ガゼフ・ストロノーフは足早に廊下を歩いていた。胸がひどく熱い、身体全体には熱を発しているように思えた。
これほど気が高まるのはカルネ村以来だった。
カルネ村にて出会った慈悲深い
少しでも解消しようとこうして朝早くに訓練所に向かっていた。大広場なので誰が居ても存分に身体を動かせるはずであったが、見慣れた先客が体格に似合わぬ巨大な鉄塊を振っていた。
グレートソードより一回り以上の大きさを誇る大剣を降り下ろす姿は、もう見慣れたものだ。
クライムは、このリ・エスティーゼ王国第三王女付きの兵士である。王女の為に厳しい鍛錬を自分に課すのは素晴らしいが、やり過ぎてはいけないと幾ら嗜めても辞めようとしないのが玉に瑕である。
(そうだ。一つ、剣を交えてみるか)
この熱に影響されたのだろう。普段はクライムと稽古することはなかったが、この火照る身体を冷やすには、誰かと剣をぶつけ合わせる必要があると感じた。ガゼフとまともに渡り合うにはアダマンタイト級の実力が必要である。兵士の中ではそれほどの強者は誰一人いなかったが、クライムだけは一流だと評価していた。
ガゼフは口角上げると、そろそろ腕が痙攣してきたクライムを止めに入った。
この街のきな臭さにも、すっかり慣れてしまった。
こういう街だと分かってしまえば、何てことはない。エ・ランテルよりも騒々しいが、多くの人が入ってきては金を落としていく。人が多いと冒険者の数も多く、ここにはアダマンタイト級のチームが二つもいると聞く。少々大げさかもしれないが、王国の平和は、その二組が担っていると言っても過言ではないらしい。
(いや、今は三つだったか)
黒い甲冑とそれに連れ添う美女を想い浮かべた。多少変わった者たちであったが数少ない友とさえ思っている。彼らの話が聞こえるのは愉快であった。
ゴンベエは中央通り歩きながら、ゆっくり辺りを見物していた。日課の散歩のようなものだ。まだこの町の地理を把握できないのでこう歩き回ることはエ・ランテルでもよくやっていた。
意外にもゴンベエも一人になりたい時がある。勘違いしている者もいるかもしれないが、彼はユグドラシル内ではソロプレイヤーとして遊び、現実では毎日忙しく働き誰かと共に日常を過ごすことはそれほど多く無かった。嫌いという訳ではないが、むしろ毎日が楽しくて堪らず、この夢がいつか覚めてしまうのではないかという苦悩すら感じることさえあった。身体に流れる血が熱いからこそ、こうして考え込んでしまう。
胡蝶の夢を見た壮子のようにどちらが現実だと言うことはないが、こちら側が覚めても向こうに戻れる確証はない。
後ろから付いてくる女は何か悩みがあるのだろうか、とゴンベエはくるりと振り返った。
追っ手がいると言っていたが、日々の行いを見るにまるで悩んでいる様子は無かった。そして事あるごとに自分に付いて来たがるのにゴンベエは溜息を漏らすのだが、今日は連れ歩いている。ブレインが発起して宿で神経を研ぎ澄ましていたので邪魔をさせない為でもあるが、
(所詮俺も人だ。孤独は寂しいのかね)
と、思う節もある。
「どったの?」
いつもとゴンベエの調子が違うことに気付いたのか、クレマンティーヌが枝垂れ掛かるように肩に手を置いた。
「いやなに、この街にも慣れてきたと思ってな」
「へぇ。じゃあこんな所歩いてないで、市場にでも行こ」
「ふむ………」
今日は騒々しい所に行く気にはならなかったが、なにかひどく柔らかいものゴンベエの腕に押し付けられた。なるほど、クレマンティーヌがその二つの乳房の間に腕を挟むような格好で、ゴンベエを連れて行こうとするのだ。いくら自分の要求を応えて欲しいからといってここまでする必要はない。ゴンベエはその勢いに負けて、黙って付いて行かざるを得なかった。
市場ほど賑やかで人がごった返す場所はあるまい。無数の出店が軒を連ねた広場に来れば些細な悩みなど考えたりしなかった。肉屋で値引き交渉をする子連れの女、花を抱えて杖にすがる老婆、帽子を試す男性、共に靴を選ぶ夫婦。様々な人間が籠を下げて行き来し、威勢の良い商人の声があちこちから響いた。
肉の生臭さや、油の焦げた匂い、野菜の泥臭さ、鶏の言いようのない臭みが、辺りに満ちている。様々な匂いが混ざり合い、じきに鼻が利かなくなる。市場の喧騒は活きがいい。誰もが笑顔を浮かべていた。
焼き菓子を齧りながら、二人は武具屋で足を止めていた。ゴンベエからしてみれば品揃えが良いとは言えないが、クレマンティーヌが何か良い掘り出し物がないかと見ている。腰に忍ばせたナイフ一本では物足りなさを感じているのだろう。購入した武器で命を狙われる心配など余所に、ゴンベエは大道芸人の妙技を見物していた。
ただでさえ世の中が新鮮に見えるのに、この市場の賑わいは楽しい物であった。熱に浮かされた子どものように、ゴンベエはぼんやりとしているとクレマンティーヌが、
「行こうよ」
と、声を掛けてきた。腰には買ったばかりの何の変哲もない短剣がぶら下がっていた。
「あーあ。誰かのせいでこんな安物買うはめになっちゃったなあ~」
どの口がそう言うのか。引き千切ってやろうかとゴンベエは呆れながら思っていると、悲鳴が聞こえた。市場から少し離れた所で人垣が作られており、そこから飛んで来たらしい。ゴンベエは少しだけ気には留めたが、少し様子を見ようと動かずにいた。
「なんだ、あんなに騒いで?」
やがて近くの商人らしき男が、そちらから来た人に尋ねる。
「喧嘩をしている奴らがいんだ!」
これに、ゴンベエは仰天した。見れば、周りから人がたかり始めている。怖いもの見たさだろう。
こんな街中で喧嘩とはやはり物騒な街なのだな、とゴンベエは改めて認識する。
「とんだ余興だ。何が始まったんだか、お前も見に行くか?」
と、ゴンベエがクレマンティーヌの方を向くとそこに姿は無く、人垣に交ざっているではないか。ゴンベエも興味がない訳ではない。逆に言えば大好物中の好物であったが、まだ焼き菓子を食べ終わっていないので食べ終えてから観に行っても遅くはないと、慌てずにモソモソと食べ続けた。
「どうしたものか。女が血生臭い騒ぎを男より好くのは」
市場で買い物に励んでいた女性連中のほとんどがクレマンティーヌと同じように交じっている。先ほど見かけた杖をついた老婆まで参加していた。女が市場に来るのは何も買い物に来るだけではないらしい。井戸端会議に興じようと、噂も仕入れにやって来ていた。
「男には慣れたことだが、女には珍しいのか?」
血の気が多い冒険者たちは性別が偏って多い訳ではなかった。仕方のない理由でなる者もいるとは思うが、この世界では争いは茶飯事だと伺っている。珍しいということでもなさそうだが。
「さて。動物の雌は強い雄が好きというが、似たようなものか」
動物の雌は強い仔を生むために強い雄の番いになると教わったことがある。血生臭い騒ぎを嬉しがって見に行くのはこれと何か関係があるのではないか。人間といわず獣といわず、女の本性には何か不思議なものがあるのだろう。
そういった話のタネにもならない事を考えていると、またこぼれ話が聞こえた。
「大勢で子供を袋叩きにしているらしい。ありゃリンチだな」
眉をしかめたゴンベエは忽ち義憤した。憤りと侠気とが、ゴンベエの胸に沸き起こったのである。尋常な立ち合いであればいざ知らず、もはやそれは喧嘩ではない。相手も子供となれば話は変わってくる。
焼き菓子を投げ捨てると彼は恐ろしい勢いで人垣に割って入った。
「やい! 寄って集って子を襲うとはけしからん連中だ。さあ、俺にかかって来い!」
そう喚きながら人垣の中央に躍り出ると、散々痛め付けられたであろう少年と男たちの他に見覚えのある老人が男たちと正面から向かい合っていた。
ゴンベエはその老人を見た瞬間に叫びたくなった。水でも浴びせられたように驚いている。その老人は、王都に訪れた日に老婆を助けていた老人その人だ。なぜ彼がここにいるのかは疑問にも思わない。自分と同じように助けに駆け付けたのだろうと自然に捉えた。
「正義のヒーロー気取りがまた増えた」
男たちのリーダー格であろう人物が粗暴な口調で喚いた。その目は据わっている。酔っているらしく、開いた口からは独特の異臭を漂わせいる。
「御老人、助太刀いたす」
老人はゴンベエを一瞥すると小さく頷いた。これを了承と受け取ったゴンベエは片肌を脱いで手を強く握り締めると、手の甲に分厚い青筋が浮き出た。
男たちは二人を歯噛みしながら睨むばかりで、誰も先陣を切るつもりはないらしい。老人だけだと余裕を持っていたのだが、突然の乱入者であるゴンベエの巨体を見て肝を冷やしているようだ。
「ぶっ殺せぇ~!」
人垣の中から聞き覚えのある女の野次が跳んできた。さすがにゴンベエもそこまでやるつもりは無いが、しこたまに打ちのめしてやろうとは考えている。
やがて意を決したリーダー格の若者が老人に襲い掛かったが、次の瞬間には地面に崩れ落ちていた。老人の速い打ち抜きである。これを見逃さなかったゴンベエは、助太刀は不要だったかもしれないと思いながらも呆気に取られている男たちに躍りかかった。
徒手空拳での彼の動きは素人のそれで、切れはないが純然たる力の塊をまともに食らえば意識を保つのは難しい。勝てぬと悟った男たちは次々に詫びの言葉を喚くと、意識の無い者を引き摺って逃げて行った。
老人は逃げた男たちには興味も示さず、しゃがみ込んで少年の容体を診て近くの人物に神殿に運ぶように指示を出した。立ち上がるとゴンベエに向かって軽く頭を下げる。
それに笑い返すと、老人は自然と割れた人垣の中を悠然と立ち去っていった。
ゴンベエはこの奇妙な老人に不思議な縁を感じずにはいられなかった。まだ二度しか遭遇していないが、その二度とも誰かを助けていた場面と巡り会っている。自分の目が届かない場所では更に多くの人を助けていることだろう。
(また会えるだろうか?)
そのまま老人を見送り、クレマンティーヌを連れて帰ろうと視線を移すと近くの建物の上で不審な動きをする者たちが目に入った。白昼堂々と働く盗人の類だろうかと一考してみるが、彼らは老人の後を付けるようにして屋根伝いに移動しているように見受けられた。
ゴンベエは居ても立っても居られず、後を追いかけた。老人が曲がった通りまで差し掛かり、その姿を見つけたので横に付く。
「失礼いたす御老人。どうぞ歩きながら」
聞いたばかりの声に従って老人は言われた通り足を止めず、横に付いたゴンベエを見た。その表情は鉄面のように微動だにしていないが、どこか怪訝な気を纏わせている。
「何か御用でしょうか?」
芯のある渋い声だ。
「まずは名乗らせて頂く。手前は名無しの権兵衛と名乗るしがない旅の者。お気軽にゴンベエとでもお呼び捨て下され」
「名無しの、ゴンベエ様ですか……」
老人は小さく名を反復した。変わった名に懐疑的な見方をしている。当然、ゴンベエの身なりは無頼のそれだ。初見で信用しろと言うのは無理がある。だが初対面の印象が良かったのだろうか、完全に拒絶するような意思は感じなかった。
「もしよろしければ、名をお聞かせいただきたい」
真っ直ぐとした瞳と誠意のこもったゴンベエの言葉に些か警戒を解いたらしく、老人は名乗った。
「私はセバス・チャンと言います。貴方は先ほど手をお貸し頂いた方ですね」
「あの腕前ならばご不要でしたか?」
「いえ、私はこの見た目ですから少々侮られて見られるようです」
セバスと名乗った老人は謙遜した風に言うが、老練とした立ち振る舞いと漂う品格は圧力さえある。
ゴンベエは喉を鳴らした。今までこのような人物には出会ったことがない。こんな陰気な街に似合わない雰囲気と生気に満ちた人物である。何処か名のある大人物なのだろうか。
二人は暫し無言になると、横並びに歩き続けた。
「つけられてますな」
やがて、ゴンベエが囁いた。
「朝方からです。まさかそれを知らせる為に私に声をかけられたのでしょうか?」
「それもありましたが、以前お見かけした時よりセバス殿に興味がありまして今日出会えたのを何か縁と思って、いざ声をかけてみました。しかし流石はセバス殿、すでにお気づきでしたか。相手は四人ですかね?」
「いえ、屋根に五人。あの後に二人増えて七人」
優れた洞察力で数を正確に把握している。ゴンベエは感服すると、増えたという二人を探そうと辺りを観察する。まだ人気も多いのでどれが追跡者なのかは分からなかったが、見覚えのある金髪が少し離れた所に見えた。クレマンティーヌである。すっかり忘れていた。
「一人は手前の連れですな。なに悪い奴ではありません。で、彼らに心当たりがおありで?」
「ええ…」
「よろしければ手をお貸ししたい」
セバスは、これを断ろうとゴンベエの方を向くと彼は人懐っこいはにかみの微笑を浮かべていた。愚かしいほど人間臭い笑みであった。こんな顔は見たことが無い、とセバスが呆れるが表情には浮かべない。
「………構いません。ではこちらに」
ゴンベエは心を踊らせた。なれば遠慮なくぴったりと離れず付いて歩く。薄暗い方へ曲がるにつれて人気が減り、やがてゴンベエにも追いかけてくる者の足音が聞こえてきた。大きさから男の歩調だ。
クレマンティーヌは上手く足音を消しているらしく、殺気さえ向けなければゴンベエは気付くこともできないらしい。あれでいて中々に器用な女であった。
やがて人気も完全に消えてゴンベエはいつ仕掛けてくるのだろうと構えていると、しわがれた若い男の声が飛んできた。
「すいません」
ゴンベエは彼に見覚えがあった。先の騒ぎにて人垣の中に交ざっていた少年だ。セバスが応対するがその迫力に押されて少年は言葉を詰まらせる。それを察して力を抜いた柔らかな口調でセバスが話しかけると、調子が戻ったように彼は喋り出した。
彼はクライムと名乗った。この国に仕える兵士らしく、二人に騒ぎを止めた礼を言ったかと思うとセバスに技を伝授してほしいと申し立てた。ゴンベエはこれを面白いと、二人のやり取りをただ見守る。
セバスがクライムの手を確認したり、持っていた剣の刀身を見詰めたりする。それに何の意味があるのかゴンベエにはまるで分からなかったが、セバスはそれだけで少年の性格を把握したらしい。
何か感じ入るものがあったのか、セバスは彼に訓練をつけると言った。ただし条件があるらしい。
セバスは話を続けた。それはある一人の女性を助けたことから始まる闇の組織との対立の話であった。
ゴンベエはこの話に暫し耳を傾け、そして心を震わせ確信した。
このセバス・チャンなる老人こそが『天下第一の義の人』であると。