斜めに脚を閉じ、椅子に腰かけた、栗色の髪をした紺色のセーラー服の少女。
その傍らで不敵に微笑む、金色の髪を纏めた、肩章の豪奢な紅の衣装の少女。
ネロの部屋で、カンバスの前に座りそんなモデル二人と向き合う。エリザベートはずるいじゃないの、と抗議した。
「後で私も写真、撮って欲しいんですけど」
「馬鹿者、貴様にしか視えぬのに、写真も何もあるものか」
「えっ、ああ……そうだったわね」
絵を描けることで頭がいっぱいになっていて、当初の目的を忘れてしまっていた。
改めて二人の立ち姿を見る。それで気づいた。ずるいと抗議したのは、別に自分もそうして並びたかったからではなかった。いや並んでもみたかったが、それ以前に。
(似合い過ぎ、なのよね)
服飾から人種からちぐはぐだと言っていい。けれどこの二人の似合い方はどこから来るものなのか。
多分、少女がどう見ても、他人に手を差し伸べる善人の類だとわかるからだ。言葉を発せないとはいえ、馬鹿騒ぎしながらあちこちを周る自分とネロに、反発心一つ見せずに素直についてきたことだけとってもそれはわかる。機械性、自動性を一度は疑ったけれど、偶に見返してくるその瞳には、明確な意志が宿っていた。
無辜の人々から抜き出したような謙虚な善人。
剣を携えた正統な英霊。
助けられ、助け返す者同士として、それはこれ以上ない組合せに思えた。
歪な自分があそこに立ってもああは行かない。一見、同じ少女同士として見目は良くなるかもしれない。笑顔をつくって対外的に仲良く見せることは出来るかもしれない。けれど、中身が正反対を向いているのだ。いつかきっと破綻する。善人の彼女がこちらを助けようとしてくれるだけその幸せの足かせになる。
そんな所まで考えてしまっていた。
考え過ぎだ、とにわかに自分に呆れる。大切な人相手ならともかく、昨日今日会って何も知らない相手と自分との組み合わせでそう考えてしまうのは流石に病的に過ぎる、心が弱すぎるというものだ。
でも、大切な人ってなんだったかしら……と彼女は先刻と同じ疑問を感じた。
「描き始めるけど。あんまり、動かないでちょうだいね」
「……。いや、ランサー」
「何よ」
「余は外れよう」
「え?」
どうして? とエリザベートはネロに問う。先ほど少しごねてしまったのがまずかったか。
しかしネロはネロで、ううん、と唸った。
「上手く説明できぬ。ただこの絵、余にとっても貴様にとっても大事なものになる気がするのだ。ならば、余はそこに入らぬ方が良い」
未だ真っ白なカンバスを指し示すネロ。
やはりというべきか言いたいことが伝わって来ず、エリザベートは首を傾げる。
「運命論かしら。嫌いのような、好きのような……だけれど、アナタはそれでいいの?」
「うーーーん……、良い! 構わぬ!」
「入りたいんじゃないの」
「良いったら良いのだ」
「まあ、どっちでも良いのだけど。ただ、アナタの胸や瞳を描けないのはちょっと残念ね」
エリザベートを素直な感想を述べただけだったが、ネロは顔を赤くして馬鹿者、と呟いた。
「ま、まあ、近い内にまた絵描き道具を貸してやる。その時に存分に描くが良い」
そうして結局、エリザベートは少女一人のエスキースを描きを始めた。
絵具を置くところまで行くのだろうか、果たしてこれが完成するまで彼女はここにいるのだろうか。
ふと、描き始めてからそんな事が気になってしまう。そのくらいのノープラン。けれど明確な期限というものは特になく、ネロに彼女の姿形が伝わりさえすればそれで良いのだから、気負うのはやめようと考えた。
何から手をつけたらいいのかと、五分も悩んでしまった。結局アウトラインを描かないと始まらない気がし、髪と、輪郭と、目鼻口耳を置くところを柔らかい線でなんとなく決めていく。それから肩の山をざっくりと描いていく。
すっすっと鉛筆の芯がすり減っていく音だけがずっとしていた。髪に取り掛かった頃、エリザベートはネロに退屈じゃないのかと問いかけたが、彼女は良い、と短く答えただけだった。どうも、少女の形が鉛筆描きで露わになっていく様子にじっと目を凝らしているらしく、そこから彼女は、心地よい程度ではあるが僅かだけプレッシャーを感じるようになった。
確か、陰影の一番強い所は髪に隠れた額だ、鼻筋だ、と彼女は何処かで聞いた覚えがあった。まだ瞳に色を入れないまま、現実の光を無視しないようにそこにオーバー気味に陰影をつけておく。それから、輪郭の端の端には反射で黒く影を落とさないように。ここまで描き込む必要はない気もするが。
「なかなかどうして、上手いではないか。上手い気がするぞ?」
ネロの賞賛に対し、エリザベートは照れ隠しに、アナタに褒められてもと悪態をつきそうになるが、それをすんでの所で飲み込む。描き途中の絵を自分で貶めるのは、やってはならない事のような気がした。
「そんなことないわ。写実的に、できるだけ、やっているだけよ。本当はもっと自由な感じにしたいのに」
「おお、つまりそれは、余にわかるように努力してくれているということか?」
ネロは嬉しそうに微笑む。
「――……」
言われ、苦々しい感情と恥ずかしさがないまぜになる。馬鹿じゃないのと返すことも出来ず、鉛筆を動かすことに集中する。
黙々と影をつけていく。ただ一応、絵具を載せる後のことは考えて薄めに。目的が完全に変わってしまったな、と思う。
(だいたい、この絵が大切になるなんてセイバーが言うから……)
そんなことを言われては、適当に終わらせたり芸術性に走ることなどできない。
面白くもつまらなくもない、という気持ちがとてもする。自分ではない他人のためという要素が加わったからかもしれない、不思議な感覚だった。
やがて瞳のところに鉛筆を走らせる。肌の影付けが終わった訳ではないが、まっさらなここにも少し影を置いてみようと思った。
否応なしにエリザベートと少女の目と目が合うようになる。
少しだけ、少女の頬が赤らんだのがわかった。それでもモデルに徹してくれているのか、表情は少しも動かない。
エリザベートはいつの間にか、彼女の感情を読み取ろう、読み取ろうとしていた。もう少し表情豊かだっていいのに、どうしてそこまで強情なのだとまで思った。別に、モデルになってもらうのにはちょうどいい筈なのに、逆のことを考えていた。
それでも右目を描き続ける。これで手法として正しいのかはよくわからないけれど。
と、急に、
「――あ」
視界が滲む。
さっきからおかしいとは思っていた。
ずっと妙な苛立ちがあった。彼女の表情を見ながら、もう少し笑っていて欲しいと思っていた。けれどそれが何故必要なのかわからず口にも出来なかった。自分の眼から涙が零れた時、やっぱりかとまでエリザベートは思った。
鉛筆を持つ手が止まる。描くことを続けた方が良いのか、やめておいた方が良いのかわからない。涙が出るのはわかっていたが、その後どうしたら上手く行くかまでなど考えていなかった。手元が狂う。鉛筆が落ちて芯が折れた。その後ろにおり、エリザベートの表情が視えないネロは驚いて落ちた鉛筆に目を見張った。
そうやって、続いていた集中の糸がふっと切れる。同時に、脳が閉じ切っていた四方のシャッターを開くように感情というものを復帰させてくる。エリザベートの涙はそれで、ぽろぽろと止まらなくなった。
「どうして……」
言いながら、そんな筈がないと弁明するための作り笑いすら起こらない。ロボットのように自動的に泣いてしまうと、こんな反応が起こるものなのかと、彼女は自分のことを不思議に思う。
ネロはその様子を無表情に黙って、少しの間だけ眺めていた。
「良い」
ただやがて、そう一言だけ言い、泣き崩れるでもなく、椅子の上で人形のように涙をこぼすエリザベートを抱き寄せた。
◆
マーリンは、カルデアの中でも特に人気のない、今は照明を落とされた辺鄙な区画の廊下を歩いていた。
その先は袋小路で、消火栓が設置されているだけだ。真っ暗な中に異星の生物の単眼じみた赤い光が点いているだけ。用事のある施設がある訳ではない。誰かの部屋がある訳でもない。あるいはその壁の向こうが、何処か異界に通じているのではないかと思えるくらいに何もない、ただの行き止まり。
サーヴァントであれ職員であれ、誰もこんな所には訪れない。現在視の千里眼を持つ彼でもそこを探してあてるのに少し苦労したほどだ。よほど今そこにいることを知られたくないのだなあ、と苦笑混じりに彼は思う。
ここはもう電子の海ではない。だから彼女は、世界を大きく書きかえることはおろか、ここにかの木造校舎を再現するなんてことは難しいのだろうな、と思いを馳せた。
「ねえ、BB君、で良かったよね。君の名前」
行き止まりの壁に背を預け、立っていたのは一人の黒衣の少女だった。彼女は藤色の髪と紅いリボンを揺らし、花の魔術師の方を振り向いた。胡散臭く微笑みながら返す。
「グランドキャスターさんじゃないですか。どうも初めまして。ご苦労様です、こんな隅っこの誰も来ない所まで」
「初めまして。ご苦労様は、ぼくの言いたかったことなんだけどね。――セラフィックスではありがとう、立香くんたちを助けてくれて」
「はあ? セラフィックスって何のことですか? こちらの世界の新素材か何かですか?」
マーリンは嬉しそうに微笑む。
「素材なんかじゃない、文脈でわかるだろう? 場所のことだよ。でもいいさ、お礼は言えたからね」
「で、貴方、何の用ですか? 私、これでも忙しいので、見たい
「わかった。手短に済ませよう。……君と私の共有しているこの現在は、何月何日だったかな」
「それ、ぜんぜん手短に終わるくだりじゃないじゃないですか」
「どうも、カレンダーを見るクセがなくってね。なに、教えてもらえればすぐ終わることだよ」
「五月一七日ですよ。それがどうかしたんですか? 二一時六分をBBちゃんがお伝えします、なんて館内放送でも流しましょうか?」
手短にしたいと言った割にしらを切るな、とマーリンは思う。どうも、『放送』を視ることよりも、自分に真実を伝えないという項目の方が彼女の中で優先度が高いようだ。とぼけるという行為は虚偽申告にあたらないのだろうか。それとも自分は夢魔との混血だから、人間には嘘をつかないというルールの対象外なのか。
長居してはいけないなと彼は思う。しかし、それは特段自分の身が危ういからではなく、BB自身の行っているらしいことを邪魔してはならないだろうという気遣いからだったが。
本来彼女の目的など暴き立てるものはないのかもしれないと思ったが、まあ、七割方割れているのだから本人の口から訊いても同じことだ、と彼はいかにも非人間の言い訳らしいことを考える。
「そうだな、ううん……例の君がなかったことにした一件のことで、君が協力的なことは私はあんまり疑っていない。今気になっていのは、その、エリザベート君に見えている『誰か』は本物なんだろうか? ということなんだ」
しかしBBは飽きれたようにかぶりを振った。ああ、だめですだめだめ、と教鞭をくるくる回す。
「その言葉はよろしくないです。何故って私、観念論をぶつつもりはないんですよねえ。だってそれって、この世で一番くだらないことですもんね。無限に時間があれば、ランダムにタイプするタイプライターでも宇宙一の名作小説が書けるのと同じ類のことですよ?」
「言い方を変えよう。それはオリジナルから派生したものなのかな。それとも、全ての想定をきみがやったの?」
「それにはお答えできます。二つの要素が合わさったものです。オリジナルの『彼女』の願望と、足らない部分をエリザさんの眠っている記憶で補填したものです」
「なるほどね。それを、あの礼装をすり替えることでやった、という訳だ。はは、ほんとに反則じゃないか君は」
「笑うところですか? それ」
「いや、気に障ったのなら謝ろう」
「非人間設定とかはもういいんですよねえ。だって人間にだってごまんといます、それくらい共感能力のない破綻した方なんて」
BBは言いつつ楽しそうに微笑む。
「まったくその通りだね。さて、ということは、その『オリジナルの誰か』に頼まれて君はその手伝いをしたということなのかな」
「それは違います。単なる私一人の判断です」
マーリンの眼差しがほんの少しだけ細くなる。笑みが消える。それは、彼にとって想定外の答えだった。
「では……なぜ? そして、どうやって?」
「…………」
「BBくん?」
しばらくの間があった。やがて自分の顎に手をやっていたのをふとやめ、彼女は再び話し出す。
「私は、ひとまずこのカルデアで自らの安全性を証明したい。そのために、触れられたくもない個人的な思惑を開示するのも構いません。ただし、『彼/彼女』の存在を明かさないことを、それより上位の優先度に位置づけています」
「私がその、『彼/彼女』の存在を誰にも口外しなければ良いのかな」
「そうです。ここまで干渉しておいてやはり広めるなというのも、矛盾しているのかもしれませんが」
「それに従わないとどうなる?」
「それを気にする意味はあまりありません。多用したくありませんが、なかったことにするだけですから。いや、貴方との場合直接的に戦うしかないのでしょうか? 貴方はどうも、例外的に、私の事象改竄を免れるルートを持っているようですし。――妖精郷ってなんというか、忌々しいですけど万能ですよね」
「なるほどね。じゃあ、言わないよ。ぼくも、一度彩られた紋様をいつの間にか描き変えられるのは、面白い理由がない限り好きじゃないからね」
「では、私は貴方を信用します」
「わかった」
私の扱う能力は、貴方たちの言葉でいうところの虚数魔術です。
そんな語り出しで彼女は話し始めた。
「虚数空間に存在するものなら取り出すことが出来る。そういう領域に、『彼/彼女』のちっぽけな願望がまだ残っていたのです。やり残したことの類、とでも言いましょうか。ああすれば良かった、あのとき誰それにこんな声をかけてやれば良かった、もしもそんなことがあったなら……。そういうものです。虚数空間というのは悪性情報の廃棄場ですから、そういったあるいは後ろ向きな思い残しが、本人の電脳体に置いてきぼりにされるケースがあるのです。
その『思い残し』を持ってきて、いちばん要素の似通った"
「…………」
マーリンの、最初から感じていた疑問がここに来て明確なものになる。
色々と訊きたいことは他にもある。ただ、必ずその説明だけが避けられようとしている感じがした。それがあるいは彼女の
「機序はおおよそわかったよ。ただ、君は……そんなことを、一体何のためにやっているんだい?」
「……それは」
「エリザ君のためにやっているのではないことはわかる。それは、五月一七日という時間で彼女が適していただけのことだ。それはわかるけれど、こんなことをして君自身に一体何のメリットがある?」
「それは、『彼/彼女』が、私に縁故のある人間だから、では答えになりませんか? それ以上の説明が必要ですか?」
「できれば。けれど、うん……今更だけど、君の辛そうな顔を見ていたらやめておけば良かったと思い始めている私もいる」
「本当にもう、遅いですね。貴方はもう訊いてしまった。訊かれてしまった以上答えなければなりません」
彼女はそこで一度言葉を切る。瞳を閉じる。それから、改めて歌うように話し出した。
「それは、私が、何万年が過ぎたと感じていても、想いに蓋をしようとしていても、『彼/彼女』にまた会いたいと思っているからです。そしてそれは、この戦いのために召喚されて記憶を座に調整されたエリザさんも、セイバーさんも、きっと忘れてしまっても同じことを思っているんです」
どこか諦めたような、慈悲深いような微笑みを浮かべるBB。
その笑顔を見たマーリンは、どうしてかは全くわからないが――身を裂くほどの後悔を感じた。
「――最後まで尋ねてごめん」
でも、教えてくれてありがとう、と彼なりに心の底からの感謝を表する。
なんていじらしいのだろうと思う。
これが恋というものの一端なのだと、非人間たる彼にもわかった。
これはBBの『彼/彼女』に対する恋心だ。おそらくは、きっと。
自分自身を見てくれなくても構わない。
動いて、まばたきをして、時々微笑んで、仮初に再現され、いつか消えるだけのものとしてでも、やり残した望みを叶えてくれさえすればそれで良いと。
この甘ったるくてまるで報われない、真っ暗闇の中で揺蕩う、マゼンタのともしびみたいなものがそうなのだと。
何故か、一瞬だけ、マーリンはBBのことを抱きしめたいとまで思った。けれどそんな権利は勿論、自分などにはない。恋というものを目の当たりにし、ますますそんなことを彼は強く思った。自分のこの衝動が、そこまでの熱量をもったものではないと、反証的に理解をした。
BBはしかし、はあ、と芝居がかった仕草に戻り、いかにもな溜息をついてみせる。
「通りすがりのこんなよくわからない人にこんなことまで喋ってしまうなんて、割と屈辱です。今度ここまでの無配慮な踏み込みがあった時には……貴方の大好きな人理の紋様も、めちゃめちゃにしちゃいますから、そのつもりでいてくださいね」
◆
ネロの部屋でのスケッチを終えた後、彼女に送られてエリザベートと少女は部屋に帰った。
涙はとっくの昔に止まっていた。おさまる時はあっけないもので、枯れるや否や、椅子から立ち上がった彼女はもう今日は帰るわ、とネロに告げた。
扉のコンソールに触れて鍵を開け――る必要がなかった。初めからロックが外れていた。首を捻りながらもドアをスライドさせる。すると、部屋の明かりがつくのと同時に、パンパンとけたたましく何かの弾ける音が連続した。三人は反射的に耳を塞ぐ。淡く火薬の匂いが感じられるようになった頃、エリザベートは驚いて瞑っていた瞳を片方だけ開く。
「えっ……なになに、何なの。もしかして爆破テロ!?」
「このお馬鹿トカゲ」
そんなものが起きてたら火薬くさいで済む訳がありませんでしょう……と開いたクラッカー片手に呆れかえっているのは、清姫だった。それから、彼女の反対側、壁の陰から出て来たのは彼女らのマスターの立香。
そんなワケで、と非常に軽い感じに、髪のシュシュを弾ませて彼女は切り出す。
「お昼の後からずーーーーーっと待ってた甲斐があったあった! いやほんとは待ちくたびれて、流石に途中は退散していたけれども……ともかく!」
エリちゃん、ランサー、エリザベート、と彼女の呼び名がそれぞれ続いた後――誕生日おめでとう、と三人の声が重なった。
当の本人は呆気に取られ、目を真ん丸くした。
ちょっと本気で何を言われているのかわからない。
ほとんど放心状態になって茫然と自分の部屋の中を見回す。すると、あちこちに可愛らしい飾りつけがしてあるのが見て取れた。折り紙のチェーン、小さなぬいぐるみ、パステルカラーの風船。壁に、棚の上にと所狭しと配されていた。
すっかり自分の知っている部屋の様子ではなくなっている。そんな様子を見上げて改めて唖然としていると、
「ご、ごめんね……驚かせようと思って……ダ・ヴィンチちゃんに鍵借りて、勝手に入っちゃって。家具とか小物にはなんにも! なんにも触ってない! んだ、けど……」
立香の弁明が耳に入っているのかいないのか、未だぼんやりとしたままエリザベートはネロに訊く。
「……。セイバーは、知ってたの?」
「うん? 知ってたも何も、この飾りつけは余も手伝ったのだぞ。大変だったのだからな!」
「…………」
「本当は昼過ぎに貴様を迎える予定だったのだ。それが、いつまで経っても現れぬものだから一度部屋に戻ったら、当の貴様が清姫と余の所に現れて……何があったのかと思ったぞ」
結局そのお陰でマスターと念話してタイミングを図れたのだがな、とネロは笑う。
「だから言ったでしょう、何か大切なことをお忘れではないかって」
清姫は変わらず残念なものを見る目でエリザベートを見やる。
それを聞いた立香はえっと声を上げた。
「清姫、まさかバラしそうになってたの?」
「だってわたくし、ますたぁに引っ張って来られただけですし? 自分でこのドラ娘のお祝いがしたいと思った訳ではありませんし? むしろこの娘がますたぁにお祝いされるのを見ていると……こう、遣り切れない想いが募るとでも申しましょうか」
「そ、そっかあ……五月一七日ってしっかり覚えてたから、てっきりお祝いしたいのかと……」
「……常日頃から物覚えが良いだけです」
扇子で口元を隠し、ついと向こうを向く彼女。
(お祝い……)
立香の言葉を反芻して思い出す。
自分は、催し物が大好きだと思う。
コンサートを開くのも、ハロウィンを告げるのも――誰かをちっぽけな食事会に招くことも。随分、楽しかった。貴族の役目だ、という責任感を捨て去っても、それは間違いなく楽しい思い出だった。
華やかなことが好きだ。面倒なこまごまとした作業に追われることもあった気がする。けれど、誰かに見てもらえるとそれだけで心が踊った。ここにいるという実感が沸く気がした。
――いや、やっぱり色んなひとに途方もない迷惑をかけて来た気がするけれど。
ただ、そんなやっかみを抜きにしても……自分がお祝いされる時のことなんて、考えていたようで、望んでいたようで、実際に起きたらどうなるかの想定が甘過ぎて、実感というものが沸かなかった。
貰うべくして貰う贈り物とか。
別の目的のついでに送られる賛美とか。
そんな、老獪と思惑に台無しにされたかわいそうなプレゼントは、何処かで山ほど受け取って来たように思う。
だから、こんな風に真正面から来られると、どんな顔をして良いのか全然わからなかった。
いや、その前に――自分はどうしようもない罪人なのに、と。
そんな自分が、生まれてきた日を祝福してもらえることなどあって良いのだろうか、と思っていた。
立香も、ネロも……清姫すら、自分があまりにノーリアクションだったからか、何処か心配そうに見ている。心配されていると今ならわかる。けれど、違うのだ。嫌なのではない。ただ、本当に、自分が罪人であるということが心に蓋をしているだけ。どんな顔で嬉しがったら良いのか、経験がなくて何もわからないだけ。
助けを求めるように、自分にしか見えない、栗色の髪の少女の方を振り向く。
何かが言ってもらえると思った訳ではなかった。けれど彼女は、エリザベートと目が合うと、これ以上ないというくらいに、それまでに見たこともないくらいに、嬉しそうに微笑んだ。
「良かったね」
エリザベートは翡翠色の瞳を見開く。
薄暗い世界がまばゆく照らし出された気がした。
けれど、それは錯覚だ。
自分は一体何を言われたのだろうと、何処かに向かって問いかけたくなるほどの。
それから、そんな声をしていたんだ、聞いた覚えがある、と彼女は思考を連続させる。
おかしい。何処で聴いたんだろう。
――良かったね。
けれど、その言葉の意味に、声に、ひどく心が安らいだ。
それだけで、細かい事情を考えるのをやめることが出来た。
しばらく、彼女は本当に長い間黙っていた。だが、やがて、
「ええ」
立派に笑顔を返すことが出来たと思う。
……沢山、許されないことをしてきた。
何も知らぬまま数えきれない人をこの手にかけてきた。
だから、自分を怨むひとたちからすれば、こんな結末は絶対にありえないと言うだろう。
けれどもし、それを全部知った上で、こんな風に赦してくれる人たちがいてくれるのなら、
その人たちの前でだけは、明るい
そう、彼女は思った。
「あいつらには、会って行かないの」
訊くが、少女はゆるゆると首を振る。その身体の輪郭は、水に溶けていくかのように少しずつ滲み始めていた。
また、いつかどこかで会えるから、と少女は言う。
「――いや、会って行きなさいよ。あいつらは私なんかより、ずっとずっとアナタのこと、待っているんだから!」
「"なんか"じゃない」
でも、わたしは貴女の中のわたしでしかないから、と少女は言う。
「そんなこと……もう、わかっているけど」
「顔上げて、エリザ」
俯きかけた彼女が顔を上げる。すると、少女……岸波白野は少しだけ、すまなさそうに微笑んだ。
小さな両手が差し出される。
エリザベートはその差し出された手のひらをしばらくじっと見ていた。けれどやがて、自分の両手をそこにそっと重ねる。
そして祈るように目を閉じた。
少しでも長くこの彼女と一緒にいようと思ったら、もう言葉を交わさない方が良いと思った。声を紡ぐたび、少女の姿が崩れていくのがわかったから。
その代わり、目を瞑ったまま心の中で、言いたかったことのすべてを言う。こんな方法でも伝わるという確信があった。
十分に言いたいことをぶちまけてから、エリザベートはゆっくりと目を開く。
すると、手の暖かさはそのままに、少女はもうそこにはいなかった。
両手を通して自分の中に仕舞い込んでしまったかのたよう。
痕跡の一片も跡形なく、消え去っていた。
重ねていた手をおそるおそる裏返す。
意味もなく、エリザベートは、何もない自分の手の中をじっと見つめる。
それから、仕方なさそうに少しだけ微笑んだ。
「――いっちゃった」
やがて、何がいっちゃったの……? と、おそるおそる訊いてきたのは、立香だった。
ネロと清姫はエリザベートの顔を静かに見つめたまま黙っている。
彼女は立香の顔を見、なんでもないというように首を振った。それから、短く呟く。
「ありがと」
「え?」
「お祝い! してくれてありがとうって言ったのよ! 他になんと聞こえて?」
エリザベートは立ち上がり、ネロと目線を交わす。
彼女は少しだけ寂しげに頭を垂れていた。けれど、エリザベートが片手を差し出すと、にわかに顔を上げてくれた。
「踊るか、ランサー」
「ええ」
飾りつけを踏みつけないようにしながら、二人は即興で、音楽すらかけ忘れたまま踊りだす。
いや、それぞれ勝手に好きな曲を心の中で流してはいたが、結局、疲れて止めるまで二人の足並みが乱れることはなかった。
やがて二人して、飾りつけのパステルカラーの風船の海に倒れ込む。その勢いがあまりにも良く、ぱあんと音をたてていくつかが割れてしまったが、当の二人は、音にひとしきり驚いてから、悪戯の結果を見た子供のようにくすくすと笑い合った。
呼吸が苦しい。しかも、笑ってしまってそこに追いうちがかかっていた。
けれど、エリザベートはその言葉を口にする。
ありがとう、子リスたち。
ネロの部屋に残された、モデルのいなくなった絵はその後ずっと絵具も置かれず、左目が描き込まれることもなかった。
ただ、それでも部屋の主の意向で大切にとっておかれ、偶に、幾人かのサーヴァントが見に訪れるようになったという。