基本的に読まなくても問題ありません。
本文中に入れるには長すぎたために分離して置いておきます。
問題(原作のコピー)がありそうなら削除します。
劔冑とは何か。それは人の肉と金属を重ね合わせて造られる鎧であり、生命体と金属物の双方の特性を備える。即ち劔冑は人間に似た知性を持ち、生体らしく破損を再生し、独自に活動することも不可能ではない。且つ、この物体は紛れもなく金属であり、基本的には他者に使用されない限り動くことはなく、適切な保存環境に置かれていれば死亡・腐敗などの変質を遂げることもない。
そして。言うまでもあるまいが、着用する戦士に魔神の力を与える。それが劔冑である。
ただの鉄の鎧と劔冑、如何なる未知の物質が両者を天と地に隔絶するのか、我々の科学的認識力は未だ大きく不足しており、真実の島へ至れるだけの航行能力を欠く。先人と我々の労力が果たしていつ報われるものなのか、現時点では何一つ確たる言を述べ得ない。百年後の最高学府で現在より飛躍的に進歩した技術知識を持つ教授達が我々と全く同じようにひたすら頭を抱えているかもしれないし、あるいは、マケドニアの片田舎で無名の天才が書き上げた従来の劔冑研究を根底から覆す論文が来月号のニュー・サイエンス誌上に華々しく登場するかもしれない。だがいずれであれ、我々現代を生きる探求者にできることはただ一つだ。いつか訪れるゴール・インの瞬間を信じて、脳細胞に鞭を加えるだけである。
我々は過去、金属を調べ、人体を探って、劔冑の謎を解く決定的な何かを求めてきた。だが、一つ、重要な構成要素を軽視してこなかっただろうか。婉曲な言い方はやめよう―――劔冑を造る第三の物質、水について、我々は十分な研究を施してきたであろうか?
周知の通り、劔冑の製作過程において、鍛冶師らが最も重視し、神聖視すらし、儀式化のカーテンに長く隠されてきた、単なる鎧が超科学的な異物へ変貌する一瞬は、焼き入れの作業である。高温で打ち上げられた鎧と共に、鍛冶師が入水する工程。濛々と立ち込める蒸気が晴れた後には、鍛冶師の姿はなく、作業前と寸分違わぬ鎧だけが残る。だがその時には、鎧は既に鎧ではなく、恐るべき劔冑になりおおせているのだ。後は細かな調整作業が残るに過ぎない。
これまで我々は、この工程における水の役割を、単なる触媒と決め付けてきた。主体は鍛冶師と鎧であり、水は両者を接合する釘でしかないと。だが、もしそうではなかったなら?鍛冶師もしくは鎧の方がむしろ触媒であり、水が主体の一つであったなら?
私としてはこの発想に基づき、早速本論に入りたい。だがそれでは、読者は私を無責任な吹聴者としか見られないだろう。生憎、私は政治家にも宗教家にも志を抱いていないのだ。逸る気持ちを抑え、まずはこの点についての根拠を説明するところから始めようと思う。
図Aはユーラシア大陸東部の地下に存在する、かつて古代地球においてプレートの移動が太平洋の一部を地中に引き込むことでできた広大な地下水庫とその分派を、世界地図と重ねたものである。これはハウスホーファー教授を通して手に入れた資料で、世界最先端と呼ぶに値する地質学が作成した。技術的限界による誤差は想定しなくてはならないが、内容の八割以上は信頼に足るとみて良いと思われる。
(付記。ハウスホーファー教授によると、この地下水分布はおそらく正しいが、地質学上の常識に照らして不可思議と言わざるを得ない点が非常に多く、何らかの異常――例えば重力の――を考慮しないことには説明不可能なのだそうである)
図Bは地域における劔冑の誕生時期を色分けで示した世界地図。図Cは劔冑の生産量をやはり色分けで現した世界地図である。
私が着目した一致に、諸氏も気付いて頂けるだろう。そう、地下水庫に近いほど劔冑の誕生時期も早いのである。生産量についてはそうと言えない部分もあるが、地下水庫からの分派が全くない土地においては劔冑の生産も皆無であるという点は決して無視し得ないだろう。
だからどうしたのか、と諸氏は思われるかもしれない。劔冑の製造に水が必要である以上、水の分布と劔冑の生産状況が一致するのには何の不思議もない、と。だがご存知のはずだ。地球上の水はなにも全てが一つの水源を共有しているわけではないということを。
つまり、劔冑の焼き入れに使われる水は大陸東部の地下水庫を経由するものではなくてはならないのである。この水庫からの供給のない地域、つまり南北アメリカ、アフリカ、オーストラリア等においては、劔冑の製造が過去も現在も行われていない(過去については異論もあることを付記する)。
その理由は従来、鉄の質もしくは人種の違いに原因を求められており、水という観点は持たれなかった。水の性質が劔冑の鍛造において意味を有することは古くから知られていたが、必ずしも最重要の事項とは考えられていなかった。それは奇異と呼ぶに値しないことである。劔冑の焼き入れに使い得る水とそれ以外水との間に、何らかの成分上の差異が見受けられるわけではないのだから。だが、劔冑をただの金属としか識別できない我々の科学がその点においても同じ誤解をしているとしても、何の不思議があるだろう?
故に、私は仮設を立てた。―――ユーラシア大陸頭部の地下水庫、ここにこそ、劔冑の謎に迫る鍵がある。
私は劔冑を生物の一種(亜種?)であると判断する。独立した知性と行動力を限定的ながら所持すること、着用者の熱量を吸収して能力を発動する性質は新陳代謝とみることが可能であることなどがその理由だ。しかし無論、反駁は多いだろう。知性にせよ行動力にせよ劔冑のそれはあくまで着用者を主とする従的なものである。その性質はむしろ機械に近い、等々。私もそういった意見を否定はしない。劔冑は確かに機械的でもあるからだ。だが、そう主張する人々が結論として述べること――「劔冑は断じて生物ではない。なぜなら繁殖を、自己増殖をしないではないか」――その点が完全に覆されるとしたならば、どうだろうか?
劔冑は繁殖を行わない。それは事実だ。だがその理由を、生物ではないからだと決め付けて良いものだろうか。ある可能性を忘却してはいまいか?つまり、劔冑自体は繁殖によって誕生した生物であるが、子孫として不完全であり、完全でないが為に繁殖能力を持たないという可能性を。豹と獅子の合いの子、レオポンのように。この場合、劔冑を生む繁殖とは無論、鍛冶師による鍛造ということになる。
(他者の手を借りるならばそれは生物の定義の一つたる自己増殖とは呼べない、と思われる方も多いだろうが、その点についての議論は控えさせて頂く。劔冑を生物と定義することは本論においてあくまで便法であり、核心ではない)
ここで、前段を思い起こして頂こう。劔冑が生物的繁殖による子孫であるとして、一体何の子孫なのだ?金属?いや、金属は生物ではない。人間?いや、人間は別の、より完全な増殖方法を有している。では……?そう、水だ。正確に言おう。水に含まれる未知の何かの繁殖こそが、劔冑の鍛造なのではないか。
東アジアの地中深く、静謐な地下水庫から、その何かはやってくる。何年、何十年、何百年とかけて。長い旅の果て、遂に行き着くのは山奥の洞窟、その更に奥の小さな泉だ。そこは鍛冶師の仕事場になっている。鍛冶師は鉱石を焼き、打ち、一領の鎧を造り上げる。鉄に加工を許すのはとてつもない高温だけだ。空気を焙る火の甲鉄、しかし鍛冶師は一つ一つ身につける。肌を焼く。肉を焼く。それでもこの一時のために生きてきた鍛冶師は己の打った甲鉄にも劣らぬ固い意志で激痛に耐え抜き、全ての準備を終えて、神聖なる泉に己を沈めるのだ。灼熱の鉄と冷涼な水が接触し、激しい反応を起こす。洞窟は蒸気で満たされるだろう。そしてその中で、泉にたゆたう「何か」は鎧と、鍛冶師と交わり、一つになり―――劔冑が誕生する。
これを繁殖と呼ぶならば、菌類の一種に類似していると言える。冬虫夏草
、胞子を虫に寄生させ、それを苗床にして芽吹くあのユニークな茸のことを思い出して欲しい。虫から茸への異様な変貌は、鎧と鍛冶師から劔冑が生まれる驚異とある種共通するものがないだろうか?
冬虫夏草の神秘の鍵は胞子だ。胞子の寄生によって有り得ない変身が引き起こされる。では、劔冑鍛造において胞子に該当するものは何だろう?論を俟たない。「何か」である。……鍛冶用水が含む「何か」とは、地下水庫に存在する「茸」が散布している「胞子」なのではないか。つまるところ、私はそう推論しているのだ。
地下水庫に最も近い国の一つ、大和の鍛冶師たちの間では、古来より「金神」と呼ばれる神への信仰が盛んである。この神は鍛冶に適した土地と時節を知るとされ、その叡智は神官の卜占という形で表される。占術の内容は実に興味深いものだが、これに関しては別記に譲ろう。
この神はまた「外より来たる神」であるとも伝えられ、その意味を大和の宗教学は客人神、つまり渡来の神を指すと考えている。だが、果たしてそうであろうか。前説の通り、大和が劔冑鍛冶の原点とも言えるのであるなら、鍛冶と密着した信仰もまた大和が原点でなくてはならない。上古の時代において、信仰と技術は切り離せるものではなかったはずだ。彼らにとって宗教儀礼は技術の中の必須の一部だったのだから。ならば「外より来たる神」とは、何を意味するのだろう?
金神信仰は仏教が伝来するとこれと習合し、護法魔王尊という新たな姿を獲得した。天台宗の一派にあたる鞍馬宝教がこの魔王尊を本尊とする。総本山である鞍馬山香雲寺は、大和最古の鍛冶集落でもあり、仏教伝来以前から近畿の要地として栄えていた。そして記録によれば香雲寺は、鞍馬山の仏教導入の際に、以前からあった金神の大社改装して造られたものであるらしい。これらの経緯を勘案せば、鞍馬宝教の原型には金神信仰の最も古い形があると考えられよう。
香雲寺縁起が伝える魔王尊の姿は、極めて特異なものである。異様と言い換えてもいい。即ち、魔王尊とは650万年前(弥勒菩薩といい、仏教は莫大な数が好きなようである)に金星から飛来した、「人にあらざる素質」で構成された身体を持つ存在だというのだ。年齢は16歳のまま永遠に不変――これは信仰の中核を担った蝦夷のイメージが仮託されたのかもしれないが。毘沙門天・千手観世音が月と心を象徴するのに対し、魔王尊は大地と力を示すのだという。
金星から飛来した人ならざるもの!
前章において、私はヤーヴェ教の聖典にある神とはつまり巨大隕石ではないかと記した。鍛冶信仰の源流を辿って得た成果はその考察を補強した。いやそれのみならず、新たな要素を加えた。ただの隕石ではない。魔王尊の伝承は明らかに、生物的な何かの到来を示している。永遠に不変、とは金属を象徴するイメージだ。生命と金属。まさしく劔冑そのものではないか。
宗教説話が何らかの事実に基づくものとするならば、はるかな昔、宇宙から飛来した何物かが存在した可能性が示される。それは劔冑に酷似しており、そして劔冑よりも遥かに完成度の高い生物性と金属性の融合を果たした何かだ。――金属生命体。そう呼ぶべき「神」は実在し、今なお、我々の暮らす大地の下に眠っているのだろうか?
私は神の姿を夢想する。それはある時は光り輝くヒトに似た何かであり、またある時はただ巨大な鉱石だ。金属生命体という仮想は現時点においてあまりにも私の手から遠すぎ、明確なイメージを抱くことすら許してくれない。せめてその実在に確信が持てたなら、知性に方向性が与えられ、真相へ近づくことがかなうだろうに。
問題の地下水庫へ赴き、疑いようもない形で神の実在あるいは非実在を確認する手段がないことは、そのような時代に生まれたことはまさしく痛恨だ。しかし私は諦めていない。確証は無理でも、傍証を得るのは可能だと信じている。
それはいつか、史上最高の劔冑と巡り合った瞬間に判明するだろう。私は劔冑が繁殖しない理由を不完全ゆえだと述べた。逆に言えば、完全な劔冑は繁殖能力を持つはずなのだ。地下に眠る神の性質を受け継ぎ、「胞子」を用い、「寄生」して増殖を行うのだ――私の推論が正しく、その劔冑が完全であるなら!
完全な劔冑の誕生を、未来に期待することはできない。劔冑の技術は進歩しているが、それは劔冑の本質に近づく方向ではなく、むしろ遠ざかっているとしか思えないからだ。最新の数打劔冑は確かに素晴らしい生産性を備えている。だが個々の能力は、古来の製法で打ち上げられた真打劔冑に及びもつかない。数打劔冑は云わば変種に過ぎないのだ。
神の嫡子、最高峰の劔冑は過去の遺産の中にのみ探し求め得る。私は世界中を旅しなくてはならない。まずは大漢帝国を回ろう。名高い七星の劔冑を外国人が見ることは可能だろうか?その次はエジプトへ行こう。ツタンクアメンの黄金の劔冑をもしこの手にとって調べられるなら、呪いの一つや二つは甘受しようとも!そしてそう、あの極東の島国へも、必ずや足を運ばねばなるまい……
旅路は長く果てしない。だが私は目的地へ辿り着くか、あるいは天へ召されるまで、歩みを止めないだろう。私は探求者であり、探求者以外のものになろうとしたことは一度としてなく、これからもないのだ。
Wolfram von Sievers