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真新しい白いシーツのベッドの上で目を覚ましたわたしの気分は、物凄く最悪だった。
時々、やけに鮮明でリアルな夢を見る。──しかも悪夢。もう見なくなってしまったのかと思っていたのに、ひと月程前から同じ夢を見るようになった。
気怠く上半身を起こし、デジタルの目覚まし時計に目をやれば、AM7:00。
ベッドから出ると、慣れたように真っ直ぐシャワールームへ。適温のシャワーを頭から浴びて気分を変え、サプリメントの錠剤を水で流し込む。
ベッド横のシンプルな白いドレッサーの上に置いてある医療用の中型アルミケースを開け、中からカートリッジタイプのペン型注射器本体と、青色と赤色それぞれ4つずつある製剤入りのカートリッジの内、青色を1つ取り出す。そしてそのカートリッジを本体に装着し、首元に当てて注射をすれば、ちくりと全身に痛みが走った。
髪の色がブロンドからブルネットに変わる様を、ドレッサーの鏡越しで見つめながら深い溜息を1つ。用意していたシックなモノトーンカラーの服装に着替え、鏡の前で肩にまでかかる長さの髪を内側に入れ込む様に軽くまとめる。
準備が整ったら、必要な家具以外何も無い、簡素なこの白い部屋から出るだけだ。
どこの街にもありそうなアパートメントの1室に見える部屋だけど、そうじゃない。暗証番号を入れて扉を開ければ、監視カメラに常に見張られた白い廊下が目に入ってくる。
その廊下を真っ直ぐに進み、突き当りを左に曲がってエレベーターに。地下25階から地下10階へ上がり、また同じ様な白い廊下を通って応接室の前に立った。
「遅れてすみません」
緩急のない声で一言。センサーで開かれた自動ドアを通り中に入る。豪華な造りの応接室の真ん中に置かれたソファには、口元に微笑を浮かべて深く腰を掛けている人物、ディレック・C・シモンズがわたしを待っていた。
「時間より早く来過ぎてしまってね。もう"新しい名前"には慣れてくれたかね?」
──エヴァ・グレイディ。わたしにこの名前を付けたのは、今や大頭領補佐官となったシモンズだ。
「ええ。此処ではみんな、わたしを『エヴァ』と呼んでくれるので」
「それは良かった。今の君にとても相応しい。──ただ、私は君の本当の名前も気に入っていたよ」
シモンズが、足を組みながらわたしの反応を見る様に言う。
わたしの思考は、一気に過去へと遡る。
1998年7月──。S.T.A.R.S.の隊員になって半年経ったばかりの頃。多発していた猟奇事件の捜査の為にブラヴォーチームとして出動する筈だったわたしは、当日に街で転げ落ちそうになった子供を庇い、右手に怪我を負ってしまった。
その怪我では『邪魔だ』と判断されたのだろう。隊長のアルバート・ウェスカーに自宅謹慎を命じられ、不甲斐なく自宅のアパートで眠れない朝を迎えたわたしの元に、クリスからの電話が入る。
それは、S.T.A.R.S.がほぼ壊滅してしまった事と、壊滅に追いやった原因がウェスカーの裏切りであったという衝撃の報せだった。
頭の中は真っ白。わたしは生き残ったクリス達に一刻も早く会いたくなって、簡単に身支度を済ませて警察署に向かおうとした。でもその時──、わたしは気付けなかったのだ。背後にいた、『ウ
──これがわたしの、辛くて長い11年間の始まり。
気絶させられて目覚めた場所は、暗くて錆びついた部屋。何処なのか全くわからない。目の前に現れたのは、クリスから死んだと聞かされていたウェスカーだ。
ただの人間としての死を前にウイルスを自ら投与。そのウイルスにより超人的な能力を備えて蘇ったと言うウェスカーは、以前とは全く違う、赤く発光した恐ろしい眼をしていた。
何もかも一度に抱えきれない。信じ難い状況の中、1人だけ出動出来なかったわたしを連れ去って監禁。目的は、ウイルスの実験に使う事。
一度目はTーウイルス。何も起こらない。……否、わたしの中で何かが変わったのは確か。
わたしには、稀にあるというTーウイルスに対しての強い抗体があっただけではなかった。ウイルスを騙して逆に支配する細胞を持つ、特殊な体質の持ち主だったのだ。
抗体持ちであった場合、血液中の細胞等はウイルスを取り囲み、ごく一部の害の無い部分だけを残して消し去るらしい。でも特殊だったわたしの細胞は、通常の細胞と同じく一度ウイルスに侵食された後、直ぐに中央からウイルスを食い破るかの様な働きを見せた。そしてそのまま一気にウイルスを吸収。吸収した細胞はウイルスの一部を取り囲んだ状態となり、感染状態のまま正常化しているのだそうだ。
わたしが珍しい細胞を持っているとわかったウェスカーは、次に新たなウイルスを投与。研究施設の様な場所に移動させられ、別の部屋にまた閉じ込められた。実験を待つ動物の様な気持ちで数時間。ウイルスを打たれる際の、僅かに電気が全身を走る感覚以外は何もなく、逆にそれが不気味で恐ろしい。
数日経ち、様々な検査を受ける。怪我をしていた手の痛みは何故か無くなり、聴覚が上がった。
三度目の投与。監禁、実験体にされる辛い日々。この時を必死に耐え、大人しくしているのは、家族やクリスの事を思う以外にもう1人。ウイルスの実験体として、結婚式の前日に拉致されたミランダの存在があったからだ。ミランダは、Tーウイルスの抗体により第1段階をクリアしていた。次のウイルス投与の実験ではどうなるのか。
ミランダの存在を知る前、Tーウイルスを打たれた場所で偶然にも再会したのは、大学で友人だったジャス。彼もまた、実験の為に無造作に選ばれ拉致されていた1人だった。
……ただ彼には抗体が無く、動く屍に変わって直ぐに射殺されてしまったのだけれど。
その不安が頭を過る。ジャスの様な結果にミランダが今後ならないとも限らない。わたしは意を決して彼女と脱出を試みた。──だけどそれは叶わなかった。
ウェスカーはミランダの足を撃ち、わたしに選択を迫る。大人しく実験を受け続ければ、ミランダは解放されるのだと。保証のない卑劣な交渉だってわかっていた。でもわたしは、目の前で血を流して苦しむ彼女を見捨てたくなかった。……だからなのだ。
同年、9月29日。ミランダの事が気になったわたしは、ウェスカーの命令で動く研究員に彼女の安否を問うた。
答えは一言。
『解放された』
それだけだった。
ウェスカーに拉致されて2ヶ月と少し。実験室へと移動中、研究員の話し声が耳に入る。普通なら聴こえない距離なのに、彼等の声はとてもクリアに聴こえてきた。
「被検体26番は、もう駄目らしい」
嫌な予感がした。
その日から一週間ぐらい経ったある日。また新しいウイルスを打たれたわたしの前に、久しく見なかったウェスカーが現れてこう言った。
「お前は、既に死んだ事になっている」
嘘よ──。自分でも驚くくらい、わたしはヒステリックに叫んだ。
これは何年も経ってから知り得たのだけれど、わたしの死亡記事には、住んでいたアパートの隣りのビルオーナーが火の不始末を起こし、アパートをも巻き込んで爆発。住人の殆どが死んだという。
どの遺体も損傷は激しく、DNA鑑定も難航。偶然にも住人の数が一致していたせいで、どこの誰だかわからない人物がわたしの遺体として処理されたらしい。
事故の日付は、拉致された日と同じだった。
それともう一つ。これも後になってわかった事がある。わたしの死亡を知った両親がわたしの遺体を引き受けにラクーンシティを訪れていたが、手続き処理に時間を要した為に仕方なく自宅へと戻る事になり、警察からの連絡を待っていた。けれどその結果が出る前にラクーンシティでは大規模なバイオハザードが発生。
街は政府によって隔離され、遺体も引き受けられなかった両親は『滅菌作戦』でラクーンシティが消滅してしまった事で諦める他あらず、遺体が無いままわたしの葬儀を行ったそうだ。
自分の死を簡単に受け入れられる訳がない。
更に追い討ちをかけたのは、ミランダの10時間前の映像だった。
その映像は、拘束具でベッドにくくり付けられたミランダが、呻き声を上げながら酷く苦しんでいる様子から始まる。よく見れば、彼女のお腹は大きく膨らんでいて、破れる寸前の風船の様だった。
何故ミランダの映像を……。何故あんなにも苦しんでいるのか。そして何故、彼女は解放されずにベッドにくくり付けられているのか。疑問をウェスカーにぶつけるより先に、ミランダが悲鳴を上げて仰け反った。
そして次に起きたのは、学生の頃に友人と見た、SFホラー映画の演出みたいに、彼女のお腹を突き破って現れた、奇声を上げる醜い
映像は、そこでぷつりと切れた。
これは本当の事じゃない。非現実的だ。そう思いたかったのに。
ウェスカーの言う『ミランダの解放』は、この世からの解放──、つまり"死"である。
裏切りのウェスカーの条件を簡単にのんだ間抜けさに、自分自身へ抑えられない怒りが溢れる。
我に返って見れば、自分を縛る拘束具が足元に壊れ落ちていて、周りに置かれていた精密な機械や固定されていた頑丈な椅子は、飴細工の様にぐにゃりと曲がり折れて破壊されていた。
わたしがやったのか。怒りが消え、悲しみに包まれたわたしは、その場に膝をついて項垂れながら泣いた。すると、背後から何人かの入って来る足音が。顔を上げるより先に首元がちくりと痛む。朦朧とした意識は、やがて暗転した。こうやって何度か、わたしは薬で眠らされる事が増えていった。
目覚めはいつも気分が悪い。通常よりも布の面積が少ない検査衣が新しいものだと気付くと、また誰かに身体を洗われていたと知るからだ。
そしてその日がやって来た。
薬を打たれて目覚めるのは同じだったけど、その日は目覚めから違っていた。
水の臭い、薄暗いライトに照らされた、濡れている白い壁と床。シャワールームだ。その壁にもたれかけて座らされている自分は、何も身に付けていない状態。目の前には、白い作業着を身に付けたガラの悪い男が、いやらし気にわたしを見下ろして自慰を行なっている。
わたしは悲鳴を上げて逃げようとした。いつもこうだったのかと考えれば考える程に、気持ちが悪くて吐きそうになる。男は焦る様子でわたしの口を塞ぎ、身体を押さえつける様に馬乗りになった。するともう1人、別の男が拳銃を持って現れる。『だから言わんこっちゃない』声を荒げるもう1人。わたしを押さえつける男はそちらへと意識を向けると、2人で言い合いになった。
男の押さえつける力が少し緩む。必死になって抵抗すれば、わたしの右手が男の顔にぶち当たる。頬には傷が。どうやら爪で引っ掻いてしまったらしいのだ。
男は引っ掻かれた傷を手で押さえ、顔色を青くさせてわたしから慌てて離れた。
それから多分、数秒だったと思う。変異したのは……。
喉元を血が出るまで掻きむしり、頬の傷口から溶ける様に顔が崩れ、呻き、涎を垂れ流し、目をひん剥かせてもう1人に襲いかかる。顔や手を噛み千切り、蹴られ、最期は襲った相手から銃で撃たれて動かなくなった。
目の前で起きた信じられない出来事に唖然と座り込んでいると、襲われた方の男が震えた手で拳銃を持ち、恐怖に怯えた目で銃口をわたしへと向けた。そしてまた、数秒経たぬうちに息を荒くさせ、膝をつき、噛まれた傷口を掻きむしりだす。
正気を失った──否、既に人ではなくなった男は、だらしなく口を半開きにし、白濁した目でわたしに向かって来ようとする。恐怖に震えたわたしは、もう動かなくなってしまっていた男が落としたフォールディングナイフを咄嗟に拾うと、呻き声を上げて覆い被さって来た相手を必死になって切りつけ、最後にこめかみを刺せば、刺されて完全に動きを停止させた男はバタリと真横に倒れた。
静かになった空間。わたしはナイフを投げ捨て、先程まで動いていた2人の死体を呆然と見つめた。
変異していたとはいえ、人を殺してしまった事に変わりはない。罪の意識と自分への恐怖で全身が震える。ウイルスを打たれたわたしの身に何が起きているのか。引っ掻いてしまった男が変異したのは、自分がもう普通の人間ではなく、バケモノになってしまったからなのか。目から流れ出る涙は止まらない。嗚咽をもらし、側で転がっていた拳銃を震える手で取ったわたしは、その銃で自分の頭を撃ったのだ。
悪夢から、逃れる為に……。
──なのに。