エレンがふと目を開ければ、まず視界に入ったのは古びた石造りの天井だった。眠っていたのか、と記憶をたどりながら首を動かせば、ベッドの側で椅子に座ってうたた寝をする男が目に入った。
白いカーテンが、風に吹かれてふわふわと揺れている。
その風は、男の淡い栗色の髪もかすかに揺らしていた。兵士らしく、清潔に刈り上げられた短い髪の色は、夢うつつで見たような既視感がある。
「おい、イリヤ」
エレンは半身を起こしながら、うたた寝をしている兵士の名を呼んだ。ぱちり、とその兵士、イリヤは目を開けて、ひとつふたつその髪と同じ色の瞳を瞬いて、エレンを見て辛辣に言った。
「よう、起きたかバケモノめ」
「そりゃこっちの台詞だ。このバケモノ」
売られた喧嘩は根こそぎ買う。否、むしろ売られていない喧嘩も器用に買うのがエレンである。イリヤに告げられた言葉に、ほぼ間髪入れずに言い返した。
しかしイリヤは特に怒るそぶりも見せずに、むしろ少しだけ口角を上げて頬をさすっただけだった。
「悪い……イリヤ」
「何が」
「いや……」
ぼんやりとした頭を振って、エレンは記憶を辿る。先ほど見せられたあのイリヤの再生能力。あれを見て驚きに声を失ったところまでは覚えていた。そのあと、耐えられないような頭痛に襲われて。
その後のことはほとんど記憶にない。
ふと窓の外を見れば、世界が少しだけ褐色に色づき始めていた。倒れてからそれほど時間は経っていないようである。
「大丈夫か」
呆けていたエレンに、イリヤが無愛想な表情で聞いてきた。先ほど、彼が目の前で切りつけた左手のひらはすっかり綺麗に元どおりである。
――バケモノだ。
エレンは思った。傷を再生させるなど、そして体の半分を食われていながら蘇生するなど、最早人間ではない。それはもう、バケモノだ。
そう思った瞬間、エレンの胸の底で何かがじわりとにじみ出てきた。
「お前は巨人化できないのか」
「……ああ。何度か試したが、ダメだった」
「巨人化しねえのに、巨人みたいに再生できんのかよ」
「……バケモノだからだろ」
言ったイリヤが、ふいとエレンの視線から逃げるように顔をそらした。エレンは再度、「悪い」と買った喧嘩を、丁寧に丸めて送り返した。
「正直、俺は嬉しい。バケモノが俺一人じゃなくて」
「俺は嬉しくねえよ。第一、俺は巨人化しねえ。お前とは違う」
「まあ……、まあ、そうだよな。……巨人は、人類の敵だ。……一匹残らず、駆逐しねえと……そのためには、この力を……」
「…………」
二人の間に落ちた沈黙が、重苦しく部屋に充満する。エレンはその右拳を口に近づけ、何やらぶつぶつと不穏な発言を繰り返していた。イリヤはそれを頬杖をつきながら、興味なさそうに見つめている。
「お前さ、何でそんなに巨人を駆逐したいんだよ」
イリヤの問いかけに、エレンは一瞬、何を聞かれているのかわからなかった。何を分かりきったことを、とその大きな瞳を瞬かせた。
「そんなの……あいつらが害虫だからだろ?」
「………………いや、それは、まあ、」
「なんだよ。それ以外になんか理由でもあるってのかよ」
「いや、そういうことじゃなくて……違うな、えぇっと……」
エレンはイリヤの歯切れの悪い応えに眉をひそめた。
「一匹残らず?」
「当たり前だろ。何だよさっきから」
イリヤは何か得心がいかないのか、首をひねったまま唸っている。
「もしかして、お前あれか?巨人が人の形をしてるからちょっと可哀想とか、そういうこと、」
「そんなわけねえだろ!?俺は一年調査兵団やってんだぞ!?」
「……悪かったよ」
突然声を荒げたイリヤに、思わずびっくりしてエレンは反射的に謝った。
「巨人がいなくなれば人類は喰われなくてすむし、壁の外にもいつでも行けるようになる。何が問題なんだよ。害虫以外の何者でもねえだろ、巨人なんて。なんか間違ってるか?」
「……いや、間違ってない。間違ってないが、お前、あれだろ。変だって言われねぇか?」
「は?何がだよ」
エレンはさらに首をひねった。
「……そんなに巨人にこだわるのは、やっぱり母親が原因なのか?」
唐突なその問いかけに、ひゅ、と一瞬息が詰まるような苦しさに襲われる。胸に去来する激情を押さえ込みながら、エレンはイリヤを見た。彼は、自分のその目が獰猛に見開かれていることを知らない。イリヤは、その視線に少し驚きながらも、「そうか」と頷いた。
「そんなもんかね」
「……お前は、あれを見てねぇから言えるんだ」
「別に親が殺されたからって、必ず巨人をぶっ殺したくなるとは限らねえだろ?」
「そんな奴がいるとして、俺はそいつの気持ちが全く分からん。理解できん」
イリヤは、ふうん、と興味なさそうに視線をそらした。
「不幸自慢するわけじゃないけど、俺だって巨人に母親を殺されてるが……。別に、巨人を殺したいと思ったことないけどな」
「はあ!?」
「巨人に憎悪なんて……それほど、な。俺にとっちゃ、お前の気持ちが理解できねえ」
「は?お前、調査兵やってて巨人をぶっ殺したいとも思わねえのかよ!?」
「そりゃ、奴らを前にして戦わないなんておかしな話だと思うけど。……だからってお前ほど殺したくて仕方ないなんて思ったことないからな……」
「じゃあ、なんでお前は調査兵やってんだよ!?」
驚いて声を張り上げたエレンに、イリヤはまるで子供のようにきょとん、と目を丸めた。
「母親を殺されて、仲間を殺されて、自由を奪われて!なんでお前は巨人を憎まずにいられるんだよ!?お前は何のために調査兵団にいるんだ?!」
「…………そういえば、どうしてだったっけ」
「はあ!!!?」
平行線を辿るイリヤとの会話に、心底わけがわからん、とエレンは首をひねった。どうにもこの一年上級の先輩とは話が合いそうにない。
イリヤとの会話に、エレンが疲れてひとつため息をついたとき、ノック音がして扉からペトラが顔をひょこりと顔を出した。
「エレン!起きたんだね!どう?夕食ができたけど、食堂まで来れそう?」
「はい。もう大丈夫です」
「じゃあ行こう。イリヤ。兵長たち呼んできてくれる?」
「わかりました」
エレンはベッドから立ち上がり、まだ椅子に座ったままのイリヤを見下ろした。
イリヤの淡い栗色の瞳と視線が交錯する。
――どうして。僕の……。
まだ幼い少年の栗色の瞳が、一瞬、エレンの脳裏をよぎった。
赤い、血にまみれた人間のようなものが、瞬きの間にまぶたの裏に映る。
「エレン?」
は、と我に返ったエレンを、イリヤの栗色の瞳がいぶかしむように見上げていた。
「どうした?」
「…………いや?何も?」
******
――何のために調査兵団にいるんだ。
つい先ほどの、エレンの問いかけがやけに耳の奥でこだまして離れない。改めて問われれば、その理由はよくわからない、とイリヤはため息をついた。
古城の廊下を、中庭の馬小屋へと進みながら、昨年の解散式のことを思う。
イリヤは103期訓練兵団を首席で卒業した優秀な人材である。憲兵団への入団権を確保した彼は、迷うことなく調査兵団を志願した。
それは単に、シーナ内地の屋敷から一番遠い場所を選んだだけのことだったように思う。
「…………し……だ」
悶々としながら中庭へと出た瞬間、女の声が耳に入って、イリヤは思わず壁の陰に身を隠した。その女の声はよく見知ったものだった。だが、それは聞いたこともないほど沈痛な響きをしており、まるで知らない人の声のようで、反射的にイリヤは息をひそめてしまった。
「……心配しなくても……私は兵士だ」
「ならいい」
女の声に応えたのは、聞きなれた兵士長のものだ。女の声に反し、その男の声はいつものように落ち着いた響きをしていた。
イリヤはちらりと彼らの声の方向が見えるように、体の位置をずらした。まるで盗み見るような姿勢に少しのためらいを感じながらも、どうにも女の声の沈痛な響きが気になった。
いつも冷静で、どこか朗らかさを保ったまま話す女性だったと思っていた。叱るときも、真面目なときも、淀みのない冷静さを崩さない印象があった。だが、今イリヤの耳に届いているそれは、まるで少女のように感情をあらわに、しかし静かに揺れる声だった。
「心臓を公に捧げる意味を忘れたわけじゃないよ」
「当然だ。忘れてもらっちゃ困る」
リヴァイ兵長の声は常と変わらないように聞こえる。いつもの、低く起伏の乏しい落ち着いたそれだ。
「クシェル……。お前が壁の外の記憶を取り戻したのなら、それがどんな些細なことであっても俺かエルヴィンに話せ。何度も言うようだが、俺たちはお前が壁の外から来たことは疑っちゃいねえんだ」
「……わかってるよ。あなたたちの信頼は裏切らない」
壁の外。
壁の外の世界。壁の外から来たという女。
いつかの夜。シーナの貴族の屋敷で女が告げたことをイリヤは思い出した。あれは冗談だったのではないのか。だが、調査兵団の希望である兵士長は、冗談を滅多に言わない男でもある。
「本部に一旦戻るのは許可するが……。くれぐれも勝手なことはするなよ。お前はいつも独断専行しがちだ。戻ったら必ずエルヴィンにまず報告しろ。エーミールのやつを付けたいが、イリヤを見る奴がいなくなるのも困る。いいな。勝手な真似はするなよ」
「リヴァイ」
「第一お前は、俺たちに信頼しろと言う割に、俺たちを信頼しているようには思えん。一体何年、お前みたいな猫かぶりと付き合ってると思ってる。今更何を言われようと、俺やエルヴィンが、」
「リヴァイ」
やけに冗長に話している兵長に、クシェル副官は言葉少なに、彼の名を呼んだ。その声が、優しく丸い弧を描いて、イリヤの耳にまではっきりと届いた。
「……不安にさせてごめん。大丈夫だ。本当に。……大丈夫」
盗み見ているその視線の先で、副官の役を担う女が、兵士長の肩に手を伸ばして何度も頷くのが見えた。彼女はイリヤに背を向けていてその表情は見えないものの、泣き笑うような、そんな声の響きをしていた。
その女の言葉に、ひとつ頷いた兵長の表情を見て、イリヤは思わず目を逸らして、その場からそそくさと逃げた。
鼓動が早鐘のように打っているのを隠しながら、イリヤは足早に廊下を戻る。
見てはいけないものを見てしまった。
そんな思いに駆られ、イリヤは顔を何度もさすった。
「兵長も、あんな顔、するんだな……」
なんとも形容しがたい、まるで怒っているような、不安を隠しているような、心配しているような、そして慈しんでいるような。
そんな表情を、あの兵長が。
「……壁の外……」
この世界には大きな謎がある。エレンや自分の体がそのひとつであることは確かだと思っていたが、イリヤにはまだ知らない謎が多くある。彼が身を置く調査兵団にも、その謎のひとつはあるのだ。
団長付きの副官クシェル。
壁の外から来たと自称する女。
その正体と目的。
それは、最も短にあり、そして最も壁の外の世界に近しい謎である。
そのことに、初めてイリヤは気づいた。
それは古城待機一日目の夕刻のことである。
その日の夕刻、彼の上官であるクシェル副官は単身、何かの用事で本部へと戻った。ちょうど、トロスト区で捕獲した二体の巨人の実験を終えて、ハンジ分隊長が単身で古城へと向かっていたのと入れ違いになるようなタイミングであった。
本部で二体の巨人が殺害されたのは、その数時間後の朝方のことであった。