話の区切りの都合上短めとなっていますので、第五十一・五話とさせて頂きました。予めご了承下さい。
その頃の記憶は、
初めて出会った日の事を。
その優しさに触れた瞬間を。
私を呼びかけるあの声を。
共に過ごした日々の温かさを。
そして―――血だまりの上で倒れる、彼女の姿も。
『闇の王』が持つ最初の記憶は、倒れ込んだ地面に感じた土の味から始まる。
身に纏うものは服とも呼べぬボロ切れのみ。靴などなく、足の裏は木の枝や岩によって付いた擦り傷でいっぱいだった。身体も枯れ枝のように痩せ細っており、死体と勘違いされてもおかしくない有様だ。
そんな状態で森の中に倒れていた彼に、一人の少女の手が差し伸べられた。
あなた、大丈夫?と。
木の皮で編まれた籠を持った一人の少女は、心配そうな顔でそう尋ねたのであった。
自身が何故そのような境遇にあったのか、『闇の王』には分からない……というよりも覚えていない。酷く痩せ細ってはいたが背丈は人並みにあったので、恐らくは人生のある地点で住む場所も食うものもなくなり、行く当てもなく彷徨い歩いていたのだろう。
そして、そんな中で彼女と出会った。
彼女は自分の住む村まで彼を運んだ。村長の娘であったその少女は家族を説得して、どうにか彼を家へと迎え入れた。
ボロ切れ同然だった服は簡素ではあるが清潔な衣服に着替えられ、全身に負った擦り傷も時間の経過と共に癒えていった。まともに得られなかった食事も手に入れた彼は、ようやく年相応の風貌を取り戻したのであった。
在りし日の『闇の王』が少女の住む村へとやってきて一年が過ぎた。
相も変わらず彼は少女の家に厄介になっていた。住まわせてもらっている以上、出来うる限り恩を返そうと手伝える事は全てやって来た。家事に炊事、狩りや農作などだ。
その働きぶりに当初は良い顔をしなかった村の者たちも次第に心を開き、いつしか彼が疎まれる事はなくなった。ようやく村の一員と認められたのだ。
良かったね、と。
少女はまるで自分の事のように、そう笑いかけるのであった。
いつ頃からだったであろうか、彼女の事を意識し始めたのは。
栗毛色の長髪をゆるい一本の三つ編みにした彼女。垢抜けてはおらず、しかしそれでいて特別な存在。彼女が好きだと言っていた
飾らないあの姿が好きだった。
無邪気に笑うあの顔が好きだった。
彼女の何もかもが好きだった。
だから……伝えた想いを受け取ってもらえた時は、涙が出るほど嬉しかった。
彼女もまた、涙を浮かべながら笑っていた。
ここから二人の暮らしが始まるのだと信じていた。
普通に生きて、普通に子供を授かり、普通に老いて、普通に死ぬ。高望みはしない、ただ人並みの幸せさえあればそれで良かったのだ。
しかし、運命とは残酷なもの。
その日の夜、突然に、なんの前触れもなく……彼の内に“ダークリング”が現れた。
呪われた不死者は捕らえられ、遥か遠くにある『北の不死院』へと送られ、そこで世界の終わりまで牢に繋がれる。故に呪いが現れた者は身を隠し、息を潜めて目立たずに生きるしかない。永遠に、一人きりで。
かつての『闇の王』は、その事実に耐えきれなかった。
呪いが現れたその夜の内に、彼は村のある男の家へと向かった。その男にはここから離れた街に医者の知り合いがおり、もしかしたら助けてくれるかも知れないと考えたのだ。
そんな儚い希望を胸にドアを叩き、呪いを打ち明けた彼に突き付けられたもの……それは残酷な現実だった。
呪われた不死者を
過去には村の者全員で匿っていたと疑われ、一つの村が焼かれた事もあった。そんな一件があって以来、不死者が出た場合は速やかに突き出すのが人々の常識となっていた。
そんな常識さえも忘れてしまう程に、彼は切羽詰まっていたのだ。
『ふ、不死者だ!?呪われた不死者が出たぞっ!!』
男は悲鳴を上げながら、村の者たちを叩き起こした。真夜中にも拘らず人々は松明と農具を手に集まり、彼を取り囲んだ。
彼は自分は何もしていないと訴えたが、周りは聞く耳を持たない。
服を引っ張られ、殴られ、蹴られ、地面に押し倒され、更に何度も蹴られた。不死者となっても痛いものは痛い。歯は折れ、顔は腫れ上がり、折れた肋骨が肺に刺さったのか溺れるような苦しさと、焼けるような痛みに襲われる。
その時だった。人の波をかき分けて、彼女がやってきたのは。
彼女は目に涙を浮かべ必死な表情で村人たちに彼を許して欲しいと訴えるも、当然ながら聞き入れてはもらえない。そればかりか、彼女が匿っていたのではないかという憶測まで飛び始めた。
『お前、今まで黙っていたのか!!』
『一体いつからだ!?』
『俺たち全員を殺す気か!!』
一つの村が焼かれたという過去に恐怖した人々の不安は爆発的に加速し、それは歯止めが効かなくなり……とうとう冷静さを失った一人の村人が、手にしていた
ゴッ、という鈍い音がした。
次の瞬間には、彼女は糸が切れた人形のように倒れた。
赤い血が見えた。
それはどんどん溢れて、彼女の下に血だまりを作った。
思考に空白が生じた。
全身を襲う痛みも、苦しさも消えた。
目に映る彼女以外の全てが遠ざかってゆき、そして―――。
『………■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ッッッ!!?』
―――感情が、爆ぜた。
殺した。
殺した。殺した。
殺した。殺した。殺した。
ようやく親しくなった者たちも、気さくに笑いかけてくれた老夫婦も、遊んでとせがんできた子供たちも、住まわせてもらった恩がある彼女の両親でさえも―――目に映った者は全て殺した。
気が付けば村は燃えていた。人々が持ってきた松明が家屋の近くに落ち、それが燃え広がったのだろうが、彼にとってそんな事はどうでも良かった。
自分の血と村人たちの返り血で真っ赤に染まった手で、彼女の身体を抱き寄せる。
鼓動の止まった彼女はもう動かない。
瞳は二度と光を宿さないし、あの笑顔を浮かべてくれる事もない。
名前を呼んでくれる事も、手を取ってくれる事も、言葉を交わしてくれる事も……もうない。
何故、彼女が死ななければならなかったのか。彼は呆然とした表情で地面に座り込んだまま、いつまでも自問し続けた。
やがて火災を目にした他の村の者たちがやって来た事により、彼は不死院へと送られた。この夜の出来事は不死者となった若者が引き起こした虐殺劇として世間に知れ渡り、不死者への警戒をより高める要因となった。
それから数百年後。彼は一人の騎士の助けもあって、北の不死院から脱出する事に成功した。
騎士は彼に己の使命を託して逝ってしまった。助けてくれた恩はあるが、それに従わなければならない理由はない。それでも騎士の遺言に従って巡礼の旅に出たのは、純粋に彼女の為であった。
何故、彼女は死ななければならなかったのか。その答えはいつまで経っても出なかった。
ならばせめて、彼女の死を無意味なものにだけはしたくない。彼女が庇ってくれたこの命を、無駄に朽ち果てさせてはならない。その一心で彼は巡礼の旅へと出かけた。この世から呪いを消し去り、再び平和な人の世を取り戻す為に。
……その呪いが、他ならぬ神によってもたらされたものであるなど、この時は知る由もなかった。
深淵の蛇の口より明らかとなった世界の真相。
神々の時代を延命させる為だけに振り撒かれた、今なお人の世に
全てを理解した『闇の王』の頭に真っ先に浮かんだもの―――それは彼女の事だった。
『神がこの呪いを振り撒いたのであれば、彼女の死は一体何だったのだ?』
『彼女は何故殺されなければならなかった?』
『これでは……これでは、彼女の死は全くの無駄ではないかッ!!』
『闇の王』は怒り狂った。
枯れたはずの涙が溢れ、全ての悲劇の元凶たる神への怒りに身を震わせる。呪いを根絶させる為にしてきた旅が、実は神々の時代を延命させる為だけのものであったと理解して。
その様を、深淵の蛇はただじっと見ていた。
……やがて落ち着きを取り戻した『闇の王』は、深淵の蛇に背を向け篝火の前に立った。
『不死の勇者よ。何処へ?』
『……決まっている』
『闇の王』は振り返る事もなく口を開いた。
『……神を殺しに』
『それは、グウィンの事か?』
『……それだけではない』
『?』
深淵の蛇は僅かに首をかしげ、続きを促す。
『あらゆる時代、あらゆる世界。過去、現在、未来……そこにいる全ての“神”どもを殺す。それこそが私の新たな使命……いいや、目的だ』
『何故、そこまでする必要が?』
『……ただ私が、そうしたいからだ』
酷く冷たく、しかし憎悪の炎に満ちた声。深淵の蛇はそこに“光”と“影”を見た。
“光”とは、即ち“確信”。この男ならば必ずやグウィンを斃し、世界に真の闇をもたらしてくれるだろうと。
そして“影”とは即ち“予感”。この男の行く末に待ち受けているであろう“終わり”に対する、漠然とした不吉さである。
しかし、それはわざわざ忠告すべき事でもない。
深淵の蛇は消えゆく『闇の王』の姿に目を細め、届かぬと承知で言葉を零した。
『……どうか貴公に、闇の導きのあらん事を……』
こうして『闇の王』の新たな旅が始まった。
あらゆる世界を行き来し、そこにいる神々を殺す。真の人の世を創ると語り、その大望を掲げる彼の元にはいつしか多くの不死人が集い、彼らは忠誠の証として闇の鎧に身を包んだ。
その中でも突出した強さを誇る五人がいた。
かつて心折れ、しかし再起した青き戦士。
師を追ってやって来た魔術師。
火を極めんとする呪術師。
父親殺しの大罪を背負った娘。
そして、自分だけの太陽を探しにやってきたという男。
この五人のみこれまでの姿で『闇の王』のそばにいる事を許され、組織における幹部のような存在となった。
神殺しの旅団の誕生だ。
しかし彼ら全員……否、
『闇の王』が神殺しを続ける理由。
あらゆる時代、あらゆる世界。過去、現在、未来……そこにいる全ての“神”を殺し続けるという執念の根幹には、やはり彼女の存在があった。
不死者となった自分を庇ったばかりに命を落としてしまった彼女。その死を無駄なものにしないという一心で歩み続けた巡礼の旅は、しかし神によって仕組まれたものだった。
もはやどこにも救いはない。ならば、そんなものはもう要らない。
真の人の世を創る。神々に縛られ生きる哀れな人の子らの目を覚まさせ、解放する―――そんなお題目を掲げて多くの不死人を扇動した『闇の王』は、“神”と名のつく者たちを殺し続ける事だけ……ただそれだけの存在と成り果てた。
“神”と名のつく者たちを殺し続ける事でしか、彼女の死に意味を見出せなくなってしまっていたのだ。
それで良いと、彼は理解している。
神々を殺し続ける為に、神々を殺し続ける。その目的を果たす為に行動し、その行動こそが目的そのもの。そんな破綻した理論が『闇の王』を歩ませ続け、正気を保つ原動力となっていた。
もはや止まれない。止まろうとも思わない。
北の不死院で見つけ、台座部分に彼女の横顔を自らの爪で彫り込んだペンダント。鎧の中に仕舞い込んだその輝きと、かつての思い出だけを胸に『闇の王』は歩き続ける。
神々の悲鳴と同胞たちの雄叫び、そして屍の山だけが築かれてゆく、血に塗れた旅路を。