小さくて古くて小汚ない、だけど古い名作を上映している映画館。テアトル泉坂。
中段、中央の席に彼はいる。中学に入る前からの特等席だ。
「お久しぶりです。仲間さん」
「大して久しぶりじゃない気もするけどなあ」
暗い映画館。既に上映していない古い映画の予告が流れていた。名作は予告から面白いとついつい見いってしまいそうになる。だけど、隣に駿介お兄ちゃんがいると思うと自分の鼓動が煩くて、どうしても音声が頭に入ってこない。
「あー昔みたいに可愛く駿介お兄ちゃんーなんて呼ばれたいー」
「はいはい。そういうのはいいですから、わざわざ父に伝言させてまで、今日は何の用ですか」
ついついにやけてしまいそうになる口許を隠して、駿介お兄ちゃんに見られていないか視線を向ける。だけど、そんなのは自意識過剰だった。
駿介お兄ちゃんはモノクロで流れる予告を真剣な眼差しで見つめていた。本当、ずるい人なのだ。
「特に用ってわけじゃないんだけど、メールとか全部無視されるとちょっと心配になってさ。ここなら来てくれる気がしたから」
上半身を少しだけひねって、あたしを見つめる彼の瞳が実は左右色ちがいな事を彼女たちは知っているのかなあと、ふと思った。
よーく見ないと分からないけど、右が茶色、左が緑がかった茶色なんだ。
そんな事を考えていたせいで、無視する形になってしまったみたい。駿介お兄ちゃんは心配するような声で「大丈夫か? 」と言った。振り上げかけた右手はあたしの頭を撫でることなく下ろされたけど。
「べつに……彼女と何をしたとか聞きたくないからメールを開いてないとかじゃあ無いですからね、一応言っておきますけど」
「うん。分かってる 」
「だけど……やっぱり、ちょっとだけ寂しかったかも」
一度本音が漏れてしまうと、何かが決壊したように気持ちと本音が溢れる。
「ずっとずっとずーっと、駿介お兄ちゃんはあたしだけの優しいお兄ちゃんだったのに! 勝手に距離を置いて、いつの間にか彼女も作っててーー駿介お兄ちゃんは昔みたいに、ちゃんと前を見てて、あたしは」
女の独白。年老いた女が、かつて愛した男との思い出を語っていく。それは敵国の将校と恋に落ち、彼女自身が別れを告げた男との禁断の恋。
何度も何度も見返して、何度も涙を流した作品。一番大好きな、巨匠レルンドが残した名作“永遠の約束`
「……たまに見るんだ。爺さんに頼んで上映してもらってな」
「そう、なんだ。見てくれてたんだ」
「美鈴が好きだって言ってた作品だからーーっていうのもあるけどさ、俺も好きになったから」
「そっか」
「うん」
物語は始まっていく。
出会うべくして出会った二人の短く深い深い悲しい恋の物語。
彼の将来の為に、身を引き独りとなった女の物語。
肘おきに置いた手を、駿介お兄ちゃんがぎゅっと重ね、繋いだ。
二人の冷たい手に感じる温もり。
スクリーンに映る二人も、人目がつかないようにそっと手を繋いだ。
いつか離れてしまう運命だと知りながらも、その瞬間は間違いなく幸せに溢れていた。
あたしは絶対に離さない。そう、心に誓った。
握り締めた手に少しだけ、ぎゅっと力を感じられた。
同じ気持ちになれたんじゃないかなあと、らしくないことを思ってしまう。
やっぱり駿介お兄ちゃんはずるいなあと思いながら、あたしは作品を楽しむことが出来るのだった。
「映画館で手を繋ぐなんて不潔だって思ってた」
「ぐっ……」
場所を代えて近くのファミレスで食事をとる二人。
ついさっきまで映画の余韻に浸っていた二人だが、美鈴の何気ない一言にハンバーグを切っていた駿介が手を止めた。
気まずそうに額に冷や汗を浮かべ、恐る恐る顔を上げた。
何の他意も無かったのか、駿介のそんな様子に美鈴は彼とと同じハンバーグを口に運びながら首を傾げた。そして、ああ! と納得したらしく、けたけたと笑い出す。
「あははは、仲間さんにはそんな事思わないですよ。むしろ……嬉しかったし」
ようやく笑い終えて、美鈴は照れくさそうに言った。
後半がかなり小さな声だったが駿介に届いたらしく、よかったと安堵した顔でハンバーグを頬張った。
「……あのさ、もしあたしが告白したらあたしとも付き合ってくれる? 」
意識して口に出た言葉では無かったらしい。
美鈴は「いきなりごめん、あたし何言ってるんだろう」と恥ずかしそうに顔を両手で隠した。ガタガタと少し皿が揺れたのだが、さいわいまわりの席には誰もいなかったので、注目を集めたりなどはしなかった。
「ずーっと、大切に思ってた美鈴が好きだって言ってくれたらもちろん嬉しいよ。嬉しくないはずが無いだろう? 」
駿介は真っ直ぐと彼女を見つめる。
真剣に答えてくれた彼に報いる為に、彼女もまた恥ずかしさはあるが顔を隠していた手をおろす。
「だったらあたしと、」
「でもまだダメかな」
「な、なんで! 」
浮かれた気持ちをまるで叩き落とされたように感じ、美鈴は思わず立ち上がる。流石に少しだけ注目を集めてしまったが、すごすごと座り直すとそれも無くなる。
「嬉しいって言ったのに」
うらみがましい小さな声。瞳いっぱいに涙を浮かべ、美鈴は真っ直ぐと駿介を見つめた。逃げるのは許さないというような、強い意思をこめて。
「受験、だろ。今年はさ。社長(外村康正)には美鈴が泉坂を第一志望って聞いてるけどーー余裕無いんだろ」
「それはーーそう、だけどさ。頑張るから、だめ? 」
「だーめ。だけど、待ってるから」
「……もしかしたら、他の人を好きになったらどうするの」
「また好きになってもらうために頑張るよ。約束したからな、ずっと一緒だって」
「覚えてたんだ」
それはまだ幼い頃の約束。
色んな人と似たような約束をしていることも、美鈴は知っていた。しかし、沢山の時間を共に過ごす事によって彼女の心は駿介の弱くて脆い、しかし優しい所に惹かれていった。
そんな淡い恋心をくすぐるような、昔から変わらない少しだけ照れたような笑う駿介の姿に美鈴は一度小さく息を吐く。
「分かりましたよーだ。ぜったいに、受かってみせるから 」
「待ってるよ。美鈴なら絶対に大丈夫だと思うしな」
二人で笑い、添えられたコーンをフォークに乗せて食べる。
まったく同じ動きで。無意識が故に二人は全然気付かない。
美男美女カップルだなあと見ていた若い店員だけが気付いたことも、もちろん知るよしなどなかった。
たまたま近くに自転車で兄である外村ヒロシが来ているとメールで知った美鈴が乗せてもらう、と店を出ていって数分後。
駿介の前の席ーーついさっきまで美鈴が座っていたーーに西野が座っていた。
家族旅行から帰ってきて、一人歩いていると窓際の席に座る彼を見つけたので来たらしい。
「それで、さっきの 子は誰なのかな? 学校では見たことないと思うんだけど」
両肘をつき、頬杖をついたままじっと駿介を見つめる。
彼女のエメラルドグリーンの瞳には、真剣な表情を浮かべる駿介が映った。
「“バイト先、の社長の娘さんだよ。つかさや綾と同じくらい、大切な女の子」
「……うん、わかったよ。素直に話してくれてよかった。もしも変に誤魔化したりしてたら、怒ってたかも」
安堵したように笑い、西野はちょうど届いたオレンジジュースを飲んで言った。どうやら駿介の真摯な受け答えに満足したらしい。
「たださっき告白されたんだけどな」
「え、そういう事はあたしたちの後輩? 」
「後輩? 」
「駿介くんの彼女のに決まってるだろー、もう」
上手く伝わらなかった事がご不満だったらし西野はぷくうっと頬をふくらませ、テーブルに置かれたメニューを開く。
「ああそういう事。だけど断ったよ。少なくとも今は、だけど。だから未来の後輩だな」
「むむむ。それはどうしてなのかな、駿介くん」
ぱっと顔を上げた西野の顔は不思議に思う表情になっていた。
いつかは“後輩”が出来ることも覚悟していた彼女からすると、少しだけ拍子抜けしたような気分だったのだ。
「今年受験だし、今は勉強を頑張ってほしかったからさ。泉坂を受けるらしいんだけど、今の成績だとギリギリらしいんだ」
「うーん……だったらさ、あたしたちが教えてあげられるんじゃない? あの小宮山君と真中君も合格できた、最強勉強会でさ」
「あ、確かに。ちょっと聞いてみる」
駿介は慣れた様子で携帯を操作し、耳に当てた。
美鈴は外村(ヒロシ)の自転車の後ろに乗っていたのだが、駿介専用に設定した着信がなったので止めてもらい直ぐに電話に出る。
「駿介くん、貸して貸して。あたしが話したいっ 」
「え、まあ良いけど」
と駿介が携帯を西野に渡していたので、もしもしと聞こえた女の声に美鈴は一瞬だけ驚きディスプレイを確認。相手が駿介の携帯から話していることを確認し、美鈴は直感した。
「もしかして“駿介お兄ちゃん”の彼女さんですか? 」
「うん、そうだよ。西野つかさっていいます」
「あたしは外村美鈴です。あの、それで何か……? 」
「たまたまファミレスの前を通りかかって、貴女の事を聞いたんだ。あたしも泉坂高校に行くんだよね。だから、貴女は学校でも、駿介くんの彼女としても後輩になるわけだよ」
「は、はい。それはそう、かもしれませんね」
少しだけ戸惑いはあるが、西野の言う事をすんなりと受け入れる美鈴。
西野は自分の言葉が伝わっている事の嬉しさを感じながら続きの言葉を紡いでいく。
「それでね、もし良かったらあたしともう一人の駿介くんの彼女の綾と一緒に勉強会を開くのはどうかなって思って電話をしたんだ。どうかな? 」
魅力的な提案だと、美鈴は思った。もしそうなれば駿介といれる時間も多くなるかもしれないという思いもあった。だけど、美鈴ははっきりと言う。
「ありがたい提案だって思います。だけど、今は一人で頑張りたいと思うんです。駿介お兄ちゃんを昔みたいに戻してくれた貴女達二人に負けないくらいの女性になるために、今はこの試練を乗り越えなきゃって思うんです。だから、ごめんなさい」
「そかそか。まだ会ったことないのに、何となく君がいい子だって事が分かったよ。でも、もし何か困ることがあったらすぐに言うんだよ? 駿介くんはもちろん、あたしたちだって貴女の味方なんだからね」
西野は嬉しそうに笑った。
何が起きているのか分からないはずなのに、自分の事を駿介が信じてくれていることも、まだチラリとしか見ることしか出来ていない少女の真っ直ぐな気持ちも、全てが嬉しかったのだ。
「それじゃ、駿介くんに代わるね」
「はい。いろいろとありがとうございました。」
「え、代わるの? 」
ん、と返された携帯はまだ通話中。
「あー、美鈴? それでどうするの、勉強会」
「断らせてもらいました。か、な、り、魅力的な提案でしたけどーー駿介お兄ちゃんの隣に立つためには、甘えたくなかったから。でも本当にいい人なんだね、西野さん。さすが駿介お兄ちゃんの彼女って感じ? 」
「なんだよそれーーでも、たまには甘えてもいいんだからな。ちょっと寂しいし」
駿介がそう言うと、美鈴と西野が息を合わせたようにくすりと笑った。
「じゃあたまには甘えるかもしれないから、その時はよろしく。それじゃ、また。西野さんにもよろしくって言ってて」
電話が切れると駿介は西野によろしくと伝えた。
西野は「本当いい子だなあ、綾にも伝えなきゃ」と嬉しそうにしていた。
「ね、これ一緒に食べようよ! 美味しそう」
「確かに。よし食べよう」
開いたままのメニュー表。最後のページにでかでかと君臨する巨大パフェ。本来なにも食べるつもりもなかった彼女だが、嬉しい気持ちのままそれを見つけて食べたくなったらしい。
甘党である駿介も、もちろん即答。美鈴の前では兄貴分としての威厳を保つために我慢していた壁が壊れた瞬間だった。美鈴は美鈴でそんな彼を見ながら楽しんでいたのだが、知ることはないだろう。
「まだかなまだかなー」
「さっき注文したばっかりだもん、まだだよ」
「いや、あと一分以内にでくるよ絶対」
「そんなに早くないよ。ぜーったい。駿介くんはもっとちゃんと待たなきゃだよもうっ
ばちばちとにらみあう二人だが、その表情は柔らかくケーキのように甘ったるい空気をかもしだしていた。
先ほどの店員が、そんな空気に当てられすぐに出せたパフェを一分以上遅れて出すことになるのだがーーもちろん今はまだ神しか知らない未来だった。