティーを開催。

 暖房がない廊下はとにかく寒かったが、三人は服を着こむことで対処した。料理は買ってきたケーキとチキン。飲み物はみほが土産として持ってきた紅茶だ。

 

「メリークリスマス! いやー、このターキーはおいしいですねぇ」

「姉さん、それは鶏です。七面鳥ではありません」

「……ジョークですよ」

「今、少し間がありませんでしたか?」 

 

 犬童姉妹は明るい会話を絶やさない。みほとまほが話しやすい環境を作るのが、彼女たちの役目であった。

 

「お姉ちゃんの分もちゃんと用意してあるよ。あとで食べてね」

「……すまない」

「謝らないでもいいよ。でも、できれば一緒にケーキを食べたいかな?」

「それは……できない。ごめんみほ」

「ううん、いいの。お姉ちゃんが出てきてくれるまで、私は待ってるから」

「ごめん……ごめん……」

 

 扉の前からはまほのくぐもった泣き声が聞こえてくる。

 部屋に引きこもったままで、復調の兆しが見られないまほ。クリスマスという特別な日でもそれは変わらなかった。

 

 

 

 大晦日の夜もみほたちはまほの部屋の前にいた。

 真夜中の廊下は寒さも一段と厳しさを増す。三人はコートを羽織り、頭から毛布を被って、ひたすら寒さに耐えつづけた。すべてはまほと一緒に新年を迎えるためだ。

 

「5、4、3、2、1! ハッピーニューイヤー! みほ様、まほ様、めいめい。今年も頼子をよろしくお願いします!」

「こちらこそよろしくね。犬童さんたちにはいっぱい迷惑かけちゃうかもしれないけど、私がんばるから」

「迷惑なことなどありません。みほ様とまほ様をお支えするのが芽依子たちの使命です」

「めいめい、表情が硬いですよぉ。ほら、スマイル、スマイル」

「こ、こうですか?」

 

 芽依子は笑顔を作ろうとするが、思いっきり顔が引きつっている。表情のバリエーションが乏しい芽依子は、笑顔を作るのがへたくそだった。

 

「お姉ちゃん、あけましておめでとう。今年もよろしくね」

「……おめでとう」

「私たちはこれから近くの神社に初詣に行くんだけど、よかったらお姉ちゃんも……」

「……ごめん」

「それじゃ私たちだけで行ってくるね。すぐに戻ってくるから」

 

 みほの言葉にまほからの返答はなく、かわりに聞こえてきたのはまほのすすり泣く声。しかも、今日はいつもより声が大きい。それがまほの苦悩を表しているようで、みほは思わず涙しそうになった。

 

 新しい年を迎えても、まほはいまだに自分の世界に閉じこもっている。苦しむまほに声をかけ続けることが、今のみほにできる精一杯だった。

 

 

 

 西住家では年明け早々に大広間で新年会が行われる。

 西住流一門が集まる新年会は恒例行事の一つ。みほも毎年参加しているが、今まではまほが矢面に立っていたのでおとなしく座っていただけでよかった。だが、まほが参加できない今年はそうもいかない。みほはまほのかわりを務めなければならないのだ。

 

「みほ様、緊張しなくても大丈夫ですよ。頼子がお助けしますから」

「芽依子もおそばにいます。ご安心くださいみほ様」

「二人ともありがとう」

 

 犬童姉妹はみほのすぐ後ろに控えている。不安な気持ちはあるが、一人ではないというのは心強い。それにみほには聖グロリアーナで学んできた会話術がある。社交辞令を並べたてるのには自信があった。

 

 新年会はただあいさつをするだけの場ではなく、今年初の西住流全体会議の場でもある。

 戦車道の世界大会の日本開催に向けた動きとそれに伴うプロリーグ発足の話。大学戦車道で勢いを伸ばしている島田流の話。そして、今年予定されているしほの家元襲名の話。大人たちの難しい話がしばらく続いたあと、ついにみほに関係する話題がやってきた。

 

「しほ様、まほ様のことなのですが……」

「わかっています。今からすべてを話しますので、話が終わるまで質問は控えてください」

 

 まほが部屋に引きこもったこと、みほを後継者に指名したこと、みほが態度を保留していること。しほはそれらを包み隠さず説明した。

 新年会の席にざわめきが広がっていく。一門の中には、その事実をまったく知らなかったものも多かったようだ。みほも多くの視線に晒されることになり、居心地は悪い。

 

 それでも、みほは表情を崩さずしっかりと前を見据えた。いかなるときも優雅。それが聖グロリアーナの戦車道だ。アールグレイとダージリンから何度も聞かされたその教えは、みほが平静を保つ助けになっていた。

 

 

 

 その後行われた食事会でみほを待っていたのは、一門からの質問攻めの嵐だった。西住流の屋台骨がぐらいついていることへの不安。それを解消するための矛先がみほに向かうのは当然である。

 

「みほ様、なぜ返事を保留なさっているのですか? 西住流の未来はみほ様にかかっているんですよ」

「黒森峰女学園がプラウダ高校に敗北したのは戦術面に問題があったと思います。みほ様はどうお考えですか?」

「あの、まほ様のお体の具合は大丈夫ですか? 大変だとは思いますが、みほ様が支えてあげてくださいね」

 

 聖グロリアーナで学んだ会話術を駆使して、みほはすべての質問に答えていく。答えが出せない質問はうまくはぐらかし、できるだけ相手が満足する回答を導きだす。不安を抱えている一門を少しでも安心させるのがみほの役目だ。

 

 頼子はみほの回答を補足する形で手助けしてくれる。彼女の話術は大人相手でも通用する一級品。その力は大いにみほの役に立った。  

 

 みほの回答に納得しない一門が出たときは芽依子の出番。みほの後ろで芽依子が殺気をこめた目で睨みつけると、みんなすごすごと引きさがっていく。みほですら背中にピリピリしたものを感じるのだ。実際に視線を向けられた一門が受けたプレッシャーは相当なものだろう。

 

 そうやって三人で協力して一門の相手をしていると、次にやってきたのは犬童家の当主であった。

 

「みほ様、ご苦労様です。少しお姿を拝見させていただきましたが、実に堂々たる振る舞いでした。聖グロリアーナ女学院で立派に成長なされたようですな」

「私なんてまだまだですよ。頼子さんや先輩たちとは比べものになりませんから」

「頼子は子供のころから話術の勉強をしていますからね。みほ様に負けてしまったら、この子の立つ瀬がありませんよ。頼子もご苦労だったな。お前がみほ様の役に立っている姿を私はしっかり見ていたぞ」

 

 犬童家の当主はそう言って頼子の頭を優しく撫でた。安心しきったように父親に頭を預けている頼子はとても幸せそうだ。

 

「お父様、芽依子もがんばりました。姉さんばかりずるいです」

「お、めいめいがやきもちをやいてますよぉ。でも、今回は頼子の方ががんばりましたからね。お父様は独り占めです」

「姉さんっ!」

「ジョークです、ジョーク! お願いだから殺気を頼子に向けないでぇー!」

「おいおい、あんまりはしゃぐんじゃないぞ。みほ様、お騒がせしてすみません。しっかりしているように見えますが、二人ともまだまだ子供なんですよ」

 

 犬童家は今日もいつも通りの仲良しぶりを発揮している。みほはそれをうらやましく思った。

 みほが小さいころは西住家も家族仲は良好だった。それが今ではこの有様である。いったいどうしてこうなったのか、みほの脳裏に思い浮かぶ原因はただ一つ。みほが黒森峰女学園を拒んだからだ。

 

「お前たち、みほ様は少しお疲れのようだ。しほ様には私から説明しておくから、三人で散歩でもしてきなさい」

「はーい! さあさあ、みほ様。外に出て羽を伸ばしましょう」

「芽依子が上着を取ってきます。みほ様は先に玄関に向かってください」

 

 犬童家の当主はみほに気を使ってくれたようだ。どうやら後ろ向きなことを考えていたのが、表情に出ていたらしい。犬童家の当主のさりげない気づかいに心の中で感謝し、みほは気分転換のために外に出ることにした。

 

 

 

 芽依子が持ってきてくれたコートを羽織り、みほは犬童姉妹と一緒に玄関を出る。

 冬の冷たい風が吹きすさび、容赦なくみほの体を冷やしていく。心も冷え気味のみほにはこたえる寒さだった。

 

 ローズヒップとルクリリに会いたい。ここにはいない二人の親友にみほは思いをはせる。

 

 犬童姉妹はみほによく尽くしてくれるが、部下という立場を決して崩さない。親友の二人とは違い、一歩引いた位置にいるのだ。そのこともローズヒップとルクリリを恋しく思う理由の一つになっていた。

 

「みほ様! お下がりください!」

「ふえっ!?」

 

 二人の親友のことを考えながらぼんやり歩いていたみほの前に、突然芽依子が立ちふさがった。芽依子はみほを守るように背中に隠すと、前方に鋭い視線を向ける。全身から殺気をみなぎらせるその姿は、みほも恐怖を感じるほどだ。

 

 芽依子がこれほどの殺気を向ける人物。それが誰なのか気になったみほは、視線を恐る恐る前へと向ける。そこにいたのはジーンズにコート姿のエリカだった。

 

「逸見エリカさんじゃないですかぁ。みほ様になにか御用でしょうか?」

「みほ様? 見かけない顔だけどあなた誰よ?」

「西住流一門の犬童頼子ですぅ。一門といっても戦車には乗らないので、末席を汚させていただいているだけですけど」

「姉さん、名乗る必要なんてありません。この女は即刻排除すべきです」

 

 芽依子はエリカをかなり敵視しているようだ。その理由はみほにも察しがつく。みほとエリカが乱闘騒ぎを起こしたことを芽依子は知っているのだろう。

 

「めいめい、争いはなにも生みませんよ。まあ、ここはお姉ちゃんに任せてください。逸見さんはみほ様とお話がしたいんですよね?」

「……ええ、そうよ。できれば二人だけで話をさせてほしいの」

「ふざけないでください。あなたは自分がみほ様になにをしたのかもう忘れたんですか?」

「いいですよ。みほ様も構いませんよね?」

「なっ!? 姉さん、なにを考えているんですか!」

 

 頼子がエリカの要求をあっさり了承したことに、芽依子は怒りをあらわにする。それに対し、頼子は平然とした態度を崩さない。

 

「めいめいの気持ちはわかりますけど、ここは我慢のしどころですよ。みほ様、頼子たちは少し離れた場所で待機しています。なにかあったらすぐに駆けつけますので、安心してくださいね」

「うん。逸見さん、場所は近くの公園でいい?」

「わかったわ」

 

 もとよりみほはエリカから逃げる気はない。話があるのなら真正面から受けとめる覚悟がある。何度もぶつかり合ったことで、エリカに対する苦手意識はもうほとんどなくなっていた。

 

 

 

 近所の公園のベンチに並んで腰かけるみほとエリカ。ほかに人はおらず、小さな公園は二人だけの貸し切りだ。

 犬童姉妹の姿も見えないが、きっとすぐ近くでみほのことを見ているのだろう。

 

「逸見さん、話ってお姉ちゃんのことだよね?」

「……隊長が学校に来なくなって、もう四ヶ月近く経つわ。教えて、隊長になにがあったの?」

「逸見さんには教えるけど、これから話すことはできれば誰にも言わないでほしいかな」

 

 みほはまほの現状をエリカに説明した。みほのかわりにまほを支えてくれたエリカには知る権利がある。

 みほの話を聞いている間、エリカは終始冷静だった。みほに噛みつくこともなければ、嫌味を言うこともない。エリカがこんなおとなしい姿を見せたことに、みほは内心驚いていた。

 

「教えてくれてありがとう。おかげで少し気持ちが落ちついたわ」

「怒らないの? お姉ちゃんは私のせいで……」

「今さらあなたを怒っても意味はないわ。それに、責任は私にもある。隊長が壊れていくのを私は止めることができなかった。みほを連れもどすのにも失敗したしね」

「……ねえ、逸見さん。もし私があのとき黒森峰に戻ってたら、お姉ちゃんは苦しまないですんだのかな?」

「たらればの話をしてもしょうがないわ。今ここでそんな話をしても、隊長は戻ってこないんだから」

 

 エリカはみほのことをいっさい責めない。練習試合のときにみほを責めたて、ローズヒップとルクリリをけなしたエリカとはまるで別人だ。

 

 今思えば、あのときのエリカは少し様子がおかしかった。中学時代のエリカも小言が多かったが、それは嫌みや悪口ではなく注意と進言が主である。口調はきつかったが、練習試合のときのように一方的に意見を押しつけるようなものではなかったはずだ。

 

 おそらく、まほが壊れていくのを止められない焦燥感がエリカを強行に走らせたのだろう。エリカにとってみほを連れもどすことは、まほを助けるための最後の賭けだったのかもしれない。

 

「逸見さん、相談したいことがあるんだけどいいかな?」

「みほが私に? いいわよ、私も隊長のことを教えてもらったしね」

「ありがとう。実はね……」

 

 みほは西住流の後継者の件をエリカに話すことにした。みほは悩みを相談する対等な相手がほしかったのだ。

 ローズヒップとルクリリに電話で相談するという手もあったが、もし二人の声を聞いたらみほの気持ちは聖グロリアーナに傾いてしまう。これは簡単に結論を出してはいけない問題なのだから、二人に相談することはできない。

 

 みほは聖グロリアーナ女学院でいろんな経験を積んできた。エリカの小言をわずらわしく思っていた中学時代よりも、精神的に成長できたという自信もある。エリカへの苦手意識を克服できた今なら、彼女の話を冷静に受け止めることができるだろう。

 

 みほの話を聞き終えたエリカは、口に手を当てたまま真剣な表情で考え事をしている。即座に黒森峰を薦めてこないところを見ると、エリカを相談相手に選んだみほの判断は間違いではなかったようだ。

 

「私から言えることは後悔しない道を選びなさいということだけよ。たしかにみほが戻ってきてくれれば、隊長も元気になってもとの生活に戻れるかもしれない。でも、それでみほが苦しむようになったら隊長はきっと悲しむわ」

「やっぱり私が納得して結論を出さないとダメだよね。もうこれ以上お姉ちゃんを悲しませたくないから」

「それが一番いいと思うわ。みほを無理やり連れもどそうとした私が言っても、説得力はないかもしれないけど……」

「ううん、そんなことない。相談に乗ってくれてありがとう逸見さん」

 

 みほは笑顔でエリカにお礼の言葉をかける。エリカにお礼を言ったのも初めてなら、笑顔を向けたのも初めてだ。みほから感謝の言葉を受けたエリカは、気恥ずかしそうな顔でそっぽを向いている。こんなエリカの表情を見たのも初めてだった。

 

「べ、別にお礼を言われるようなことはしてないわ。私はもう行くから、あとは一人で考えなさい」

「うん。後継者になって黒森峰に戻るか、後継者にならないで聖グロリアーナに残るか、しっかり考えて答えを出すね」

「その、できればまた……やっぱり今のなし! じゃあね!」

「バイバイ逸見さん。今日は本当にありがとう」 

   

 エリカは最後になにか言いたいことがあったようだが、結局言わずに走りさってしまった。

 

 エリカのことを苦手だと思っていたのは、みほの誤りだったのかもしれない。苦手だと決めつけず、勇気を持ってエリカと正面から接していれば、今のようないい関係を築けたのだ。

 今度会ったときもまたこんな風に話をしたい。みほはそう思いながら、どんどん小さくなっていくエリカの背を見つめていた。

 

 

 

 

 犬童姉妹はとある場所でみほの姿をじっと見守っている。彼女たちがどこにいるかというと、公園の隣に建っている家の屋根の上であった。

 

「みほ様たちはとくに問題なくお別れできたようですねぇ。いやー、よかったよかった。めいめい、もう手裏剣はしまっていいですよ」

 

 芽依子は手に持っていた棒状の手裏剣を懐にしまうと、頼子にジト目を向ける。どうやらまだ姉の行動に不満を持っているようだ。

 

「姉さん、なぜ逸見エリカの接近を許したんですか? あの女はみほ様に二度も手をあげたんですよ。今回は何事もありませんでしたが、逸見エリカが危険なことには変わりありません」

「みほ様とエリカさんの相性はそんなに悪くない気がするんですよ。うまくいけば、みほ様の強い味方になれそうな人だと思うんですけどねぇ」

「芽依子は逸見エリカを信用できません。あの女は排除すべきです」

「まあまあ、この件はひとまず様子見ということにしましょう。エリカさんも帰ったことですし、みほ様のもとへ戻りますよ。めいめい、帰りもよろしくね」

 

 そう言って頼子は芽依子の背中におぶさった。屋根にのぼることができない頼子は、こうやって芽依子に運んでもらったのだ。

 

「まったく、修行をさぼっているからこんな簡単なこともできなくなるんです」

「これが簡単といえるのはめいめいくらいですよ。あんまり人間離れしないでくれるとお姉ちゃんはうれしいなぁ」

「姉さんと違って、芽依子にはこれしか取り柄がありませんから。みほ様とまほ様をお守りするにはもっと強くならないと……」

「みほ様とまほ様を助けられなかったのは芽依子のせいじゃないよ。西住流を陰で支えるのが犬童家の誇りであり使命である。お父様はそう言ってたでしょ。頼子たちが表立って行動しているのは、愛里寿さんというイレギュラーな存在がいるから。本当なら、こんなに早くみほ様たちの前に姿を現すことはなかったんだよ」

 

 頼子は柔らかい口調で芽依子に語りかけたあと、優しい手つきで頭を撫でた。普段のお調子者の姿からは想像できないほど、頼子の表情は慈愛に満ちている。

 

「……みほ様を待たせるわけにはいきません。姉さん、しっかりつかまっていてください」

「はーい。 わわっ! 早い早いっ! めいめい、もっとゆっくりー!」

 

 顔を赤くした芽依子はスイスイと屋根を下りていく。その速度はいつもの倍近い速さであった。

 

 

 

 

 冬休み最終日の夜。

 みほは自室で携帯電話のメールアプリにメッセージを打ちこんでいた。送信相手はローズヒップとルクリリ。内容は西住流の後継者になることと、黒森峰女学園へ転校することが書かれた簡素なものだ。

 

「大丈夫。後悔なんてしない。私は十分いい思いをさせてもらったもん」

 

 メッセージを書き終えたみほは送信ボタンを押そうとするが、手が震えてなかなかボタンが押せなかった。頭は結論を出しているのに、心はまだ納得してくれない。

 

『もし、そこのおかた。わたくし達と一緒にチームを組みませんかでございますわ』

『その取ってつけたようなお嬢様言葉はやっぱりおかしいだろ。すごく驚かれてるぞ』

 

『大丈夫ですわよ、ラベンダー。わたくしも小さいころは家族と殴り合いの喧嘩をしたでございますけど、今はみんな仲良しですわ』

『私だって親とはよく口喧嘩してたし、誰だって一度や二度は親と喧嘩ぐらいするさ。今はつらいかもしれないけど、あんまり気に病まないほうがいいぞ』

 

『ラベンダー、ちょっと目をつぶっていてくださいまし。汗臭いかもしれないけど、そこは我慢してほしいですわ』

『またネガティブなことを考えてたんだろ。手を握っててあげるから、冷静になって心を落ちつけるんだ』

 

『ラベンダー! わたくし達はずっとお友達ですわ。もう寂しい思いはさせませんわ』

『ラベンダー、これだけは約束して。困ったことがあったら、私とローズヒップに相談すること。一人ではどうにもできなくても、三人ならきっとなんとかなる。クルセイダーだって三人で協力して動かしてるだろ』

 

 ローズヒップとルクリリの言葉が脳裏に思い浮かぶたびに、みほの目からは大粒の涙がこぼれ落ちる。

 それでも、みほは未練を断ちきり送信ボタンを押した。直後に携帯電話の電源を切り、ベッドの上に放りなげる。二人から電話がかかってきたら、みほの決意は簡単に揺らいでしまうからだ。

 

 ボロボロ涙を流すみほの目の前には二着の制服が壁にかけられている。一つは慣れ親しんだ聖グロリアーナ女学院の制服、もう一つは真新しい黒森峰女学園の制服であった。


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