一
「二人とももう休んだよ。あなたももう休んでくれ」
広間へ戻ってみれば、まだその場にいた男に、ハンジはうんざりしたように言った。世界の終わりのような、辛気臭い顔に青みが差しているような気がするのは、蝋燭の炎しかないからだろうか。
「…………」
その太く骨ばった指が、空のカップの縁を手持ち無沙汰になぞっている。彼はハンジに一瞥を加えて何か言おうとしたが、その開けられた口からは何の音も形にならなかった。
存外おしゃべりな男なのに、こんな大切なときばかりはその口下手に磨きがかかるのだ。相変わらず不器用なことこの上ない。
「イリヤもだいぶ落ち着いたみたいだ。……念のため、今日は地下牢で休んでもらってる」
「……クシェルはどうだ」
「いつもどおりに見えるけどね。彼女の思惑通り、エルヴィンがイリヤの退団、もしくはクシェル班からの除名を許せば、あなたへの機嫌も直るんじゃない?」
スラックスのポケットに無造作に突っ込んだ使用済みのガーゼを机の上に放り投げながら、ハンジはぞんざいに言った。手元の救急箱の中身を片付けながら、少し血のついたガーゼを数枚、処分するためにまとめていく。
わずかな炎の光に、赤い血が色濃く存在感を示している。それは、クシェルの血である。その血を流させたリヴァイは、ガーゼを見ながら黙したまま、椅子に座って、カップの縁をなぞるのみである。
所在無さげな旧友の珍しい姿に、ハンジはとうとう根を上げて彼の向かいに座った。
「はいはい。わかったよ。なんだい?私でよければ何でも聞くよ。人類最強のグチなんて滅多に聞けないからね。喜んで拝聴しよう」
「巨人なんて捕獲してやれねぇぞ」
「なんだよ、せっかくの人の好意を!無償で聞いてやるって言ってんだよ。私たちの仲だろう?」
そりゃあ、もしお礼に巨人を捕獲してくれるというなら、次は5メートル級を三体くらいは欲しいもんだけど、と言えば、苛立ったような舌打ちが返ってくる。ようやく、いつもの傍若無人っぷりな態度が戻りつつある、とハンジは笑って続きを促した。
「結局、あいつの思うようになったってわけか?」
「……さあ。エルヴィンがどう判断するだろうね。イリヤの能力は調査兵団としても手放しがたい。彼の思惑がどこにあるのかわからないとはいえ、彼が「心臓を公に捧げる」兵士であることを自ら辞めない限り、エレンの盾として利用するのが得策だろうからね。クシェルの要望通り、除名が通るかどうかは怪しいね」
リヴァイに引きずられて、イリヤとクシェルが、ハンジや特別作戦班が待機していた古城へと戻ってきたのは、ちょうど夕飯が終わった頃だった。
クシェルは完全に気を失っており、その左頬から血が出ていた。夜半にかけてひどく腫れあがるだろうことは、一見してすぐわかった。対するイリヤは無傷であったものの、その表情はひどく暗鬱に満たされていた。肩にクシェルを担ぎ上げ、イリヤを引きずりながらフル装備で帰ってきたリヴァイに、その場は一時騒然となった。
状況の報告を受けて、念のためイリヤは地下牢へ。クシェルは彼女の自室でハンジによって手当をうけて目を覚ましたが、先ほど、ようやく眠りについたところであった。
「クシェルは短気なのが損だね。イリヤの言い分は私も頷けないけど……彼女には特にこたえる価値観だ」
「……それにしても、あいつは過激すぎる。こいつを取り上げるのにもえらく手間がかかった」
懐から、リヴァイは小さな黒い小銃を取り出した。兵団で支給されるような単発式の散弾銃ではなく、それにはいくつかの弾丸がおさまっているようだった。
「取り上げちゃったのかい?……それが彼女にとっての大切な人の形見だってわかってるだろう」
「……あいつはイリヤを信用しすぎだ」
「私からすれば、あなたはクシェルを心配しすぎだと思うけどね」
イリヤが何者かと接触しているという疑いは、昨夜、中庭で彼が誰かと話していたところを見たというリヴァイの言による。
「敵」がイリヤに接近している可能性があると判断して、彼を焚き付けて尾行し、その何者かに迫ろうとしたのがクシェルである。しかし、それはイリヤが「敵」と通じているという可能性を考慮しなかった故の行動だ。イリヤが「敵」とすでに内通していたのなら、単騎尾行するのは非常に危険な賭けだった。クシェルの行動を予測したリヴァイが、何者かの正体よりも、彼女の身を案じて邪魔したというわけだ。
そもそも、そんなことしなくても、直接「心配だからやめておけ」と言ってしまえば、クシェルも単独での行動を改めただろう。他人からの好意を無碍にはできないのが彼女だ。短い付き合いでもないのに、わかるだろうに、とハンジはため息をつく。
リヴァイも、クシェルもお互い不器用で、それ故に、盛大にすれ違うことがある。
「イリヤが内通者ではないことは、信じてもいいと思うよ。何か隠しているようだけど、彼自身必死に「兵団を裏切るつもりはない」って言ってたしね。信じていいんじゃないかな」
「……ああ。そうだな」
「何か納得いかないって顔だな。明日は巨人でも降るんじゃない?人類最強がそんな顔してちゃ、士気に関わるよ。なに、それともクシェルに蹴り上げられた急所がまだ痛むかい?」
ハンジの言葉に、さぁっとわかりやすくリヴァイの顔が青ざめた。
そう。
クシェルは、自分の頬をグーで容赦なく殴りつけてきた男に対し、その右足で一矢報いたらしい。
女の顔をぶん殴った代償を、リヴァイは払ったわけだ。しかし、人類最強でも等しく軟弱であったその急所を蹴り上げられながらも、なんとか起き上がって、鳩尾を狙って彼女を昏倒させた彼の剛腕ぶりにも舌を巻く。
筆舌に尽くしがたい痛みと屈辱に耐えたリヴァイに、ハンジは賞賛を送るとともに、大人しく没することなく情け容赦なく蹴り上げたクシェルにも、拍手を送った。どっちつかずな対応に、エレンをはじめとして、オルオやエルド、グンタたち男陣は怪訝そうにしていたが。ペトラだけは、「流石の兵長でも女性の顔を殴るのはよくありません」と珍しくリヴァイに対して鼻息を荒くしていた。
たぶん、人類最強がいつもより落ち込んでいる要因には、可愛い女性部下の珍しい叱咤も少しはあるだろうと思われた。ハンジからすれば、案外、この男は繊細なのだ。
「……クソメガネ。お前は俺のグチを聞くのか、自分が話すのかどっちかにできねぇのか……」
「聞いてるじゃん。これが私の相談事の応対さ!皆、私に話すと「なんか悩みなんかどうでもよくなってくる」って評判なんだよ」
「……あながち間違いじゃないが……そこは怒るところだ」
「そこってどこ」
「……どうでもいい」
リヴァイが深く息を吐いてうなだれたので、ハンジは思考を戻す。イリヤが裏切るつもりはなかったことは、彼の切実な訴えの通りだろう。ただ、何かを隠している。それを頑なに隠そうとする限り、今はあまり掘り下げない方がいいだろう。彼に接触していた「何者か」の正体は不明だが、今はそれについて詳しく突き詰めるほどの余裕も時間もない。
それより、ハンジの興味の対象は撃ち抜かれたという彼の左耳のみに終始していた。
「あぁ……エレンみたいに巨人になれるわけでもないのに再生できるなんて……。なんて素敵な能力なんだろうね。その仕組みってどうなってるんだろう?今回の傷なんてものの数分で治ったらしいじゃないか。聴覚にも問題は出てないようだし、本当に素晴らしいよね!」
その仕組みはどうなっているのか。巨人と同様なのか。それともまた別の仕組みなのか。そもそも、再生した細胞は新たな構成なのか。それとも、元の細胞と全く変わらないのか。不思議は尽きない。惜しむべらくは、直属の上官であるクシェルから人体実験が許可が下りないことだろうか。ハンジの知的好奇心を追求するのみの実験は不可だ、とはっきり最初に突っぱねられている。
「ああ、でもクシェル班から除名されれば、実験の機会は巡ってくるかな!?せっかくだし、私の班に来てくれたらいいのになぁ〜。それなら、朝からみっちり思う存分、彼の体を調べ上げるのに……」
「イリヤは辞めねぇだろうよ」
「え?」
リヴァイは迷わず断言した。
「あいつはクシェルの下から逃げない。絶対にだ」
「どうしてそんなこと言えるのさ。あの子の顔見たかい?完全に怯えちゃってさ。自分を撃ってきた上官につきたいと思うようなマゾには見えなかったけどね」
「あいつは「死にたくない」と言っていた。クシェルのもとにつく前から、ずっと奴が言ってることだ」
「ああ。だから、クシェルは自分の班から外したがってるんだ。次の壁外調査では……、彼女の班は生存率が低いからね。「死にたくない」という兵士を死なせたくないんだろう。クシェルは甘いから。前は壁外にも連れて行かなかったから、相当可愛がってるんだろ。まあ、愛情が屈折しすぎて伝わってないけどね」
「お前、並の兵士が、憲兵団に所属して「巨人を駆逐してやる」なんて言えると思うか?」
「はあ?エレンみたいにっていうこと?そんなこと、」
そこでようやく、ハンジはリヴァイの言わんとしていることに気づき、はっと息をのんだ。
「そうだ。人間、仲間がいりゃなんだって大きなことは言えるもんだ。しかし、集団の中でたった一人、対立するような考えを言うことなんざ、並の人間にはできない。エレンがそうだったように……あいつは、銃口をつきつけられても、上官に囲まれても「死にたくない」とほざきやがった。そんなこと、できる人間は限られている」
「……言われてみれば、そうだね。「死にたくない」なんて、調査兵団で声を大きくして言えることじゃない。皆んな、多かれ少なかれ思ってることだけどね」
「あいつは、あいつが自身が思っている以上に調査兵らしい奴だ。舐めてかかってりゃ……いつかクシェルも、あの甘い手を噛みちぎられることになるだろう」
ほお、とハンジは思わずまあるく奇声を発した。リヴァイがそうも一人の兵士を評価するなど、なかなか珍しい。
「えらく買ってるじゃないか。クシェルが噛みつかれてもいいのかい?」
「イリヤはガキだが……その前に兵士だ。それが分からないクシェルは、いっそのこと食いちぎられちまえばいい」
おお怖い、とハンジが茶化すように笑えば、リヴァイは忌々しそうに舌打ちを返してくる。そのやり取りはいつもの彼らの定番と化しているものであったので、ハンジは少しだけ安心して、そのままケラケラと笑い続けた。
その無邪気な笑いに、リヴァイもまた、毒気が抜かれたのか、何も言わなかった。そういえば、と彼が次に口を開いた時には、先ほどまでの暗鬱な表情はすっかりと姿を消し、いつもの、人類の英雄、リヴァイ兵士長の顔つきに戻っていた。
「イリヤのあの情けねぇツラを見てて思いついた方法がある。それがうまくいけば、巨人化したエレンを人間に戻すこともできるかもしれねぇ。……ハンジ。お前、どうする?」
「えぇ!?そんなことできるんだったら、聞くまでもないよ!いいんだね?私はやるよ?」
身を乗り出したハンジの勢いに、リヴァイが夜半にその質問をしたことを後悔するのは数時間後。逃げ場をしっかりと奪われて、ひたすら彼女の仮説を聞かされるハメになってからだった。
*****
「お前を半殺しに止める方法を思いついた」
翌日、午前の訓練の行程を終えた後、特別作戦班とクシェル班の三名、そしてハンジ分隊長を集めて、リヴァイ兵長がそう言った。
昨夜の騒動については、リヴァイ兵長からもクシェル班長からも、ハンジ分隊長からも特にお咎めも追求もなされなかった。
朝から、いつもどおりの訓練が行なわれたことに対して、イリヤは逆に戦々恐々としていところであった。結局昨夜はクルトに会うことは叶わなかった。己の能力について知る機会も、もう得ることはできないかもしれない。
イリヤは、兵団の犬として、何も分からないままに日々をやり過ごしていくしかないのだろう、と暗鬱な気持ちのまま、ぼんやりとリヴァイ兵長の話を聞いていた。
「巨人化したお前を止めるには殺すしかないと言ったが……」
物騒な物言いでリヴァイ兵長が黒板に絵を描き始める。ちらりと隣のエレンを見遣れば、困惑したような顔を浮かべていた。それはそうだ。「半殺しに止める方法」など、恐ろしいことこの上ない。
「このやり方なら重傷で済む。とは言え、個々の技量頼みだがな。要はうなじの肉ごとお前を切り取ってしまえばいい。その際、手足の先っちょを切り取ってしまうが……」
リヴァイ兵長が振り返る。エレンを見て、その後、イリヤにも一瞥を加えて言った。
「どうせまた、トカゲみたいに生えてくるんだろ?……気持ち悪ぃ」
「ま、待ってください。どうやって生えてくるとか、分からないんです。何か他に方法は……」
エレンが動揺して首を横に振ったのを見て、リヴァイ兵長が鋭くその目を細めて、イリヤを指差した。
「こいつは耳が欠けても一瞬で生えてきたが」
「いえ、イリヤは巨人化できませんし……。俺の能力とどこまで共通項があるかは……」
なおも拒否の態度を示すエレンであるが、それは当然だろう、とイリヤは思った。自分でも把握できていない能力なのだ。半殺しにならなければ、実際に死んでしまう。そんな確証の低い実験を、二つ返事で承諾できる方がおかしい。
手足の先っちょが切れる。
イリヤは想像する。
昨夜、耳を撃たれて気づいたが、おそらく痛覚は通常よりも少々鈍化している。それでも痛みに変わりはないが、耳の半分が欠けていながら、普通に会話できたのは、おそらくそういうことだろうと思われた。
そしてもし仮に、両手足が欠損したとしたら。
――おそらく、最大30秒もあれば全て再生できる。
なぜか、そう「わかった」。
しかし、エレンにはまだその感覚がないのだろう。もしかすると本当に再生は困難なのかもしれない。そう思ってリヴァイ兵長を見れば、彼はナイフのように鋭く研ぎ澄まされた視線をエレンに向けて、低い声で言った。
「何の危険もおかさず、何の犠牲も払いたくありませんと?」
「え、ぅ、い、いえ」
エレンが萎縮してたじろぎながらも、否定した。
「なら腹をくくれ。俺たちも同じだ。お前に殺される危険がある。だから安心しろ」
「……はい。分かりました」
「じ、じゃあ実験していいよね?」
エレンの控えめな承諾に、興奮を抑えようとした声で言ったのはハンジ分隊長である。メガネが光を反射して、その瞳が見えないが、あの狂ったような目がその下にはあるのだろう。
「ああ。リスクは大きい。かと言って、こいつを検証しないわけにもいかないからな」
「計画は私がやっていいよね」
ハンジ分隊長が、エレンにその視線をやる。
「エレン……。分からないことがあれば分かればいい。自分たちの命をかける価値は、十分ある」
その言葉に、イリヤは冷や汗が背中をつたうのを感じた。エレンは、戸惑いをその表情に浮かべながらも、強く。ひとつ、頷いた。