一
あれから、すでに三日が経過していた。
それにもかかわらず、未だエレン・イェーガーの処遇は決定していない。
地下牢へと続く長い廊下を歩きながら、リヴァイは見張りの憲兵団へと目配せしながら、中央の連中は仕事が遅い、とひとりごちた。
「面会時間は一時間。面会許可がおりているのはエルヴィン団長とリヴァイ兵長だけです。私は外で待機していますので、何かありましたらお声掛けください」
並んで歩くリヴァイとエルヴィンの後ろで、団長付きの副官である女性が書類を片手に報告する。
「エレン・イェーガーの様子は」
「意識はまだありませんが、呼吸、心音ともに正常だそうです。作戦時に負ったと思われる擦傷などの外傷も全て三日前に跡形もなく完治しています。もういつ目が覚めてもおかしくないようです」
「たった1日で全ての外傷が完治したというのは事実か」
「事実です。それどころか訓練兵、アルミン・アルレルトの証言によれば、身体欠損ですら完治しているということなので、巨人同様の再生能力を有していると考えられます。それが巨人時に限る能力なのか、人間態でも起こりうるものなのかはまだ検証されていません。ですが……例の件もふまえると、おそらくは後者かとハンジ分隊長は推測されています」
団長の言葉少なな質問に対して、淀みなく答える副官にリヴァイがちらりと視線をやれば、感情の読み取りづらい無表情がそこにあった。
トロスト区の壁に穴が開けられたあの日から、壁内へと侵入した巨人の掃討、死体の身元確認などの残務処理に追われた調査兵団である。リヴァイもまた、寝る間も惜しんで奔走していた故か、その副官の顔を見るのはかなり久方ぶりのような気がした。
「リヴァイ兵長。何か」
斜め後ろを歩く彼女が、リヴァイの視線に気づいて声をかけてきた。よそよそしい対応だ、とリヴァイは思う。
まあ、ここが中央の審議所の地下であること、周囲には数人の憲兵がいることもあり、当然の対応ではある。だが、この女のすかした猫かぶりな態度は、リヴァイにとってはあまり好ましいものではなかった。彼女が、気心知れた者の前で見せる人懐っこい笑顔や、獰猛さを孕んだ瞳は、こうした任務のときにはすっかり鳴りをひそめてしまう。
「お前はどうだ。巨人化したガキと行方不明のその親父。そして巨人の謎があるという地下室。どう考える」
情報を共有しているとは言え、分隊長や兵士長のような発言権はない副官の彼女に、先ほどの会議での案件について問う。
「エルヴィン団長と同じです。それこそ、人類の勝利のためのカギになると思います」
「そうじゃねえ。お前は何を考えてるのか聞いてんだ。壁に穴が開けられて人類存亡の危機ってときに、お前、あれからやけに楽しそうじゃねえか。それともそれは俺の見間違いか?」
瞬いた黒い瞳が、一瞬、ぎらりと確かな熱量をもって輝いたのを見逃すリヴァイではない。ここ数日、リヴァイが彼女の姿を見かけなかったのは、彼女が仕事を放棄して自室に閉じこもって何やら調べ物をしていたからだ。そして久方ぶりに今朝姿を見せた彼女は、攻防の後の残務処理で披露しきっている兵士を前に、やけに晴れ晴れとした顔をしていた。
他の者ならわからぬかもしれないが、リヴァイにはそれとわかるほど、彼女は機嫌が良さそうだった。
このクソみてぇな状況下で、何を考えてやがる。
そのご機嫌な表情に、舌打ちをこらえたのはつい先ほどのことである。
「リヴァイ」
しかし、彼女が何やら答える前に水をさしたのは、隣でずっと黙って歩いていたエルヴィンであった。
「もう着く。無駄話は後にしろ」
有無を言わさぬ冷たい声と、リヴァイにちらりとも視線をよこさないその男の態度に、リヴァイは本日何度目かの舌打ちをこらえながら、黙して従った。
前を見れば、牢へと続く扉の前で憲兵が敬礼をしていた。
「お疲れ様です。エルヴィン団長、リヴァイ兵士長」
「ああ。申請していたエレン・イェーガーとの面会だ」
「存じております。準備が整うまで、あと少しお待ちください」
憲兵はまだ若く、実直そうな見目の男だった。彼は好奇心に満ちたような瞳を扉の前で立つ調査兵団団長と兵士長へと注ぎ、「調査兵団は死亡者は出なかったんですね」と話しかけてきた。一兵卒のくせに態度がなっていない、とリヴァイは見咎めようとしたが、エルヴィンは待ち時間の暇つぶしだと言わんばかりに、適当にそれに答えた。
「トロスト区内で死亡したのは一名だけだった。もちろん、壁外で死亡した者は多数いるが」
「一名?出撃した調査兵の中から、死亡者はいなかったとお聞きしていますが」
「出撃した者は、な。彼女の部下が一人死んだ」
エルヴィンが背後に控えていた副官のクシェルに視線をやる。その若い憲兵が不思議そうに首をかしげたのに対して、副官は、
「死亡は確認していません。行方不明です」
と抑揚ない声で反論した。
「あの日、壁内での待機命令を下していた兵士が一人。駐屯兵と協働してトロスト区奪還作戦に参加した後、行方不明となりました」
「死体が見つかってねえなら、十中八九跡形もなく食われたんだろうよ」
リヴァイが言えば、憲兵はなるほど、と頷いた。
「ちなみに、その勇敢な兵士の名前は?」
「イリヤ・ツェラン調査兵です」
副官の声と同時に、牢へと続く扉が内側から音を開けて開いた。
「お入りください」
中から少し年のいった憲兵が彼らを呼ぶ。扉の外の若い兵士は、無駄口を慌てて塞いで背筋を伸ばした。
エルヴィンに続いてリヴァイが牢の中に入る。ちらりと振り返れば、閉まる扉の隙間に一瞬、副官の女のぎらついた眼と視線があった。
******
ちりりと焼けるような微かな痛みと、風呂のお湯のような温かな感覚を感じ、イリヤ・ツェランは夢心地からゆっくりと浮上するように目を開けた。
ぼやけた視界と、呆けた思考でまず認識したのは、目の前の茶色い塊である。それが何やら生暖かい呼吸をしていて、ああ、犬でも自分の上に乗っているのか、と瞬きしながら思った。
犬でも、と思ったのは、それの息遣いがやけに荒かったからである。
そして次に認識したのは、犬にしては大きな瞳と、それとイリヤの間を隔てるガラスの存在である。
きらりとガラスが反射して、ぬらぬらと輝いていた瞳が隠れる。
「あぁ。イリヤ。起きたかい?どう?気分は?何か感じない?痛みは?暑さは?それとも今から巨人化できたりしちゃう?」
「ふぁっっ!!!」
顔のすぐ前にあった「犬」と思わしきそれの正体に気づいたイリヤは、一気に覚醒して思わず寝たまま後ずさった。
「ハ、は、ハ、ハン、」
「なに?ハン?ハ?何何?」
後ずさった彼にさらに迫ってきたのは、見間違えようもない。第四分隊の分隊長、ハンジ・ゾエその人だった。
しかしいつもの温厚そうな笑顔ではなく、今目の前にいる彼女は、鼻息荒く、瞳孔を開ききった瞳で、イリヤを見つめていた。興奮して開けられた口から、だらりと一筋よだれが垂れたのを見て、イリヤは「あ、食われる」と命の危険を感じた。
「ハンジ分隊長!こら。私の部下が怖がってるじゃないですか。下がって。抑えて」
「あぁぁああぁぁぁ、クシェル。でもこれ見てよ。こんな奇跡を目の当たりにして冷静にいられるかい?いや、いられないよ!!これは人類の奇跡だ!!」
ぐい、と迫ってきたハンジを抑えたのは、彼の上官のクシェル副官だった。その彼女と、目の前で息を荒くして興奮している分隊長の視線を追って、イリヤはひい、と心臓を冷やして小さく叫んだ。
「なんですか!?これは!!??」
ベッドの上で寝ている自分の左腕から、白い蒸気がもうもうと上がっている。先程から感じていた温かな感覚はこの蒸気の故だったのだ、と気づいてイリヤは混乱した。
その蒸気は、巨人が上げるそれに酷似していたのだ。その臭いも、巨人のそれと一緒のようである。
「ああ、イリヤ。怖がらないで。順を追って話すからさ。まずはこれ、ごめんね。あなたの再生能力を検証するために、ちょっと腕をナイフで切らせてもらったんだ」
「再生能力?ナイフで?」
「あぁ!心配しないで!黙って君の腕を切ることはさすがに悪いと思ってね。君の上官の許可をもらってから切ったから大丈夫。安心してくれ」
「はぁ!??」
わけがわからない。分隊長は変人で、その思考回路は一切理解できないと思っていたが、その発言の全てが理解できないのはこれが初めてだ、とイリヤはさらに混乱した。左腕から上がる蒸気は少しずつ量を減らしている。見れば、「ナイフで切った」という傷は、どこにも見当たらなかった。
「ハンジ分隊長。さらに混乱してますよ。イリヤ、悪かったね。あなたは壁に穴が開けられてから、数日間眠ったままだったんだ。少しずつ話すから。その前にまずはしっかり水分と栄養を補給してくれ」
ハンジ分隊長のひとつでまとめた髪を無造作に引っ張って、後ろに彼女を後退させた副官に、分隊長は「ぎゃあ」と何やら奇声を発している。まるで上官と部下の関係性には見えない彼女たちは、確か古い友人のような関係なのだ、と以前教えてくれたリヴァイ兵長の声を思い出す。
直属の上官であるクシェル副官の、労わるような声音に少し安心して、イリヤが半身を起こしたとき、勢いよく後頭部を鷲掴みにされた。
「はい。なかなか自分でも水も飲めないだろ。少しずつ飲むんだよ」
無理やり口を開けさせ、そこからコップに入った水を押し流してきた副官に、イリヤは殺意を覚えながら、それを必死で飲み干した。
*****
「以上だ。だいたいの状況は把握できたかな?」
「……はい」
クシェル副官と、ハンジ分隊長の説明を一通り聞いて、イリヤは力なく頷いた。
「壁の穴を塞ぐ作戦は成功。それから今は一週間近く経過していて……。俺は作戦中に一度死亡。しかし再生して、蘇生したと」
「そう。蘇生したと言っても、全く目を覚まさなかったから仮死状態のようなものだったのかもしれないけどね。今見るに、栄養失調にもなっていないし、全く健康状態は問題なさそうだ。体調も問題ないだろう?」
「はい。特に……」
ハンジ分隊長は、彼の左腕を手にとって、「再生能力は確かだ。さっきの傷もすっかり治ってる」と、今はもう蒸気も発していないその腕をまじまじと見つめて言った。
「……イリヤ。あなた自身は、この現象に心当たりはないんだね?」
問うてきたのはクシェルである。ハンジの後ろで腕組みをしている彼女は、イリヤが頷いたのを確認して、大きなため息をひとつ漏らした。
「謎は謎のまま、か。エレン・イェーガーの件といい、分からないことだらけだね」
「それでもエルヴィンの言う通り、これは人類の奇跡であり、勝利への第一歩だよ!イリヤやエレンの体を徹底的に調べ上げれば、何か巨人の謎に迫る手がかりがつかめるかもしれない!!ねえ、イリヤもそう思うでしょ!!協力してくれるよね?!!」
「………………それが、人類の前進に繋がるのならば何なりと」
心臓を捧げる敬礼をして、歓喜にむせびく分隊長に答える。調査兵にあるまじき躊躇いは、ハンジ分隊長には気づかれなかったようである。しかしちらりと視線を上げて副官を見れば、彼女の方はイリヤの逡巡に気づいたようで、呆れたような表情をして口を開いた。
「……あなたが巨人に応戦したときの状況を報告書で確認した」
「あ、そうですか……」
「後方から巨人三体が接近。負傷兵二名と部下二名がいるなか、あなたは一人で巨人の囮になった」
「そ、そうです。調査前に出された問題と同じ状況でした。……問題の答えで、俺は三人で応戦すると言いましたが、それは「不正解」だと副官が仰ったので……とっさに、判断しました」
恐る恐る答える。彼女のもとについてからというもの、何度も巨人応対時の判断を問われていたが、今まで一度もイリヤは正解をもらえていない。
「……命の数だ」
クシェル副官が言った。窓から差し込む斜陽に、黒い瞳がしっかりとイリヤを見据えて輝いていた。
「巨人との遭遇時は、自分を含めた全員の命の数を考えるんだ。どう動けば死ぬ人間は少なくて済むか。……エルヴィン団長はいつもそう判断している。イリヤ。あなたの判断は間違っていない。自分の命を切り捨てることで、他の四名の命が助かった。数としては圧倒的に「正しい」判断だ」
「正しい」と言われて、イリヤはほっと安心して息を吐いた。
「でも、それは結果論だ。あなたが言ったように、巨人と応戦した方が助かる命が多い場合もあるかもしれない。あなたが囮になったとしても、全員死ぬこともあるかもしれない。全ては予想できない。本当は、答えなんてないんだ」
それでも。と彼女は言う。
「それでも、判断するときは必ず命の数を数えろ。誰一人死なせず、自分も死なないなんて選択肢は滅多にない。死にたくないし、死なせたくないなんて、通用しない。よくわかっただろ?」
あのトロスト区での攻防。一体、何人の命が散ったのか。自分はその作戦に参加して、一体誰を守れたというのか。精鋭班の大半は、あっけなく戦死したのだ。
否応ない不条理を思い起こし、イリヤが頷こうとしたとき、副官が一転して軽い口調で言った。
「ま、今のあなたなら、そんな無茶な願望ももしかしたら叶えられるのかもしれないけどね」
「え?」
「確証はないけど、あなたは不死に近い能力があると考えていいだろう。巨人と同じく、急所を狙わない限りは再生し続ける能力だ。あなたは死なない兵士。そんな兵士を、今までと同じように遊ばせておくと思う?あのエルヴィン団長が」
少し自嘲気味に笑って、クシェル副官が言った。意味がわからずハンジ分隊長に視線をやれば、彼女の方は神妙な顔をしてイリヤを見つめるばかりである。
何を、と問おうとしたとき。
不意に、扉を叩く音が聞こえた。ハンジ分隊長の応答の後、扉が開いて、そこからリヴァイ兵長が顔を出した。
「起きたか、イリヤ」
低い、不機嫌そうな声はいつもの兵長だ。鋭い三白眼に、部屋の空気がぴりりとこわばったような気がした。
「許可が下りたぞ。クシェルとイリヤ。お前らは明日から俺の班と同行して、古城待機だ」
わかりました、と頷く副官と、なるほど、と得心したように頷く分隊長。わけがわからないのはイリヤだけなようである。彼が目を瞬かせていると、兵長がその鋭い瞳で睨みつけるように言い放った。
「イリヤ。お前は明日からエレンの護衛だ。何度死んでもあのガキを守れ」
「え、は、え?」
「エレンが人類の矛なら、お前は盾だ。駐屯兵団や憲兵団には行方不明で報告しておいたからな。お前はもう死んだことになっている。これでお前は心置き無く何度でも死ねるってわけだ」
ツカツカと踵を鳴らしてリヴァイ兵長はベッドのそばまで来て、冷たい視線でイリヤを容赦なく見下ろした。
「せいぜい、本当に死んじまわねぇようにうまく死ねよ。イリヤ」