広い書斎のような部屋を出てから、薄暗い廊下を二人でまた進みだした。部屋が明るかったせいか、廊下の照明をさっきよりも暗く感じていまいただでさえ心細いところに恐怖心を一層煽ってくる。そのため、出来るだけ離れないようにと龍驤との距離を詰めながら歩くように心がける。
「あ、あの……」
「ん、なんや?」
しかし、ひたすら無言でただ足音が響くだけの空間にいるとやはり気が細くなってきていまい、ついおもむろに前を歩く龍驤に声を掛けてしまった。特に先を考えていたわけではなかったので、いざ問われると何を話せばよいか分からず頭の中がパニックになって言葉が続かない。
返答が返ってこないのを不可解に思った龍驤は歩きながら首を後ろに回して私の様子を横目に伺うと、すぐにまた前を向いてしまった。
「威勢がよくなったり急に落ち込んだり、ホンマ忙しいやっちゃなぁ」
龍驤は平然とした様子で前を歩きつつ、私にワザと聞こえる様に皮肉をつぶやいた。
「すいません……」
図星を突かれている上に反論する理由もないため、顔に影を落としつい反射的に謝ってしまう。
「……まあ、ええんやけど。誰だって最初はそんなもんや、気にしたってしゃーないしゃーない」
私の情けない返答にも慣れてきたのか龍驤はそれ以上の皮肉を止め、両手の指を組んでから自分の後頭部に腕を回してあっけらかんと答えた。
「は、はぁ……」
どうもこの龍驤という人物のことが今一つ掴みきれず、どう接すればよいのかグルグルと思考をめぐらせあれこれ考えているうちに、私はいつの間にか建物の一番端まで来てしまっていた。正面の行き止まりには大きなガラス窓があり、薄明るい夜空が一面に広がっていた。
「ここや」
龍驤は私のすぐ左手にある古びた木のドアの前に立ち、錆びたような色をしたノブを回して押し開けた。ギィィ……と耳触りな音を立ててドアが開け放たれると、その先には真っ暗な部屋らしきものが続いているように見えた。開かれた空間から少し湿った夜風が身体を吹き抜け、龍驤と私の髪の毛をなびかせる。その瞬間、私は未知の空間に対する恐怖のような感情を抱いてしまい、床についているはずの両足がすくんで浮遊しているかのような気味の悪さが身体を這う。
言葉を失ってただ突っ立っている私を背に、龍驤は何も口にせず空いたドアの先の空間にゆっくりと足を踏み入れた。まるで暗闇に飲み込まれていくようなその様が怖くて、声を出して引き留めたかったのに身体が言うことを聞いてくれない。急に額の上を冷や汗が一筋流れていき、背筋に嫌な寒気を感じる。早く、ここではないどこかに逃げたいと、心の中の本能が訴えかけていた。
「何しとんねん? 早よ入りな」
視界が真っ暗になって恐怖に押しつぶされそうになっていた時、不意に頭の先から聞こえてきた声にハっと意識が戻った。大きく目を見開いて正面を見ると、さっきまで真っ暗闇だった空間に暖かみのあるオレンジ色の光が灯されていて、その中央に首を傾げて待っている龍驤の姿があった。
「あ……ぁ……」
自分が今どこにいて何をしているのかわからないくらいに、頭の中が混乱していたらしい。呼吸は浅く乱れていて、額には玉のような汗をかいている。両足はガクガクと震え、自分の両手を見つめてみると痺れのような鈍い感覚が走っていた。
「キミぃ、大丈夫か!? 顔色真っ青やで!」
龍驤も私の異様な様子を見て驚いた顔をし、すぐさま駆け寄ってきて私の両肩に手を添え安否を確認する。
「あ……はぃ……」
私は感覚が未だ戻らない両手で龍驤の右手に弱々しくしがみつき、消え入りそうな声で答えた。
「なんやようわからんけど、とりあえず部屋入ろ? な?」
龍驤は私に握られた手を離さず介抱するように腰を抱きかかえ、自室に向かって歩を進めだす。背丈はさほど変わらないのに、今はその背中と手が一回りも二回りも大きく感じる。
部屋の中に入り、龍驤は私を抱きかかえたまま傍の古びたベッドの傍まで連れていき腰を下ろさせた。
「ウチ、水持ってくるからここで少し待っとき」
そう言い残して出入り口の方へ身体を向ける龍驤を見上げた時、自分でも無意識のうちに両腕が伸びた。
「いっ、行かないでくださいッ!」
「うっ!」
立ち上がろうとしていた拍子に赤い服の裾を思い切り掴んでしまったので、龍驤は私に引っ張られてバランスを崩しよろめいてベッドに落ちてしまった。
「い、いきなりなにすんねん……」
龍驤はベッドに落ちた時お尻を木の枠にぶつけたらしく、片手でさすりながら座り直し眉間にシワを寄せて私を睨んだ。
「ご、ごめんなさいっ! つい……」
とんでもないことをやらかしてしまったと自分の中で激しく後悔したが、起きてしまったことはもうどうしようもない。鋭い目つきで睨まれるも詫びることしか思いつかず、かといって目を合わせることも出来なくただただ頭を下げるしかできなかった。と同時に、自分でもなんであんなに大きな声が出せたんだと不思議に思った。今まで出したことのない声は、私や龍驤を驚かせるには十分すぎたからだ。
しかし殆ど初対面の相手にこんなことをしてしまっては、一体何をされるか分からない。私は身体を必死に縮こまらせ目に涙を溜め、龍驤の次の行動を覚悟した。
「……ハァ、なんやろなぁ……」
しかし龍驤は私の予想に反して怒ることも攻め立てることもせず、ただ大きくため息を吐いて険しかった表情を崩し今度は困惑の表情を向けた。
「初めてのこと尽くしで不安なんやろうけど、ちょっち落ち着いたらどうなん? 取って食う訳でもあらへんし」
「……ごめんなさい」
「せやからッ……ハァ、もうええわ」
龍驤は一瞬言葉に熱を持たせたようだったが、それもすぐに鎮火したようで最後にぼそっとつぶやくとベット横の窓に向かって進んでいった。金具の留め具を動かし、古めかしい音を立ててゆっくりと開かれた窓から静かに風が入り込み、ほのかな潮の香りが自分の汗や涙と混じってツンと鼻をつついた。
「少し、空気入れ替えよか」
栗色の髪をなびかせながらひどく優しい声で私に話しかける龍驤は、丸々とした月の光に後ろ姿を照らされ神々しい雰囲気を纏わせていた。それが自分より遥か高みの存在に思えるほど、近寄りがたいと感じてしまうほど美しく、また少し怖かった。
「"ヒト"っちゅうのは、どうも世話が焼けるもんやなぁ」
龍驤は窓辺に背を預け腕を胸の前で組むと、感慨深いような顔つきでゆっくりと話しを始めた。
「さっき説明があった通りうちらは艦娘と呼ばれる存在やけど、それが或いは軍艦、或いは兵器、或いは女の子、或いはヒトとも言えるねん。ぶっちゃけウチらにも自分が何者かなんて、わかってるようでわからんのや」
「そ、それじゃあ、龍驤さんも記憶が?」
「あると言えばあるし、無いと言えば無い。どれがどのウチのモノかはわからんし、そもそも正しいモノかどうかでさえ定かやない。けどここにいるモンはみんなそうや。ここに流れ着き、目が覚めた時から記憶のあるモン、うろ覚えなモン、ヒトでないモン、みな色々抱えてるんや」
龍驤の話すことは、正直よくわからないことだらけだ。艦娘と言う存在からこの場所、挙句は様々な自分と繋がらない記憶たち。そんなことをこの状況下で、聞いたこと全てを理解できる事の方がむしろ異常だろう。
「せやからウチが言いたいのは、不安なのはキミだけじゃないっちゅうことや。今すぐ慣れろとは言わんけど、少しずつ思い出せばええ。そのうち忘れた頃にポンと出てくるやろ」
自分の側頭部を右手の人差し指でコンと突つきながら、龍驤は私を真っすぐ見て薄くほほ笑みかけた。その瞬間、何か自分の心の奥の凝り固まったモノがほんの少しだけ溶けたような、じんわりと胸の内が温まるような感覚を感じて溜に溜めた瞼の上の涙がほろりと頬を伝った。
「あ……ありがとう、ございます……」
「まーたそうやって泣く。ホンマ、キミは泣き虫なやぁ」
いい加減慣れてきたのか龍驤は私の泣き顔を見ても取り乱さなくなり、完全にあきれた様子で目を細め首を傾げた。
「その、なんだかちょっとだけ嬉しくて……」
私はぽろぽろと零れ落ちる涙を腕で拭いながら、ふやけた笑顔を浮かべて答える。
「嬉しい?」
「みんな、龍驤さんも、私と同じだったんだなぁって。最初は自分と違うことが怖かったけど、そうじゃないんだなって」
色々理解が追い付かないことはあるけれど、一つ確かになったのは龍驤も金剛も一宮提督も皆不安を抱えてるということ。月の光に照らされた目の前の強大な存在に思えた姿も、実は私と等身大だったのだ。みんなそれぞれ不安なものを抱えながら平然を保っているのに、私だけめそめそしていることがだんだん恥ずかしく思えてきた。
「私、頑張ってここに慣れます! もう泣かないように努力します!」
私は瞼に残った涙を全部ぬぐい取って立ち上がり、腫れぼったい目を一心に開いて真正面にいる龍驤を見据える。
「ホンマ、ようわからんやっちゃなぁ」
龍驤は少し驚いた顔を見せたが一度目を閉じ小さくため息を吐くと、組んでいた腕をほどき左手をスカートに突っ込みニッと頬格を上げて見つめ返してきた。
「わからんといえば、キミの名前、どうしよか? 思い出せない以上、仮にでもあった方がええと思うんやけど」
ふと、そう言えばと言わんばかりの思い出したような表情で龍驤は私に問いかける。
「あ……そ、そうですね……」
私の方も、今さっき入りかけていた気合がスッと抜け落ちたように勢いを無くしてしまい、ふと我に返って目の前の問題に気がつく。
「言うてもキミが艦娘かヒトか、或いは"あっち側"か未だに分からんし、オマケに記憶喪失なもんやから余計に迷うわ……」
龍驤は眉間にシワを寄せて顎に手を付け首をひねり、険しい表情で唸りながら私を上から下まで見定め始めた。ただでさえ少しキツめな眼差しで改めてじっくり見つめられると、恥ずかしいような怖いような、なんとも言えない気分になる。思わず身をよじってしまい、頬が薄く火照り始めるのが分かった。
「改めてみると意外と大きいやないか……ウチ、負けとらん?」
特に私の首から下にかけてを注意深く注視し、何やら不満そうな声を漏らす。
「あ、あの、何かおかしい、ですか……?」
「いーやー、べーつにっ」
なぜかちょっと不機嫌になった龍驤は、フンと鼻を鳴らして私を見定めるのを止めた。一応服は着ているはずなのに全身をくまなく調べられたような、全て見透かされた気分がして少し心地悪かった。
ふと、またあの涼しい潮風が窓から吹き込んできて私たちの鼻をくすぐる。
「ん、いつもより塩っ辛いなぁ。……あ、今は満潮やったか」
龍驤は半身を窓の方に向け、外の様子を眺めながらつぶやいた。かすかにだが波が砂浜を滑り巻き上げる音や、チャプチャプと水が跳ね踊るような音が聞こえる。
「風……潮……波……」
龍驤は一人ぼそぼそとつぶやきながら何かを考えていて、少し経った後に目を見開いて私の方に向き直した。
「仮にやけど、キミが本名を思い出すまでの間『潮波(しおなみ)』って呼ぶのはどうや?」
「しお、なみ?」
「そうや。今日はどこも塩っ気が多いし、キミは波のようにコロコロと表情が変わるからピッタリやと」
左手の人差し指を後ろに返して外を刺しながら、龍驤は皮肉を交えて説明をする。しかし、その言葉の響きが今の私にはスッと馴染んで全身に染み渡るように心地良かった。
「……いいと思います、その名前」
私は小さく笑みを浮かべて、名前の響きを噛みしめながらゆっくりと首を縦に振った。
「ほな、決まりや。改めて、これからよろしゅうな。潮波」
頭の被り物のツバを左手の先でつまみ位置を直すと、小さな右手をスッと前に差し出した。
「……はい、よろしくお願いしますっ!」
私は勢いよくその右手を両手でつかみ、ぎゅっと力を込めて握り返した。
「いてててっ、ちょっち強すぎや!」
強く握りすぎたため龍驤は少し表情を歪ませたが、決して怒り出すような声色ではなかった。