端本ちなみは絶望した。
今度こそはと、ガラスの壁越しに彼女は駿介を睨み付けた。しかし、スピーカーから聞こえたのは、「もう一回」という短い言葉だけだった。
多分、一年くらい前だったと思う。一人で街を歩いていると突然男に話しかけられた。最初はナンパかな、なんて思った。
よく見てみるとかなり品の良い感じのスーツを着ていたし、着こなしも自然。身に付けている物も、ハイブランドだったから話だけでも聞いてみることにした。
「ちなみがアイドルですか? 」
にわかには信じられない話だった。だけど、外村康正と名乗ったその男の差し出した名刺はあたしでも知ってる事務所だった。
だけど、その事務所はアイドルというよりは、本格的な歌手やバンドが所属する事務所だという事も知っていた。
「正直、うちには君のようなタイプがいないんだ。」
疑いの気持ちが無かったわけではない。だけど何度も話を聞いたり、家族も交えて話をして、信じることにした。決め手は事務所に行ったとき、“レイン”の皆さんがいて、社長である外村さんと親密そうにしていたからだけど。
「社長ううう、助けてくださいいいい」
あたしは自分の出せる、一番男が虜になる声で媚びるように言った。しかし外村さんは、乾いた笑みで「ごめんね」と謝るだけだ。
何者なのだろう。見た感じ、そんなに年齢も変わらない。それなのに、社長に信頼されているらしい。これはかなり“美味しい”出会いになるかもーーなんて思っていた数時間前の自分が憎らしい。休憩を挟みながらとは言っても、事前に聞いていた話ではもう終わってもいい頃だというのに、未だ終わる気配はない。
「--ふぅ」
もう一度歌ってみて、確信した。
違和感というか、歌いづらいというかーーしっくりこない感じ。
「端本さん、少し休みましょう。」
仲間さんが言って、何やら社長さんと話しているらしい。
マイクが切られたみたいで、あちらの声は一切聞こえない。
何の話をしているんだろうーーと、ちょっとした疑問。
あたしは重い扉をそっと開いた。
「今からでも間に合います。間に合わせますよ、意地でもね」
まるで悪戯をする小さな子供みたいな笑顔で、仲間さんは言った。
先ほどまでの落ち着いた雰囲気や、どこか遠いところにいるような感じを払拭するような、可愛いらしい笑顔だった。
「って、バカバカバカか、あたし! あんな鬼を可愛いなんてーー」
「入るよーっと、どうかした? 」
顔が意思に反して赤くなっていくのに困惑していると、扉が開き社長さんが入ってきた。思わず仲間さんの姿を探してしまったが、いつの間にか仲間さんはいなくなっていた
「な! なんでも! ありません。あの、仲間さんは? 」
「ああごめんね。謝らなきゃいけないんだけど、新しく曲を書き直すそうだ。詞は変えないって言ってたけど、一応心の準備だけはしておいてくれるかい」
あたしは何が起きているのか分からないまま、小さく頷いた。
「んーっ! 美味しいー! 」
特上お寿司! 普通に食べるようなお寿司とはぜんっぜん違う、本当に本当に美味しいお寿司。こんなに美味しいものが食べられるなんて、本当にあたし幸せーー
と、食事を終えて数十分。携帯をいじりながら時間を潰していたけで、まだ誰も呼びに来ない。
あたしはいま控え室に一人でいる。
そんなに広い部屋しゃないけど、テレビや雑誌なんかもあるから退屈ではない。退屈ではないけど、脳裏に染み着くように居座る仲間さんの笑った顔。確かに、整った顔だとは思う。着ている服はどこにでもあるようなファストファッション。見た目だけだと、お金もあまり持っていないように見える。だけど、今回のあたしのデビュー曲の作詞作曲をしてるって事を考えるとお金が無いなんてはずはない。
そうだ! お金を持っているはずだから、きっとこうして彼の事が気になってしまうに違いない。そうじゃないと、おかしいんだから。
「……どこにいるんだろう」
ちなみはこっそりと部屋を抜け出すと先ず最初に先ほどのレコーディングルームに来ていた。しかし何人か若いスタッフが何やら仕事をしているだけだったので、邪魔にならないようにとすぐに出る。そして幾つかの部屋を見て回るが、目当ての人物と外村の姿は見つからない。
地上十二階建てであるある大きな事務所だ。闇雲に探しても見つかるはずもない。しかしちなみはまわりが見えていないのか、いつも顔に浮かべる笑みを忘れて駿介の姿を探している。現に一人でうろちょろとさ迷う彼女を、スタッフはもちろん所属するタレント達も珍しそうに見ている程だ。
「ここ、かな? 」
扉は薄く開いていた。
なんとなくここにいるんじゃないかなぁ、なんて気がしてそっと覗きこむ。
やっぱりいた!
そこにいたのは仲間さん。と、社長さん。あとはマネージャーの女の人(鈴木さん)が一人。
仲間さんはかじりつくように、机に向かって忙しくなくペンを走らせる。止まったかと思うと、ギターを片手にあーでもないこーでもないと目をきらきらと輝かせていた。
「ちなみちゃん、入るかい」
「え……いいんですか?」
社長さんは言って笑顔で手招き。仲間さんの所まで近づいていく。一歩、また一歩と。
「……届けたい想いを乗せたエール」
詞の一節。聞こえたのは、それだけ。続きも聞きたいのに、胸の鼓動が煩くて全然耳に入ってこない。何なの、本当に。
「……出来た。やっとーー」
不意に、仲間さんが座ったまま椅子を回転させた。勢いがあったわけじゃないし、そんなに早い動きだったわけでもない。
それなのに
「わわわっーー」
と、驚きのあまり躓いてしまった。
咄嗟の事に目を閉じて、来るはずの痛みを覚悟した。それなのに、一向に痛みが来る様子もない。
あたしは恐る恐る目を開いた。
目と鼻の先。本当に、互いの息遣いが聞こえて、自分の胸の高鳴りさえも聞こえているんじゃないかっていう錯覚。
自分でも自分の顔が赤くなっていくのが分かった。そして、世界が遠退いていくような錯覚。あれ、本当に錯覚ーーーー?
「大丈夫? ごめんね、驚かせて。怪我とかしてない? 」
ちなみの耳に駿介のそんな言葉は聞こえなかった。
いちごのように真っ赤な顔に笑顔を浮かべたまま、気を失ってしまっていたから。
駿介は家まで送ると言ってくれた社長(外村)の申し出を断り、一人で帰っていた。
乗客が疎らに座るバスに乗り、駿介が思い出したのは見事に歌い上げた少女、端本ちなみが言った言葉だった。
「あたしは絶対、日本一のアイドルになります……か」
何故か気絶し、目を覚まして数十分で書き換えた歌を完璧に歌い上げた彼女の姿は今思い出しても美しい。
小柄な身体のすべてから発せられる声は砂糖のように甘いのに、氷を思わせる冷たさと強さ、そして脆くて弱い様を感じさせられた。もしかしたら、駿介の初めての一目惚れだったのかもしれない。自覚はしていないが。
「きっと、凄いアイドルになるんだろうな」
空には地上の明るさに負けないと、幾つかの星達が小さく、しかしハッキリと輝かせて見せているのだった。