オノデラとマサム猫
きついケースに入れられて到着したオノデラの家は、今までのばあさんとじいさんの家とは比ベ物にならないほど小さい部屋だった。
それでも俺はここでも檻に入れられず、部屋をのびのびと闊歩できた。
オノデラは猫に不慣れな様子で店屋で言われるがままにペットタワーを買ったり、おもちゃを買ったりして、俺が興味を示さないとがっかりと肩を落とした。
さすがに猫だとしても一宿一飯の恩義を感じなくもないからたまにじゃれてやろうとするとビビッて「ヒッ」と指を引っ込める。
変な奴。
だけどご飯はいつだってなかなか極上のパッカンだしチュールもある。
おそらく店のヤツにいいように言われてまんまと買わされたんだろう。でも俺は歓迎だから喜んでるぜ。
ばあさんは太るとか歯がわるくなるとか言ってカリカリと熱で煮たグズグズのヤツを混ぜてご飯を作ってくれてたけど、こっちの方が匂いとしてはうまいような気がする。身体に悪い奴の方が旨いに決まってる。うまさを求めた結果が身体に悪くなったんだろうかなら。
健康ってなんだかわかんないし、俺達をその気にさせる何かヤバイモンが入ってるのかもしれないけど、まあ面倒な事は分かんねーし旨けりゃなんでもいいからさ。
パッカンと音を立てて開く蓋には銀の長い毛の同胞の顔が映っていた。
銀の毛、リツ…。
オノデラは忙しいようでお日様が出ている時間は居ないことが多くて寂しいけどそれでも不幸だとは思わなかった。
毛並みの艶が落ちたらお空のおばさまにしかられるからとオノデラは俺の毛を櫛ですいた。
そして時々外に連れ出されて泡で洗われたりもした。
オノデラが俺を大事にしてくれていることが分かる。だから俺はやっぱり不幸じゃない。
ただ、ここにリツがいないことが悲しい。
リツがいたらもう少し不幸でも我慢できるのに。
両方欲しいって思うのは欲張りなんだろうか。
俺は猫だからよくわからない…。
オノデラの笑う顔は人のオスには思えないほどで、こいつはちゃんとメスを嫁にできるのだろうか?たまに来る髪の長いメスはオノデラに誘う香りをプンプンと立てているのにこいつは鼻が悪いのか少しも分からないらしい。
一度ちゃんと教えてやらないとだめなのかもしれないな…。
首の後ろをがぶりと噛んで動けないようにして、口元をペロペロと舐めてやんないとだめなんだってことを。
人間て賢いけど馬鹿だな。
オノデラだけかもしれないけど。
▽
もともとこの部屋にあったらしい少し古びたソファーは俺が寝るには高さも幅も丁度良く、いつだって俺のテリトリーだ。
オノデラはのびのびと寝転がる俺がいるから座れなくてソファーの下のラグでひざを抱えて人間のフードを食べている。
ばあさんは自分用に熱を使ってコトコト煮て旨そうな香りのものをこしらえてたけどオノデラはどうやらピッと音のなる機械でそれを作るらしい。
四角いそれは湯気は立っているけどあまりうまそうな臭いはしなかった。
基本的に、俺はオノデラには甘えなかったしオノデラも俺に過度の干渉をしない。
俺が寝ていても軽く背をさするぐらいで自分の都合でしつこく猫じゃらしを向けてじゃれさせようともしなかった。
そしてたまに…、俺の瞳を見てかすれた声で「まさむね」と甘く呼んだ。その声はリツを思い出させて俺は泣きたくなるから嫌だった。
『さ』が『しゃ』と少しだけ舌足らずになるところも、ちょっとだけ寂しい色に見える緑の瞳も、白い肌も。
俺も泣きたくなる時は決まってオノデラも泣きそうな顔をするから、俺を呼ぶ声が止んで俺を抱き寄せる時だけは爪も仕舞ってオノデラの好きにさせてやることにしている。
リツはタカノに可愛がってもらえているのだろうか?
リツを見たタカノの目がとても優しかったので、俺はきっとそうに違いないと思い込むしかなかった。そして今もそれを信じるしかない。
それでもたまに不安に駆られる。
もし、もし、もしリツが不幸だったらどうしようかと…。
リツ、リツ、もし願いがかなうならもう一度お前に会ってお前の柔らかな毛並みに触れたい。口元をペロペロと舐めて好きだと言いたい。
叶うはずがない事は分かっているけど猫だってたまには神様にお願いしたくなることがあるんだ。
リツ、リツもお願いしてくれているかな?俺に会いたいって今でも思ってくれているかな?
でも、別れた時のリツの泣き顔を思い出すと不安になって、お願いをリツが幸せでありますようにと替えて、祈った…。
ある日、オノデラは「マサムネも今日で1才だね」と背にブラシを当てながら言った。
1才ってなんだ?食えるものか?
言葉の意味が分からなくてその翡翠の瞳をじっと見つめると、オノデラが目を月形に細めて「マサムネはやっばりハンサムだね。お嫁さん欲しい?」と聞く。
俺にはもうお嫁さんはいるのだから、もう一生会えないけどリツ以外のヤツを嫁にするつもりはないから。
興味ないとばかりにあくびをしながら視線を外すと「そっか」とオノデラは少し楽しそうに笑った。
それから少ししてオノデラが笑わなくなった。いや、笑ってくれるんだけどそれは心から笑うあの優しい笑顔ではなかった。
『会社』という所に行って帰ってくるといつも大きなため息をついた。
俺とオノデラは常にある一定の距離を保って生活をしていたけど、ソファーの前で転寝をしているオノデラの目から涙がこぼれているのをみて俺の心も何だか苦しくなった。
オノデラは寂しいのかもしれない。
俺だってリツがいなくなって寂しくて一人で何度も泣いた。
人間だって猫だって寂しければ泣くんだ。
1人ボッチだったら泣くんだ。
でも俺とオノデラは一人ボッチじやない。そう思ってオノデラの涙をペろりと乱めてやる。
リツが泣いていた時に涙を舌でぬぐったのと同じように。
オノデラは寝たままだったけど探るように手を伸ばして俺を手繰り寄せた。
俺はそれを嫌だと拒絶する事をせずにその胸に抱きしめられるままにいた。
オノデラの腕の中は暖かくて安心できた。
オノデラも俺を抱きしめてからは涙も止まって安心したような寝顔をしていた。
仕方がない。男二匹で生きていくんだから少しぐらい我慢してやる。だからもう泣くな。
スウスウと規則的になった寝息を聞きながら、いつの間にか俺も気持ちよくなって眠り込んでしまった。
それから少ししてオノデラが引越しをすると言った。
会社も辞めてテンショクをするとも言った。
良く分からないけどそれからのオノデラは寂しそうでも辛そうでもなかった。
入りたくてウズウズするような魅惑的なダンボール箱をいくつも部屋に置いて、中にいろいろと詰めて、忙しそうに家を出たり入ったりした。
今までいた『まんしょん』のケイヤクが終わったから、少しだけ広い家に行くことにしたのだそうだ。
新しい家は高い場所にあるらしく窓の枠に座ってガラス越しに外を見るとずっと遠くまで街が見渡せた。
この空のどこかにリツがいるんだ。
リツは泣いてないだろうか?
腹を空かせていないだろうか?
タカノはオノデラが俺を可愛がるようにリツを可愛がってくれているのだろうか?
あの緑の瞳が見たくて泣きたくなってオノデラを見ると、オノデラの優しい瞳が俺をちゃんと見てくれていた。
緑の瞳に黒い猫の顔が映って、それが俺だと分かった。
きっとあの頃のリツの目にも俺はこんな風に映っていたんだろう。
リツ、会いたい。
もう一度でいいから会って頬を撫でたい。
でもそれは叶わない夢だから俺はオノデラのほっぺたをペロペロと舐めたのだった。
人間の風習では引越しをしたら蕎麦を近所に配るのだそうだ。
オノデラは「さすがに今は蓄麦をどうぞっていう訳にも行かないからタオルを持ってご挨拶に行くんだよ。」と言って「ペット可」というこのマンションのお隣に俺を抱いて向かった。
▽
[1201号室 リツにゃんこ]
どんなに泣いてもマサムネは俺を迎えには来なかった。
そして、俺はマサムネに捨てられたのだと声の枯れ果てたある日悟った…。
優しいおばあさんがいなくなって、いろいろな人に撫でられたり抱かれたりして、もう俺の心は怖くて限界だった。
でもおばあさんがいなくてもマサムネはずっと俺といてくれると信じていたのに、マサムネは泣く俺を見捨てた。
泣いてばかりいて煩かったんだろうか?
うざくて面倒になったんだろうか?
本当は俺のことなんて好きじゃなかったんだろうか?
それでもいつかマサムネが迎えに来てくれると信じていたのに。ずっとずっと信じていたのに、声が枯れ果ててもマサムネは来なかった…。
泣いてばかりいる俺を温めてくれたのはタカノだった。
おばあさんの優しい指とは違うけど俺を抱き上げるタカノの手は大きくて、恐怖に震えながら爪を立てても優しくリツと呼んで撫でてくれた。
だからもうタカノがいればいい。マサムネがいなくてもタカノだけがいればいい。
タカノはいつも俺をパーカーの懐にスポンと放り込むように入れて一緒に過ごしてくれた。
ゆるゆると揺らされて、すっぽり包まれる安心感に浸れるそこが好きになった。
だからタカノが『仕事』に行ってしまうと寂しくて、いつだってドアの前でタカノがリツって呼んでくれる時を待っていた。
タカノが眠ればその横でタカノに触れて寝る。
リツって呼んでくれる。
泣いていると慰めてくれる。
もうマサムネの黒い瞳も思い出せない。
タカノの黒いつややかな瞳が俺を見てくれるからいいんだ。
タ力ノ、もっともっと撫でて、俺と遊んで、俺を抱きしめて。
俺をタカノでいっぱいにして。
全部忘れるから。
ドアのチャイムがピンポンと鳴った。
人間が来るとあれが鳴るらしい。
タカノがハイと言ってインターフォンをとると「こんにちは。隣に越してきたオノデラといいます。」とタカノより少しだけ高い声が聞こえてきた。
▽
[chapter:1201号室 タカノ]
そう言えば最近隣で引越しがあったようだった。仕事が忙しくて外のことを気にもしていられなかったけど管理会社がメールで連絡を寄越していた。
リツが飛び出さないように居間のドアを閉めてから玄関を開くと、そこにはすらりとした明るい髪の男性が立っていた。
中性的な顔は馴染みのある緑の色、ああ、うちのリツとよく似ている。
胸に抱いているのは飼っている猫だろう。
このマンションはペット可で、特に猫を飼っている人ばかりの猫マンションなのだ。
「ベンガルですね?」
挨拶もそこそこに思わずそう声をかけると、その人物オノデラさんは少しだけうれしそうに目を細めて「そうです。さすがよくお分かりですね。」と言った。
オノデラさんの腕の中の黒猫が俺の顔を見てピクリと耳を立てた。
「うちにもベンガルがいるので気になるのかな?」猫マンションのお隣同士、基本的には他人となれ合うような性格ではないけど同じ種類の猫を飼っているとなると悪い気はしない。
居間のドアを力リガリと引っかいているリツをひょいっとつれてくると仲良くできるかな?とオノデラさんが黒猫を少しだけ近づけた。
黒猫は急に激しく二ャー二ャーと鳴いて、驚いたのかリツは目の前に差し出された黒猫の顔を思い切り引っかいたのだった。
「リツ!」「マサムネ!」
互いに猫を呼んだ声が交差し、次の瞬間お互いが「え!?」っと目を見合わせた。
慌てて逃げ去ろうとするその腕を無理やりに掴んでドアの中に引きずり込むと、その人はギュっと身を縮める。不安定な姿勢になったせいで猫たちも腕から落りて、リツはあっというまに奥の部屋に隠れて、黒猫もその姿を追ってドアの向こうに消えて行った。
「マサムネ!」慌てて追いかけようとするオノデラさんを止めて肩を掴んで振り向かせてもう一度その顔を見るとやはりそこには…。
「律?」
そうと言うとその人は顔を背けて「やめてください」と言った。
それはひどく冷たい瞳だった。
▽
「リツ!リツ!何で逃げるの!?リツ!」
俺は目の前にいるリツが俺をにらんで爪を立てたのに困惑していた。
どうしてリツ、会いたかったのにリツ。
「気安く名前を呼ばないで!あなたなんて知らない!もう忘れた!」
リツは背の毛をブワっと逆立てて俺に威臓をした。
「そんな馬鹿な!何で忘れたなんて言うの?俺は一秒たりともリツのことを忘れたことなんてなかったのに!」
何が起こっているのか分からなかった。リツが俺を拒絶するなんて…。
「うそ!俺を捨ててあんな人と楽しそうに暮らしていたくせに。」
「あんな人ってなんだ。オノデラは俺のご主人様だ。」
「なら俺のことはもう放っておいて。俺のご主人様はタカノだから。」
焦がれたリツの瞳に、俺の困惑した黒い瞳だけが映し出されていたのだった。