一
まだ俺が幼く、あの屋敷にいた頃のことだ。
屋敷の敷地の中にあった湖のほとりで、その人はよくぼんやりと座っていた。
「お父さんには内緒だよ」
たかだか使用人のせがれなんぞに、彼はいつも菓子を握らせてくれた。色とりどりの、ガラス玉のような丸くて甘い菓子は、自分のような身分の者では決して口にすることができないものなのだと知ったのは、屋敷を家出同然に出て訓練兵に入ってから後のことだった。
「ほんの束の間のものでも、安寧と平和は何よりも代え難い宝だと私は思う。それは人の愛だけが成せるものだ」
優しく穏やかな彼は嫌いじゃなかったが、その彼の主張と、それを支持する屋敷の一族や、父親のような使用人の大人たちは大嫌いだった。
こんな、息の詰まるような退屈な日々は嫌だ。俺はいつもそう思っていた。
だが。
そうは思っていたが、
「この世界で一番偉いやつは、力の強いやつだ。弱いやつはクソみたいな人生を、ウジ虫みてぇに生きてくだけだ。なあ、おい、クソガキ。てめぇはどっちだ。クソ野郎で死ぬか、大いなる夢をもって生きるか。どっちだ」
あの侍衛の男の言っていたことは極論だと、今でも思う。世の中、力だけがものを言うわけじゃない。どんなに強くなったって、偉くなれるわけじゃない。
「オイ、クソガキ。何か文句があるなら言え。今なら聞いてやる」
目の前で、尊敬する上官が俺を見上げてそう言った。自分より数十センチは小柄なはずなのに、その上官の威圧感たるや。
その鋭い視線と口汚い口調は、幼い頃、屋敷の主人の隣にいたガラの悪い護衛の男をなぜか彷彿とさせた。
「いえ!異論ありません!!」
103期訓練兵の中で最も美しいと評された敬礼で、屈服の意思を示す。
その上官、リヴァイ兵士長は、「ならいい」と冷たく言い放った。
執務室の主人であるエルヴィン団長が、柔和な笑みを浮かべてひとつ頷いた。
「異論なければ早速本日から、君たちには新しい配属先での任務に入ってもらう。ユディはリヴァイ兵士長率いる特別作戦班へ。イリヤはクシェル率いる研究班だ。君たちの働きを期待している」
あの男は、この世界は力が全てだと言っていたが、きっとそれは真理じゃない。
それが真理ならば、ユディではなく、巨人討伐数の多い俺が、あの憧れのリヴァイ班へと入れたはずなのだ。
※※※※※
「えらく浮かない顔だな。そんなにこの配属が不服か」
トロスト区内にある、調査兵団本部の廊下で、一人の兵士がその少年兵の様子を見ながら可笑しそうに笑った。
少年は、あの奇跡の生還劇をほんの三日前に果たしたばかりのイリヤ・ツェランである。
帰還後、その早朝まで調整日として休暇を与えられていたイリヤとユディは、それぞれ急な異動を団長直々に言い渡された。
同年代の兵士達は皆、その意外な異動に驚きの声を上げていた。急なそれだったというだけではない。
十年に一人とされるほど、成績優秀なイリヤではなく、一般的な力量のユディがあのリヴァイ班へと配属されたことは、大きな驚きだった。
しかし、おそらくは生還劇の功績がそれぞれにあるのだろう、と噂された。
もう一人の生還者、クルト・ウェルナーの存在については、誰も口にしなかった。
調査兵団の機密情報を売っていた容疑で捕らえられ、脱退させられたということだけイリヤは耳にしていた。
三年間、血の滲むような訓練を共にした同期だったが、その別れはあっけないものだった。
彼が帰還後すぐに地下牢へと連行されてから、イリヤは彼に会っていない。
「クシェル副官は団長付きの仕事だけじゃなくて、文献資料をもとにした歴史研究もしておられる。その研究の必要性は、ハンジ分隊長の研究よりも理解者が少ないが……。エルヴィン団長が考案した長距離索敵陣形も、クシェル副官の研究が下敷きになってる。俺たちの任務はわかりづらいが、非常に大切なもんなんだ。わかるか?イリヤ」
「はい。エーミールさん」
長身のイリヤと肩を並べて歩くその長髪の男は、目尻の皺を深めて笑った。女好きのしそうな、整った顔立ちのその上官は、シガンシナ陥落前からの古参兵である。
朝一番の今日の任務のため、イリヤを引き連れて地下へと続く階段を下りる。
湿気の多い地下は、どこかかび臭い。階段をおりていけば、すぐに朝の爽やかな光は遠のいて、夜を思わせる闇と壁にかけられた松明が世界を彩る。
階下にまず見えた重厚な扉の前でエーミールは、その笑顔を引っ込めて、厳しい表情でイリヤを振り返った。
「俺たち研究班の仕事は多様だ。その多くはヨゴレ仕事だと覚悟してほしい。イリヤ。この仕事については口外するなよ。幹部しか知らない機密事項だ」
ヨゴレ仕事。
イリヤが疑問を覚えるより早く、エーミールは彼の目線から逃れるように性急に扉を開けた。
ぎぃ、と軋んだ扉の音が地下の壁に反響して響く。
そこは、地下牢だった。
「クシェル副官。イリヤをお連れしました」
地下牢の鉄の格子の前に、数人の屈強な体格のいい兵士たちが、憲兵団の持つ銃を肩にかけて立っていた。そこに、一際小柄な女性兵士がいた。
「イリヤ。よく来たね」
地上にいた時と同じような、朗らかな笑顔で彼女が振り向いた。
エーミールに促されたイリヤは地下牢へと足を進めて、格子の中に恐る恐る視線をやる。
「……!クルト!!」
地下牢のベッドの上で後ろ手に拘束されて座らされているその姿は、数日前、共に死地から帰還した仲間だった。
「クルト!お前、」
「イリヤ」
痩せ細って正気を失った表情の同期に声をかけようとすれば、それは笑顔をたたえる女性兵士に遮られた。
「……これは一体……」
「数週間前から、兵団内部の機密情報が漏洩したと思われる事案がいくつかあった。おそらく、王都の調査兵団に反感を持つ貴族が絡んでいるらしいと、兵団内部で怪しい動きをする人間を探してたんだ」
「それが、クルトだと……?」
「ああ。怪しいと睨んでいたんだが、先日の壁外調査での発言で確信した。「報告」とは、一体誰に何のためにするのか……。先程からずっと聞いてるんだけどね……。なかなか口が硬くて答えてくれない」
参った、とクシェル副官はまるで日常会話の延長のような軽妙な動作で肩をすくめた。
ーー壁外に出る前に報告しておけば。
それは、確かあの時。巨人に囲まれて死を覚悟した時のクルトの言葉だ。
副官はあの混乱時に、クルトの漏らしたあの嗚咽を聞いていたらしい。凄まじい地獄耳だ。
「さてイリヤ」
くるりと振り返って、クルトからイリヤへと向き合った副官が、笑顔で彼の名を呼んだ。朗らかで可愛らしいとも形容できる表情だが、周りの状況との不整合さに、悪寒がイリヤの背中を走る。
「私の班に来てくれてありがとう。歓迎するよ。新たな班員となったあなたに初任務だ」
笑顔を深めた彼女の弾んだ声が地下牢に響く。
「クルトから繋がっている貴族の情報を聞き取れ。尋問で心もとなければ、「それなりの対応」も許可する。クルトと同期で、兵団の中では彼と交流の深かったあなたならできるだろう?」
嬉々とした彼女の声に、周囲の兵士たちは黙して厳しい表情を崩さない。
「……は?」
「さあイリヤ、入りなさい。クルト。お友達が来てくれたよ。彼に不快な思いをさせたくなければ、早く喋ってしまいなさい」
躊躇うイリヤの背中を、エーミールが無言で押して地下牢の格子の中へと入れた。
困惑に汗が身体中から吹き出るのを感じながら、イリヤが振り向けば、打って変わって冷たい表情の副官が、「命令だ」と冷酷に言い放った。
イリヤの手が震えだす。
彼の目の前で、生気を失ったクルトが座っている。あの、臆病でいながら優しげな雰囲気の同期は、もはやどこにもいなかった。
「クルト……」
名を呼べば、罪人の少年はうろんげな視線をイリヤに向けた。
「おい、ウソだろ……。お前が、そんな。お前はいつだって真面目だったじゃねえか……。兵団を裏切ったなんて……。ウソだろ……」
震える声で言ったイリヤに、クルトは何も言わず、ただ気だるそうに視線をベッドの上に戻しただけだった。
まるで、もうイリヤを見ることすら疲れた、とでも言うような態度に、イリヤは格子の外へと弾けたように向かった。
「副官!!こんなことはおかしい!!彼の拘束を解いてやってください!!彼は罪人じゃない!!クルトは何も言わないじゃないですか!あんたが間違ってる!!」
閉じられた格子の扉を掴み、じっと中を観察していたその女性へ摑みかかるかのようにイリヤは叫んだ。
鉄の冷たい格子ごしに、黒くて濡れた瞳が、イリヤの黄金色の瞳を見据える。何の感情も読み取れない黒は、まるでガラス玉のように冷え切っていた。
「クシェル副官!!!」
再度イリヤが叫べば、ようやくその女性は口を開いた。
「答えないと言うことが何よりの証だ。本当に無関係ならば、この状況から逃れるために、何でも口にして命乞いするだろう」
「そ、そんな……」
「イリヤ」
女が名を呼ぶ。
彼女は、あのシガンシナ陥落の際の英雄のひとりだ。
聖母のような優しさと、英雄たる勇敢な行動で、シガンシナに取り残された人々を助けた女神だと、人は言う。
その女神は、イリヤに命令した。
「イリヤ。もう一度言う。クルトから情報を聞き出せ。「それなりの対応」も許可する」
それは、拷問も辞さないとする命令だった。わざわざその非人道的な悪魔の所業を、女神は同期のイリヤに成せ、とのたまったのだ。
イリヤに注がれる、屈強な兵士たちの無言の視線。目玉が彼を見つめる。おののいて振り返れば、罪人とされた少年の暗く淀んだ目玉と視線が合った。
イリヤの中で、何かが音を立てて崩れた。
「おかしいだろ……」
「イリヤ?」
「おかしいだろ!こんなのおかしい!!あんたは女神様じゃなかったのかよ!!こんなことして、いくら裏切り者かもしれねえからって、許されんのかよ!?!俺は嫌だ!!あいつは俺の友達だ!あんたらなんかの命令なんざ聞くか!!!」
唾が飛ぶような勢いで、イリヤの怒声が地下の中でこだまする。
は、とイリヤが我に返ったときには、すべて後の祭り。
上官への侮辱ともとれる発言に、兵士たちは眉間に皺を寄せて彼を睨みつけていた。
咎めるようなその視線を寄越さなかったのは、その罵声を浴びた当の本人、クシェル副官だけだった。
彼女はきょとんと、まるで驚いたかのように大きな目をさらに見開いて、イリヤをまじまじと見つめた後、ふは、と場違いに少し笑った。
「そうか。それがあなたの答えだね」
「あ、…あ、いや、」
「遠慮しなくていい。わかったよ。出て良い。今日はこれで終まいにしよう。皆、通常任務に戻ってくれ」
冷たい鉄の格子扉が、音を立てて開けられる。逡巡するイリヤの手をクシェルが引いた。
「エーミール。イリヤに通常任務の説明をしてやってくれ」
「はっ!」
言う彼女は穏やかな表情である。周囲の兵士たちも、その上官の態度に任務の終わりを察し、イリヤに向けていた厳しい視線を解いていた。
急に変わった空気についていけず、イリヤは困惑する。そんな少年兵に、副官はひとつだけ「悪かったね」と労いの言葉をかけた。
「私は少し残る。皆、先に上がってくれ」
その言葉に数人の兵士が躊躇いを見せたが、エーミールの催促に、彼らは渋々といったていで地下牢の扉をくぐっていった。
イリヤが最後に扉を出ようとしたとき、クシェルが彼を呼び止めた。
「確かあなたはハンジ分隊長の第四分隊所属だったね」
「……それが何か?」
「彼女は言ってなかったかい?「我々の目に見えているものと、本質は違うんじゃないか」って」
言う副官の表情は無である。イリヤはその黒い上官の真意がわからない。
「どういう意味で……?」
「目に見えているもの。噂に聞くもの。それらを盲信することは物事の本質を見逃すことになる。「女神様」と言われるものが、本質もそうだとは限らない。その逆も然り、だ」
言って、視線を牢の中へと移す。その牢の中では、先程と打って変わって、まるで人を殺さんばかりのギラギラとした瞳で、彼女を睨みつけるクルトの姿があった。
「クルト、」
「イリヤ。もういい。行け」
今度こそ冷たくクシェル副官は言い放って、イリヤはためらいながら、その牢を後にした。
※※※※※
がちりと古い扉が閉まる音が地下牢の石の壁に響く。
ふう、と息を吐いたのは女である。彼女はおもむろに牢の中に入り、中に設置された机の引き出しから長手袋を取り出した。
自由の翼の上着を脱ぎ、立体機動のホルスターの下に隠された黒い小銃を机の上に置いて、腕まくりをする。
「実は団長からは、あなたに危害を加えるような真似は寄せと言われてるんだ。調査兵団としては、容疑者と言えども、暴力的なことは避けたいのが本音だ」
手袋をして、彼女は拳をひとつふたつ握った。
兵団のズボンのポケットから、小さな金具を取り出して、手袋の上から指にはめる。
「だから、これからすることは調査兵団としてではなく、私個人としての行動だ。よく理解しておいてくれ、クルト」
一歩、彼の座るベッドへと近づいた。その女の眼に、ぎらりと光る得体の知れない感情があった。
その光に、初めてクルトが抵抗するように声をあげた。
「さあ、話をしよう。この壁の中であなたと私しかできない、壁の外の話だ。故郷の話に花を咲かせようじゃないか」
その日、地下牢から副官が出てきたのは、それから数時間後。陽も高く上がった頃だったという。そこで何が行われていたのか。それを知る者は誰もいない。