21巻以降のネタバレがあります。
あと、ここから時系列通りに話が進みません。
一
右翼索敵から、度重なる赤と黒の信煙弾が上がるのを確認して、配置から離脱した荷馬車護衛班六班は、最速力でその場から撤退を余儀なくされていた。
「班長!!まだ戦えます!右翼索敵がこのままでは壊滅してしまいます!!」
先頭を行く斑らの馬に乗る女に、イリヤは必死に叫んだ。身体中から大量の蒸気が上がっているが、その蒸気の下は無傷で完全に再生しきっていた。先ほど、四肢をバラバラにされたとは思えない回復能力だった。
「イリヤ!お前は十分よくやった!!俺たちの仕事を忘れるな!」
イリヤと並走して言ったのは、同じ班の先輩であった。黒く短い髪を刈り上げたゴーグルの兵士だ。頭から血が流れている。そんな怪我の様子が気になるが、それすらもその兵士は後回しにして、イリヤに声をかけつづけていた。唇を噛み締めながら前を見れば、淡いハチミツ色の長髪の男と、漆黒の色の短い髪の女が先を行く。
彼らはイリヤたちを振り返ることなく、ただただ前を見て、馬をひたすらに駆けさせていた。
「バケモノめ!!ここで息の根とめてやる!!」
はるか背後で、置いてきた仲間たちの怒号が聞こえて振り返れば、平原の只中に立つそいつの顔が見えた。
金色の髪に、筋肉がむき出しになったピンク色の肌。
小ぶりながら形の良いふたつの乳房に、引き締まった尻は、女を思わせる形容だ。にもかかわらず、その体つきに魅惑すら覚えないのは、そいつが規格外にでかいからではない。
「や、やめろぉぉおおおお!!!!!」
断末魔が遠く。
そいつが踏みつけた仲間は、昨日の夜に隣で酒を煽っていた男だったか。
女の形をとったそのバケモノは、右翼索敵の兵士たちのワイヤーをつかんでは放り投げ、つかんでは放り投げていた。
緑の平原に、ゆらりと立つその14メートルもの巨体。その巨大な眼球が、イリヤたちをとらえたような気がして、立ち向かわねばという使命感よりも、生存に根ざした恐怖が体中をかけめぐった。
「全速力で中央後方へ急げ!!」
先を行くエーミールが叫んだ。先頭のクシェル班長が方向転換をしたのに続いて、彼らもまたそれに続く。方向をかえたその一瞬に見えた班長は、恐怖や憎しみとは違う、爛々とした光を抱いた瞳で、遠くで仲間たちを容赦なく潰している女型の巨人を見つめていた。
******
イリヤたちが右翼索敵で女型の巨人と交戦したときより、時間は遡る。
そのとき、調査兵団の本部中央の広場では、まだ荷馬車班を中心とした数十名の兵士たちが準備に追われていた。
アニ・レオンハートは双翼の翼があしらわれた外套のフードを被ったまま、黙々と立体機動装置の点検にいそしむふりをしていた。
どうやら何事もなく潜り込めたらしい。同期の調査兵たちが皆、すでに行軍の列へと並んでおり、広場にはいなかったのは運が良かった。さすがに、顔見知りに見られてはエレン・イェーガー捕獲の作戦が無に帰してしまう。
――約束してくれ。帰ってくるって。
故郷の父の声が耳の奥でしたような気がして、アニは首をふって立ち上がった。巨人化能力者であるエレン・イェーガーの捕獲。彼を連れ帰れば、彼女たちは任務途中とは言え、故郷に帰ることができるだろう。全ては、これからのアニの働きにかかっている。
「アニ。良い子にしてろよ。ママの言うことよく聞くんだぞ」
不意に呼ばれた自分の名前に、思わず肩を震わせておそるおそる振り返れば、どうやらそれは見送りに来ていた兵士の家族のようだった。アニ、と呼ばれたのは女の腕に抱かれている赤子だった。
「ミーアも、妹とママのこと、頼むぞ」
「うん!パパもお仕事頑張って!」
その父親らしき調査兵に抱きあげられているのは、その赤子の姉、まだ三つか四つほどの少女だった。
一般人がなぜ兵団施設まで見送りに来ているのか、と少し訝しんで見ていると、その女が夫である男にむかって右手をあげて敬礼を送った。その兵士の誓いの姿がやけに美しかったので、なるほど、とアニは頷く。おそらくは、その女は元調査兵というところなのだろう。
男が、敬礼を返しながらくしゃりと笑った。
それは、今にも泣きそうな、情けないものだった。
「エーミール。そろそろ」
「はい。クシェル班長。今行きます。ナタリア。じゃあ、行ってくる」
「行ってらっしゃい」
夫婦のそばに控えていた女性の調査兵は、上官だったらしい。彼女が男に声をかけると、その家族は手をふりあって別れた。なんとも呆気のないものだ、と思いながら広場の方へと足を向けようとしたとき、一瞬だけ、子供を抱いた女と目があった。
バカバカしい、と踵を返して振り切ったのは、夫婦の別れだっただろうか。それとも、アニの中にある微妙な感情の揺れだろうか。
「バカバカしいったらないね」
もう一度、今度は口に出して呟いて、懐から銀色の指輪を取り出した。くるりと回せば、鋭い針が現れる。動作は問題ない。これがあれば、エレンのように指の付け根を噛みちぎるという労力なしに、容易に巨人化できる。パラディ島への出立前、これをたくした父の思いがどこにあったのかはアニには知る由がない。
それが、巨人化の際の痛みを少しでも和らげたいとする親としての気遣いだったのか、それともどのような状況下においても、効率よく巨人化できるようにと考えられた名誉マーレ人を目指す父の功利的な思惑だったのか。
アニには、分からなかった。
その、立体機動装置の操作には邪魔にしかならない指輪を人差し指にはめて、目立たぬように荷馬車の荷物が置かれた広場の影に足を向けた。
「毎回、毎回、こんときはたまりませんねぇ。俺、泣いちゃいそうです」
「ナタリアはとても優秀な……いや、違うな。なんだろ、すごい?奥さんだよね」
人がいないと思ったその柱の陰には、数人の兵士がいた。気づかれぬよう、さりげなくその近くに足を運ぶ。死に急ぎ野郎たちの身の上話を聞く趣味はなかったが、そこに足を向けたのはわけがある。
「ナタリアには頭が上がらないな。君の家族には悪いようにはしないから」
「頼みますよ、団長。ナタリアは団長の元部下ですしね!あ、いや……でも、未亡人になっても手ぇ出してもらっちゃ困りますよ!!」
「エーミールでもあるまいし、この堅物がそんな真似するかよ」
そこにいたのが、調査兵団団長エルヴィン・スミスとリヴァイ兵士長だったからだ。エレンを伴っての壁外調査。その計画内容などが伺えれば、アニの仕事もしやすくなると踏んで近づいたが、彼らは気さくに、エーミールという男性兵士と、その上官であるクシェルという女性兵士と死んだ後の話ばかりをしている。
先ほどの父親。エーミールという兵士は、どうやら死ぬらしい。
「クシェル。エーミール」
団長の声に、呼ばれた二人が敬礼を返す。
「君たちには苦労をかけるが……」
「そんなことありません。命令してください、団長」
屈託無く笑って言ったのは女だ。それに答えて、エルヴィン・スミスの硬くて低い声が非常な命令を下したのが、アニの耳を貫いた。
「人類のために死んでくれ。頼むぞ、二人とも」
「ハッ!!」
ちらりと、柱の陰から二名の兵士の顔をのぞいたら、その顔には晴れ晴れとした表情がのっていた。男の方も、先ほど妻に見せていたものとは思えないほど精悍な顔つきをしている。
死ねと言われて死ねる人間とは、想像を絶する。そんな命令をされて、どうしてその顔ができるのか。何をすれば、自分の命をそうも投げ出すことができるのか。「人類」とは一体、彼らにとってなんなのか。
アニは嫌気がさして、その場をひっそりと後にした。
――帰ろう。俺たちの故郷へ。
約束した。この島に来たときに。それも、ほとんど死にものぐるいの真っ黒な約束だ。死にたくない。その一心で、三年間も兵士ごっこを勤め上げた。でももうそれも、終わりが近い。
ここで私たちは何を切り捨ててでも帰るのだ。生き残るために。誰のためでなくても。
それが、どれほど利己的なわがままだったとしても。この壁の中の人間を何人殺してでも帰るのだ。
アニが顔を上げれば、自由を象徴するという翼の背中がいくつも見えた。三年間を共にしたあの「友人」たちもまた、これを背負っているのだろう。
でも、己はこの「悪魔の末裔」を殺して帰るのだ。
そして、きっとその人殺しは「英雄」になる。あの海の向こうで。
人差し指にはめた銀色の指輪に触れながら、アニは振り返った。
そこにはまだ、兵士の妻が子供を抱いて立っていた。
それは、第57回壁外調査の出立の朝だった。アニがエレン捕獲のために、調査兵団を奇襲する、数時間前のことである。
*****
「女型の奇行種が出た。右翼索敵。陣形はそのまま進行だ」
落ち着いた声で、クシェル班長はリヴァイ兵士長率いる特別作戦班へとその情報を告げた。イリヤたち荷馬車護衛班六班が、その機動力を活かして作戦通り、異常のあったと思われる初列あたりの右翼索敵へとむかって得た情報だ。
クシェル班五名は、その巨人の急襲をイリヤの機転でかろうじて乗り切って、仲間を見捨てて後衛まで下がって来たところである。どれもこれも異常事態発生時の予定通りの行動だ。
兵団随一の速力と脚力を持つ馬を操る班。それがクシェル班である。壁内にいるときは、文献研究と、仲間の監視が主たる任務であるが、一度壁外に出れば、クシェル班はその機動力を活かして、縦横無尽に陣形内を走り回る任務が多い。それは、特に司令班の補佐としてつきしたがい、異常発生時は、伝達を担うことが多いからでらる。クシェル班の馬の利点と、エルヴィン団長の意図をよく理解しているクシェル副官だからこそ任される動きであった。
このときも、荷馬車護衛の任についていたクシェル班は、右翼索敵から何度もあがる黒と赤の煙弾を確認して、陣形内を行ったり来たりしたところだった。
「このまま進むのか」
「ええ。陣形に変更はありません」
リヴァイ兵長の短い問いに、すみやかにクシェル班長が答えた。仲間を見捨ててきた割には、その表情には一切の変化はないように見えた。むしろ、全速力で馬をかけさせていたとも思えないほど、汗のひとつもにじませていない涼やかな表情だった。
「報告します!!口頭伝達です!!」
並走するリヴァイ班とクシェル班へ、右側から連絡兵が来て、班員たちの空気に、さらに緊張が走った。
「右翼索敵、壊滅的打撃!!一部索敵機能せず!以上の伝達を左に回してください!!」
イリヤたちが右翼索敵から離脱してそう時間も経過していない。つまり、イリヤたちが離脱してすぐ、彼らは壊滅したということになる。
衝撃に息をのんだイリヤの隣で、エレンもまた、絶望的な表情でその伝達を聞いていた。しかし、リヴァイ班も、クシェル班も、班員たちは顔色を変えはしない。
「聞いたかペトラ。行け!」
「はい!」
馬を翻して、リヴァイ班のペトラ・ラルが伝達のためにその場を離れる。
「イリヤ」
その後ろ姿を見送りながら、上半身を浮かせていたイリヤに声をかけたのは、そのリヴァイ兵長だった。アイスブルーの薄い瞳が、睨みつけるように振り返ってイリヤを見つめていた。
「守る相手を見誤るなよ。お前はお前の仕事をしろ」
その言葉に、ちら、とクシェル班長が反応して、イリヤを振り返った。
先ほどの伝達が正しければ、イリヤがその身を呈して守った右翼索敵班の兵士は、死んだことになる。
もうすっかり再生しきった手で、手綱を握り直した。
*****
「見誤るな。イリヤ」
珍しく感情がのったその声に、イリヤは身を固くした。怒りが滲んでいるようなその声色が、激しい雨音を響かせる静かな礼拝堂のなかでおそろしく近くで聞こえた。
兵団全体における、陣形訓練の最中であった。
突然の強い雨に打たれて、行軍は近くの古い城跡に避難し、そのまま雨が弱くなるまで待機命令が下されたところである。イリヤは、その命令に従って、先輩方の休むのを確認してから、上官に報告しようとしていた。
その上官が、古城の礼拝堂と思わしき場所で地面をはいつくばるようにしていたのを見て、「みっともない」と怒ったときだった。
その女性の上官以外、誰もいないはずの礼拝堂には、その兵士長もいたようだった。彼にいつのまにか後ろをとられて、すぐ近くで囁かれたとなったら、調査兵二年目のイリヤは身をすくませるしかなかった。
「り、リヴァイへいちょ、」
「アレは放っておけ」
細められたその視線の先では、イリヤの制止の声も聞かなかった黒髪短髪の女性が四つん這いになって、礼拝堂の床を調べていた。雨で濡れた兵服に、砂と埃まみれの床の汚れがつくのもおかまいなしである。
女はふと立ち上がると、今度はメモを取り出して天井に描かれた巨大な絵画を見上げながら、何やら書き出している。
「しかし兵長。あんな姿、他の兵士に見られるのは……。第一今は休息時間です。あの人が休まないと部下が休めません」
「放っておけ」
そのまま、リヴァイ兵長は、ため息をつきながら、礼拝堂の椅子へと腰をかけた。背もたれに片手をつきながら、気だるそうにその女性が一心不乱にあたりを調査しているのを見つめていた。
「ああなればもう声も届かん」
「はあ……」
そういえば、ハンジ分隊長も古城の内部にあった書斎に閉じこもってしまったと、副官のモブリットが言っていたことを思い出す。壁内には、こうした古い遺跡が点在している。その多くは、壁成立以前の古い文明のもので、多くは謎に満ちた文字と絵によって構成されているという。
「見誤るなよ。アレは、兵団にとっても欠かせないもんだ」
「え?」
先ほど言われたことと同じ言葉に、イリヤはリヴァイを振り返った。相変わらずそのアイスブルーの瞳は、一途に女を見つめている。
「アレは病気のようなもんだ。アレがなけりゃあいつは普通の兵士だが……。あの知識欲は底がねえ。それこそ、ハンジやエルヴィンの比じゃない」
「え?どういう意味ですか?」
「あいつが、壁の外から来たこと、聞いただろ?」
初めて、そのアイスブルーがイリヤを見つめてきた。しかしあれは、単なる戯言ではないのか。そう問い返せば、「わからない」と妙な答えがかえってきた。
「だが、あれは壁の中の記憶がない。兵団に入るまでの記憶が欠けてやがる。おまけに奴がエルヴィンに拾われたのは、壁の外だ」
「……は、初耳なんですが……」
エルヴィン団長に拾われた?記憶がない?いや、そもそも壁の外に?
常識はずれの言葉の羅列に、イリヤが動揺すれば、リヴァイ兵長は「機密情報だ」とこともなげに言った。彼が見上げた天井には、昔の「宗教」とやらで語られた、死後の世界が描かれている。善人が行ける「天国」と悪人が堕ちる「地獄」という場所だ。
「あいつはその欠けた記憶とやらを取り戻すために、ああやって壁内にはないものを必死にかき集めてる。壁の外に出るのもそのためだ。壁内の本を読み漁って、壁外へ出て死にかけて、それで自分の中にある「違和感」とやらの正体をつきつめようとしているらしい」
だから、と言う兵長の声が静かに響く。雨音だけがやけにうるさい。
「あいつが調査兵をやってるのは、本当は「人類」のためでも何でもねぇのかもしれねぇな。単に自分のためだけに、あいつはああしてるのかもしれない」
「はは……。それは、「機密情報」ですね。……戦女神の英雄がそんなだと、皆が怒りますよ」
「だろうな。だから、あいつは「英雄」なんかじゃねえんだ」
利己的な願望だけで部下を死地に向かわせる者がいたとしたら、それはどんな悪魔だろうか。
それは、「人類」だけでなく、仲間への最大の裏切りではないのか。
イリヤは上官であるその女性の後ろ姿を見つめる。みっともないほどシャツとパンツを汚している彼女は、イリヤたちを認識しているのかどうかも怪しい。礼拝堂の大きさを今度は測り出しているようだった。その目に、爛々とした光が満ちている。
彼女のそれが、リヴァイ兵長の言うように、彼女のためだけのものだったのなら、きっとそれは「地獄」へ堕ちるほどの裏切りだ。
「だが、見誤るな。アレは俺たち調査兵団にとっては必要だ。あいつの視点は他のやつとは違う。その全てはあのキチガイじみた知識欲からくるものだ。それは否定できん。いずれお前もわかる時がくる。あいつの必要性にな」
偽物だという英雄の女を見ながら、もう一人の英雄が言った。
人類最強の男。彼こそは兵団の、そして人類の英雄だった。その英雄が、こうして自分のためにしか生きていないという女を許すのは何だか意外だった。
「兵長はどうなんですか?」
「あ?」
「兵長は、どうして調査兵団に?あの人みたいに、自分のためなんですか?」
誰よりも献身的に身を捧げている兵長ならば、それは「天国」行きだろう。世辞ではなく、本音でそう言ったが、その英雄は鼻で笑うだけだった。
「そんな死後の世界なんざ知らねぇがな。……もしあったとしても、俺はどちらかに行けるような大層な人間じゃない」
その英雄が、女の背中を見て、そして思案するように少し唸った後、「今、俺は「地獄」行きになるために健気に働いているところだ」と呟いた。
そのアイスブルーの瞳が、すう、と細められた。