窓から夕暮れの淡い陽が差している。部屋の中には一人、物静かな男が床にあぐらをかいて、心魂を落ち着かせていた。大一番が控えている。彼の人生を一変させた因縁との再戦、これを乗り越えねばならぬ。これに打ち勝たねば、高みへと昇ることなどできない。先人は遥か高みで見下ろしている。
ガゼフ・ストロノーフ。己が超えねばならぬ男。
知り得ている情報は戦い方だけだ。だが、それが今も変わっていないとは限らない。腕前も以前より格段に上がっているはずである。対策はあらず。無いと言うより、あえて作ろうとせずに、自分らしくあの男を打ち破る。向こうもきっとその腹積もりだ。
―――近い。
そう予感した。何となくだが、もうすぐ会える気がする。それほどまでにガゼフの事を考え、思い、極まっている。
事ここに至っては鍛錬など不要。あとは、抜いて斬るのみ。いつものことだがいつものことではない。そう簡単にいかないだろう。
ブレイン・アングラウスの思考は一つの極点へ達する。もはやこの天下には己とガゼフしか存在せず、芥の物など眼中にない。そんな最中、藪から棒にも部屋の扉が開けられ、クレマンティーヌが入ってきた。
「ねぇ、ゴンベエちゃん帰ってない」
いつもの調子変わらずと言いたいところだが、どこか言葉に力がこもっていない。軽い口調ではなかった。
「知らん」
ブレインは変わらず。簡潔に冷たく返す。この女にはこれで良い。しかし、ゴンベエが帰ってないとはどういう事か。若干気掛かりだが、あの男の事だ。酒でも飲みに行っているのか、と一考した。
「気が付いたら居なくなっててさぁ。どこに行ったんだろ?」
「はぁ、大丈夫だろう。腹が減ったら帰って来るさ」
犬でもあるまいし。ブレインも少々ゴンベエの扱いが分かってきたらしい。いや、雑になったとも言えるが内心では少しばかり心配していた。
「人やっちゃってさ。何か落ち込んでたように見えたんだけど……」
「人をやった? 殺したって事か? お前ら何処で何をしてたんだ?」
「ん~~八本指の娼館に殴り込み」
ブレインは言葉を失った。一体何がどのようになって、そういう経緯となったのか定かではないが、王国内で八本指を敵に回せばどうなるかは知っている。
さらに問いただしてみれば、クレマンティーヌは王国の兵士と共に乗り込んだと宣うのだ。自分の存じない所で何が起きているのか。ガゼフとの再戦を目前にして、とんだトラブルに巻き込まれてしまったらしい。
「戻ってきたら私が帰るまで、外に出さないようにしておいて」
そう言うとさっさと部屋から出て行ってしまった。相変わらず騒がしい女だが、どこか一途だ。自分と似ているせいか、妙な親近感が湧いたが頭を振ってまで否定する。
「旦那。何やってんだ……」
ブレインも探しに行こうかと一度あぐらを解いたが直ぐにまたかいた。自分が行ったところでどうなるというのか。気分の浮き沈みが激しいのは何も今に始まった事ではない。それに、今は自分の事だけで手一杯だ。人にかまえる余裕は、ブレインには無かった。
月が昇り始めた街をゴンベエは彷徨っていた。何やらいつもと様子が違っている。誘われるかのように勝手に足が動くのが彼の歩調だが、今の彼は見知った道であろうと見知らぬ道であろうと迷いさまよう幼子のようにおぼつかない足取りであった。
彼の胸には変わらず哀感に満たされている。これを晴らすにはどうすれば良いのか、彼はその術を知らない。自分がどこに向かっているのかさえ分かっていない人間が、そんな事を知っているはずがない。
奇妙なけだるさを連れながらたゆたった。往来の人々に交ざり前後に歩き、けだるさにひたる。すると様々な思想が浮かんでは去って行く。この一時は、知恵を持つ生き物としてとても大事なことではないかとゴンベエは思う。これを繰り返すたび、彼の心は自由に果てしなく漂う事になる。
――自分の斬った者たちの死は、無益で無価値なものだったのだろうか。
言葉にできぬ哀感の色が一層濃くなった。自分の情けなさに涙さえ出てきそうになり、この世界から隔絶されているとさえ思えてくる。いや、それは事実なのだろう。本来ならば、この世界に彼は存在していない。
理想との隔たりが大きすぎただけ、ただそれだけ。それだけであるが、余りにも大きすぎた。彼の求めた戦いとは、無益で哀しいものではなかった。客観的に見てみれば、悪党の拠点が潰れて喜ぶ者が大勢いるのだが、そのような騎士道物語ではないのだ。
ふとある裏通りに目がいった。どこか見覚えのあるような、無いような気がする。
まるで誘われるかのようにゴンベエがそこに足を踏み入れると、一軒の小さな酒場が見えた。扉の釣り看板には簡素なグラスの絵。ここには来たことがあった。初めてこの街に来たあの夜、空気も読まずに喧嘩をして殴り飛ばした男がいたのを覚えている。
彼は、今夜もいるだろうか。いるならば今夜こそ静かに酒でも飲みたい。
扉を開けると一見以前と変わらない様子が広がっていた。六人掛けの長机には誰も座っていなかったが、カウンターには見覚えのある顔があった。
初見時の毒気は感じず、愛用としている磁器の杯で酒を嗜み静かな夜を堪能している様子だ。こうして見れば何とも良い男ではないか。
ゴンベエはこれといって顔付きも変えず、何食わぬ顔で男の隣に腰を下ろした。
「俺と同じものを」
打ち付けにゼロがそう言った。
ゴンベエはささやかに笑い返す。まさかこの男がユーモアを持っていると思っていなかったからだ。以前の仕返しだろうか。随分と根に持っているらしい。
「もう酔っているのか?」
堪らずそう尋ねると、ゼロは口の端を僅かに上げた。
「生きていたか」
不躾にそう言われたのでゴンベエは苦々しく笑い返す。
自分の生き死になど何の役にも立たない。正しい生も死も無く、美しい生も死も無い。今日はそれを痛感した日であった。
「あいにくな……」
それ故に、何とか出た言葉がこれであった。
苦笑いしている内にグラスが目の前に置かれている。ゼロが飲んでいるのと同じく薄黒い酒が入っていた。よし口にふくもうかとして手を止めた。何か引っかかる事があったからだ。
「どうしてそんな事を訊いた?」
そんな事とは、生きていたかという台詞だろう。未だに聞き慣れない言葉だけに気にかかったのだ。まるで何か知っているようではないか。
ぎょろり、とゼロの目が動いた。やや間を開けた末、囁くように彼は答える。
「血の臭いがしてな」
ゴンベエはわずかに瞠目する。そんな所まで気が回っていなかった。わざとらしく袖を嗅ぐと、微かだが血の臭いがしている。嗅ぎ慣れた者しか分からない程度だが、ゴンベエの斬り殺した相手の物なのは間違いないだろう。
「ふん、くだらない話だったな。酒でも飲め」
そう言って、ゼロは少し傾けたグラスを血生臭い浪人に向けた。景気付けに乾杯をしようというのだ。ゴンベエはこれに応えようとしたが、ここで自分の肩に不自然な力が入っていることに気が付いた。
―――何を強張っているのか。
「ああ、飲みながら話でもしよう……」
そう言ってグラスを打ち鳴らすと、二人は同時にグイッと呷った。一息に飲み干してみせるとゴンベエは、腰の刀を邪魔とでも言うかのように傍に立て掛ける。これより、これは無用の長物であった。
酒で喉を潤すと肩から力が抜け、淡々とした語り口で始まった。
二人は決して深い仲ではない。出会いは最悪でそれ以来会ったこともなかった。例え、くだらない話であろうとゴンベエは誰かしらと言葉を交わしたくなっていた。相手はブレインでもクレマンティーヌでも良い。それこそ道端の浮浪者や娼婦でも良いのだ。これは成り行きだ。たまたま目の前にゼロが居たから話すだけである。
「今日は人を斬ってきた」
「そうだろうな」
「初めてだ。人を殺すのは」
「……そうか」
まさか、とゼロは思った。
今のご時世で人を斬ったことが無いのはある意味で珍しい事ではないだろうか。しかしゴンベエは嘘を言っている風には思えない。ゼロは軽く頷きながら相槌を打ってみせる。
「怪しい娼館に乗り込んで散々に暴れたよ」
(ああ、やはりな)
ゼロは、決断した。この男を殺さなければ、この男を生存させておくことは出来ない。懐に隠した小瓶が、氷のような冷たさを帯びている。命を奪う意思でも持っているかのようだ。
「いざ、人を斬ると不思議な気持ちになった」
「詳しく言ってみろ」
「魂が凍える、というか。理不尽だと思ってしまった。人間は簡単に死んでしまうんだなと」
そんなことはゼロにとって当たり前のことであった。人は呆気なく死ぬものだ。殴り、斬り、突けば簡単に死ぬのだ。ゼロは空いた手で拳を作った。今日までこの拳で奪った命は数えきれない。もはや人を殺すことに思うことなど無い。だから、ゴンベエの言葉がやけ新鮮に感じた。
「剣は無情。だが人は? 人は無情になれるのか?」
人は、人間はどうなのか。剣と同じく情無くに人を斬れるのか。
ゼロはすぐには答えられず、ただ酒を呷った。そんな哲学は歩んでいない。悪党に情など欠片も無い。語る相手を大きく間違っている。
ゴンベエの口からそんな言葉が出るからには、もはやこの男は生かしておけないとゼロは確信していた。必ず、自分の前に立ちはだかる男になる。懐から何気なく小瓶を取り出した。
だがその前に、答えなければ。この問いには、どうしても答える必要があった。
「自分のした事に誇りを持つべきだな」
ゴンベエは、面白いものだと思った。自分の悩みなど一蹴するような言葉であったからだ。考え方も積み重ねてきた物も違うのだ。酒の酌み交わしながら語り合うことはこれほどまでに、楽しい。きっとこの一時は、人間にとって掛け替えのない時間なのではないだろうか。飲み交わし、語り合う。これほど心地よい気持ちになれるのだから。
(俺など、たかがしれている)
人より力が強いからといってなんであろう。この国の王であろうと、庶民であろうと、娼婦や乞食だろうと、皆一様に短き生涯を生きて死んでゆく。己の殺した彼らのように、無情に、死んでゆくのだ。ならば最後まで自分らしく生きるべきなのだろうか。
酔いの回るゴンベエの頭は以前にもまして鮮明に物事を考えられていた。胃の底に溜まる酒さえも、もはや清々しく思う。
ゼロが直々にグラスに酒を注いできた。心の奥底から酔える。これほどまでに気持ち良く酔える夜など、初めてであった。
(この男は、俺を殺しに来たんだろうか……)
唐突にそう思った。先ほど我らしく生きたいと感じた矢先にこれだが、ゴンベエはどうでもいいと思っていた。これほどまでに気持ち良く酔えている。殺そうと思えば簡単に殺せるのではないだろうか。もはや、傍の刀を抜く気さえ起らない。その気ならどうぞ殺してくれ。惜しい命など持ち合わせてはいない。
だが、この王都まで連れ添った男女の顔が脳裏を過った。
(仕方がないだろう)
全て、己の振る舞いが招いたことだ。この町に来たのも、あの娼館に攻め入ったのも。用心棒どもを斬り、この酒場に訪れたのも全て己の振る舞いの末。原因があって結果がある、それがこれ。成り行きなのだ。
ゼロの注いだこの酒を飲めば、自分は死ぬのだろう。そう直感したが、躊躇せずに一息に飲み干した。
―――殺したければ殺すがいい。そんなこと、知った事ではない。
一息に飲み干すと、なんとも美味い一杯であった。こんな酒を飲んで死ねるのならば、そんなに悪くないのではないだろうか。
それから少しばかり時間が経った。どれほど飲んだのか、ゴンベエは数えていない。カウンターに顎が付きそうになった所を、ゼロに肩を叩かれた。
「飲み過ぎだな。帰った方がいい」
「そう、か」
言われるがまま従った。どれほど時間が経ったことだろうか。意外と一時間も二時間も経っていないのではないだろうか。そんな事を思い浮かべながら懐から数枚の銀貨と銅貨を取り出してカウンターに置くと、重い腰を上げてゼロを真っ直ぐに見つめた。
「また話せるか?」
そう尋ねるゴンベエは哀愁漂う面持ちである。そこにはゼロの胸を突く何かがあった。
「ああ……」
ゼロは立ち上がると彼に歩み寄り、軽く抱擁を交わした。互いに一角の男同士、これを約束の証として二人は別れた。
ゴンベエが去った後もゼロは暫く飲み続けたが、何杯か干した末に杯を置くと彼も追うように店を去った。
客足の途絶えた店内を見渡した店主は次の客を迎える為に、カウンターを片付けようと杯を取ろうとしたが不思議な事に杯底が張り付いたかの様にビクともしなかったのである。妙な現象に良く確認するとカウンターが陥没して杯底がめり込んでいるではないか、何と恐れるべき力だ。卓に杯を陥没させるなど、常人では不可能であろう。しかしこれは一体、どういう意図があってのことだろうか。
無理に取ろうとすると、杯が弾け飛んだ。店主は仕事が一つ増えたことにため息交じらせながら、飛んだ破片を集めるのであった。
人気も少なくなった夜の街。目立つ金毛の乙女が彷徨っていた。以前の彼女であれば夜に出歩くのは獲物を物色する為であったが、今は他の事に夢中でそんな考えは浮かばない。
クレマンティーヌは、ゴンベエを探している。
彼女でさえ、なぜあの男の為にここまでしているのか不思議ではあるが何となく理解しつつ、時間を割いてやっていた。ああいった人種はトラブルを起こすか巻き込まれやすい。手中の獲物が、誰かの手に渡ってしまう可能性も十分にありえる。
だが目的の人物が一向に見当たらず、もはや馬鹿らしくなってきて帰ろうかと考え始めたていたところ、不意に気配を感じて道の隅を見てみると浮浪者のような男が胡坐をかいているではないか。
「いたぁ!」
彼女は、思わず子どものように喚いた。目当てのゴンベエその人であったからだ。慌てて駆け寄って声をかけたが反応が無いので酔い潰れて寝てしまっているのかと思い、胸蔵を掴んで引き起こしてやろうとして彼女は驚愕する。
ゴンベエの顔がやや青ざめていた。憔悴した表情で独り言のようにブツブツと何かも呟いているではないか。
「ちょっと!? どうしたのゴンベエちゃん!?」
一目見て異常に気が付いた。
「お前か……」
くすんだ瞳と弱々しい作り笑い。初めて見る表情に困惑するが、クレマンティーヌほどの一流の戦士であれば直ぐにゴンベエが毒を盛られていることに気が付く。だが手立てがない。近くに毒消しを扱う店は無く、こんな夜更けに開いてもいるはずもなかった。
「ねえ、毒だよね?」
思い切って尋ねてみる。自身が毒を盛られていることに気が付いていない可能性も十分にありえるからだ。
「かもしれんな……」
ゴンベエは、初めて味わう感覚に混乱していた。初めは何やら怠さを、そして徐々に身体から力が抜けていく感覚。アイテムボックスに残っているポーションは体力を回復する種類のみ。毒無効のアイテムを装備すれば今からでも間に合う可能性はあるかもしれないが、それをしたくはなかった。
毒を盛ったのは、間違いなくゼロであろう。酒にでも混ぜたのだろうか、理由は明確だ。恐らくゼロは仇討ちで自分を殺そうとしているのだと、ゴンベエは考えた。
(ならば、受けねばなるまい)
明日をも知れぬ身が本当に明日も知れなくなるだけのこと。このままのたうち回って苦しんで死んでいくのだろうか。徐々に力が抜けていく感覚が妙に心地良くて、何とも不思議な心持ちになってしまう。これも毒のせいだろうか。
「誰にやられたの?」
クレマンティーヌは冷静であるが、隠しきれていない怒気が全身から溢れている。当然だ。自らの獲物を、目の前で悠々と取られていくのだ。彼女にとってこれ以上の侮辱はない。
「……分からん」
白を切っている。嘘が下手くそな男だと、クレマンティーヌは胸中で舌を打つ。
「毒を持っているヤツは毒消しも持っているはずだけど……」
その言葉には返さず。ゴンベエは、刀を杖のようにして立ち上がると千鳥足で歩き始める。まるで誰かに抱き着かれているように身体が重い。自らが殺した者たちに、あの世へと引きずり込まれているように錯覚してしまう。
「俺は薬のつけようのないろくでなしさ……」
ゴンベエは侘しく笑う。力を振り絞って足を進めるが、時おり吹く向かい風にさえ足を止めるほどだ。
その無様に、クレマンティーヌの怒りは悲憤に変わった。胸に熱いものまで込み上げてきたのを喉の奥で唸って堪えるが、今すぐに何かをぶっ壊してやりたい気分になっている。路地裏の野良猫でも害虫でも何でも良い。
だが、彼女は自分でも驚く行動を取ってしまう。彼に肩を貸したのだ。彼女の右肩にずっしりと重みが伝わるが、これぐらい屁でもないと支えてみせる。
「すまんな」
気の籠らない声であった。この男をここまで弱らせる毒など世に数えるほどしかないだろう。クレマンティーヌは知識と経験を頼りに毒の正体を推理するが、暗殺用の毒とはそう易々と分かる作りではない。症状も衰弱しているだけにしか見えないのだ。これは毒全般に見られる症状だ。
真正面から勝てないからって毒を盛るなど、悪党のやることだ。クレマンティーヌには自ずと犯人の人物像が見えてきている。
「死ぬなど怖くないと思い上がっていたからこそ、こんな報いを受けた。成り行きの自業自得さ」
「全然面白くなーい」
「まだ、とっておきの話があるぞ」
「なに?」
「この毒は、今すぐには俺を殺さないみたいだ。だからゆっくり死ぬのを待つ味が楽しめる」
ゴンベエが、こともなげに言う。
「それが最後の言葉?」
クレマンティーヌは、毒々しく笑った。
「これで意外と体力が余っている。歩けないのは酔っているからさ」
「それじゃあ、遠出はできないね」
暫くは、二人で道沿いに歩き続けた。街の中心はまだ人を見かける。遅くまで遊んでいる飲んだくれは何処にでもいるものだ。彼らから見れば二人も飲み歩いた男女にしか見えないのかもしれない。
「犯人が分かれば、助かるかもよ。毒消しもそいつが持ってるかもね」
クレマンティーヌは、確かに感じる重みの方に呟いた。ゴンベエはうっすらと微笑でいる。
「そうかもしれないが、違うかもしれない」
「犯人は分かってるんでしょ」
「分かったからどうなる。毒を盛るような奴が行方を現すと思うか?」
「……何が何でも探す」
そうだ。ゴンベエの命を取るのは自分だと、クレマンティーヌは決意している。奪われるようならば、彼女は奪った奴には容赦しないことだろう。
「いや、少し疲れた。どこか開いている店に入って酒でも飲んで休もう」
この地に来て一日も楽しくない日はなかった。だが、楽しんでばかりでは疲れてしまう。少しだけ休んで、また明日から楽しめばいい。
「分かったから少しだけ静かにしてくれる?」
ゴンベエの肩をぎゅっと掴むと、クレマンティーヌは近くの酒場に引き摺るように入った。まだ店内は活気がある。
ゴンベエはクレマンティーヌの手を引き剥がすと、一人で店の奥まで歩いて行く。彼の言う通り、まだ体力はあるらしいが酔いは覚めておらず、他の客にぶつかっていた。
「すまん。怪我はないか?」
瀬戸際に立って、まだ他人の安否を気遣っているその姿にクレマンティーヌの胸にわずかに熱いものが込み上げた。人事尽くさずして天命を待つなど愚か者のすることだ。彼女は堪え、ゴンベエの背中を押した。
「ほら、早く。私もゴンベエちゃん探して喉乾いちゃった」
「けっこう、けっこう。お前もその気だな」
―――俺は一杯やりたいほど良い気分なんだ。
カウンターに手を伸ばして、重い腰を席に下ろした。早速とばかりにゴンベエは注文を入れる。
もっと酔いたい、酔わせてくれ。酔ったまま死ねるのなら僥倖である、とそんなゴンベエの隣ではクレマンティーヌがカウンターを手で叩き、
「水の混ざってない一番良いのちょーだい」
と、喚いている。
一方で亭主は唖然としている。唇の青い男はどう見ても病人だ。こんな客はこの店始まって以来初めてであった。気でも狂っているのだろうか。
固まっている亭主をゴンベエはまじまじと見詰めて、にこりと笑った。
「金ならまだあるさ」
口調はまだ元気そうだ。亭主は不安になりながらも金を持っているのなら良いかと、二人に上等な酒を出してやると和気あいあいと宴を始めた。
「お前と二人きりで飲むのは久しぶりじゃないか?」
「この前一緒に飲んだじゃん」
「……そうだったか?」
「そうそう」
二人は周りの目を引くほど、仰け反って笑った。亭主には何が面白いのか、まるで分からない。
ゴンベエは両手で杯を口に持っていき、ぐいぐいと飲み続ける。クレマンティーヌが自分の持っていた酒を差し出すとそれも一息に飲み干した。
「あの宿とは比べ物にならないな」
ふいにゴンベエが笑うとクレマンティーヌはくすりと笑った。
「私は悔しいなぁー」
「おいおい、今は陽気に飲もう」
「ゴンベエちゃん、マジで脳みそ腐ってるねえ」
何とも真っ直ぐな罵声を受けたゴンベエは弾かれたように笑いながら、酒を飲み続けた。クレマンティーヌはマイペースにゆっくりと嗜みつつ、ときどきゴンベエをからかう。
「よし、もう一杯だ」
飲み続けなければ、乾いて干からびる勢いだ。亭主は面倒な客だと思いながらも相手をしなくて幸いだと思っていると、上客が目に入った。
短く刈り上げた金髪の女だった。良く鍛え上げられた巨体、それに根を張る大樹の如き太い首の上には精悍な顔が乗っている。一見すれば男と見間違えてしまいそうだが、この街で彼女を知らない者は少ないことだろう。店の誰もが親しみに声をかけている。彼女は一つ一つに応えながら店の奥にあるカウンターまで来ると、ゴンベエから二つほど空けた席に座った。
亭主が笑みを浮かべながら酒を持って来る。彼女は何も言わずに一息にあけたると朗らかに笑った。
「いつもと変わらず良い酒じゃないか」
「どうも。ガガーランさん、飯はどうします?」
「もう食ってきたよ。今夜は飲むだけさ」
ガガーランと呼ばれた女を見れば見るほど、ゴンベエは興味をそそられた。近づきになって一緒に飲んでみたいと思ったが、今の自分に巻き添えはできないのでぐっと我慢した。
クレマンティーヌも酒が進んできたようで、遠慮なく杯を空けている。ゴンベエも酒以外は気にしないようになってきていたその時、怒鳴り声が聞こえた。
何事かと、やおらと振り返ると酔っ払い同士の一団が喧嘩になったらしい。どやどやと騒ぐ冒険者衣装に身を固めたどれも腕に覚えのありそうな七、八人が取っ組み合っている。
「あそこで面白そうな事やってるよー」
クレマンティーヌが跳ね上がって、隣人の肩を叩く。
「はっ、天が落ちてこようと酒が先だ」
我関せず。そう言った矢先、投げ飛ばされた男がゴンベエの背中にぶつかってきた衝撃で持っていた杯が吹っ飛んだ。
ゴンベエが雷のように喚いた。
「おい! ここは酒を飲む所だ。飲まないのなら失せろ!」
腹の底が震えるような一喝に取っ組み合いをしていた一団はびくりと震えて身を強張らせたが、引き下がらずゴンベエに食って掛かる。
「差し出口をしやがって!」
「どこの馬の骨だ!」
「俺達のプレートが目に入らねえか!」
先ほどまでが嘘のように手を取り合って、言いたい放題浴びせてくる。ゴンベエが冷ややかな眼差しになろうが彼らの態度は変わらない。クレマンティーヌは瓶を手に持って臨戦態勢を取っている。
「おい、止めな!」
号と喚いたのはガガーランであった。すると冒険者一団の態度が面白いようにコロッと変わるではないか。愛想笑い浮かべてへこへこと腰を折ると、
「ガガーランの姉さん!」
「これはお見それしましたぁ!」
矢継ぎ早に台詞を残していくとさっさと店から尻尾を巻いて退散する様は何とも言えない小気味の良さがあったが、ゴンベエは興味を無くしたのか何もなかった顔で酒を飲んでいた。一方でクレマンティーヌはガガーランの顔を見て眉をひそめるが、関わらない方が良いと考えたのかこれまた何事もなかった顔で視線を反らした。
ガガーランはこの二人を訝しげに見詰めると、すっと立ち上がり何食わぬ顔でゴンベエの隣に尻を据えてみせた。クレマンティーヌはこれに一瞬呆気に取られて眉間にを寄せた。
「酒だ! 酒!」
ガガーランは二人に話しかける素振りも見せずに、亭主に向かって目を剥いている。ゴンベエの方もとくに気にかけずに黙々と杯を傾ける。クレマンティーヌもその場の空気に任せて用心しつつも飲みを再開した。
三人は言葉少なく杯を空け続けた。ふいにガガーランが笑った。
「奇妙なもんだろう。酔いたがるとかえって酔えない」
ゴンベエは、軽く息をついた。
「酔いたくない時には簡単に酔えるのになあ」
ガガーランは仰け反るように酒を呷った。
「あいにく、酔って死にたがる奴に限って神様はそう楽にさせてくれないものさ」
顔をしかめたクレマンティーヌを尻目に、ガガーランがゴンベエの顔を覗き込むように近付いた。
「酷い顔色だな。先は長くないね」
「もはや尽きたかな」
と、ゴンベエは微笑む。
「分かっているのに酒を飲みに来たのかい?」
「生きるも死ぬも些細なこと。そんな事で酒を後回しにできるか」
「ちげねぇ! 俺も同感だ」
哄笑しながらゴンベエの背中を叩いたそばから、ガガーランは怒らせた目でゴンベエを睨んだ。
「俺のことは知ってるだろう」
「失礼かもしれんが、まだ」
「ほーう。本当に俺を知らないのかい」
「知らんものは知らん。何度も言わせるな」
反対側でクレマンティーヌの苛立った顔には目もくれず、ガガーランはゴンベエを睨み続ける。
「そりゃあ、毒だろう?」
「そうだろうな」
「苦しくないのか?」
「あんたに関係があるかい?」
「気になるじゃないかい」
「はっ、四の五のぬかすな」
ゴンベエはにこりと笑うとガガーランと向き合う。
「酒を飲むのならお付き合いするが、興がるというのならあちらへ。酒の邪魔をしないでいただきたい」
そう言うとゴンベエはそっぽを向く。ガガーランはまだ興味深げに目を据え、しぶとく話を続けた。
「俺の知り合いにそういう毒に詳しい奴がいるぞ。良かったら今すぐ紹介してやるが」
「治療代を払えるほどの金はないので、どうぞお引き取りいただきたい」
「いやいや、何としてもお前を治療してやる。嫌だというのならその剣で俺を斬れ」
その言葉は冗談には聞こえない。彼女の性格をよく知る亭主は思わず身震いを起こした。やると言ったらこの人はやる、亭主は寒気を覚えてすぐにこの場から逃げ出したくなった。
すると、ゴンベエは身を乗り出して答えた。
「冗談は言うな。この刀は人も殺めるぞ」
ガガーランが分厚い胸を張って答えてみせる。
「大真面目さ。嫌なら俺を殺せ」
「治せるの?」
クレマンティーヌがゴンベエの背から伸び出して尋ねた。
「そういう毒に詳しそうなのが二人もいるよ」
「どういう毒か分かる?」
「俺は知らんさ。だが、俺の仲間なら何か知ってるはずさ」
クレマンティーヌはじろりと目をくれる。要領を得ない返答に信用はならないが、ガガーランの素性から可能性は十分にあるのをクレマンティーヌは知っていた。彼女はこの王国が誇るアダマンタイト級の冒険者なのである。その力と人脈を持ってすればゴンベエの回復はきっと可能なのだろう。
「俺はどうにもできないが、何とかなるさ。宿にはポーションだって沢山あるんだぜ」
ガガーランは得意げに笑っている。
「かけるしかないかー」
深い溜息を吐きながらクレマンティーヌは、そう呟くのだった。
「……死ぬのは難儀なものだな」
ゴンベエは苦笑した。