リツはここのどんな猫より小さくて、本来親から教えられているはずの事もまだ教えられずに来たようだ。猫たちは家族で学習をするのが当たり前なのにな…。
飼い猫の俺達は狩をする事はないけど、きっとご先祖様は群れで獲物を仕留めて家族のために肉を持ってきたのだろう。
臭いをつける事、縄張りを主張する事、そして毛づくろいを丁寧にしなければいけない事。
だけどめったに耳の後ろを掻いてはいけないこと、(これは雨になるという迷信があるからだそうだ。)
人間は大好きでも甘えすぎてはいけないこと、だけどたまにはごろごろと甘えて喉を摩らせてやらなければいけないこと。
マタタビに惑わされて腰を抜かさないこと…。(経験談)
ヘニャヘニャと媚びず、山猫の子孫なのだから気高く首を上げていないと『いめーじ』が崩れるらしい。
面倒だけどそれが猫のプライドってもんだ。
そんな事をペロペロと顔を舐めながら教えてやるうちにリツはすっかりなついて、マサムネ、マサムネといつも俺にべったりとくっついて歩いた。
だけどリツは子猫だから、昼間はサークルに出してもらえていたけど夜はケージに入れられていて、一日中家の中を自由に歩ける俺とは違って寂しい寂しいと泣いた。
だから俺はいつだってリツのケージの上寝てやっていたんだ。カーテンの隙間から見えるお月様の光に照らされるリツは白い毛に透けて見える豹紋が星のようにキラキラと光っていた。
「お前。綺麗だな。」
そんな風に言うと、「マサムネも夜のお空のようにツヤツヤできれいです。」
リツは夜でまん丸くなった瞳をキラキラさせて笑った。
そんな顔にどきりとして、そんな風に思う自分が気恥しくて、尻尾が揺れるのを止められなかった。
そんなある日、ソファーの部屋の方からドンという大きな音がした。それはばあさんが普段いる部屋だった。
いつもは少し開いているドアがその日に限ってぴったりと閉じていた。
あわててガリガリとドアを引っかくけど開かない。
ニャーニャーと叫ぶと一緒に住んでいる黒と茶の奴が、棚の上からならドアノブを引けるんじゃないかと言う。
見上げる棚は何か所に棚板があるからどうにかなりそうだ。
得意のジャンプを何度かして一番高い所からドアノブめがけて飛び降りて、金属のドアノブにつる下がるがるとノブが下がって俺の重みでドアが開いた。
他の仲間と中に入るとそこでばあさんがうつ伏せで倒れていた。
クンクンと嗅いでみるけど息をしているかどうかわからない。
ばあさんはピクリとも動かなかった。
そしていつか見た仲間と同じ、あの嫌な感じの空気が漂っていた。
顔をペロペロと舐めて耳元でニャーニャーと声の限り呼ぶけどばあさんは顔を上げない。爪で服をひっかいて背中を踏み踏みしても起き上がらない。
マサムネって言って抱き上げてくれない。
誰か!ばあさんがあの臭いの奴にやられてしまう。
焦っても慌てても誰も来ない。
ケージに入れられている猫たちもみんなで声を張り上げて鳴いたけど家には誰もいない。
「おばあちゃんが、おばあちゃんが」とリツがミーミーと赤ん坊のように泣いている。
どうしたらいいのか分からない。
あの嫌な臭いのやつに食われてしまう。
しかしどんなにあせっても何にもできなくて、俺は無力を突きつけられたのだった。
俺には部屋のドアをあける事はできても締め切られている外へと続く銀の引き戸は開けられない。
高い棚には乗れるけどばあさんの目を開かせることができない。
あの嫌な臭いにどんどんばあさんは侵食されていく。
嫌だ、嫌だ。
助けて!
一日中鳴き続けて声が枯れた頃、「へるぱー」というヤツがばあさんを見舞いに来た。
何時もは寄り付かないようにしている俺だったけど俺たちは声を振り絞って必死にばあさんの異変を知らせるために鳴いた。
帰りかけた「へるばー」は、俺たちの声をいぶかしく思ったようで奥に来てばあさんを見つけてくれた。
ばあさんはそれからうるさい音の車に乗せられて行った。
そして俺たちの前には…、二度と現れなかった。
▽
「息子がさ、猫嫌いなんだとさ。」
「そりゃそうだよな。息子より猫大事って家だったし。」
「だからこうやって猫の貰い手探してるんだって。」
何度目かの「じょうとかい」というのが開かれた。
ばあさんがいなくなってから一度だけあの息子が来た。
そして舌打ちをして俺たちにひどい事をしないことという条件付きの遺言書があるから殺さずにいてやると言った。
そのことからばあさんはもう俺たちのことを抱きしめることはできないところに行ったらしいと分かった…。
ばあさんの代わりに俺たちを可愛がってくれる人を「じょうとかい」では募っているらしい。
俺達は「それなりに」「けっとう」のいい猫なのだそうで、その愛好家の伝手という奴で仲間たちの多くは優しそうな人たちに引き取られて行った。
でも俺は背の毛を逆立てて俺に近寄る奴を威嚇してその手を拒んだ。
ばあさん以外の飼い猫になるぐらいなら野良猫になった方がました。
そう思っていた。
「こっちの黒いのは遺言で行き先が決まってんだって。」
「こっちの白いのは?」
「うーん、どうだったかな?」
「もし貰い手なかったらどうなっちまうの?こいつら?」
「うーん、保健所とかか?」
「え~。殺されちゃうってこと?」
「ライオンサファリの餌だったりして。」
「食われるのか?」
「やべーな」
そいつらはハハハと笑って遠くに行った。
しかし俺の心は驚きで止まってしまっていた。
殺される…。死ぬ?!
リツがあの嫌な臭いのするやつに食われる?
それは嫌だ!
そんな事になったら俺の心が今度こそ壊れてしまう。
そうだ…、先日もリツはマサムネと離れたくないと言って人間の子どもの手を引っかいた。
凶暴な猫は要らないとせっかくもらってもらえそうだったのに駄目になったのだ。
どうしよう。俺のせいなのか?俺がリツのそばにいるから?
ごめんリツ。俺はお前と一緒にいたい。でもそうするとお前が死んでしまうかもしれない。
どうしよう…。
リツが…。
▽
「まだやってるってさ、タカノ。」
「だから俺は猫はいらねーつってんだろ。」
「しゃーねーだろ、井坂さんにお前ら見に行けって言われたんだし。フリぐらいしないと。」
俺とそっくりな髪と目の色のヤツがあまり楽しくなさそうな顔をしながら入ってきたのが見えた。
多くの訪問者は俺達猫を見るとニコニコと嬉しそうにしているけどこんな奴は初めてだ。
嫌がってる奴にいやいや引き取られるなんてまっぴらだ。
もし誰も俺たちを希望しなければ俺はリツをさらって逃げてやる。
リツを「ほけんじょ」なんかに行かせやしない。
俺はもうそう決意を決めていたのだ。
「はは、見てみろ。お前に似たふてぶてしい感じのがいるぞ。」
さっきの男の片割れが俺を指さして笑った。
「タカノ」は俺を見て眉間に皺を寄せてフンっと鼻を鳴らした。俺の首輪には何か紙がついているので人はそれを見て俺には手を出そうとしない。
良くわからないけど俺は「対象」ではないという。対象ってなんだ?
今日は大人猫も少し決ったらしい。
遠方から来る人間が多いせいかあらかじめ何らかの話がついているみたいで、大体当日に猫たちはいなくなってしまう。
子猫は決まる率も高いらしいけど大人の猫も「けっとう」がいいから決まる率が高いのだそうだ。
そしてもう子猫はリツしか残っていなかった。
だけどリツはいつも怖がってサークルの俺の影でガタガタと震えてマサムネマサムネと泣いていた。
だから人間はリツを気にしても結局引き取る気持ちにはならないようだ。
人間に慣れない猫の中でもリツは特別に憶病に見えたから。
「その白い子はリツって言います。」
「ほけんじょ」に行くかもと言っていたヤツがニコニコとサークルの中を覗いているタカノと呼ばれたそいつに言った。
「リツ?」
「ええ。」
「生まれた猫にアルファベット順に名前をつけているブリーダーさんで、その家の猫の中でRの順番に生まれた子猫です。珍しいスノーで、きちんと購入すると7桁は下りませんが事情が事情なので今回は譲渡という形になっています。当然血統書はお付けしますよ。」
「リツ、か…。みどりの目だな・・・。」
いつもリツを抱こうとするヤツがいても俺は背の毛を逆立てて威臓をした。そしてリツは嫌がってずっと泣いていた。
しかし今日の俺はそれができなかった。リツがここでもらわれないと殺されてしまうかもしれないと知ったからだ。
連れて逃げればいい。
そう思うけど俺は野良猫暮らしをしたことがない。
こんな小さくて泣き虫のリツにそんな暮らしができるのだろうか。
気持ちは大きく揺れていた…。
「マサムネ!マサムネ!」
リツがいつもと違う俺に泣いて縋る。
タカノの伸ばしてよこした手に爪を立ててリツを守るんだと思う気持ちと、リツがちゃんとした飼い主にもらわれて行くのがリツの幸せだと思う気持ちでグルグルしてしまう。
タカノがリツをヒョイと抱えあげてのどの下をスルスルとさする目が初めて見たときの顔と異なりひどく優しく見えた。
おびえた目をしたリツはじたばたと暴れていたけどタカノが「手続きを」と言ってリツを別の部屋に連れて行った。
「マサムネ!マサムネ!」
リツはずっと泣いていた。
今まで聞いたことのないような大きな声で…。
俺は耳をふさいでうずくまった。
リツの声は大きくてどんなにギュッと耳をふさいでも聞こえていた。
そしてずっとずっと声を殺して俺は泣いた…。
りつ、好きだ。大好きだ。俺の事は忘れて。
でも俺は忘れないよ。
りつ、大好きだよ…。
▽
やがてばあさんの家から俺以外の猫はいなくなった。俺はとうとう一人ぼっちになってしまった。
ばあさんのくれるご飯はいつも美味しくて幸せな気持ちになった。
世話をしてくれる奴がカラカラと音を立てて椀に簡素な飯をよそう。
それを一人でポリポリと噛むと寂しさがこみあげて来てまた泣きたくなった。
そんな時ドアがスっと開いて見知らぬ奴が入って来た。
すらりとした細身のヤツでその顔は初めて見るはずなのになぜか懐かしい感じがした。
「マサムネ、遅くなってごめんね。おばさまから君の事を頼まれていたのに来るのが遅れたんだ。」
そいつが座っている俺の目の前にしゃがみこんで目の高さに顔をおろした時、懐かしいと思った訳が分かった。
そう、そいつはリツと同じ緑の目をしていた。
それからそいつは慣れてなさそうな手つきで抱き上げてから俺を胸の中に埋め、スルスルと背を撫でて俺の家族になってくださいと言ってくれた。
俺はその温かさに酔ってしまいそうになって、小さくニャンとだけ鳴いた。