おーばーろーど ~無縁浪人の異世界風流記~   作:水野城

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酒と共に語れ

 風が匂った。雨雲の匂いを運んでくるらしい。空を見上げてみれば、黒雲が王都リ・エスティーゼに覆いかぶさっていた。王国戦士長ガゼフ・ストロノーフは外套を持って、城へと向かうことにした。

 

(帰る頃には降りだすだろうな)

 

 今にも鼻先に降ってきそうな様子であった。降るのなら、いっそ今すぐにでも降ってもらえれば、考え事が一つ減る。帰りに濡れるより、行きも帰りも濡れた方がいっそ心持ちが軽くなる気がした。もしも土砂降りになるのなら、城の詰め所にでも泊まろうかと思うが天にごねてもどうにもならない。諦めたように、ガゼフが自宅を出たのはまだ雨の降り始めない朝方の事であった。

 

 

 

 城での職務を終えれば、土砂降りとまではいかないが小雨が降っていた。王城内で待っていても、雨脚は強くなるばかりだろう。

 仕方がないとガゼフは外套を着込み、フードを目深に被ると雨の中に踏み込んだ。雨は瞬く間に彼を包み込み、外套を濡らしていく。ガゼフは、この外套の濡れた何ともいえない感触が嫌いであった。気持ちが悪くて堪らない。自然と彼の歩調は速まり、王都中央通りを通り過ぎていく。普段は猥雑極まる場所であるが、雨のせいか人通りが少ない。濡れて滑りやすくなった路面で、同じ様な外套を纏った男が派手に転んだのが目に付いた。

 

(俺も気を付けねば)

 

 そんな光景を見たからか、多少の気色悪さは我慢して歩調を落として、おっちょこちょいの二の舞にならないように黙々と歩いた。やがて自宅が近くなり、やっと濡れた外套から解放されるかと、ほっと息をつくとの向こうから誰がゆっくりと向かって来ているのに気が付いた。背丈から男と判断する。目測十歩の距離まで近づいて初めてその人物に違和感を覚えるが声を掛けることもなく、お互いにすれ違った。

 

(おや?)

 

 フードから垣間見えた横顔に確かな見覚えがあった。とても親しき友人のようでもあるが全く気心知れない他人のようにも思える不思議な懐かしさを感じていると、相手も何か感じ入る事があったのだろう。両者は互いに足を止めると向き合い、顔を確認し合う。

 

 その面貌を見た瞬間、怒涛のごとくガゼフの記憶が蘇る。

 

 かつて御前試合にて戦った男、ブレイン・アングラウス本人であったのだ。その姿は彼の脳裏に深く刻まれていた。今まで戦ってきた戦士の中では最強の男であり、一方的な思い込みかもしれないが終生のライバルとさえ思っている相手だ。

 記憶でのブレインは燃え盛るような戦意を顔に表していたが、眼前の彼は雨に打たれているというのに何処か涼し気な表情をとっている。

 

(腕を上げたか)

 

 その面を見て剣を交えずとも分かった。この男は自分の想像を超える高みにまで昇っていることにガゼフは歓喜にも似た稀有な感情が込み上がって無性に戦いたくなったが、久しぶりに会っていきなりでは無粋だなと改め、彼の名を呼んでみることにした。

 

「アングラウス。ブレイン・アングラウスか?」

 

 もしもこのまま彼が嘯くというのならば、斬り掛かってでも確かめてやろうとさえ今この男は考えていたが、その耳に驚嘆の声が届いた。

 

「ガゼフ・ストロノーフ!?」

 

 これを単純な驚きと取るか出合いたくない人物に出会ってしまったと取るか。ガゼフの判断は分かれた。

 

(そこまで驚くことはないだろう……)

 

 確かに会うのは酷く久しぶりでこうして顔付き合わせてまともに会話をするのが初めてだとしても、ガゼフはブレインの事を一度たりとも忘れたことはない。訓練の際は相手をブレインと仮定して剣を振ったのはもはや数え切れない程であった。そんな彼に、そのような反応をされれば、心が傷付いてしまうではないか。

 

 だが、ブレインにしてみればガゼフとばったりと出会うことは雷に打たれる事よりも衝撃であったのは言うまでもない。会うことは覚悟していたが、こうもあっさりと誰かのお使いの帰りに出合うなど想像だにしなかった。

 

 大の男が二人、雨の中お互いの顔を見詰めている光景は何とも奇妙といえたことだろう。

 

「久しぶりだな、アングラウス。元気にしていたか?」

 

 ガゼフはブレインと会えて単純に嬉しかった。でなければこの様な口は利かないだろう。何年も会わず、縁も薄れてしまっても剣で語り合った仲はそう易々と失われないものだ。

 

 だが、ブレインの方は少し違った。会えて嬉しいのだが、いざ合ってみるとまだ戦う心構えが出来ていなかったのだ。その隙間を突かれた事で何と返事をすればよいのか咄嗟には分からなかった。当人を前にして当惑してしまうなど無性に情けなく思えてしまい、顔色が曇る。

 

「どうした、アングラウス? 体調でも悪いのか?」

 

 ブレインがなぜ顔曇らせるのか。戦意の火が灯るその瞳にはまるで似合っていない事にガゼフは疑問を浮かべる。

 

「すまん、ストロノーフ。俺はまだ………」

 

 問いの答えにはなっていなかったが、その声には確かな英気があった。

 

「………そうか」

 

 たった一言。それだけでガゼフはブレインの心情を理解すると、大きく頷いてみせた。

 

 精根尽き果てるあの激闘を忘れるはずがない。その敗北を引き摺って生きていたのだろう。その頭では自分を倒す事だけを考えて剣を振ってきたはずだ。勝者である自分でさえ、ブレインの影を求めた。もしも勝敗が逆で立場は変わっていたら、今の状況で自分はどのように行動をするだろう。どれほど考えても分かることはない。

 

「もう少しだけ待ってくれないか」

 

 ブレインの絞るような声。哀愁と激情が不安定に釣合った声色は、ガゼフの心に大きく揺さぶった。

 

「ああ、待っているぞ」

 

 その言葉を聞くとブレインは背を向けて走り去ってしまった。ガゼフは追い掛けたくなる背を、口惜しく歯を食いしばって見送った。胸が苦しくなった。ライバルと碌に話を交えることも剣を交えることもなく。ただ再戦を約束して別れる。あの戦いの熱がぶり返してきたようだ。余熱がまだ残っていたらしい。尋常ではない熱さに胸が張り裂けてしまいそうである。このままいつ来るか分からない相手を待ち続けることが、果たしてできるだろうか。

 

 逃げるようにその場を去ったブレインは、己を恥じた。あれほど倒すと誓った相手をいざ前にして逃げるなど、死ぬほど恥ずかしく目尻には涙さえ浮かべている。雨の冷たさなど感じる事も忘れ、猛る叫ぶ胸を抑えて何故逃げてしまったのか自問を何度も繰り返した。

 

 怖い訳など無い。自信が無い訳でもない。足りないのは何だ、覚悟か。はたまたやり忘れた事でもあるのか。

 

 鉛色の蒼穹が頭上で重苦しくかかっている。だが、ブレインの心はそれよりも暗く、重苦しかった。

 

「~~~ッッ!!」

 

 唸り咆えた。彼の高ぶりに応じたかのように雨脚は強まり、雨音でブレインの叫びなど誰の耳にも届かなかった。喉を唸らせながら見知った角を滑るようにして曲がり、泊まっている宿を見つけた。

 

 この心情を吐露する相手は一人しかいない。もしかしたら自分の事を腰抜けと罵倒するだろうか。ガゼフから逃亡する事より辛いことなど今のブレインにはない。今はただ吐き出して、気持ちを少しでも沈めたかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「雨が降っている」

 

 湿気で結った毛が栗のように尖っているゴンベエが窓の外を見ながらそう呟いた。その手には杯が握られている。薄い屋根に雨の音がして、歌をかなでているのを肴にこれを飲んでいた。

 

 対面の席では奇異の目でクレマンティーヌがゴンベエを見ていた。

 

「見れば分かるよ」

 

「この街の汚れも匂いも全て洗い流しているようだな」

 

「そう……」

 

 だからなんだ、とクレマンティーヌは喚きたくなった。

 今まで小一時間ほどこのポエミーな会話に付き合っていたせいで、彼女の心は乾いていた。無感情でいて冷酷、人間味を失ってしまった。つまり、ほぼいつものクレマンティーヌである。

 

「こういう美しさも分かってきたぞ」

 

「そりゃあ良かったね……」

 

「お前は雨は好かんか?」

 

「……嫌い」

 

「そうか……」

 

 少ない言葉を交わすと、ゴンベエは酒を一口だけ飲んだ。

 

 ゴンベエだって昔は雨が嫌いだった。だが、この世界で降る雨は物を溶かすこともない。それに気付いてから好きになるのは本当に直ぐのことだ。ただ濡れるだけの雨を、なぜこの女は嫌うのだろうかと思案に暮れていると、宿に飛び込むようにブレインが帰って来た。

 

 二人は、すわ何事かと目を見張った。

 

 ブレインが肩を上下させ、顔を伏せているとその視線が自分に向けられていることを感じた。二人は何も言わず、ブレインをただ見ていた。クレマンティーヌの方は今にも下品な笑いを浮かべそうであるが。

 

 空気を察してか、ゴンベエが手に持っていた酒を飲み干すと主人に替えの酒を注文した。頬を淡く火照らせながら、ブレインに席に着くように手招きをした。

 

 酒を借りて愁いを灌げば更に愁わしというが、必ずしもその通りではないだろう。生半可に飲ましてしまえば却って疼くものだが、泥酔させてしまえば何も感じなくなる。酔わせるのはさほど難しいことではない。一緒に酔うまで飲んでやればいいだけのこと。

 

 ゴンベエも潰れるのを覚悟して、お代わりを頼んだのである。

 

 席に着いたのとほぼ同時に運ばれてきた酒をブレインは一口含むと味わう暇もなく喉元を通す。これを何杯か繰り返した。

 

「………いつまで黙ってんの?」

 

 促すようにクレマンティーヌが、ずけりと言う。こういう空気で会話のきっかけを作れるのは自分だと判断しての言葉であった。

 

「お前は静かにしておれ」

 

「はーいはい………」

 

 内心で彼女に感心しながらも、ゴンベエはむやみな口をきかせまいとに釘を刺すことにした。この女に対するある程度の扱いを覚えてきた様子だ。そして一向に名を呼んでやるつもりはないらしい。

 

「さっき……ストロノーフに会った」

 

 囁くような小さな声であった。

 

「ストロノーフ? ガゼフ・ストロノーフとかいう者のことか?」

 

「そうだ。随分前に戦って負けた。生涯を掛けて倒すと誓った男―――」

 

 ゴンベエは嬉しそうな様子で顔を上げた。気にはなっていた話である。それを本人の口からやっと聞けるかと思うと嬉しく堪らず、酒を乾す。

 

 話をするにつれてブレインの目には野性の光が灯り始める。それは戦いと反逆、人を寄せ付けない光であった。この瞳なくしては、ガゼフとの過去は語ることはできない。彼との死闘と決着、そしてその後の荒れた生活。ブレインは熱のこもった言葉で、しかし淡々と語った。

 

 これを肴にすると水でも混ぜていた酢のような酒が、驚くほどの美酒に化けたとゴンベエは錯覚した。ブレインの酸いも甘い人生がこの杯の中に混ざり、これを味わうとまるで彼の人生が追体験できた気さえする。胸がかあっと熱くなり、手には汗が浮き出て瞳がギラギラと輝いた。

 

 クレマンティーヌは詰まらなさそうにして、酒をペロリと舐めていたが二人はそんな女など眼中にまるでなかった。蚊帳の外に置き去りにして、ブレインとゴンベエはガゼフの背だけを夢想していたのだ。

 

「さっき剣を抜くべきだったのか………」

 

 ここにきてブレインはあの場で戦わなかったことを後悔し始めたいた。悲痛ともいえる声である。彼は待っていると言ってくれたが確証がない。そんな男だとはブレイン自身考えても居ないが、僅かな不安を抱いてしまっていた。

 

「ん? 彼は待つと言ったのだろう」

 

「ああ………」

 

「何を考える必要がある。その男が待つと言ったのなら、お前はたっぷりと時間を掛けて焦らしてやればいい。巌流島作戦よ」

 

「ガンリュウジマ?」

 

「だが、約束を反故するのなら所詮はその程度の―――」

 

「ストロノーフはそんな男じゃねえ」

 

 そのことは実際に剣を交えたブレインには誰よりもよく分かっていた。剣を交えるのは言葉で語るよりも、着飾る事のない濃厚な会話たりうる。

 

「もしかしたら、とんでもない変態趣味を持ってるかもしれないよ」

 

 黄色い声が二人の風情に穴を開けた。ブレインが猛然と立ち上がると鯉口を切ろうとしたので、ゴンベエが慌てて止めに入った。

 

「お前は黙っていろ」

 

「お~コワ」

 

 クレマンティーヌはお道化る調子で顔を背け、酒を飲んだ。

 

 

 カウンターの奥では宿の主人が眉をひそめて不思議に思った。なぜこの三人は一緒にいるのだろう。まるで反りが合っていない。開業十年余り、このような客は初めてだった。

 


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