やっとここから原作軸に入ります
一
日が昇り始めて、壁の中に広がる兵団施設も、ゆっくりと鮮やかな色を取り戻していく。
自由の翼があしらわれた深緑の色をした外套や、硬質な鋼色の巨人殺しの装置も、その英雄たちの切迫した瞳も、壁の中に訪れる一日の始まりに照らされていく。
「ではリヴァイ兵長。一次作戦が終わりましたら、旧市街地の中央で司令班と合流してください。私が生きていたら司令班の援護は研究班がしています。指示を出しますので、特別作戦班はその通りにお願いします」
「ああ。わかった」
行軍のための隊列を組む前に、そこかしこで兵士たちが最終の打ち合わせを行なっている。
これから壁の外へ、彼らの戦場へと旅立つために、放たれた一矢となる覚悟を練り固めていく。
そんな緊迫した、そして同時にどこか清廉とした空気の中、少年は最後の機会を失うまいと走り出した。
「クシェル班長!!リヴァイ兵長!!イリヤ・ツェラン調査兵、準備できました!俺も、グぇ」
小柄だが熟練のその上官たちをめがけて勢いよく走り出した少年を掴み上げたのは、研究班――今回の調査では司令班の護衛班として配属されたクシェル副官率いる班であるーーの一番の古株、エーミール調査兵だった。長身のイリヤと肩を並べるほど長身痩躯な兵士だが、齢30も近い生熟した青年の筋肉は、イリヤのそれとは比べものにならないほど硬く、しなやかに彼の体を軽々と放り投げた。
「いい加減にしろ、イリヤ」
「エーミールさん!俺も連れて行ってください!なんで俺だけ留守番なんですか!?調査兵が外に出なくて一体何のための調査兵なんですか!!」
「クシェル班長の判断だ。お前は今日は衛生兵と一緒に内門の中で、負傷兵の看護だ」
「だからそれが納得いかないんです!」
清廉な空気をぶち壊すかのような少年の我儘な叫びと、古参兵の応酬が繰り広げられる。それを横目に、他の兵士たちは怒るでもなく、苦笑を浮かべたり、あからさまに笑ったりしながらそれぞれの準備を進めていた。
イリヤ・ツェランのこの聞かん坊な要求は、ここ一月余り何度も繰り広げられていた光景だった。
「またやってるな。あいつ」
「まさか出陣前にまで……。兵長、彼、どうしましょうか」
エーミールとイリヤの応酬に嘆息しながら言ったのは、特別作戦班、通称リヴァイ班のエルド・ジンとペトラ・ラルだった。風紀を乱すようなイリヤの行動に眉をひそめるエルドとは正反対に、ペトラは待機を命じられた彼の心持ちに同情しながら、彼女の敬愛する上司に問うた。
ペトラの呼びかけに、リヴァイはちらりとその騒ぎの中心にいるイリヤに視線をやったものの、まるで何事もなかったかのように、班員たちに作戦中の行動予定の確認を促した。
「リヴァイ兵長!!俺も、俺も調査に参加させてください!俺はこんなところで、」
「おい、お前!いい加減に!!」
エーミールの腕から逃れたイリヤが、地面に這いつくばりながら、その人類最強の男の外套にすがりつく。そのあまりに無礼な働きに、黙って見守っていたエルドも流石に声を荒げたが、リヴァイは特に気にする風でもなく、足元のイリヤに一瞥すら加えることなく言った。
「イリヤ。お前の上官は俺じゃない。お前の出陣の許可を出せる権限は俺にはない」
「そんな!!」
するりとイリヤの手を抜けて、その上官が身を引いた瞬間、悲しみに打ちひしがれるイリヤの腹を強烈な蹴りが襲った。
ぐぇ、ともんどりを打って倒れたイリヤが痛みに耐えながら顔をあげれば、そこには無表情ながらに怒りを宿した彼の上官が仁王立ちしていた。冷徹に澄まされた表情は、彼女の整った相貌に壮絶さを添えている。
「クシェル班長……!」
「イリヤ。問1。旧市街地での交戦中、背後より巨人三体が向かってくるのを確認。味方は存命五名。うち二名は重症。ガスも刃も残りわずか。この状況下での最善の行動は」
「一名につき一体を討伐目標に応戦します!」
「不正解!!」
上官の答えと共に頭に落とされた踵の衝撃に、イリヤが悶絶する。その姿に、周囲の兵士から失笑やら揶揄するような口笛やらが起こった。ここ数日繰り広げられているこの光景は、もはや調査兵団の中のひとつの余興にすらなっている。
うぅ、と涙をこらえて悶えるイリヤをエーミールが見兼ねて手を貸す。「リヴァイ兵長にまで迷惑かけるからこんなことになるんだ」とエーミールはその軽率さをいつも通りに諭す。そう。調査への出陣を許可されないことがわかってから、イリヤはその判断を下したクシェルだけではなく、リヴァイ兵長にも再三泣きついていた。
それは、普段温厚そうに微笑むクシェル副官が、実はかなり短気で怒らせると容赦なく手が出ること、そしてそれに反して粗暴で威圧感の強いリヴァイ兵長は、存外怒ることは少なく、暴力も少ないからだと気付いたからである。
絆す機会があるならば、リヴァイ兵長だ、とイリヤは思ったのだ。リヴァイ兵長が許可すれば、流石のクシェル副官も、その上官の判断に従わざるを得ないだろう、と。
しかし、未だその目論見は成功していない。
「死にたくないし、死なせたくないなんて馬鹿を言う兵士は連れて行かない。何度も言ってるだろ。お前は今日は内門待機だ。さっさと失せろ」
彼女の普段丁寧な口調が、怒ればぞんざいでそれこそ粗暴になるとイリヤが知ったのも、この数日である。
エーミールが、「今日は大人しくしとけ」と彼の肩を叩いてその場を去る。遠くでエルヴィン団長の声がした。それに応じるように、リヴァイ兵長やクシェル副官、そして他の分隊長たちも部下を連れ立つ。その上官たちの後ろ姿を見ながら、イリヤはぎりりと拳を握りしめた。
*****
「来たぞ!!調査兵団の主力部隊だ!!」
「エルヴィン団長!!巨人共を蹴散らしてください!!」
英雄の行軍に、いつもは静かな街がざわめきたつ。背中に双翼を背負った兵士たちが、馬で黙々と行軍するのを、トロスト区の住民たちは期待と羨望にあふれた視線で見送っていた。
シガンシナ区ではあり得なかった調査兵団への歓喜に満ちた送迎に、エレンたちは高まる興奮を抑えきれずに、人混みの最前列へと人を押しやって躍り出た。
行軍の先頭の金色の兵士は、調査兵団の団長の、エルヴィン・スミスだ。その背後の黒馬に乗る黒髪の兵士を見て、エレンは胸が踊った。
「オイ……見ろ!人類最強の兵士リヴァイ兵士長だ!!一人で一個旅団並みの戦力があるってよ!!」
後ろの幼馴染たちを振り返れば、普段と変わらない無感動なミカサはさておき、アルミンもその大きな空色の瞳に喜色を滲ませて英雄の凱旋に興奮していた。
「あ!!エレン!戦女神のクシェル副官もいるよ!!」
アルミンがリヴァイ兵長や分隊長の後ろについている斑らの馬の兵士を指差した。短い黒髪の女性兵士は、役職付きではないながら、そのシガンシナ区陥落の際の功績で良く知られる兵士の一人だ。
彼女の人並み以上の美しさもまた、その英雄譚に拍車をかけている。
「アルミンはほんと、あの女神様が好きだよな。俺は断然リヴァイ兵長だけど、」
「このクソ女神め!!」
やっぱり英雄と言えば、チートな強さを誇る兵長だろう、とエレンが幼馴染に言いかけたとき、彼らの隣でその「女神」を罵倒する声がした。
え、とエレンたちが振り返れば、そこには長身痩躯の男が突っ立っていた。兵団の上着は着ていないが、体をめぐらせているその立体機動のベルトは、紛れもなく兵士のものだ。何だ、と思った矢先、
「この英雄気取りの勘違い野郎め!今に見てろよ!!」
どこの所属の兵士か。とんでもない侮辱発言を大声でした彼に、思わずエレンは憤りを感じ、彼に掴みかかった。
「オイ、お前!なんてこと言うんだ!」
「エレン!!」
アルミンが止めようとしたとき、エレンの後ろでずっと黙っていたミカサが驚いたように「笑ってる」とぽつりと呟いた。そのミカサの呟きに、その視線の先の行軍へと目を向ければ、まるで笑いをこらえるように、その戦女神たる副官が肩を震わせている姿があった。戦女神は、ちらりとその黒い視線を罵倒を発した兵士へと向け、にやりと一笑した後、そのまま背中を見せて去っていった。
「笑った……」
頭上の呟きにエレンが顔をあげれば、罵倒を浴びせた兵士はその表情に喜色を浮かべている。わけがわからない、という風に不機嫌に首を傾げたのはエレンである。
「何だ?おい、お前、」
「放せ。訓練兵」
「何!?お前、あんな罵倒しておいて何様だ!!?」
調査兵団への悪口は己への悪口だ、とでも言わん限りに、目をぎらつかせて兵士に摑みかかるエレンに、アルミンは「エレン!ダメだよ!」と彼を背後から抑えにかかった。この幼馴染はかなり短気で血の気が荒い。
「エレン。今日は解散式。こんなところで問題を起こしては駄目」
冷静に言ったのはミカサである。ただ、残念ながら彼女の言葉は得てしてエレンの炎に油を注ぐことの方が多い。
「うるせぇ!だからってこんなこと言われて黙ってられるかよ!調査兵団は命を賭して戦ってるんだぞ!それをお前、勘違い野郎だと!!?」
「本人が言ってんだから、そうなんだろ」
エレンの腕を振り払いながら、その兵士は言った。栗色の短く切り込まれた頭を振りながら、エレンの突然の暴挙にも特に今のところ気を悪くしていないようだった。その兵士の言葉に勘付いたアルミンが、必死にエレンを抑え込む。ミカサの手を借りて、ようやく兵士からエレンを引き離したのを見て、アルミンは敬礼を贈った。
「先輩へのご無礼、申し訳ございません!」
「いや、いいよ。俺も悪かったな。っと。こんなことしてたらまた怒られるな」
兵士は、何故かにこやかに笑いながら、人混みをかきわけてその場をあっという間に去っていった。
行軍はまだ続いている。妙な兵士に、エレンたちは毒気を削がれたように、「何だあれ」と呟く以外になかった。
*****
「ほんっと、クシェルはあの子のこと甘やかすね」
行軍の最中、緊張感なく言ったのは、ハンジだった。彼女が後ろを振り返れば、まだその団長付きの副官である女性は笑いを堪えることに必死になっていた。クシェルの後ろで、呆れたようにため息をついているのはエーミールである。
「ありゃ懲罰もんだな。問題行動もいい加減見飽きてくるぜ」
ハンジの隣でリヴァイが舌打ちした。「だって、「英雄気取りの勘違い野郎」ってさ……」と彼の真後ろの馬上で、クシェルは笑っていた。
ーー英雄気取りの勘違い野郎。
それは、クシェルが好んで使用する調査兵団のあだ名である。罵倒にも聞こえるそれは、彼女のシガンシナ区陥落からのお気に入りである。
「ああ、笑った。面白かった。無事に戻れたら、イリヤにはとっておきの懲罰をくれてやろう。ああ、楽しみだなぁ」
「悪趣味め」
リヴァイの一言は、しかしクシェルの耳に拾われることはなかった。
「第56回壁外調査を開始する!!」
エルヴィンの行軍を率いる将たる声がこだまする。門扉が轟を上げながらゆっくりと外の世界への道を開けていく。
外の風が、開いていく門扉の隙間からひゅるりと吹きすさび、調査兵たちの首元を撫でていく。
さあ、出陣だ、と誰かの声が聞こえた気がした。
ハンジもいつもの能天気な笑みは引っ込めて、その先の景色を門扉越しに食い入るように見つめ、リヴァイはきり、とその手綱を握り直した。
「前進せよ!!」
その声に、馬の腹を蹴って彼らは壁の外へと放たれた。
第56回壁外調査の朝である。
それはつまり、トロスト区攻防の朝であった。
彼らが壁の外の死地へと向かったその数時間後、その門扉の中は地獄絵図へと化すことになる。
五年前の再来となるこの日。
イリヤ・ツェランは一度死んだ。