エージェントの訓練の初日。施設の中の広いトレーニングルームで初めに行ったのは体術からだった。ある程度の基礎は身に付いているけれど、普通の人間だった時には苦手だった体術は、今の状態になってから力を出せば割となんとかなっていた。その為、わたしがした訓練は、逆に相手を殺さないように抑えるやり方だ。
これが思っていたよりも難しく、わたしは何度か訓練相手を力で殺しかけた。そのせいで誰も相手をしたがらず、もうすぐエージェントとなるシェリーが自ら相手になった。
「正気?」
まさか自分からシモンズに頼んで相手になるなんて。わたしは彼女の正気を疑った。
「ええ、正気よ」
「聞いてないの?」
高い再生能力と回復能力持っているとはいえ、人間ではなくなったわたしを相手にして恐ろしいとは思わないのか。
「あなたの今の状態の事は、シモンズさんから聞いてる。私は、あなたがエージェントになれるように協力したいの。これは強制じゃない。自分の意思よ」
「だったら──」
専用のトレーニングウェアを着たシェリーは、わたしの言葉を遮るように言った。
「恐くなんてないし、酷い怪我をしたって平気。私もタフだから」
真剣な表情で体術の構えをとるシェリーを複雑に思ったわたしは、爪でひっかけないようにタクティカルグローブをして気を引き締めると、彼女と同じく構えた。
──殺したら駄目。力の加減を覚えないと。
自分にそう言い聞かせ、シェリーからの打撃を体捌きで避けて間合いを詰めれば、シェリーも同じくわたしからの当身をなんとか避けていた。
「エヴァ、それで本気なの?」
暫く続けていてからの挑発だ。わたしがシェリーを死なせないよう、手を緩めてしまっているのに気付いたからだろう。
「折角の訓練なのにこんなんじゃ意味がない! 私なら大丈夫、だから本気でかかってきて!」
そうだ。彼女の言う通り、これは訓練なんだ。ここでぐだついている場合じゃない。エージェントになる為には、これをクリアしなければならないのだ。わたしは一呼吸し、迷いを振り切る様に構えた。
打撃を受け、避け、詰め合う。体術を相当訓練しただろうシェリーは、わたしの攻撃を次々に避けていく。
「今度はこっち!」
攻撃がこちらへ向かう。──が、次にどうくるかの動きがわかり、それを避けて回り込んだわたしは、シェリーの膝を狙って右脚で蹴った。
「あ!」
蹴られてバランスを崩したシェリーが仰向けに床に倒れる。……隙だ。素早く覆い被さるようにして跨り、拳を振り下ろそうする寸前でわたしは手を止めた。彼女の鼻先に当たるか当たらないというところで。
「……ありがとう、良い訓練になったわ」
わたしがそう言ってシェリーに手を貸せば、数秒目をパチクリとさせ、驚きと喜びが交じった表情でわたしの手を取り起き上がった。
「……ねえエヴァ、あなた今、私にお礼を言った?」
「言ったけど、何?」
「凄く嬉しくて!」
ありがとうと言っただけでこんなに喜ばれるとは。シェリーは感動のあまりにわたしに抱きついてきた。
「ちょっと……!」
突然過ぎて動揺したし、少しだけ恐かった。抱きつかれるのはいつ振りだろうか。遠い昔の記憶のように、妹だったあのこの事を思い出して胸が締め付けられる。
「あ、ごめんなさい!」
恥ずかしくなったのだろう、シェリーは慌ててわたしから離れてくれた。照れ隠しで笑いながらスポーツ飲料を飲む彼女に背を向け、『また明日』と告げて去ろうとすれば、嬉しそうな声で『また明日!』と返ってきた。
何故だか不思議と、ほんの少しだけ温かい気持ちにはなったけれど、やっぱりシェリーの笑顔は、わたしには眩し過ぎる。
それからひと月と数日、訓練の相手をしてくれていたシェリーが一足先にエージェントになった。
彼女のお陰もあってだと思う。体術は感覚を掴めるようになってクリア出来たし、ある程度予想はつけられていたその他の訓練は一度でOKをもらえた。
「今日はこれを届けに」
エージェントとしての色々を学ぶ中、シモンズがわたしに会いに来た。医療用の中型アルミケースを持って。
目の前で開けられたその中には、カートリッジタイプのペン型注射器本体と、青色と赤色をしたカートリッジが2本あった。
「これは【Control EVA】、
「それは?」
「忘れてはいないだろう? 動きを奪う薬を」
嫌な思い出が一気に蘇り、わたしは警戒を露わにシモンズを睨んだ。
「……何をするつもりなの?」
「エヴァ、先ずは話を聞いてくれないか?」
やれやれと一つ溜息。シモンズが眉尻を下げ、近くのソファに腰を下ろす。わたしはその場に立ったまま、謎めいたアルミケースの中身から目を逸らしはしなかった。
「君からの情報で得ていた薬はBSAAに回収されて手に入らなかったが、救出したばかりの君の体内に僅かに残っていてね、消えてしまう前にその成分を抽出していたんだ」
その薬の成分と、わたしの体内に存在するウイルスの抗ウイルス剤を掛け合わせて作り出されたそれは、一時的に体内のウィルスの活動を、僅かにだが抑制する効果があるという。
「君の体内にあるウイルスは増して強力過ぎる。任務において必要性がある時にならば役に立つが、送らなければならない日常生活では邪魔になる日もあろう」
「日常生活?」
「いずれは君もこの施設を出る」
死ぬまで施設暮らしは覚悟の上だったし、こんな危険な自分が外で暮らしても大丈夫なのかと思っていたから驚いた。
「ずっと施設内で暮らす事も望めば可能だ。けれど長期任務で外へ行く場合なんかに、嫌でもアパートかホテル暮らしを要するし、当たり前に休暇もある。その際に人間離れした力は不必要だ。ウイルスの能力を上手くコントロール出来ていたとしても、感情とリンクして伸びる髪は止められないだろう?」
確かに。これだけ唯一、感情に左右される髪は自分にとってやっかいだった。
「この薬は完全にウイルスを消し去り治すものでは無いが、使用に協力してくれれば更なる改良もされ、今後の君にとっての希望にもなってくれる筈だ」
例の薬の成分が使われていると知って躊躇いは物凄くあったけど、わたしはその本体を手に取り軽く一呼吸した。試作段階で使用して死ねたら良いかもしれないと思いながらね。
「青色が抑える薬で、赤色は抑制を強制的に解除する薬だよ」
シモンズの説明通りに本体に青色を装着し、彼に目を向けながら自身の首元に当てて打つと、小さな痛みが全身を走った。感じ的には──、それだけ。
「どうかね? 何か変わった感じはあるかな?」
「特に──」
でも、何だか少し身体が重くなった気がする。
「そうか……、ああ、今髪の色が変化したよ。ブルネットに」
「ブルネット?」
それを聞いたわたしは、慌てて鏡になるものを求めた。シモンズは部下に用意させると、わたしを映すように持って見せる。
──ブルネットだわ。
確かに髪の色は薬の抑える力のせいなのか、ブロンドから以前のブルネットに変わっていた。もう一生、金髪のままだと思っていたのに。
「気に入ってもらえたら幸いだ」
その後直ぐ、検査が始まった。この結果について簡単に言うと、『力は半分以下に抑えられた』で終わる。でも普通の人間の中身と同じになったワケじゃない。抑えられても体液や血液等は毒に等しく危険である事に変わりなかったし、一般の成人女性よりかは少しだけ聴力視力が高く、人にしては怪力に入るレベルだった。
唯一目立って数値が下がったのは再生、治癒能力。小指の第一関節を切断して再生するまで一時間かかった。もしかしたらって期待もあったけど、回復に時間を要するだけで死にはしない。一番気になっていた伸びる髪は一応に抑える事に成功しているらしく、シモンズ曰く今後の改良も期待出来ると、開発チームは喜んでいたらしい。
薬の効果は5時間。それ以降は元通り。緊急を要する場合に使用する解除用の赤い薬のテストは2、3度受けたけど、薬が入って数秒間、抑えられたあの薬を思い出してしまうくらいの苦痛を感じた。でも、取り敢えずは制御も解除も現状問題無かったようで、このまま使用を定期的に続けての様子見となった。
2012年12月──。訓練をクリアしてきたわたしはエージェントとして合格が決まり、デビュー日の24日を控えた2日前にシモンズに呼び出された。
「おめでとう、グレイディ君。これで君も合衆国のエージェントだ」
シモンズの目の前にあるデスクには、真新しいエージェント手帳と薄型の携帯情報端末があった。それらを見つめたままでいれば、柔らかな笑みを崩さないシモンズがこれからの話をし始めた。
わたしがエージェントとして配属される先は、【 DSO(Division of Security Operations) 】 に決まった。2011年に大統領のアダム・ベンフォードの指示により設立され、アメリカ合衆国がバイオテロの脅威から国家を守る為に必要とした新組織なのだそうだ。
「本来DSOのエージェントは大統領直轄で働いてもらうのが主にであるが、バーキン君──、シェリーや君は任されている私の直属エージェントとなる事が決定してね、任務は全て大統領から私を通して行動してもらう事になる」
そして初任務へと話が進み、シモンズは隅にいる秘書に用意させたノート型パソコンの画面をわたしに向けて見せた。
「東欧の紛争地域であるイドニア共和国へ潜入して、そこである人物と合流するんだ」
画面には、アジア系の女性が映し出される。
「名前はエイダ・ウォン。優秀な私の部下だ。君には、別件任務で行動している彼女と先ずは合流してもらいたい」
「……合流するだけ? この人間と合流した後は?」
「もっと面倒な任務を望んでいたのかね? 初めはこんなものさ、大体な。エイダと合流すれば私に連絡を。その後で追加任務をする」
初任務を無事に終える事を願っているよ。シモンズは、そう言ってわたしに握手を求めてきた。わたしは笑んでいるシモンズからその差し出された右手に目線を向け、少しの間を置いて彼と握手をした。
「ありがとうございます、大統領補佐官」