土下座。それは日本に古来から伝わる最上級の謝罪。
東城正太郎は姉である東城綾の部屋の前でまさしくその土下座をしていた。
しかし、扉が開く兆しはない。もうかれこれ三時間ずっとこの調子なのだ。ではどうしてこの様な事になったのか、少しだけ振り返ってみよう。
東城が目を覚ましたのは午前六時を少しばかり過ぎた頃だった。
目覚まし時計の設定より早く起きてしまった彼女は朝の日課となりつつある、昨夜のメールを読み返すという事をしていた。
何気ない言葉の中に感じる愛情に、足をばたつかせる事がどれだけ嬉しいのかを計るバロメーターになっている。もちろん彼女自身はもちろん、誰も気付いていないし知るよしもない。
「いただきます」
そんな日課を済ませた後は朝食をとる。緩やかに流れるこの時間が東城は好きだった。それに、今日の目玉焼きは東城にとってベストな半熟加減だったこともあり、いつもは小さなおにぎり一個分しか食べないご飯も茶碗一杯食べる程に機嫌も良かった。
しかし、それは突如として起きてしまった。
東城が皿洗いをしているさいに、遅れて起床してきた弟の正太郎が勝手に電話に出たのだ。マナーモードだったせいで、彼女は気付かなかったらしい。そして、直後に家の電話が鳴った際にも正太郎がダッシュで電話に出たのだった。
相手は仲間駿介。正太郎にとっては昔からずっと嫌いな相手なのだ。大切な姉を彼女にするだけでは足りず、別の相手とも公然と付き合う憎き敵。両親が黙認し、母親に至っては応援しているとは言え彼にとっては敵でしかないのだ。
故に、二度とかけてくるなと怒りをこめて吐き捨てるように言ったのだった。
小一時間が過ぎた頃だろうか。
正太郎がデビュー曲が異例の売上を記録しているらしいアイドル歌手“ちなみ”を特集していた朝のニュース番組を見ているときに起きた。
「正太郎、私の携帯触った? 」
ソファに寝転ぶ彼の後ろ、上から見下ろす眼鏡の奥の瞳は冷たく一切の隙も無い。声も普段の優しいゆったりとした所は消え失せ、まるで氷のように冷淡な声だった。
「し、知らないよ!? 」
「……本当に? 」
思わず膝をつき座り直した正太郎は震える声で言った。
東城はじっと彼の泳ぐ眼を見つめる。一分、三分とそうしていると耐えられなくなったらしい、正太郎が全てを吐露した。
後半はあんな奴とは別れろとしか言っていなかったが、彼女の耳には入っていなかった。
「……嫌われたくない」
恐怖。絶望。悲観。虚無。
震える声でぽつりと呟くと、彼女は階段を上がり自室へと閉じこもったのだ。
正太郎は事情を知った母親に諭され、今に至るというわけである。
「ごめんなさいね、忙しいのに……」
「いえ、全ての責任は俺にありますから」
東城母からの電話を受けて駿介は直ぐにやって来た。
玄関にて応対してきた東城母に駿介はそう言って一度だけ深く頭を下げた。
「……俺はあんたを認めねぇけど、姉ちゃんをよろしくお願いします」
母親の後ろにいた正太郎は駿介よりも深く頭を下げた。悔しげな表情のまま。
「分かってるよ。だけどな、綾を悲しませたりするような事はしないでくれ。俺のことはどうしてくれてもいいけどな」
すれ違い様、駿介はゆっくりと、しかしはっきりとした口調で言った。逃げること無く、真っ直ぐと。
しまった、と思った。
昨晩リビングに充電器を置いたままにしていたことを、携帯のバッテリーが切れる寸前で思い出した。
電源が切れる直前に駿介君からメールが届いたみたいなのに。
「駿介君……会いたいよぉ……」
自分でも驚いちゃうくらい情けない声がこぼれた。
そこで外から正太郎の足音が階段を降りていくのが聞こえた。
正太郎がやったことは許せない。だけど、憎むことは出来ない。血の繋がった弟なのだから。
それに、世間から見ればおかしいことをしているのは私の方だ。今の関係になれたことはもちろん嬉しいし、誇りにも思っている。だけど、とどうしようもなく不安になってしまう。
もしも、本当に駿介君に嫌われたら。私はきっとーー
「聞こえるか、綾」
いつも聞いているより、少しだけ低い声。だけど聞き間違える筈がない。駿介君の声だ。
「聞こえるよ」
「良かった。……話は聞いた。俺が来たら良かったんだよな。本当にごめん」
「違う! ち、ちがうよ? 駿介君は悪くないから。私が勝手に、嫌われたかもとか不安になっちゃって」
「嫌いに、か。それも、俺が悪いよ。そうやって不安にさせるほど、俺はまだ綾にちゃんと想いを届けられてないんだと思う」
「違うもんっーー駿介君の想いはちゃんと伝わっているわ」
ベッドからおりて、扉に近付く。
この向こうに駿介君がいる。そう思うと、自然に手が伸びていた。
扉はじんわりと熱を帯びている、そんな気がした。
あたしの声は震えていて、もしかした聞き取り難い部分もあったかもしれない。だけど、駿介君ならきっと受け取ってくれる。
そういう小さな、だけど大切な確信があった。
「駿介君、開けてもいい? 」
扉に触れたまま、私は続けるように言った。
さっきまであんなに不安で押し潰されそうだったのに、今は始めて彼を部屋に入れることにドキドキしていた。
「いいよ、開けてくれるか? 」
優しい肯定。
扉を開けたらキスをしよう。つかさみたいに勢いよく抱き付いて、キスをするのだ。きっと駿介君は驚いて、だけど優しいから抱き締め返してくれてーーと、私は駿介君の驚く顔を想像しながら、ゆっくりと開いた。
駿介は東城のベッドに座ると、ちらりと部屋中を見渡した。
まず目に付くのは綺麗に本の並べられた大きい本棚。様々なジャンルの本があるが、比較的恋愛物が多いように感じられた。タイトルだけを見て駿介が勝手にそう思っただけである。
全体的に白を基調とした部屋にはあまり無駄な物を置いていないらしい。しかしどこか品のある小物類が東城の柔らかなセンスを駿介に感じさせた。
「お待たせ。はい、ココアよ」
「ありがとう。んー、甘くて最高! 」
並んで座るとせーので合わせたように同時でココアを一口。ペアのカップを選んだ辺り、彼女の乙女心が感じられるのだが、駿介は気付いていないらしい。
「駿介君甘いの好きだから、ちょっとだけお砂糖を入れたの。もしかしたら甘過ぎるんじゃないかって思ったんだけど、大丈夫だった? 」
「うん。最高に美味いよ、流石綾って感じ。綾も飲んでみる? 」
「んーーと、本当なのかどうか確かめてみるね」
東城はすっと立ち上がり、駿介からカップを受けとると自分の分と一緒に小さなテーブルに乗せて振り返りーー再び抱き付いて、キスをした。
「ヤバイな」
「やばい? 」
「可愛すぎて、止まんない」
東城は駿介の腰にその長くしなやかな脚をまわし、くすくすと恥ずかしそうに笑う。
彼女が後ろに倒れないようにとそっと腰を抱き支え、今度は駿介の方から唇を重ね、離れ、再び重ねる。啄むような口付け。
部屋中に響き渡る二人の吐息。舌と舌が絡み合う生々しい音。時を刻む秒針。
突然、くるっくーと鳩の鳴き声。同時に流れたのは正午を告げる何処かで聞いたようなメロディ。
「くっ……はっはっはっは」
「あ、うふふふふ」
二人の間に流れた甘ったるい雰囲気はどこへやら、東城はそっと駿介から離れるように立ち上がるとココアを手渡した。
「冷たくなっちゃったみたい」
「んーー、でも美味いよ」
二人は笑い、すっかり冷めてしまったココアを飲み干した。
するとそのタイミングで扉を叩く音。
「姉ちゃん……仲間さん、母さんがご飯出来たって呼んでる」
正太郎は言うだけ言って階段を降りていく。
「綾はいい兄弟を持ったな。羨ましいよ」
「そんなことはないけどーーうん、自慢の弟だよ。ちょっとだけ、面倒な所もあるけど」
二人は手を繋ぎ部屋を出た。
窓の外は天気予報通り、朝から変わらず雲ひとつない晴天。このあとどこに行こうかなと思案する駿介だった。
甘々の小説を読んだからでしょうか、比較的甘くなった気がします。
有言実行は難しい。