二話分くっつけた物です。
ほの暗い、窮屈に感じる空間だった。一見してそこは、ファンシーでおとぎ話や、絵本で描かれるような装飾が施されている。だが見た目とは裏腹に、ヒトがその場所に足を踏み入れれば、あっと言う間にその暗く圧迫した空気に飲まれ、心を壊されてしまいそうだった。
悪趣味だ。そうこの場所の事を切り捨てたのは、一人の男。185の長身に、整えられた頭髪、黒いシャツを身に纏い、黒のジーンズは、スラリとしたスタイリッシュな彼の出で立ちをより際立たせ、美しい物としていた。
彼は、狂ってしまいそうなこの空間内で、ただ嫌悪の感情を僅かに見せる程度で、表情事態は至って涼しげだった。
薄気味悪いこの場所を、彼が観察していると、後ろから誰かが現れた。この場所を見た瞬間、男はどこか困惑した表情を見せた。
男のガタイはよく、彼に比べてわずかに背が低いがそれでも180センチはあった。褐色の肌に白いシャツを羽織る様に着込み、ピッチリと筋肉が浮き出るようにして引き締まったジーンズをはいていた。
「この先に、いるのか?」
男が彼に話しかけた。表情が困惑から、力強い物へと変わる。
「ああ、間違いないよ」
彼がそう答えると、男は軽く肯き、わき目も振らず駆け出して行った。彼はそれを見ると、首を横に振り、ヤレヤレと溜息を吐いた。
「まだ説明があるのに……相変わらず、話を聞かないな」
そして、彼も男の後に続き、ゆっくりと歩き出した。色々と話すべき事がまだ多いが、それは道中教えていく事にした。その方が、自分達らしいと思ったからだ。
彼は男を見失わない程度の、早くもなく、遅いわけでもない速度で歩いていく。遠い昔、今の様に、たった二人、長い、ヒトにとっては途方もない年月を旅した時を思い出しながら。
赤い目を持つ彼の男、彼の名は「ルシフェル」と言う。嘗て、天界で一、二を争う大天使“だった”男。
この世は彼の見る、一つの「夢」。
彼は、世界の見る、一つの「夢」。
◆
話をしよう。あれは今から36万……いや、1万400年前だったか。
まあいい、君たちにとって、まして私にとっても、もう何年前だったかは、意味のない話だ。
もう、終わった事だからね。
嘗て、私は「ルシフェル」と呼ばれる存在だった。この名に聞き覚えのあるヒトは多いと思う、何せ、特に有名な天使の名だからね。そして、この名を知ってるなら、ルシフェルと言う天使が、どう言う事をしたのか、知ってる人もまた多いだろうね。
まあ、知っての通り、私は堕天したのさ。神に反逆をしたんだよ。色々あってね。まあ、その時の話は長くなるから、要約しよう。
堕天と言う行為は、決まってヒトに憧れてするものだ。天使と言うのは、ある意味厄介なものでね。ヒトが考えるほど、うらやましい物じゃない。ああ、こう言うと、彼が怒るかな?自分の生み出した存在だからね。彼と言うのは、神の事だけど、その神、全知全能の存在が生み出した存在が天使なわけだが、だからと言って天使全てが全知全能と言う訳じゃない。天使は長い間、天界からヒトを観察し続けていたが、時間が経つと天使の中に、「ヒト」に憧れる者達が現れたんだ。
人間を観察する事を主とした天使達、グリゴリ天使団。その内リーダー格一人を含めた7人の天使が、ヒトに憧れ、堕天した。これが始まりだ。
この時の私は、まだ大天使と呼ばれる天使のままだった。自慢になるが、天界でも優秀な方でね、特に私の力、時間を操る能力は良い物だよ。
時間を操り、自由に未来と過去を行き来できる私は、神の右腕として、以前から色々と面倒を押し付けられたりしていたが、この時もまた面倒を押し付けられた。そう、堕天使の処理に奔走する羽目になったのさ。
もっとも、堕天使を直接捕まえるのは、私の仕事ではない。それは、かつて神に命じられて天に召上げた男の仕事だった。
「そう……彼には72通りの名前があるから、なんて言えば良いのか」
けど、私が最も親しみを込めてあいつを呼ぶ名、それはそう、「イーノック」。
あいつと一番初めに出会った時、その時に名乗っていた名だ。
そのイーノックと共に、私は堕天使達捕縛の旅に出る事になった。
大変な長旅だったよ、まず敵のいる場所を探すだけで、365年以上の年月が経っていた。時間を操れる私にとっては、時間なんて物は関係無いんだが、イーノックをサポートしてやらないといけないからね、やはり退屈な事も多かったよ。
さて、結果から言うと、見事堕天使を捕縛する事が出来た。イーノックの手によってね。私は何をしていたかって?もちろんサボってたわけじゃないよ、たまにアドバイスを与えるぐらいはしてたさ。それに何より、私が居なければ、あいつも最初の戦いで死んだままだったからね。
何であれ、これであいつの戦いは、一段落ついたのさ。
けれど、それからしばらくして、ちょっとした出来事があった。それに私はとても、今までに無い強い怒りを覚えた。そう、あろう事か、彼、神に対して。
私は驚くほど簡単に、そして強く決心した。堕天する事を。その瞬間から、私は堕天使となり、神と戦う道を選んだ。
私はかつてイーノックと共に捕縛した堕天使を開放し、仲間として共に神の軍勢と戦った。途中までは、私達が勝てる絶対の自信があった。イーノックが居てくれたからね。だが、あいつは裏切った。実際、私に義理立てて付いて来てくれた様な物だから、元々神側の奴だったけどね。
そして、私は敗れた。神にではない。あいつ、そう、神の用意した最終兵器。「メタトロン」によって。
この戦いの終焉を切っ掛けに、世界は一度終える事になる。その中で、私は何億年以上の間、宇宙を漂っていた。ある時、神からの連絡が入った。また新しい世界が生まれ、天使も再生させると言う連絡だった。
一通り話すと、私は眠りについた。新しい世界の誕生を待ちながら、夢を見る。もう使う事は無い、時間を自由に移動する夢を。
◆
私が気が付いたのは、ある小さなタワーの頂上だった。体を撫でる心地の良い風を感じ、私の意識は覚醒した。ああ、一つ訂正しよう。このタワーは決して小さくはない、ヒトから見ればね。ただ、私がもっと高く果てしないタワーを知っているから、そう思ってしまった。
特に慌てるような理由はないから、私はタワーの縁に座り込み、今の状況をゆっくりと考える事にした。
何となく手を頭にやると、そこには今となっては懐かしい、遥か昔、彼と旅をした当時の、ポマードで整えられた短い髪型がある。服を見れば、ファイヤーパターンの黒シャツ、その下は当然と言うべきか、黒のジーンズだった。
もう、この時点で予想はついたが、ためしに私は、久しぶりに中指と親指をくっ付け、昔と同じように、「パチン」と指を鳴らした。すると、一瞬にして吹いていた風がやんだ。決して風が吹かなくなったのではない、その証拠に、遠くの方に目をやると、鉄の羽が生えた物体、「飛行機」が空中で停止して、全く動かなくなっていた。時間が止まっていたのだ。誰に気が付かれる事もなく、一瞬にして。
そう、私がやったんだ。時間を操る力。指をもう一度鳴らすと、また一瞬にして、時が動きだし、何事も無かったように飛行機が動き、風が吹き出した。
これで私は確信を得た。これは「夢」だってね。何故なら、現実ではもう、私はこの力を使えない。現実で目を覚ます時、それは私であって私じゃない、新たな自分だからだ。
夢を見る事は、実に不慣れな物だった。あいつの息子には、私の本当の力「夢を見る事」
が出来て無いなんて事も言われた事もある。
時間が操れる以上、今が何時ぐらいの時代かも、大体わかってしまう。先ほど見えた飛行機の型からも、現在がおよそ2011年前後であると思った。その昔、私がちょくちょく訪れていた特に気に入っている時代だ。このジーンズも、その時代で手に入れた物だ。
考えを整理すると、私はもう一度、少し強めに吹いてくる風の感覚を味わった。夢の中とは言え、あの暗闇の続く宇宙では味わえない、懐かしい感覚だった。
さて、これからどうしようか。今の私には、選択肢が多くある。未来へ行くのも良いだろうし、大昔へ行き、この夢の中で天使達はどうしているのか確かめるのも面白いかもしれないな。
私はタワーから飛び降り、地面へと優雅に降り立った。普通、人間にはできない芸当だ。人間がこのタワーから落ちれば、見るも無残な姿に成るだろう。けれど、この時の私の体は、「精神(アストラル)体」と言う不老不死の天使の体。これも夢の中故に出来る事だろう。精神体の状態では、ヒトは天使を認識できない、だから、いきなり空から落ちて来た私に驚きもせず、町の人々はその歩みを止める事は無かった。
着地した場所からは、人々の文明によって建てられた物が多く見れる。高いビル、マンション、タワー。私から見れば幼稚にも感じれる物もあるが、かつてのグリゴリの天使、堕天使アザゼルが好きそうな光景だ。あいつはヒトの技術に憧れて堕天したからな。
かつての敵、最終的には仲間だった奴を思い出しながら、悠々と町を歩いた。町の中央に行くと、いろんな店が立ち並んでいる。店に書かれた文字から、ここは「日本」だとすぐに分かった。
実にこの時代らしい店構え、特にあのコンビニエンスストアなんてそうだ。実に近代的だと思う。何時だったか、ここと似た時代に来た時、人間とはよくも働くものだと感心したよ。半分は呆れにも似た印象だったがね。24時間も店を開くなんて、天使だってもっとも休み休み働くものだがね。
そう言った調子で、私はこのあたりをノンビリと見学して言った。そして、強い疑問を感じた。
おかしい……いや、異変と言う事でも無いのだが、この町並み、この景色。2011年だろうと思ったが、どうも私の知る2011年やその前後の時代とは、妙に違う様な感覚がある。あまりにも未来的な、先進的な町並みすぎなんじゃないだろうか?だが、時代は間違っていないはずだ。さっき、カレンダーを見つけて確認したからね。
夢だからなのだろうか?だが、それ以上に私は可笑しな感覚を覚える。夢にしては、あまりに現実的じゃないか?
疑問は尽きない。ならば、色々と確かめてみようじゃないか。私は再び、右手の指を鳴らし、時間を飛んだ。そうだな、まずは過去からだ。
時間の旅は、長い様で短い。好きな時間に行き、好きな時間に戻って来れるのだから、私がいなくなったと思ったら、すぐに表れるなんて事もできる。実際の旅のそう時間はと言えば、当然途方も無く長いものだがね。
地球の誕生……の瞬間は見れなかったが、とりあえずヒトの誕生のところから、重要な所を見ることにした。長編映画を見る気分で時間を遡ったり、進んだりする。途中、興味の無い所を省いても、数千年はかかる。
しかし、驚いたよ。何がって、この世界には天使がいないんだ。まったく気配が無い、ためしにはるか昔に行って来たが、何もないところばかりで、退屈この上ない。ほかの国へも行ってみたが、やはり何もない。ちょうど「バベルの塔」も探してみたが、塔の土台すら無くて人類の言葉は、初めからバラバラだった。どうやら、根本から世界観が違うらしい。私の夢の創造だろうか?私の夢と言うなら、意図的に天使を除いたというのか?自分の夢だと言うのに、混乱して来たぞ。
後は戦争と発展と戦争を繰り返し、時代は現代へと移って行った。
やはり疑問が起きる。少し発展の速度が速くないだろうか?人が意思を持ち、ここまで発展するには、まだまだ時間が必要なはずだ。もっと緩やかで、自然な発展。しかし、この時間を見ていると、なにかヒトとは違う者の手が入ったかのような印象。そう、アザゼルがヒトに未来の知識を授けたような、あの感覚。
疑問を抱えたまま、私は次に九百年ほど未来へと向かった。けれど、ここでおかしな事が起きた。何もなかったんだ。未来の地球には、まるでヒトの営みと言うのを感じる事のできない、荒廃した世界が広がっていた。
人類はどこに?自然に死滅したのだろうか。あれだけ発展していた人類が?行き過ぎた技術は破滅しかないと言う事だろうか。
私はすぐに時間を戻した。今度は私が移動するのではなく、周りの時間だけを巻き戻す。すると、早回しで景色が動きだし、時間が戻りだした。
しばらくは荒廃した景色が続いた。巻き戻る景色の中、変わるのは雲の動きぐらいで、こんなのが、百年以上続いた。
おんなじ景色に飽きた私は、また指を鳴らし、今度は一気に巻き戻す。が、うっかりして、戻しすぎてしまった。この力を使うのも久しぶりだからね。少し恥ずかしい気持ちだ。だがこれが良かったらしい。場所は初めに覚醒した日本のあの町、時間は2011年だ。だが、覚醒した時より数か月時間は進んでいる。そして、時間の進んだその町では、まさに世界の崩壊が始まろうとしていた。
目の前にそびえる黒い巨体。見た感じだと、かつて堕天使達の造り出した反逆の象徴「タワー」にも似た印象を受ける禍々しい物だった。
どうやら、この何かが世界を滅ぼすようだ。現に周りは更地と成って、生命を感じる事が出来ない。全てあの怪物に滅ぼされてのだろう。
粉々になった鉄筋コンクリートや、家々のガレキを足場にして、軽やかに跳んで移動した。あの怪物を近くで見るためだ。恐怖は感じない、むしろ興味の方が強かった。ほんの数か月でこんな事をできる存在。なんなのだろうね、一体?
ある程度進んで、私は思わず足を止めた。なんとヒトがいたんだ。髪の長い、紫のスカートをはいた少女が、一人私と同じようにあの怪物を眺めていた。どうしたのか気になった私は、少女のそばへ行こうとした。だが、彼女は左腕に装着していた円盤に手をやると、一瞬で消えてしまったのだ。
すぐにわかった。彼女は時間を移動したんだ。私と同じようにね。彼女がどうやって時間を移動したかは知らないが。
しかし、ただの人間が、どうやって時間を操る力を?わからないな。
疑問が積み重なっていく中、私のジーンズのポケットから、着信音が流れたんだ。携帯電話、入っていたのか、気が付かなかったよ。けど、だれからだ?ここは私の夢の世界、元々この携帯電話に電話をかけるのは、一人しかいないのに。不思議に思いながら、着信表示を見る。
「あッ」
私ともあろう者が、声を出して驚いた。実に滑稽だが、それほど驚いたんだ。着信を示す液晶には、「神」の一文字が書かれていたんだからね。もう話す事も無いと思った相手だ。
もちろん直ぐに電話に出た。すると、スピーカーからは、懐かしくも聞きなれた声が聞こえてきた。
「……やあ、君か」
私はわざと、普段通りに、いつも会話してるように電話に出た。懐かしいと言ったが、私は眠りに落ちる直前、最後に彼と言葉を交わしている。それに、結局は夢の中、うれしそうな声を出すのも、少し癪だしな。
「何か用かな……」
それにしても、妙なタイミングで電話をかけて来たものだ。一通りこの世界の始まりから終焉までを見終わった時だ。もしかして、見られていたのかと思ってしまうよ。
「うん、うん……なに?」
参ったな。どうやら本当に見られていたようだ。感想を求められたよ、この世界を見てどう思ったのかを、ね。
「……色々と、急ぎすぎる世界だね。進化も、破滅も。君は何もしなかったのかい?……え、なんだって」
突然神は私に頼み事を頼みだした。昔みたいに、突然に。
「別にかまわないが……今度はどう言った事をやらされるのかな?」
この世界でやる事なんて、ほとんど無い様に思えるが、神には考えがあるらしい。夢の中でも、仕事を押し付けられるなんてな、私は彼の声に耳を傾けた。どうせつまらない任務だ。そう思っていた。しかし、それは違った。
「…………おい、それは本当か?」
神の口から発せられたのは、もう会う事は無いと思った者の名前。そいつの所へ行き、世界を救うため、導け。そう言った。
世界を救う?ここは私の夢の世界じゃないのか?
「……ああ、そうだったな」
考えれば直ぐにわかる事だった。夢にこんなはっきりと、神が表れるなんて、普通じゃないだ。この神は、私の妄想の産物ではない、ちょっとばかり違うところがあるかもしれないが、あの私の知る神だった。
「君は、私の夢にまで来るんだな……そう言うわけじゃない?なら一体……ほう」
神が言うには、不思議な話だが、ここは私の夢に違いないのだが、確かに存在する世界の一つらしい。あの世界の終焉から始まる、世界の再生、それを起点として生まれた数多の可能性の一つ。私は夢を見ながら、そこに迷い込んだ様な物らしい。
この世界にとって、私の方こそが夢の存在なのだ。だから、精神体で能力も使える。
「さて、そんな夢の住人が、この世界に干渉して良いのかな?」
神は問題ないと言った。今、世界がこのように滅ぶのは問題があるようだ。
「ところで、さっきにヒトを見かけたんだが……そう、見てたのか?そうだ一人の少女。彼女、時間を移動したが、君何か知って……るんだな?」
なるほど、神は全てを見て来たんだ。もちろんあの少女と、目の前の巨大な怪物の正体も聞いても良いが……。
「それ以上は言わなくても良いよ」
よそう。せっかくの未体験の世界。プロット(歴史)は見た、後はストーリーを、完成された物語を見て行こうじゃないか。ネタバレは無しだ。だが必要な事だけは聞いておこう、あいつに説明するのに必要だからな。
「そうだな、まずは会いに行くよ。大学?あいつそんなとこに通ってるのか!驚いたなぁ……ああ、たぶん大丈夫だけど、まあ何かあれば連絡するよ……平気さ、今度もまた見守ることになるだろうから」
通話を切って、巨大な化け物を見る。
なんだか、不思議な世界だな。滅ぶことが決定されている世界、ラスボスはこいつかな?それとも、もっと違う何か……。
考えた所で答えは出ない。私は指を鳴らし、時間を超える。
さあ、夢は見だしたばかりだ。長い眠りにつく私の見る夢は、長く続く事に成る。
「久しぶりだな。イーノック」
◆
目の前に現れた男のことを、青年イーノックは知らない。ゆえに、部屋でくつろいでいた時、突然現れた男を見て椅子から転げ落ちるような失態をした。
「そこまで驚く事無いじゃないか」
椅子から転げたイーノックをみて、男は実に親しげに喋りかけた。イーノックは床にぶつけた腰の痛みも忘れ、立ち上がりながら男をじっと見た。良く整った顔立ちだった。透ける様な黒のシャツと、黒のジーンズが印象的だ。なかでも、男の赤い瞳はまるで宝石の様だった。
「あなたは、誰ですか?」
見知らぬ男がいきなり現れれば、普通であれば、声を上げて人を呼ぶだろう。しかし、イーノックは心を落ち着かせ、立ち上がりながら男に尋ねた。男はとても楽しそうだった。イーノックはもう一度「誰ですか?」と聞いた。。
「すまない、何せ言葉を交わすのが久しくてね……いや、お前は知らない事さ」
どうもこの男は勝手に話を進めてしまう。イーノックは困ってしまったが、不思議と初対面の筈の男を知っている様な気がした。
「私とあなたは、どこかで会ったろうか。とても懐かしく思える」
「ほお?」
イーノックの言葉に、男は少し驚いたようだったが、直ぐに納得がいったようだった。
「お前が私を覚えているというなら、ありがたいね。けれど、少なくとも今は、私たちは初対面さ」
「どう言う事だ」
「まあそれは後々話すさ。ところでイーノック、今日はお前に頼みがあって来た」
「頼み?」
何故自分の名前を知っているのかを聞く前に、男は直ぐ話を続けた。
「私はルシフェル。イーノック、今回も世界を救ってもらうよ」
イーノックはどこにでもいる様な青年であった。もっとも、日本ではその風貌は何処にでもいるとは言えないだろう。日本ではない、とある国に生まれたイーノックは、勤勉で誠実で、良く働く男だった。実家では農業を手伝い、力仕事で鍛えられた体は、アスリート顔負けの肉体であった。イーノックは文句ひとつ言わず、両親の仕事を手伝いながら過ごした。両親もそんなイーノックを大事にしたが、一つだけ悩みがあった。イーノックは大学に行かず、このまま家での仕事を続けるつもりだったのだ。大変うれしい事だが、両親はこの誠実な息子に、より多くの事を学び、成長してほしいと願っていた。
ある日、イーノックは両親から一つの提案をされる。国外への留学であった。突然の留学の話に、イーノックは断ろうと思った。見知らぬ土地での生活は想像がつかない、なにより両親を残す事はためらわれた。しかし、彼の両親は息子がその一生を片田舎で終えるのは、あまりにしのびないと思っていた。幸いにも、伝手はあった。偶然知り合った日本人を頼りに、大学へ入れると話は出来ていた。
最後までイーノックは渋っていたが、嫌なら大学を出て戻ればいいと言う事と、イーノックも心のどこかで海外への憧れがあったこともあり、彼の留学は決まった。行先は予定通り、日本の大学へと決まった。
決まるとなると、真面目なイーノックはすぐさま言葉を覚えた。日本に行くまで時間も少ない中、手に入れた英語と日本語の本を黙々と読み続け、もとより勤勉で、集中力の高いイーノックは、日本に付く頃には、日常会話は殆どマスターしていた。
初めての海外である日本は、全てが新鮮であった。イーノックは、両親から紹介された日本人の知り合いである教授がいる大学へと入学した。その教授は人類学を主に研究しており、イーノックの両親とも、研究で訪れた時に知り合った。
イーノックは、そのまま教授の下で人類学を学ぶようになった。日本のことについても研究し、相変らず真面目で勤勉な態度は、大変好評で、好青年でもあった彼は友人も多く、両親とは、手紙でやり取りをしており、日本へ来る前に抱いていた不安など忘れていた。友人たちともよく遊ぶが、時に真面目すぎるイーノックは、融通が利かない事が多々あり、何より話を聞かない。友人たちからも、「あいつは話をきかない」とからかわれたが、イーノックにその自覚は無いようだ。
そんなイーノック目の前に現れた大天使の名を持つ男ルシフェル。下宿先のアパートの一室で、大学のレポートを終え、朱色に染まる夕焼け眺めて一息ついていたイーノックは、突然「世界を救え」と言われ言葉が出なかった。
「何を言っているのか……私には、よくわからない」
「まあそうだろう。しかし、どうあってもお前にはやってもらう事になる。それが、お前の使命だからだ」
「だが」
「ああ、まて」
突然ルシフェルは、何かを言おうとしたイーノックを制し、そっと耳を澄ました。何かを探る様にルシフェルはベランダに出ると、何かを感じ取ったようで、にやりと笑った。
「まずは見てもらう」
「見てもらうだって?何を」
「お前が倒し、救うべきものだ」
ルシフェルは不敵な笑みを浮かべながら、指をパチンと鳴らした。すると部屋の扉が音を立て開き、驚いたイーノックがそちらを見ると、ベランダに立っていたはずのルシフェルが、いつの間にか扉を開き立っていた。扉の外の廊下は光が弱く、ルシフェルの赤い瞳が不気味に輝いていた。
「なにしてるんだ。さあ、ついてくるんだ、イーノック」
ルシフェルはそう言って部屋から出て行った。イーノックは少し悩んだが、ついて行かねばならないと言う使命感が、ふと湧き出してきた。急ぎ足でイーノックはルシフェルを追って部屋を出て行った。
イーノックの住んでいる場所は、この時間人があまり外を歩かない。しかし、近くの商店街の方へと入ると、買い物帰りの主婦、仕事帰りのサラリーマンやOLが、ちらほらと歩いていた。
「一体どこへ行くんだ」
イーノックが傍を歩くルシフェルに話しかけた。すると、ルシフェルではなく、イーノックの傍を歩いていた眼鏡を付けた男性が驚いたように答えた。
「い、家ですが」
「え?」
お互いにキョトンとしてしまった。ルシフェルはそれを見て、大声で笑った。
「すまない、言ってなかったな。普通の人間には私は見えないよ」
「ほらな」そう言ってルシフェルは、驚いた男性の顔の前で手を広げたり、振ったりして、更には男性の肩に手を置くと、ルシフェルの手はそのまま男性の体をすり抜けて行った。
「今の私は精神体と言うもので……まあ、幽霊みたいなものさ。基本的にそちら側に物理的な干渉はできないんでね」
イーノックは顔をこわばらせた。男性は突然目を見開いたまま止まる外国人に、驚いたままだった。怯える男性を見て、イーノックはハッとした。冷静になると、自分がとんだ恥をかいたとわかり、彼は赤面した。
「すまない、貴方を知り合いと間違えたので」
「あ、ああいえいえ」
突然見知らぬ外国人、それも体の大きなイーノックに話しかけられては、男性も驚きと共に恐怖を感じたかもしれない。しかし、丁寧な日本語で謝るイーノックを見て、安心したように男性は帰って行った。それを見送ると、イーノックはルシフェルを非難するように睨んだ。
「だから、すまなかったよ。それで、何処へ行くかだが、まあ直ぐつくよ。ついてくるんだ」
ルシフェルは再度歩き出した。人間に見えない存在。なぜそれが自分に見えるのか。イーノックは不思議でならなかったが、今はただルシフェルの後をついて行くしかなかった。少なくとも、この目の前の黒衣の男が、ただならぬ存在であることは証明されたのだ。
ルシフェルの言うとおり、目的の場所は直ぐだった。商店街の途中にある路地裏、そこに入って行き、奥へと進む。夜である事もあるが、路地裏と言う光の無い場所がより不気味に思えた。ルシフェルは立ち止まり、あたりを見渡した。
「ここだ」
「……ただの路地裏みたいだが」
「まあ見て見ろ」
ルシフェルが路地の一番奥を指差した。暗闇が広がるその奥を、イーノックはルシフェルを疑いつつも、目を凝らした。なんてことの無い暗闇に見えたが、ふと空気が変わる。なんだか気分が悪くなり、不思議に思うと、路地の奥の景色が歪み始めた。驚いたイーノックは、目をこすり、再度奥の暗闇を見ると、やはり景色は歪んだままで、まるで何かを吸い込もうとしているようだった。
「あれが入口だ」
【入口】と簡単に言うが、重要なのは何処へと向かう入り口なのかである。まさかあそこに入れと言うのではないだろうか。イーノックはルシフェルを不安げに見た。
「勿論あそこに入って行く。大丈夫、私も傍に居る」
こちらに干渉できない男が傍に居て何の助けになるのか。勘弁してくれとイーノックは思ったが、【入口】から突然何者かの声が聞こえだした。ギョッとしたイーノックは【入口】の方から聞こえる声に耳を澄ますと、それは男の声に聞こえた。かすかな声で、全ては聞き取れない。
「ああ……僕は…………っ……もう、ダメだ…………」
男の声は直ぐに遠ざかり、消えていった。
「どうやら狙われた奴がいたようだ」
怯えた様子も焦る様子も無く、ルシフェルはそう言った。
「どう言う事だ?」
「あれは【魔女の結界】。人を己の口付で呼び込み、人を呪う魔女の住処さ」
ルシフェルの言葉にイーノックは愕然とした。
「魔女だって?」
「そう、魔女だ」
「では、今の声は……」
「おおかた、誰か魔女に惑わされたのだろう、結界に入ったようだ。こちらも相応の装備がほしいかな」
「まて、このままではその……結界に入った人はどうなってしまうんだ」
「ああ、普通食われやしないが、魔女の手下に殺される事もあるかもしれない。もしかしたら、他にもいるかもな」
「なんだって!」
イーノックは極めて善人であった。見知らぬ人間であろうと、どんな人間だろうと、殺されようとしている人間を放ってはおけなかった。「助けなければ!」イーノックはすぐさま駆け出した。
「まてイーノック、そんな装備で大丈夫か?」
イーノックは勿論丸腰である。普段着のジーンズとシャツだけのラフな格好のままだ。ルシフェルの問いかけに、イーノックは少し立ち止まり言った。
「大丈夫だ、問題ない」
再度イーノックは走り出した。暗闇への恐怖も忘れ、魔女の結界の【入口】へ向け走り、あっと言う間に姿を消した。本当なら、もっと聞くべきことがあるのだが、イーノックはそんな事を気にしない。ルシフェルはその様子を見て、呆れた様子であった。
「あいつは、話を聞かないからな」
◆
イーノックは結界の中を我武者羅に進んでいた。先ほどの声の主が何処にいるかは分からないが、進めるだけとにかく進んでいる。
結界内は不思議とファンシーな彩であった。所々には、絵で描いた典型的な骨や、魚の骨が転がり、キャットフードやドッグフードの缶詰が散らばっている。通路自体も、ペット用の小屋を模していた。この空間にいるだけで心が削られる様な気持ちになった。一刻も早くこの場所から声の主を助けなければいけない。イーノックは不気味な道を進んだ。だが、イーノックの走りを止める存在が現れた。
「こいつらは」
イーノックの膝に届くか届かないかぐらいの生き物が、何処からかワラワラと現れ出した。その姿は形容しがたく、平面の様にも見え、子供の落書きが飛び出してきたようだった。辛うじて、犬か猫のようにも見える。
イーノックは、ルシフェルの言っていた魔女の手下と言う言葉を思い出した。おそらく、この小さな存在がそうだと思った。しかし、この小さな手下が、人を殺せるのだろうか、イーノックはそう疑問に思ったが、直ぐにその考えをなくす。手下たちが一斉にイーノックめがけ跳びかかって来たのだ。
「ぐ!ぐううああ!?」
突然の事で対処が出来ないイーノックは、パニックに陥った。彼は力こそ普通人よりあるが、怪物との戦いとなると別だ。まして、こちらは丸腰だった。何体かは殴り飛ばしたが、多勢に無勢、瞬く間にイーノックは手下の集団に覆い尽くされ、床には彼の血が滲み出した。
「やっぱりダメだったな」
その様子を悲観する事無く、ルシフェルは眺めていた。イーノックを食い殺した手下、魔女の使い魔たちは、精神体のルシフェルの存在には気がついてはいない。体の大きなイーノックの体を未だ貪っていた。
「さて、では久々にやるかな」
大天使ルシフェルは、時を操る事が出来る。過去の世界での戦いを終え、眠りについた彼は、この夢と現実の入り混じる世界で、昔と同様にその能力をつかえた。そしてそれは、常に神に選ばれた戦士、イーノックを助け続けた。今回もやる事は同じであった。
ルシフェルは慣れた手つきで、パチンと指を鳴らした。
瞬間、世界が巻き戻った。
◆
「そんな装備で大丈夫か?」
イーノックに時間の巻き戻った自覚は無い。イーノックが結界に入る直前まで時を巻き戻したルシフェルがそう言うと、イーノックは立ち止まった。自分の姿を冷静に考えると、この中に飛び込むことは危険だと思った。無意識にイーノックは、一度体験した自分の死を覚えていたのだ。ルシフェルが装備を用意していると伝えると、イーノックは強く頷いた。
「一番いいのを頼む」
「安心しろ、お前にはふさわしい装備がある」
ルシフェルが指を鳴らした。すると、イーノックの身体が光に包まれ、光の粒子が集まると、その身に純白の鎧が形成されていった。己を包む神々しい鎧を見て、イーノックは驚いていた。
「これは……」
「お前に最も相応しい装備だ。腰に曲がった物があるだろう?それが武器だ」
「これが?」
丁度背中の下、腰のあたりに弓なりに曲がった棍棒の様な物がついていた。イーノックはそれを取ると、両端に持ち手の付いた不思議な形だった。鉄の様な感触と、絹の様な滑らかさを持つその武器は、とても武器に見えず、工芸品と言った方が違和感は無いとイーノックは思った。
「それはアーチだ。神の作り出した知恵の一つ。つまり、武器さ」
全知全能の神が生み出した叡智は数多い。その中で武器として使える物として、アーチは最も汎用性の高い武器として天使達の間では知られる。もっとも、イーノックの知る処では無い。しかし、このアーチの放つ力は、ヒトの作り出せる物では無いとわかった。
「アーチ……」
「広げて見ろ」
言われた通りに広げて見ると、弓形の状態でアーチは広がり、そして赤い光が溢れ、ギザギザの光の刃が現れた。これは「剣」なのだと、イーノックは理解した。
「詳しい使い方は実戦で教えよう。死ぬ気になれば覚えも早い。のんびりもしていられないだろう」
そう言われ、イーノックは男性の事を思い出した。イーノックは駆け出した。
「用心して進め、何が出るか分からないぞ?」
今度はルシフェルもしっかりとイーノックの後を追った。
不気味に彩られた通路を進むと、イーノックが前に襲われた場所に近づいた。そこでイーノックは、「ここは用心した方が良い」と思った。一度体験した事が、この様に彼を助けた。案の定、同じ場所で使い魔たちが現れ始めた。
「そら、魔女の手下、使い魔たちだ」
使い魔たちはイーノックの存在に気が付くと、イーノックを食ってしまおうと襲い掛かって来た。
「まずは戦い方を覚えるんだ。さあ、思うようにアーチを使ってみろ!」
アドバイスと言うには大雑把だが、今のイーノックにはそれで十分であった。光る武器アーチを思い切り振り、襲い掛かる使い魔を切りつけた。連続で切り付けると、閃光と共に一体の使い魔が両断された。奇妙な叫び声と共に使い魔は消滅したのを見て、イーノックは自分でも倒せると確信した。
イーノックは思いつく限りの戦い方を行った。連続で切り付け、切り上げたのを追ってジャンプし叩きつける。大きく体を回転させながらアーチを振り、イーノックを取り囲もうとした使い魔を一掃して行った。だが、何体か倒したところで、アーチの切れ味が悪くなるのをイーノックは感じた。良く見ると、アーチの刃と柄の部分が、褐色に変化していた。それをみてルシフェルがしまったと思った。
「悪かった。“また”忘れていたよ」
また、というのはどう言う事が分からないが、イーノックはルシフェルが何か知っているのだとわかった。
「アーチはそいつらを攻撃することで穢れをためる。イーノック、アーチを浄化するんだ!」
「浄化だって?」
「お前の力だ。さあ、アーチを掲げ力を込めろ」
イーノックは言われた通りにした。使い魔から距離を取り、アーチを前に掲げ、もう片方の手に意識を集中させる。すると手の先から光が溢れだす。そのままアーチを撫でると、光によってアーチは浄化され、褐色の刃は青白い神々しい物となった。アーチの本来の美しさである。
「それで本当の力を発揮できるぞ」
「よし!」
ためしに一体の使い魔を切り裂くと、今度は一撃で使い魔は真っ二つになった。
「アーチの光の刃は、神のみが作り出せるものだ。その光は物理的にも発生し、浄化の力を放つ。さあ、どんどん使い魔どもを浄化してしまえ!」
ルシフェルの説明を、イーノックは余り聞いてはいなかったが、とにかく、使い魔を倒すのに十分な力があることはわかった。勢いを増したイーノックの猛攻の前に、数分もしない内に、使い魔は全滅した。
イーノックは自分が一振りのアーチを使い、使い魔を倒せたことに興奮した。ルシフェルによって授けられた武器とはいえ、今まで戦いなんてした事無い自分が、何故ここまで戦えたのかも不思議だった。そして、イーノックは自分もまたヒトで無いものになってしまったのではないか、そう思うと不安になった。その気持ちをルシフェルは察知していた。
「イーノック、安心しろ。それは神の授けた力だよ」
イーノックを安心させるように、ルシフェルは比較的柔らかい声で言った。
「神の力だって?」
「そうだ。イーノック、お前は神に選ばれたんだ。お前はその力を使い、人々を救うんだ」
「……突然、そんな」
「信じられないか?まあ、どう思おうと良い。だが、今この結界に囚われた人を助けられるのはイーノック、お前だけだ」
信じられないと言う表情だったが、イーノックは捕らわれた人を助けれるのが自分しかいないと理解すると、その表情に強い意志が溢れた。
「さあ急ごう、魔女までもう少しだ」
ルシフェルがそう言うと、イーノックは力強く頷き走り出して行った。
その後も何度か使い魔に襲われたが、戦う意思を固めたイーノックによって蹴散らされていった。
過去の戦い、つまりイーノックが堕天使のタワーを攻略し、後にルシフェルと戦った時の事は覚えてはいないのは確かだが、世界創造の過程での、夢と現実の世界とは言え、イーノックは同一の存在であり、その戦いのセンスは素晴らしかった。
通路を突き進むと突然広がった空間に出た。路地から入ったとは思えない、余りに広い空間に、ずっと狭い場所を進んでいたイーノックは一瞬眩暈を感じた。そこは巨大な犬小屋の様だった。辺りの様子を見渡すと、ふと人のうめき声が聞こえてきたので、イーノックはその声をたどる。
「この人たちは!」
広場の入口から少し離れた所に数人の男女が地に伏せていた。イーノックが急いで駆け寄った。
「大丈夫か!?」
イーノックが声をかけたが、床に転がる男女は、弱々しくうめくのみであった。一人の男性の肩を掴み抱き起し、意識をはっきりさせようとしたが、その目は虚空を眺めたままだった。
「俺は、もう……何もかも……」
「あたしなんて、ダメな女よ」
「僕なんて……」
彼らはイーノックの声に気が付いた様子は無かった。そして、イーノックは抱き起した男の顔を見て驚く。それは、先ほど間違って声をかけた男性だった。
「おい、しっかりしろ!」
「無駄だイーノック。見ろ、彼らの首元を」
ルシフェルの指摘を受け、イーノックは男性の首元を見る。そこには、タトゥーの様な黒い模様が刻まれていた。それはその場に倒れる男女全てつけられていた。
「それこそ魔女の口付だ。このままだと、この人間達は使い魔に食われるか、放っておいても自殺でもするだろう」
「どうにか出来ないのか!」
「まあ、焦るな。元を断てばいいんだよ。つまり魔女を倒すんだ」
「魔女を……だが、一体どこに」
「直ぐに現れる。聞こえないか、イーノック」
そう言われると、地鳴りの様な音と共に、先ほど通路にあった絵にかいた骨の巨大な物が、地面から生えだした。それはイーノックを軽く超える程巨大で、イーノック達を円形に取り囲む様に生えて来た。骨は男女の集団とイーノックを引き離すように現れ、イーノックは完全に孤立してしまった。
アーチを構え、現れるであろう脅威に備えるイーノック。完全に魚や牛の骨に囲まれ、イーノックは緊張していた。すると、中央から地響きとともに巨大な物体が現れた。極めて奇妙な生き物であり、体の半分が犬と猫で分かれていた。どちらも前足を持ち、それぞれが前と後ろを向き、身体をU字にして、やっと二つの顔がイーノックを見る事を可能とした。不思議と、その物体の前に何かの文字列が現れたが、イーノックにはそれを読む事は出来ない。
「奇妙な文字だが、おそらく「ゴネリル」と言うのだろう」
「ゴネリル?」
「魔女の名さ」
目の前に現れた犬猫の魔女ゴネリル。犬と猫の瞳でイーノックを鋭く見ていた。そして、イーノックを獲物ではなく、敵と判断したのだろう、ゴネリルの双頭はそれぞれの鳴き声で吠えると、イーノックへと襲いかかって来た。巨大な体をイーノックへとぶつけに来る。驚いたイーノックは、急いで身をかわし、転がる様にしてその体当たりから逃れた。
「ワアギャアオワアニャアアア!!」
犬と猫の混ざり合った叫び声を上げながら、再度ゴネリルがイーノックに体当たりを仕掛けた。双頭でのゴネリルは、それぞれの頭に意志があるらしく、お互いが持つ二本の足を器用に動かし、一体の魔女によるコンビネーションと言う、トリッキーな動きが、よりイーノックを苦しめた。なんとか攻撃を避けるが、先ほどまでの使い魔とは違う、イーノックも初めて戦う巨大な存在に押されだした。何とか反撃をしようと、体当たり後の隙を狙い、イーノックはゴネリルの背中を切りつけた。切り口から血のような液体が吹き出し、ゴネリルが悲鳴を上げた。
「効いている!」
攻撃が通じていると分かると、イーノックも勝機が見えた様に思えたのだろう。しかし、今の攻撃でゴネリルは激高した。ちっぽけな存在が、自身を傷つけるのが許せなかったのだろう。
イーノックは今猫の方の背中を攻撃したのだが、その猫の背が俄かに震えだした。
「イーノック、奴はなにかする気だぞ!」
ルシフェルの声を聞いたイーノックは、アーチを前に構え、身を守った。だが、それがいけなかった。猫の体の部分の体毛が震えると、一気に鋭利な棘となり全身を覆った。飛び出すように現れた針山は、イーノックの頭部を一瞬で貫き、イーノックは驚く暇も無く串刺しとなった。
「やれやれ、順調にいくと思ったが」
ルシフェルは骨の上からその様子を眺め、指を鳴らし時を戻した。
◆
猫の攻撃を完璧にかわし切るのに、ルシフェルは6回程時間を戻す羽目になった。アドバイスもしてやるのだが、イーノックがそれを生かし切れず、何度も死亡してしまったのだ。
そして、7回目。また猫の背が震える少し前に戻ると、イーノックは直前の死亡原因を無意識に思い出し、ガードでは無く、回避が最善の策だと直感した。すぐに後ろに下がると、猫の体が一瞬で針山となった。あそこでアーチでガードしては、防ぎきれずまた串刺しになる。こんどは避けるタイミングもバッチリだった。
「良いぞ、イーノック!油断せず攻撃を続けろ!」
ルシフェルも骨の上から檄を飛ばした。
イーノックも攻撃が通じる事が分かり、気を引き締めた。恐らく犬の体の方も何かして来るだろう。しかし、逃げていては勝つことは無い。さらには、ここに連れ込まれた人たちも犠牲になる。イーノックの心が正義に燃えた。いちどアーチを浄化し、再びゴネリルへと向かって行った。
「うおおお!」
ダメージを受けている猫の方を重点的に狙うと決めたイーノックは、猫の針攻撃に注意しつつ、間合いを計りながら攻撃を続けた。体に傷が増えて行き、魔女へのダメージは確実に増えて行った。
「ニャギャアアアガガガ!!」
猫の方が怒りを爆発させたらしく、針だけでなく、前足の鋭い爪を利用して攻撃してきた。ブンブンと振り回し、イーノックを引き裂こうとする。だが、激高した猫の動きに、半身の犬の方が付いて行けず、動きが鈍りだした。
「そら、チャンスだイーノック!」
ルシフェルの声に応えるように、猫の爪攻撃をかわし、イーノックは高く飛びあがった。神の加護を受けたイーノックだからこそ出来る大ジャンプだ。そのままイーノックは猫の顔面に向けアーチを切り付けた。額から鼻先までを切り裂き、悲鳴を上げた猫の体から力が抜けていくのが分かった。しかし、犬の体の方はまだ動いている。大きな心臓の鼓動が聞こえる。この魔女は、それぞれの体にそれぞれの心臓を持っているのだ。
イーノックは残りの犬の胴体をそのまま倒そうと思ったが、猫の針攻撃の様に、何があるか分からないので、一度距離を取った。犬の方にもダメージは溜まっていたようで、先ほどまでの素早さは無い。その上、事切れた猫の胴体を引きずる様にして戦う姿は、哀れでもあった。しかし、魔女としての闘争本能は落ちていない。今もなおイーノックを殺そうと、目に殺意をギラギラと輝かせていた。
「ワオオオオオ!!」
犬の体が吠えると、その口に赤い炎が溜まりだした。どの様な攻撃が来るかは明らかだった。火炎が来る。イーノックは犬の口の射線上から逃げた。しかし、犬の口より炎が吐き出されると、それはイーノックの予想したよりも広範囲に広がった。あまりに広い火炎は、イーノックを囲んでいる骨のサークルの殆どを覆った。炎はイーノックを巻き込み、一瞬で消し炭にしてしまった。
ルシフェルは疲れた様子で指を鳴らした。
◆
猫の時と違い、今度は遠くに逃げてはいけなかった。時間を5回戻した事で、イーノックは攻撃のタイミングを覚えた。犬の口にわずかに炎が見えだすと、急いで犬の体に近づき、炎の届かない首より後ろに回り込んだ。犬の首より後ろが、唯一の安全地帯だった
炎を口に含んだ状態の犬の頭は、焦ったようにイーノックを追おうとした。しかし、炎を吹こうとしたため、上手く体が動かせなかった。イーノックは、足からの攻撃を予想していたが、幸いだった。大きな隙がうまれ、イーノックは攻撃のチャンスを得た。イーノックは再び大ジャンプで犬の頭に上った。
「うおおおーーー!!」
雄叫びと共に、イーノックが犬の額にアーチを突き立てそのまま猫の額にまで走り抜けた。一直線に切り口が走り、ゴネリルの体液が噴き出す。犬の頭が大きな断末魔を叫んだ。何とか立ち上がろうとしたが、ついに息絶えたゴネリルは、そのまま大きな音と共に地に伏せ倒れた。
「やったな、イーノック」
骨から下りてきたルシフェルが声をかけると、イーノックは疲れ切った様子であったが、笑顔を見せ頷いた。
すると、うにゃうにゃと景色が歪みだし、どうしたのかと思う暇も無く、景色が一変し、彼らは路地裏の外へいた。既に夕日は沈み、もう夜になっていた。神の鎧も部屋を出る時に来ていた服に戻っている。イーノックが景色の変化に驚いていると、ルシフェルが拍手をしながら傍によって来た。
「魔女が倒され、結界が解けたんだ」
傍には、魔女に連れ去られた人たちもいた。気を失っているが、息はある。イーノックはそれを見て安心した。イーノックは、ふと足元に転がる小さな物体に気づいた。拾い上げたそれは、黒い球体に針のついたようなものだった。
「それは、グリーフシード」
ルシフェルがその黒い物体の名を言った。
「魔女の卵さ」
「え!?」
思わずイーノックはグリーフシードをおとしそうになった。確かに、そう言われると、造形は美しいが、黒々としたそれは、非常に禍々しい物に見えてきた。
「壊した方が良いのか?」
「いや、それはダメだ。それの扱いに関しては、後で言おう。それよりもイーノック、彼らを浄化してやれ」
ルシフェルは気を失っている男女を指差し言った。生きている事に安心していたが、イーノックは、もう一度彼らを見ると、その体から黒い霧の様な物が少しだが溢れているのが見えた。うなされているのか、その表情は苦しそうだった。
「魔女からの呪縛は解けたが、魔女の結界に居た所為で、彼らにも汚れが溜まったんだ。お前が浄化してやれば、体力も回復するだろう」
そうとわかるとイーノックは直ぐに浄化を始めた。順番に意識を失った人たちの頭を、浄化の力で撫でると、彼らの表情は和らいで行った。魔女の結界で受けた汚れが祓われていった。だが、イーノックは直ぐに困った事に気が付いた。もう時間は遅く、日は沈んでいる。路地の中にこの男女の集団を置き去りと言う事も出来ない。
「そこに誰かいるのか!」
どうしたものかと考えていると、表から男の声が聞こえてきた。イーノック達に気が付いたのか、誰かを呼ぶような声で、こちらに近づいてきているのがわかる。
「どうやら、彼らを探しに来たようだ。もしかしたら、以前から行方不明だった奴もいるのかもしれないね」
いよいよイーノックは困ってしまった。この状況で発見されたら、多少なり自分が疑われるだろう。無実なのを証明はできるだろうが、時間はかかるかもしれない。イーノックは真面目だが、要領が悪いので、この場で名案は浮かばなかった。
そうこうしていると、気を失っていた男性が一人目を覚ました。あの眼鏡の男性だ。重たそうにして体を動かした。浄化されたとはいえ、体にたまった疲れは残っているのだ。イーノックが男性と目が合う。
「き、君は……」
「私は、その」
どう説明すればよいのか、イーノックが困っていると、男性はふらついて倒れそうになる。慌ててイーノックが男性を支えた。
「ありがとう、どうも体が重たい……」
「まだジッとしていた方が良い」
「ああ、そうしよう」
男性は、手頃な段差に腰かけた。
「君が、介抱してくれたのかい?」
男性がイーノックにそう聞くと、ルシフェルがニヤリと笑った。
「そう言う事にしておくんだ、イーノック。なに、浄化もしてやったし、嘘じゃない。路地で彼らを見つけた事にするんだ」
それが良いだろうと、イーノックは軽くルシフェルに向かって頷いた。もう最初の様に、見えないルシフェルに声をかけたりはしない。
「そう言う事です。酷く疲れているようだ」
「ああ、だがどうも奇妙だ。僕はなぜこんなところに居たのかだろう、それに彼らは……」
「わからない、だがそれは警察が聞く事だろう」
イーノック達を呼ぶ声が近づき、数人の警察官が現れた。イーノック達を見つけると、急いで彼らを確保した。中でもイーノックの存在は一際目立っていた。だが、男性がイーノックの事を証言してくれたので、不当な扱いは受けずに済んだ。だが男性を含め9名の男女が路地裏で気を失い、その内の何人かは、ルシフェルが予想した通り数日前より行方不明の者であった。一応状況が状況の為、一度警察署に向かい、住所や名前、国籍やらと書類書き、取り調べの様な事をした。どうしてあそこに居たとか色々と聞かれたが、イーノックが困ると、ルシフェルがイーノック意外には見えない事を利用して、透かさず助言をしてあげた。イーノックは助け船に喜んで乗り込んだ。
「まあ、今日は帰りなさい。また後日話を聞く事もあるからね」
「はい」
結局、イーノックの証言通りに、イーノックは偶然通りかかったと言う事になった。また、被害者達は、警察の方も念のためと救急車を呼んで今回の被害者達を病院へ向かわせた。ルシフェルが浄化したから心配ないと言っていたが、普通の人間には、浄化したかどうか、ましてその浄化の存在すらわからないのだから、当然の判断だろう。
あの眼鏡の男性も一度病院で見てもらうため、救急車で運ばれたが、警察署に同行する際、イーノックは、男性に引き留められた。
「ぜひお礼がしたいんだ。君の名前は」
「私はイーノックと言います。お礼は結構です」
「いや、それでは僕の気が済まない。僕は鹿目智久と言うんだ。イーノック君、絶対お礼するよ」
色々と言いたそうであったが、話が長くなりそうと感じた救急隊員が、話を遮り男性、智久を救急車に乗せ去って行った。イーノックは、今回の事は成り行きで起こった事と思っていたし、人を助けるのも当然と思っているので、お礼と言われて困ってしまっていた。イーノックは家に帰って来てもそんな様子だったので、ルシフェルはそんなイーノックを呆れて見ていた。
「いいじゃないか、助けたのは本当だろ」
「だが、お礼をされるために助けたのでは」
「本人は知らないが、あのままじゃ間違いなく魔女か使い魔の手で死んでいたんだ。イーノック、素直に礼を受けとけよ」
イーノックは最期まで困った様子だったが、ルシフェルが「お前だって人に礼をする事もあるだろう?」と言われ、それ以上何も言えなくなった。
「それよりもイーノック、今日最後の仕事だ」
ルシフェルは机の上に置かれたグリーフシードを指差した。
「グリーフシード。魔女の卵だったか……」
「そうだ。放っておけばいつか魔女が生まれる」
そう聞くとイーノックはこの黒い塊を今すぐ壊した方が良いと思った。しかし、ルシフェルはそれを止めた。
「イーノック、お前がやる事は簡単だ。浄化するんだよ」
「グリーフシードをか?」
「そう、簡単だろ?」
確かに簡単だ。簡単すぎる。イーノックは、ならばと、直ぐに浄化をしようとした。しかし、手を止める。
「浄化の理由を聞きたい」
「だろうな」
この質問を予想していたのだろう。ルシフェルは質問の答えを既に用意していた。
「お前が今からすることは、お前の使命の中でも特に大切な事だ。一言に浄化と言っても、そのグリーフシードを浄化する事は、大きな意味を持つ」
「そうなのか?」
「そうさ、まあ座れよ。落ち着いて話そうじゃないか。長い話だからな」
自分の部屋の様に座れと言うが、ここはイーノックの部屋である。少しむっとしたイーノックだったが、素直にベットに腰かけた。ルシフェルも椅子に座り、話を頭の中でまとめると、口を開いた。
「話をしよう」
◆
途方も無い話が始まった。それは地球の誕生より始まる壮大な物語であった。ルシフェルは時を操る。彼は見て来たのだ。この星の誕生を。
はるか昔、宇宙と言う広大な星の海の中に、青い地球が誕生した。地球と言う、巨大な命だった。その巨大な命の上に、小さな命が生まれるのには、また長い時が流れる。小さな命、微生物と言えるそれが生まれ、長い時の流れの中で、少しずつ増え、新たな命が生まれ、増える。それを繰り返していくと、何時しかヒトと呼ばれる命が生まれた。ヒトもまた進化を繰り返し、何時しかヒトは知能を持ち、知識を持ち、技術を持った。
「だが、ヒトの進化は本来もっと緩やかであるべきだった」
ここからがポイントだ。ルシフェルは、イーノックにそう言い聞かせた。
あまりに不自然な進化を見た神は、疑問に思った。そして、直ぐにその「原因」を掴んだ。ある存在が、地球へと現れ、人に偽りの進化を与えたのだ。それは緩やかに、同時に速やかに。進化が完成され初めて神が気付く程巧妙に。
その進化は神の臨む進化で無く、ヒトの有るべき進化でも無かった。ヒトは手に入れた技術を信じ、いつの間にか神への信仰が薄れ、本気で神の存在を信じる者は数えるほどしかいなくなっていたのだ。
直ぐにエルダー評議会が召集された。神に選ばれた天使による会議である。不定なる「偽りの進化」を与えたものをどうするか、そして神を忘れたヒトをどうするか。時間と言う概念が地上とあまりに違う天界で、幾度となく話し合いが行われた。進化を一度リセットする事も考えられたが、最終的に神は、この事をヒトの手で解決させることにした。もとより、地上に干渉できる天使はいないので、神の雷を落す等の、強硬手段以外となると、地上の人間を使う必要があったのだ。そのヒトこそイーノックである。
「偽りの進化を終えさせるのは、その進化を受け入れた人間でなくてはならない。そして、その進化の陰で喪われた魂も救う必要がある。イーノック、お前の使命だ」
イーノックはルシフェルの話をじっくりと聞いたが、余りに突飛な事で理解するのに苦労していた。
「……偽りの進化とは、そんなにも神の怒りに触れる事なのだろうか」
「そうだ。ああ、まて……そうだな、これが、純粋にもたらされた物だったら神も見逃したろう。だが、この進化はダメだ」
「何故だ?人々はその進化で文明と文化を得たのに」
イーノックは神の事を信じている。信徒と言うわけでも無いが、彼は神と言う絶対的存在が、どこかに居る事を信じて疑わなかった。同時にイーノックは今の生活に満足している。偽りと言っても、人の進化は素晴らしい物を得る事が出来たはずだ。それを否定する理由が分からなかった。
「そう思うか?」
「ああ」
「その得た進化の裏に、犠牲があったとしてもか?」
「犠牲だって?」
犠牲なくして。と言う言葉は、映画や漫画で狂った科学者が言う台詞だ。良い言葉ではない。犠牲など無い方が良いに決まっている。
「その犠牲こそ、それだイーノック」
ルシフェルは再びグリーフシードを指差した。
「ヒトは進化を得た。だがその進化を得るために、数え切れないほどの魂が散った。進化の「原因」に唆され、ヒトは願いと引き換えにその身を穢れに蝕まれるようになる。その行く先がそれだよ、イーノック」
「……まさか、そんな。それじゃあ、あの魔女は」
「そうだ。魔女とは元々若き少女、人間だ。お前の持つグリーフシードは、形が変われど、元は人の魂だったんだよ」
イーノックは愕然とした。手の中にある小さな塊、グリーフシードが人の魂、つまり命であると言う事実と、その肉体である魔女を先ほど自分が倒した事、それらの事がイーノックに強いショックを与えた。まだ魔女の事や、神の意志などの事は理解しきれていないが、イーノックは悲しみと怒りに震えた。
「何故教えてくれなかったんだ!」
イーノックは強くルシフェルを非難した。その事を知っていれば、他の方法で魔女を救おうと思ったはずだとイーノックは思った。しかし、ルシフェルからすれば、それは甘い考えから出た妄言に過ぎない。
「言えばお前はあの魔女を倒す事は出来なかったろう。助けられんじゃ、そう思ってな」
「当然だ!」
「だがな、それは不可能だよ。魔女になったヒトは、二度とヒトに戻れない。魔女となり、ヒトを絶望と死へ導くだけさ」
「しかし、それではあまりに……」
「そう落ち込むなよ、イーノック。言ったろう、倒し救ってもらうと」
時を操る力の応用で、一瞬でルシフェルはイーノックの傍に現れ、囁くようにイーノックを説得し始めた。
「今そのグリーフシードは穢れた魂の塊と言っていい。魔女となり、ヒトを汚すだけの存在となった魔女は、死のうが生きようが穢れたままその魂をこの世に囚われる。だが、お前だけがその穢れを祓い、魂の解放ができるんだ」
「……魂の、解放」
「そうだ。その少女の魂を解放してやるんだ。でなければ、いつかまた魔女となり、ヒトに害なす存在となる」
イーノックは、ジッとグリーフシードを見る。そして、意を決すると、イーノックはグリーフシードに手を添え、浄化の力を使った。清らかな光がその手より溢れると、真っ黒だったグリーフシードの色が徐々に純白へと変わり、またその形を崩し始めた。光の粒子となったグリーフシードは、天へと昇ってゆく。それをイーノックは悲しそうにみていた。それは人の魂の輝きであり、美しくも余りに悲しい最期であった。
突然、光の粒子が空中でクルクルと回りだした。イーノックが驚き、光の粒子は見る見るうちに人の形となった。光のシルエットだけで表情は見えないが、それは小さな少女の姿となっている。
「ありがとう」
一言、可憐な声で少女が言った。その声はとても穏やかで、あの魔女のものとは思えないものだった。それは完全に魂がヒトのものに戻った事を意味している。少女は晴々とした気持ちで空中を舞い踊り、嬉しそうに笑っていた。
「言った通りだったね、天使様!」
突然少女はルシフェルがいる方向に向かってそう言った。ルシフェルは突然の事で驚いたが、イーノックはその事に気づいてはいなかった。少女は何度かイーノックの周りをクルクルと舞った後、天空へと登りだした。イーノックは、少女に向かって手を伸ばしたが、その前に少女の形は再び光の粒子となり、完全に天へと昇って行った。イーノックはそれを暫し見続けた。
「……これが、唯一の救いだったのか」
「そうだ」
イーノックの呟きに、ルシフェルが即座に答えた。
「穢れより解放された魂は、天へと昇り、この世での記憶は消え新しい命へと変わる。あの少女は、正しいヒトの死を迎えたんだ」
「正しい死、か」
イーノックは、今まで死の事を、死ねば終わりと単純に思っていた。しかし、望まぬ末路を辿り、輪廻より外れた死んだ少女の魂は、魔女となり世に絶望をふりまいて来た。魔女のままヒトに害なすままであるより、ヒトとして正しく死ぬほうが正しいのは確かだろう。
「他にも、あの少女の様な子が」
「大勢いるさ。それこそ、世界中にな」
イーノックは人の魂を弄ぶ、偽りの進化の「原因」への怒りに燃えていた。
「一体何者だ。神を謀り、人を欺いた者は」
「インキュベーター」
ルシフェルは感情を含ませず、冷たくその名を言った。
「インキュベーターはこの星の生命ではない」
「地球じゃない?」
「わかりやすく言えば、宇宙人ってことさ」
どんな姿を想像したか分からないが、イーノックはとても複雑な表情になった。タコ足やら、やたら脳みその大きなものや、目の大きな姿などを思い浮かべたのかもしれない。
「今もそいつらは地球に居るのか?」
「いるからこそ魔女は増えている」
「だったら!」
いてもたってもいられないのか、イーノックは立ち上がりルシフェルにインキュベーターがいる場所を教えるように詰寄った。が、ルシフェルは瞬間移動でイーノックの後ろに移動した。
「慌てるなよ。今行った所で解決にならないぞ」
「だが、こうしている間にもさっきの様な少女が」
「まあ落ち着けって。いいか?インキュベーターを倒して終わりの話じゃないんだ。それに、お前はまだ多くを知らない。グリーフシードの秘密こそ今知ったが、まだまだその闇は深い。今日寝て、疲れを癒すんだ」
ルシフェルにそう言われたら、イーノックは体の疲れを感じた。色々な事が多かったせいで、体の疲れを忘れていたらしい。少女の魂を見送り、どっと今日の疲れが現れたのだ。
それに、明日は大学の講義があった。インキュベーターや魔女の事も気になるが、だからと言って大学を疎かには出来ない。イーノックは結局その日は眠りに付く事にした。
「明日、また会いに来る。私も色々調べる事が有るんでね」
そう言ってルシフェルはまた瞬間移動で消えて行った。
あまりに突然の出来事の連続であった。多くの問題をほんの数時間で抱えてしまった。世界の運命と、魂の救済。頭がどうにかなりそうな問題ばかりだった。
が、今は眠ろう。イーノックは目を閉じると、直ぐに眠りの世界に誘われた。
◆
さて、イーノックも眠りについたころだろう。私は街で一番高い塔の上から夜景を見ながらこれからの事を考えていた。
今回は流石に300年以上の旅をする事は無いだろう。イーノックもやる気を出してくれたようだしな。尻ポケットから携帯を取り出し、操作する。この世界に合わせて、この時間で最新の機種についこの前変えた物だ。メールなんて来るわけも無いし、着信履歴も「神」のみが表示されるスマートフォンは、神との連絡以外だと暇つぶしに使う以外使い道は無い。しかし、ヒトの作った物を使うと言うのも面白い物だ。神との連絡にそもそもスマートフォンは必要ないのだが、敢えて使う事でヒトの事を理解できることもある。それに、テレパシーみたいな連絡だけじゃ味気ないだろう。
それよりも、今後の事だ。イーノックに偉そうに説明したんだが、実をいうと私もインキュベーターが具体的に何処に居るとか、どんな奴なのか分かっていない。この夢の世界に来た時、神は私に全てを教えようとしたが、それを私は断った。折角何も知らない世界なのだから、自分の目で確かめたいと思ったんだ。まあ、ある程度の、イーノックに説明した事ぐらいは聞いたがね。それで、今から私はインキュベータ―や、魔女の事を探りに行こうと云う訳さ。イーノックが寝ている間、私が時間を跳び回れば何かしら分かるだろう。イーノックが目を覚ますまでの6時間程も、時間の関係ない私にとっては無限だ。
まずは、魔女の事でも見て見ようか。私は指を鳴らし、時間と場所を移動した。
一瞬で私は時間を超えた。ちょうど、半年前と言ったところだ。場所はどこかわからないが、同じ街であっているだろう。路地裏であるのはあの時と同じだ。しかし、闇雲に時間を跳んだわけじゃない、あの魔女、イーノックが倒したゴネリルと言う名の怪物だが、あの魔女とイーノックが戦っているところまで戻り、魔女を確認してから、更に戻る。ゴネリルが何処から来たのかを探ろうという訳だ。
たしかここら辺で魔女が生まれる予定だ。私はジッとその時を待った。
しばらくすると、物音がして誰かが来るのが分かった。薄暗い路地裏に、フラフラとした足取りで、一人の少女が現れた。一目見てわかったよ。あの時、イーノックに礼を言った少女だとね。少女はフリフリとした服装で、コスプレかと思ったが、どうもそうではないようだ。オレンジを基調とした服装は、所謂魔法少女と言った所だろうか。
如何にも弱っていたが、ついに少女は地に伏せてしまった。精神体の私には世界に干渉は出来ないから、彼女を助ける事は出来ない。もっとも、助ける気も無いがね。なぜなら、彼女の魂は、既にイーノックが浄化し救ったからだ。
「……っと、ダメだな」
思わず口に出して己の考えを改める。今の考えを否定はしないが、それを良しとするのは、少し冷酷すぎたと思った。一度とはいえ、堕天してヒトと成った故に、ヒトとしての感情と言うのを学んだせいだろうな。そう思うと、手の一つでも差し伸べたくなってきたが、結局私には何もできないのだ。
少女は仰向けになり、苦しみながら服の胸の所に取り付けられた卵状の物を手に取った。それを見つめて、何かを悟ったように笑った。
「だめね、もう濁りきってる。グリーフシードも無い。仲間もいない……あーあ」
少女が言ったように、その卵状の物は可愛らしい装飾とは裏腹に、内部の宝石部分が黒く濁っていた。そして、その色は先程見たばかりだった。
なるほど、そう言う事か。私は神から断片的に情報を聞いたが、一つ合点が言った。この色は正にグリーフシードその物だったんだ。今からこの少女は、ヒトとして死ねず、喪所となるのだろう。魔女は元は人間と言われたが、これは思った以上に、イーノックには辛い真実だろう。
「終わりかぁ……こんな場所で……」
自分の死を悟ったのだろう。少女は力なく笑い、目には涙があふれ出した。誰も聞いてはいないのに、言葉を発するのは、最後に自分の事を認識するためかもしれない。私だけが、少女の言葉を聞いていた。
「お父さん……お母さん……ッ!もっと、もっと話したかったのに……!こんな、最期なんて!魔女に何てなりたくないよ!」
おどろいたな。この少女は自分がただ死ぬだけじゃないと知っているらしい。過去に、なにかその事を知る出来事があったのだろうか。後で見て見るのも良いだろう。しかし、今はこの少女の事だ。
見ている内に、私はなんだかヒトとしての感情が芽生えてきた。堕天したおかげと言うのもおかしいが、やはりあの決断は間違ってなかったと思える。私は無意味とわかっていたが、形だけ少女の頭に手を置き、撫でる様な動作をした。油断すると手が通り抜けるので、慎重にやった。
「そう絶望する事は無い。暫く辛いだろうが、お前を助けてくれる奴が来るさ」
本気で同情したのは、初めてかもしれないな。少女の境遇を見て、こんな言葉が出るとは、昔の私では考えられなかったろう。聞こえていないとわかっていても、何か言ってやりたかった。
「……誰?」
少女がふと顔を私の方に向けたので、驚いてしまった。咄嗟に手をひっこめると、少女は私がいる方を見るが、正確な場所は分からないようだった。こんな少女を私は知っていた。
(イシュタールのようなものかな?)
嘗ての世界で、ヒトの勇者として覚醒した少女「ナンナ」の事を思い出した。この子の様な少女は、私の存在を感じ取れるのかもしれない。他にも、ナンナの親代わりだった「シン」と言う男性も、私を感じ取っていたようだ。もっとも、彼は私を神と勘違いしていたがね。
「誰かが、助けてくれるの?」
少女は姿の見えない私に聞いて来た。もう意識もハッキリしていないのだろう。最後に少しでも救いのある言葉を求めていたのかもしれない。私は再び少女の頭に手を置き、撫でてやった。
「そうだ。少し辛抱していれば、お前を穢れから解放してくれる。だから、今は眠ると良い」
「そう……あなたは、きっと……」
少女は最後に「天使様」と呟いた。その瞬間、卵状の球体が破裂し、眩い日怒りが辺りを覆った。光が収まると、そこには路地裏の景色では無く、あの魔女ゴネリルが作り出した結界の景色と、その主たるゴネリルが不気味に立っていた。私は全てを見終わり、時間を一度、イーノックが眠った時にまで戻して。その場を後にした。
この時、少女に声をかけた事で、疑問がまた一つ晴れた。浄化された時、少女の魂は「言った通りだったね、天使様!」と言った。
聞き違いか、少女が何を思って言ったのか分からなかったが、彼女は、魔女となる間際に聞いた私の言葉を覚えていたのだ。
私は、初めて、自らの意志で、過去に介入したのだ。
それは堕天し、イーノックと戦い、眠りについた事によって得た力なのかもしれない。私はそう思った。
8月の発売と聞いて、楽しみですね。
あれ、なんてメガテン?はもう言うまでもない