……暗い。
暗くて、冷たくて、何も見えない……。
手も足も感覚が無くて、まるで五感が全て塞がれてしまったかのよう。ただ一つ分かるのは、私は今沈んでいるということ。私の身体は深く、深く潜るようにゆっくりと沈んでいっていて、かすかな泡の浮く音が耳を撫でていく。
(あぁ、私は沈むんだ……)
漠然とそんなことが、自分の頭の中を過る。自分がなぜ沈んでいくのか、それまでの記憶があやふやでどうにも思い出せない。感覚も意識も、私の物のようでそうじゃないようで。
何も、分らなかった。
しかし、何も感じなくなったこの身体は返って都合がよかった。沈みゆくこの身はなぜかとても心地が良く、穏やかな気分だった。何も見えず、何も感じず、ただただ重みに沿って落ちていく。怖いという感情はなく、すべてをゆだねるかのようにゆっくりと沈む。それが心を落ち着かせてくれるのだ。
(このまま、どうなるんだろう……)
この先に何があるのか、気にはなったが今はどうでもよく思えた。もうどうなったっていい、どうせならもっとこの心地よい気分を味わいたかった。
(あぁ、なんだか眠いな……)
意識は段々と遠のいていき、耳を撫でていた泡の感触も徐々に途切れ途切れになっていく。この気持ちいい気分で眠りにつけたらどんなにいいだろうか。
(みんな……おやすみ、なさ……い……)
そう思ったのが最後で、私はそのまま深い眠りに誘われるように意識を切り離した。
――……。
――……。
――……。
どれぐらい眠っていたのだろうか。自分でもよくわからないくらい、長いこと寝ていたような気がする。閉じた瞼の先にうっすらと白い明かりがちらつき始め、それから段々と意識がはっきりし始める。
「……んぅ」
なにかの上に、横たわっているのだろうか。地面は少し冷ややかで、しかしごつごつとしているわけではなく痛くはない。そう、まるでベッドの上に横になっているかのように。
「……んぁ」
うっすらと口を開けて息を吸うと、自分の口から小さな吐息が漏れた。間違いない、今自分は陸上のどこかにいるみたいだ。空気は少し湿っぽく、それでいてツンと鼻につく嫌なにおいが鼻腔を通り抜けて出ていった。
続いて、私は閉じた瞼をうっすらと開けてみる。しかし開けた瞼の隙間から強い光が差し込み、思わずぎゅっと閉じてしまった。それでも次第にその明るさにも慣れ始め、片目ずつ交互に開け閉めを繰り返してようやく半目程開けられるようになった。
目線の先には見慣れない茶色の天井があり、目を突き刺すほどの光源は見た事の無いような細長いもので出来ていた。ぼやーっとそれを見つめていると、視点がどんどんと重なってきてようやくしっかりとものが見えるようになってきた。天井はどうやら木の板を張り合わせたような造りになっていて、そこそこ年期も感じる。ということは、古い建物の中にでもいるのだろうか。
おっかなびっくりではあったが、丁度目が覚めてきたので起き上がって確認してみようと思う。ここがどこだか見当もつかないし、早く帰らないとみんなが心配――、
(みんな――……って、誰?)
ふと頭の中に浮かんだ言葉の意味が分からなく、自分で自分に自問自答してしまう。なんで今ここにいるのか、どこに帰るのか、誰が心配するのか、全く持って心当たりが無いのだ。
(私は……誰?)
自分が分からない。自分の名前も思い出せない。出身は? 住んでいる場所は? 歳は? 何を問いかけても答えは一向に出てこない。
段々とその事実を理解し始め、急に自分が恐ろしく思えてきて怖くなってきた。急に背筋に寒気が走り、血の気が引いていくような感覚が全身を襲う。気が動転して呼吸も荒くなり始めるが、それでも尚理性だけは保とうと強く願った。
いつまでもここにいる訳にもいかない。ここがどこだかわからないと、この先もっと色々大変なことになるはずだ。先ずは起き上がって辺りを確認する、それがまず先にやるべきことだと思う。
頭の中がパニックになっていても、自分の手足の感覚はかすかだが感じる。問題は動くかどうかだが、恐る恐る自分の頭で動くように命令を出してみる。手は――動いた。ちゃんと指もついている。足は――動く。曲がる。上げられる。
(よし、何とか身体は大丈夫みたい……)
手足の無事を確認したのち、ゆっくりと腹筋に力を加えて上体を起こしにかかる。身体のあちこちがチクチクと痛んだものの、幸い大きなけがや損傷は無いようだった。
何とかして上体を起こすことに成功したのち、改めて自分の周りの景色を見回してみる。自分の下半身にはタオルのようなものが掛けられており、そのタオルや自分の身体がなぜかぐっしょりと湿っていた。その上見たことのないような服が着させられており、まるで自分が自分ではないような気味の悪い感覚だ。自分の寝ていた場所は赤いソファのようで、下のクッション性は悪くない。足元の壁際には観葉植物が飾ってあり、周囲一帯の赤茶色一色の空間に華を添えていた。自分は今、どこかの室内にいるのだろうか。狭くもなく広くもなく、私室と言えばそうなのだろうと思えるくらいのこじんまりとした広さである。
「こ、ここは……」
辺りをキョロキョロと見回していた時、不意に頭の先から「コンコンっ」とものを叩くような音がした。
突然のことにビックリして飛び上がりそうになり、慌てて後ろを振り返ってみるとそこには古びた木製のドアがあり、金色に鈍く光るドアノブが音を立てて下げられた。
(誰か、来るの?)
恐怖心が全身を支配しどうにかしてこの場から離れたかったが、何もわからない状態ではどうしようもない。ただただ開けられようとしているドアを、声も出さずじっと見つめていることしかできなかった。
ドアは鈍く擦れる様な不快な音を立てて開け放たれ、その先から見知らぬ人が部屋に入ってきた。その人は部屋に入ってすぐに起き上がっている私と目が合い、驚いた顔で声を上げた。
「なんや、起きとったんか。気分はええか?」
部屋の中には私以外に人はいなく、恐らく私自身に声を掛けているのだろう。言語は同じみたいで、言葉の意味も難なく通じる。敵対するような態度ではなかったので、今まで緊張していた物が少しほどけたような気がした。
「あ、はい……」
咄嗟に返事をしようと声を上げたが、その声がとても震えていたため上手く返事が出来たどうか分からなかった。
「そうか、ならええわ」
しかし、その人は私の返事を聞いて安心したかのように声をやわらげ、表情をにこやかに和ませた。それから後ろ手にドアを閉め、私の座っているソファの横に歩いてきた。
「タオルいるか?」
そう言いながら、その人は乾いたタオルをピッと目の前に差し出す。
「あ、ありがとうございます……」
私は言われるがままにそのタオルを受け取るが、それを使って何をすればいいか分からず両手に持ったまま顔を伏せて見つめ合ってしまった。
「どっこいしょ」
そんな私を横目にその人はソファの横の床にどかっとあぐらをかいて座り込み、コキコキと首を左右に曲げて鳴らしながらかったるそうに肩を揉み始めた。栗色の髪の毛は左右でそれぞれ結ばれており、頭には何やら灰色の固そうなものをかぶっている。見慣れない色と形の服を着ていて、まるで別世界の人のようだった。
「あの、大丈夫ですか?」
「ん? あぁ、歳取るとどうも身体がよう動かへんのや。気にせんでええよ」
私がその人の方に顔を向けて質問をすると、その人は顔の前で手を左右に振りはにかみながら答えてくれた。
「そう、ですか……」
そう答えるのが精いっぱいで、私はすぐにまた視線を落として黙り込んでしまった。
「なんや、どこか悪いんか?」
急に黙り込んでしまったのでその人は疑問に思ったのか肘を立ててその上に顔を乗せ、私の横顔をまじまじと見つめながら尋ねてくる。
「いえ、そういう訳では……」
「ふ~ん。ならええけど。キミぃ、名前は?」
「あ、えっと……」
そう問われても、自分の名前が分からないので答えようがない。だから私は黙ってうつむいたまま何も答えられなかった。
「自分の名前、分らんのか?」
その人は答えない私のために質問を変えてくれたようで、今度は比較的答えやすい内容に変えてきた。それならとおもい、私は問われた後に軽く首を縦に振って頷いた。
その人はそれを見て目を見開き少し考えた後、「せやなぁ……」とつぶやいて私の身体をまじまじと観察し始めた。
「……あの、何か?」
少し気恥ずかしくなってきて、我慢できずつい口を出してしまった。その人はその声を聞くと私の顔に視線を合わせ、じっと目を見つめてくる。まるで蛇に睨まれたネズミのように身体が固まってしまい、身動き一つ出来ずただただその目を見つめ返すしかできなかった。
暫く私の目をじっと見つめていたその人は、急に表情をやわらげてその場に立ち上がった。私は釣られるように、目線を立ち上がるのに合わせて上げてしまう。
「怖がらんでもええよ。取りあえず事情は後で聞くから、先ずはウチに付いてきてくれへん?」
その人はにこやかに、私の目の前にその小さな手を差し出してきた。と言っても、自分の手もさほど変わらない大きさだったのでおずおずと掴んだ時に何故か安心するような気分になった。
その人は私をゆっくりと引っ張ってソファから立ち上がらせると、足元にあった濡れたタオルを持って部屋を出ようとドアの方に向かって行った。
「あ、あのっ」
「ん? なんや?」
ドアを開けようとしていたところに声を掛けてしまったため、ドアノブを掴んだままその人は首を後ろに回して応える。
「あ、あなたは……」
「あぁ、自己紹介まだやったね。ウチは龍驤ってもんや。よろしゅうな」
龍驤はニカッと歯を見せて笑いながら答えると、ドアノブを回してドアを引き開けた。
――……。
暫く龍驤の後に続いて薄暗い廊下を歩いていたが、見ず知らずの場所で見ず知らずの人についていくことが不安でしょうがない。物音一つにびくびくしながらも、見失わないように速足でついて行く。
「りゅ……龍驤、さん。これからどこへ?」
「ん~? まぁ、怖いところやないから安心しとき」
龍驤はそう暢気に答えながらも、スタスタと廊下を歩いて行く。やけに背が高く感じるのは、灰色の履物の底がとても厚いからなのだろう。見るからにして歩きにくそうだが、本人はそれを物ともしていないようだった。
暫くして、私達はとある部屋の前にたどり着いた。他の部屋とは少し違って一回りくらい大きな両開きのドアがあり、側面には丁寧な彫刻が施されている。明らかに今までとは異様な雰囲気を感じ、思わず足がすくむ。
「坊ぅ、入るで~」
龍驤は軽やかに声を掛けると、ノックもせずにドアを押しあける。小さな図体に似合わずかなりの力があるらしく、重たげなドアがすんなりと開かれていく様は見ていて圧倒された。
中は今までいた部屋よりも広く、そしてとても明るかった。小奇麗に整えられた室内は高級そうな家具がいくつも並んでいて、とても自分みたいな者が立ち入っていい場所とは思えなかった。
足がすくんで中に入れない私を置き去りにして、龍驤はスタスタと中に入っていってしまう。ついて行きたい気持ちは山々なのだが、どうも足が動いてくれない。そんなこんなで空いたドアの前で暫く突っ立っていると、不意に部屋の奥から龍驤がひょっこりと顔だけ覗かせて私を不思議そうに見つめてきた。
「何しとんねん。早うこっちおいで」
龍驤は、覗かせた顔を半目にし手招きをして私を呼んでいた。その瞬間、足かせが外れたかのようにフッと体が軽くなり、固まっていた足が軽やかに前へ踏み出していた。
「あ、はいっ」
反射的に返事をしてから、フラフラと引っ張られるように部屋の中で龍驤について行く。足元は赤いカーペットが敷いてあり、歩く足音が吸収されて周囲にはとても静かな空気が流れていた。
部屋の左側に歩いて行き、その先にあるもう一つの部屋に入ったところで龍驤がピタリと止まり、くるっと右を向いてビシッとキレの良い動きで敬礼をした。
「拾うて来た子を連れてきたで」
「おう、ご苦労さん」
龍驤の声に応えるように、部屋の奥から図太く低い声が聞こえた。聞きなれない声だったので、思わず背筋に寒気が走り身震いしてしまう。
「ほな、入っておいで」
今度は私の方を向いて、龍驤が声を掛ける。怖くてしょうがなかったが、反抗する気もなかったので言われるがままにおずおずと部屋の中に入っていく。
「あ、あの……」
龍驤の前に立ち恐る恐る正面を向き、ゆっくりと顔を上げていく。部屋の中は広くて奥には本棚や多くな棚が並んでいた。正面奥には大きな窓ガラスがあって外は暗く何も見えなかった。そして、窓のすぐ下、部屋の中央奥にはひときわ目立つ大きな机があり、その前に後ろを向いて腕を組み立っている背の高い人がいた。白い服を身にまとい、所々には金色の装飾がされている。いかにも高い位の人だということは、記憶があいまいな私にもすぐに分かった。
「よく来たね。長旅ご苦労さん」
背の高い人は後ろを向いたまま、ガラス窓に向かって話しかけている。しかし、なんて答えればいいのか分からず、また私は下を向いて黙り込んでしまった。
暫く沈黙が流れてしまっていたが、ついにしびれを切らした龍驤が大きくため息を付いて沈黙を破った。
「なぁ坊、毎度のことやけどその話し方どうにかならへんの? カッコつけたいのは分かるけど、ちょっち無理があると思うなぁ」
龍驤が腰に手を当てて呆れ半分に言い切ると、坊と呼ばれたその人は急に振り返って私達と顔を合わせた。
「うっさい! これくらいしてもいいだろ! 俺は提督なんだから!」
その人は自らを「提督」と称し、龍驤の意見に反抗するように声を荒げた。
「ハイハイ、新人がビビるから落ち着きぃ。それとも、待ちくたびれてヤニ切れしとるんかぁ?」
しかし龍驤は目の前の人の声を意にも介さず、すかさず逆鱗に触れる様な文句を口にする。余りの応酬の為、板挟みをされている私は思わず目が回り意識が遠のきそうだった。
「後でハッパ付き合うて、今は落ち着きな?」
今度はなだめるように声をやわらげて、被り物を正面に整えながら正面の人を諭す。
「……ったく。折角の初対面だってのによぉ……」
目の前の人はぶつくさと文句を言いながら着ている服の首元を整えだし、それから再び正面を向いて私の顔を見る。
「改めて。ようこそ、"月見ヶ島鎮守府"へ。一応、俺がここの提督の一宮だ。以後よろしく」
そう言いながら、一宮提督は私の前に歩いてくると大きな右手をスッと差し出した。
「あ、あの……」
しかし、私はどうすればいいのか分からず差し出された手を取ることも出来ない。聞きなれない言葉ばかりで頭がパンクしそうになっている。相手には悪いが、ただしどろもどろになりながら突っ立っているしかできなかった。
「ん? どうした?」
一宮提督が、私の態度を見て不審に思ったのか首を傾げて尋ねてくる。
「この子、自分の名前が分からんらしいんや」
それを壁際にもたれかかって見ていた龍驤が助け舟を出し、喋らない私の代わりに事情を説明してくれる。
「なに? 本当か?」
一宮提督は目を見開いて驚いた表情をし、差し出した手を引っ込めてまじまじと私の姿を眺め始めた。
「ふむ……君、以前はどこの鎮守府に?」
問われた意味が理解できなかったが、恐らく自分の出身地を聞かれているのだろうと思う。しかし全くと言っていいほど思い出すことが出来ず、力なく首を横に振るだけが精いっぱいだった。
「じゃあ、歳は? 配属隊の名前は? 艦種は?」
「なぁなぁ、大の男が小さい子に質問攻めはあんまりやないか?」
迫ってくる一宮提督を見てて、呆れた様子で龍驤が口を挟む。さっきからずっと龍驤は自分のことを擁護してくれているようで、その言葉がとても心強く感じる。
これには一宮提督も逆らえないようで、少し慌てた顔をして一歩下がり大きく咳払いをして帽子をかぶりなおした。
「……失礼した。何か覚えていることはないか?」
質問の内容がぐっと簡単になったが、それでも満足に答えられるようなものは持ち合わせていなかった。しかし龍驤に守ってもらってばかりなのは気が引けるし、何より私に聞いているのだから私が答えなければいけない。なんて言われるかはわからないが、せめて自分の口で本当のことを言おうと心に決め拳を握った。
「何も……覚えてないんです……」
うつむき加減だったが、それでも今出せるだけの声を振り絞って必死に答えた。言い切った後には体中の力がフッと抜けていき、思わず膝から崩れそうになった。
「成程な……つまり、記憶喪失ってわけか……」
一宮提督はそう言うと、顎に手を当てて深く息を吐きながら何かを考え始めた。そして何かを決めた様に声を上げ、自分の机のある方に歩いて行き正面の椅子に深々と座った。
「事情は大まかに分かった。先ずはここのことと俺達のことを話そうか」
机の上に肘を立て両手を組み、一宮提督は静かに話し始めた。