調査兵団の主力部隊は、旧市街地での交戦中、巨人たちが突然南に向かって歩き出したのを認めて、エルヴィン団長の指示で急きょ、トロスト区への道を引き返していた。
団長の予想通り、その壁にシガンシナ区に開けられたそれと同じ穴が開いているのを確認したときは、さすがの調査兵団の兵士たちも、大きな絶望に襲われた。
行軍の先頭を行く団長の後ろについていたクシェルもまた、五年前に襲われた街の様子をまざまざと思い起こしながら、こみ上げる激情を抑え込むように、馬の腹を蹴って速度を上げた。
早く。一刻も早く。
そんな思いを込めながら最速力で、門扉であったはずのその穴へと行軍が入ろうとしたその時だった。
「な!!?」
「なんだ!!?」
一瞬見えた巨人の姿。その次の瞬間に、穴が塞がれたのだ。行き場を失った馬が悲鳴をあげる。行軍は急停止を余儀なくされた。
「なんだ!?何があった?!駐屯兵が穴を塞いだのか!?」
「まさか!そんな技術ないはずでしょ!」
ハンジ分隊長とその部下が戸惑いの声をあげる。行軍全体が困惑に包まれ始めたとき、誰よりも早く反応して、その壁を一気に駆け上がったのは兵団随一の戦力を誇るリヴァイ兵長だった。
「皆、リヴァイ兵長に続け!今は何よりも街の中に侵入した巨人の討伐と住民の避難が最優先だ!!」
エルヴィン団長の素早い指示に、兵長のあとを追うように、緑の外套の影が一斉に壁を駆け上がっていく。
団長とともにその壁をあがったクシェルの視界に入ったのは、信じがたい光景だった。
「巨人!?」
彼女がその異様な光景を確認したのは、門扉付近の人間に誘われた巨人二体を、リヴァイ兵長が討伐し終えたところであった。
その門扉の穴には、トロスト区にあったと思われる大岩が。そしてその側にうずくまる、巨人の死体。
クシェルが門扉付近に降り立ったそこに、その巨人の死体を守るよう駐屯兵と数人の訓練兵があった。
「リヴァイ」
「……エルヴィン。この巨人が……いや、このガキが穴を塞いだらしい……」
巨人の臭気があたりに立ち込める中で、その両手の巨人の血を拭うことすらせず、リヴァイが困惑気味に舌打ちしながら言った。
「え?巨人が?」
消えつつある巨人の足元で、三人のまだ若い訓練兵がリヴァイとエルヴィンを見つめていた。クシェルは全くその報告の意図がつかめず、ただエルヴィン団長の後ろに付き随うだけである。ふと見れば、彼らのそばにいた小柄な眼鏡の駐屯兵が、
「穴は塞ぎました。あとは、駐屯兵の救援と、巨人の討伐です」
と、視線を街中へと向ける。その視線の先には、巨人と応戦する駐屯兵の姿があった。よくよく見れば、そこいらは駐屯兵のものと思わしき死体と血で溢れかえっている。
その報告を聞いて、エルヴィン団長はすぐさま、壁を越えてきた調査兵たちに駐屯兵の援護を命じた。うち数人の兵士が、帰還の報告と状況把握のために、内門方向にいるであろう司令部へと飛んでいく。
クシェルはもう一度、振り返って大岩を運んだと思われる巨人の死体を見上げた。
15メートル級ほどの何の変哲も無い巨人の死体に見える。少しずつ蒸発しているようで、蒸気と臭気が凄まじい。
ふと見れば、巨人の死体の足元にいる訓練兵の一人は、装置もつけていない。その姿から、わずかに蒸気が放出されている。
「このガキが巨人になってやったらしい」
「彼が?」
巨人に?人間が巨人になったというのか?とクシェルはその黒い瞳を大きく見開いた。
否。
可能性は考慮できたはずだ。
五年前の襲来。
超大型巨人。鎧の巨人。門扉を狙ったように破った巨人。壁の外からやってきた異形の巨人たち。
そして、巨人になった少年。
「クシェル。今は考え事をすべきときではない。君も駐屯兵の援護に回れ!」
は、と見上げた先で、彼女の考えを見透かしたような青い瞳があった。エルヴィンのその指示に我に返ったクシェルは、彼女の近くにいた部下のエーミールを伴って、その場を離れた。
「クシェル班長。これは、」
「エーミール。団長の言う通り、考えるのはあとだ。っと」
門扉近くに群がっていた巨人に、先に援護に回った調査兵たちが交戦している。視界の隅で、常人離れした速さで飛ぶ黒い影が、さらに巨人をそぎ落としていく姿をとらえながら、彼女は周囲の状況を走りながら確認する。
人類最強とされるリヴァイ兵長をはじめとする調査兵の加勢に、駐屯兵たちが歓声を上げていた。
駐屯兵たちは平地での交戦に苦戦していたのだろう。常に平地での戦闘を考慮に入れている調査兵たちは、白いガスを幾重にも吹かしながら、巨人どものうなじを次々に削いでいく。
歓声をあげながら建物の近くまで退避して、立体機動で高所へと避難する駐屯兵たちのなかで、地面を負傷兵をそれぞれ背負って歩く駐屯兵二名を見つけて、クシェルは声をかけた。
「大丈夫か。壁まで飛べるか」
「ああ。大丈夫だ。あんたたち、調査兵か……」
助かった、と周囲の兵士たちが喜色を浮かべて壁や建物の上へと避難していく中、クシェルとエーミールの兵服を見て、バツの悪そうにその駐屯兵たちは言葉を濁した。それにクシェルが首を傾げれば、
「イリヤ・ツェランを知ってるか。彼が俺たちを指揮してくれたんだ」
「イリヤは私の部下だ」
「すまない……。彼が、囮になってくれた。だから、俺たちは助かった」
彼女の部下の名を呼んで、彼ら生き残った駐屯兵たちは、顔を青くしたまま視線を落とした。
「クシェル班長!ちょっと、待ってくださいよ!……副官!!」
エーミールの制止を聞かず、駐屯兵の援護にも回らずに、彼女はその部下を探していた。駐屯兵たちの言っていたあたり。建物の間を飛び回りながら、散らばる死体に近づいてはその顔を確認する。
必死に飛び回る上官に、エーミールは「命令違反ですよ!」と声を荒げたが、彼女はその声に耳を傾けるそぶりすらせずに、急に小さな路地の間でスピードを落とした。
彼女は、その見慣れた顔を、建物の陰になっている場所で見つけて地面に降り立った。近くには、巨人の気配はない。
「イリヤ……」
そこには、巨人どもが食い散らかした人間の残骸があった。
長身痩躯であったはずの彼の下半身がまるっきり欠損した死体だった。しかしその顔は全く傷がついておらず、まだ血の気もひいておらず、顔だけ見れば寝こけているような静かな顔である。
残された上半身にくっついている両手に、しかと握られた刃が、彼の武勇を伝える唯一だった。
「副官……」
「……静かな表情だ。戦っていたとは思えないな」
彼が出したのだろう、その血だまりの中に躊躇いなく膝をついて、彼女はその部下の少年の顔を撫でた。まだ、少し暖かい。それは、ほんの少し前に彼が絶命したことを証明していた。
ぎり、と唇を噛み締めた彼女に、部下のエーミールは、「行きましょう。遺体の回収はあとです」と肩に触れる。しかし、彼女は全く動かない。
いつもいつも、絶対にエーミールの言うことを聞こうとしない彼女に、さすがのエーミールも業を煮やして、震える声で再度彼女の名を呼んだ。
「死体に構うなといつも言ってるのはアンタでしょう!?」
そう言って、エーミールが彼女を後ろから抱えて立ち上がらせようとしたとき、ようやくクシェルが彼の名を呼んで答えた。
「エーミール……。これは……何?」
クシェルの黒い瞳が、これでもかというくらい驚きに見開かれている。
「こ、これは……!!」
下半身が欠損したその死体。
その部下の死体から、大量の蒸気が突然放出しだした。その蒸気と、鼻をつくような腐ったような臭気は、巨人のそれと同じ。
クシェルとエーミールが言葉を失ってその死体を見つめる中、それは蒸気を放出しながら、みるみるうちに「元の姿」へと戻っていった。
血だまりの中、ちりりと焼けるような熱さを発しながら、死体の下半身が生まれてくる。それこそ、本当に、文字通り生まれて、再生されていったのだ。
「ぅ……、」
彼女たちがあまりの驚きに固まっている中、その死体はあっという間にもとの欠損なき完全な人型へと戻っていき、声を発した。
「イリヤ?!」
「ぅ……ク、シェ……」
それはもう、死体ではなかった。
クシェルは慌てて、その部下の手を取る。両手で握れば、わずかに握り返してきた力があった。
「どうして……?」
困惑に思考が止まる。しかし、その両手にしっかりと握りしめた少年の手からは、確かに生きる者の脈動が伝わってきた。
その血潮の動きに、暖かさに、クシェルの頬を一筋の涙が伝った。
それは、トロスト区攻防の終わり。
巨人化した少年とは別に、突如として現れた、世界の謎のひとつだった。