「でき、た……?」
計算が終わったことが信じられなかった。だが、現実に術式は一つの式へと収束していた。美しい式。複雑な計算の果てに顕れた美しさ。そのシンプルさこそが式の正しさを現しているように思えた。
「できたね」
「ああ……」
元の世界、即ち異世界への移動が可能かも知れないと知った日から既に数日の時間が過ぎていた。失われた体力を取り戻すための訓練もそこそこに全てを注ぎ込んだ濃密な時間だった。
「茶々丸……そうだ、茶々丸にも伝えよう」
「行ってらっしゃい。御堂、私は検算をしておく」
散らかった計算用紙を避け、襖を開ける。日の光が眩しい。僅かに伝わってくる人の動き。どうやらもう朝らしい。その中を足早に歩く。
「……いない」
茶々丸の朝は早い、眠れないから、そう言った時の疲れきった声を今でもよく覚えている。だからこそ早く伝えてやりたい。茶々丸はいつもならこの時間には執務室に居るのだが、今日は居ないようだ。ちょっと席を外したという雰囲気でもない。人の気配と言うものが感じられなかった。
「もしかして……」
心当たりを片っ端から当たるが居ない。最後に思いついたのがここだった。普段は使われていない客間。そう、湊斗景明が寝ている部屋だ。
「茶々丸、居るか?」
景明を起こさないように小声で呼びかけながら襖を開ける。
「あっ……」
「にゃ?」
「…………お早うございます」
男と女が一つの布団で見つめ合っていた。というか茶々丸が景明に乗っかっていた。――不味いところに入ってしまったかもしれない。
「――すまない。すぐに出ていく」
そう言い、出直そうとするが景明に呼び止められる。その声には困惑と助けを求める真摯さが篭っていた。
――――――
「あー、要するに茶々丸が勝手に乗っかって一緒に寝ていた、と。アンタは今起きたばっかりで何も分かっていない。この理解で間違いないか?」
「――その通りです」
「うん、その通りじゃないかな。お兄さん」
「ですので、説明願います」
景明が状況の説明を求める。自分も同意見だったので、視線で茶々丸を促す。が、茶々丸はこっちの事を全く頓着していないようだ。仕方ないので景明と茶々丸の会話を聞くことに専念する。
「おにーさんは八幡宮で銀星号と戦って気絶した、ここまでは覚えているよね?」
「はい、意識を失う前に八幡宮で戦っていたと記憶しています」
「けど、それがここにつながらない」
「はい」
「そりゃ仕方ないかな」
「何故でしょう」
「気絶して倒れてたおにーさんを、あてが勝手にここまで連れてきたから」
「…………」
茶々丸の言葉に先日の深夜景明と鎧櫃を背負ってここまで運んできた事を思い出す。なるほど景明はある意味いつも通り銀星号を追いかけ返り討ちにあったのだろう。片方の疑問は氷解する。
「つまり……貴方は
「うん」
「……あの時の
景明が八幡宮という場所をやけに強調する。八幡宮、それに茶々丸が鎌倉に居たことを考えるとあの舞殿が居る鶴岡八幡宮の事だろうか?そこで何かがあったらしいが、生憎と引きこもっていた俺には何のことなのかさっぱり分からない。だから口を挟む。
「八幡宮ってのは鶴岡八幡宮の事か?そこで何があったんだ?」
「ありゃ?知らない?」
「ああ、全くもって」
「……おじじによる奉刀参拝があったんだよ。で、そこに銀星号が現れていつも通り全滅、あてとおにーさんを残してね」
「おじじ?おじじって……大将領の事か!?」
「うん、死んじゃった。――足利護氏死す。一代の覇王も最期はあっけないもんだ」
茶々丸がしゅんとした様子を見せる。とてつもない大事件だった。大和を二分する軍事力である六波羅のトップが殺されたというのだ。アメリカで考えれば大統領が暗殺された並の衝撃がある筈だ。そこまで思考が回って気付く、なるほど景明が八幡宮を強調する訳だ。だが逆に疑問も湧いてくる。
「それで何で八幡宮にアンタは居たんだ?警戒も厳重だっただろうに」
「それは――」
景明がそこで言葉を切る。一瞬の躊躇。
「――足利護氏の暗殺をするためです。……正確にはすべきなのか見極めるためと言うべきでしょうか」
またとんでもない発言が飛び出してきた。いや、今の大和の情勢を思うとある意味順当なのか?とにかく驚きだ。驚きすぎて逆に冷静になるレベルだ。
「結局、御姫がやっちゃったんだけどね」
「御姫?」
「うん、銀星号の事」
さらっと告げられたが、今の一言も非常に意味深だ。『御姫』非常に親密さを感じさせる呼び名だ。茶々丸は銀星号と深い繋がりを持っていることを指し示しているのではないだろうか。今まで八幡宮に居たのは護衛のためだと思っていたのだが違うのかも知れない。
「あの時は大変だったよー。もうちょっとであの黒いのに巻き込まれるとこだった……。怖いの怖くないのって……」
「待て待て待て!茶々丸、お前は銀星号と関わりがあるのか!?」
「うん……ごめんね。お兄さん。黙っていたけど実は関係あるのだよ」
「なぜ?いつからだ?」
俺が知っている限り銀星号はただの殺戮者だ。それをなぜ幕閣の一人である茶々丸が関わることになるのか、それが分からなかった。その圧倒的な武力を利用するためというならまだ分かるがそう言うニュアンスは感じない。だからこそ分からなかった。
「――最初から。恩人なんだよね」
「恩人?それだけ、なのか?」
「うーん、もう一つ目的があるけど今は秘密かな、おにーさんも居るし」
意味ありげに景明を流し見る茶々丸。恩人、恩人か。銀星号から最も遠い言葉のように思えるが、嘘ではないのだろう。思ってみれば元の世界へ帰還する手掛かりとなった『卵』も茶々丸の策謀だったのだろう。その事に気付き衝撃を受ける。
「さて、おにーさんの方もだいぶ疑問が解けてきたんじゃないかな?あてが何者でここが何処だか、そろそろ見えてきたかな?」
「……あなたはあの時、八幡宮にいた。奉刀参拝の――部外者は立ち入りできない、重大な祭事の最中であった八幡宮に」
「そうですね」
景明がこれまでの事を振り返り頭の中を整理するように言葉を紡いでいく。
「……以前から、訝しんでいた事があります。行方不明者として全国に手配が回っているのに、なぜ
「ごもっとも」
話の流れ的に光というのは銀星号の本名だろう。そう言えば以前にも聞いたことがある気がする。やはりと言うべきか景明と銀星号は深い繋がりを持っているようだ。そして茶々丸は暗に認めた。銀星号を保護しているのは自分であると。
「……部屋の様相から類推するに……ここは相当の構えを誇る御屋敷の中」
「それほどでも。あ、これ謙遜だからね。おにーさんの推測は当たってますよ」
「…………」
茶々丸の軽い相槌を受けて、推測は確信の域に達したのだろう。結論を思ってか、景明が一度言葉を止める。
「
「貴方は――幕閣の足利茶々丸ですね」
「大正解!堀越公方足利茶々丸。はじめまして、って言っておかないといけないかな、おにーさん」
「――――――」
「……」
「…………」
沈黙が部屋を満たす。その沈黙を破ったのはギュルギュルという音だった。音源は景明。有体を言えば腹の音だった。
「おなか空いてる?」
「……その様子です」
「じゃ、まずは朝飯にするかぁー、お兄さんもいいよね?」
何となくの事情は分かった。朝飯にするのもOKだ。だがここまでの会話でどうしても一つだけ言いたいことがあった。
「――その前に一つ言っておきたい事がある」
「ん?何か分かんない事でもあった?お兄さん」
「それだ!まず俺の事は?」
「お兄さん」
そこで景明を指差しながら同じ質問を投げかける。
「じゃあ、景明の事は?」
「おにーさん」
「同じじゃねぇか……紛らわしいと思わないか?」
「同じじゃないよ!あての親愛度に大きな差があるよ!」
茶々丸的には違いがあるらしいが、どうにも分かりづらくてダメだと思う。
「……ちなみにどっちが上なんだ?」
「おにーさん」
「自分……ですか。察するにお二人は大分長い関係のように思えるのですが」
「うん、だけどそんなこと関係ないよ」
そこで一度言葉を切り、景明を上目遣いで見つめ、恥じらうように言う。
「――だって一目惚れですから」
言っちゃったとばかりに恥じらう茶々丸。ちなみにまだ景明の上に乗ったままである。俺は薄々そうじゃないかと思っていたから驚きはない。
「……とにかく、紛らわしいからどっちか呼び方を変えてくれ」
「うーん、じゃあユウヤって呼ぶね」
「ああ、分かった。それでいい」