[1202号室 マサム猫]
引っ越しをしてからオノデラはタカノを避けている。
だから俺はリツと話をすることもできずにいる…。
隣の部屋にリツがいるのに、猫の身が恨めしい…。
そんなある日。
だめだオノデラ!ドンクサイとは思ってたけどお前はそんなこともできなかったのか!?もっと上半身をひねるんだ!キュッと。足から降りるんだ!何でお前の手足は無駄に長いんだ!
オノデラが何かをしようとしてソファーに乗せた不安定なスツールの上に立ち、結果バランスを崩した。
お前は絶対に何かをやらかすからやめておけと足に縋って警告をしたのに、オノデラは「大丈夫」と笑って俺の頭をスルスルと撫でたすぐ後の出来事だった。
落下の最中の光景はまるでコマ送りのようにゆっくりと感じた。
オノデラは俺の忠告が耳に入ったのか入らなかったのか不自然に少しだけ身体をひねったものの、大型犬よりもっともっと大きいその身体はテーブルのガラスの天板の上に一度落ちて、さらにそれを突き破って大きな音を立てて床まで達し動かなくなった。
目の前には今までテーブルだった厚いガラスが大きく砕けて海のような朱色が床を染めていた。
オノデラ!
誰か!誰でもいいから誰か!と、俺はばあさんが居なくなったあの日と同じように助けてくれる誰かに向かって叫び続けたのだった。
[1201号室 タカノ]
小さなリツがいる部屋ではだめだろうと、蛍族よろしくベランダで煙草を吸っていると隣の部屋から短い叫び声と破裂音と何かが落下したような大きな音がした。
あまりにも重々しい音だったために激しく動揺してその後の経過を漏らさないように耳を澄ますが、その部屋の中からは続く物音はしない。
ただ猫だけが発情の声のようにギャーギャーと泣き続けていた。
ベランダを仕切る板を隔てて覗くが隣の部屋の中など見えるはずもない。
他人の家だ。そう簡単にプライバシーを見るチャンスは設けられていない。
板をバンバンと叩いて「オノデラ!」と叫ぶけど返事はない。窓から出てきた猫が行ったりきたりを繰り返しながら野太い声で鳴き続けていた。
もし何もなければオノデラには謝る。もろもろの責任は俺がとればいいだけの話だ。
腹を決めて仕切り板を思い切り蹴破って、足元の猫を抱き上げオノデラのいるであろう部屋に押し入ると、部屋の中は砕けたガラスと気を失っているらしいオノデラと…、床に広がる血。
頭の怪我は血が多く流れるとは聞いていたがさすがにこれにはビビった…。
驚いて肩を掴んで抱えあげようとすると、オノデラは落ちたときより大きな声で悲鳴を上げて痛がった。
短く呻くオノデラの姿に怯んで起こそうとする手をさっと放すと、意識が戻ったようで今度は自分で起きようとしてオノデラはまた悲鳴を上げた。
割れたガラスで他の場所を切ることも心配で、本当は壊れたテーブルのフレームの隙間から引き出したかったけど触れるたびに痛がるオノデラをそれ以上どうこうすることはできず、救急車が来るまでの間血を止めるためにタオルで頭を押さえ、顔や手足を拭いて大丈夫だと慰めながら頬を撫でるだけで精一杯だった。
救急隊員は痛がるオノデラに容赦は一切せずにさっさと担架に乗せて病院に搬送した。
そしてそれはひどく正しい姿だと思った。
でもこれは近しい人間には難しい事だ。
加減が分かるからこそできる神業なのだろう。
猫達は二人並んで心配そうに少し遠くから見ていた。
まるでマサムネをリツが慰めるようにさえ見えて、こんな状況なのに少しだけほほえましかった。
リツとマサムネの耳の後ろとあごをさすりながら「少し出かけてくるけど大丈夫だから。」と言うと、リツが短く二ャンッと鳴いた。
オレに任せろと聞こえたような気がして、もう一度リツの小さな頭をグリグリとわしづかみして撫でて俺はオノデラを乗せた救急車に同乗して病院に向かったのだった。
▽
「け、蛍光灯が切れたみたいで交換しようとしていたんです。」
救急車の中でオノデラは痛みに震えながらも事の起こりを短く説明した。最近ちらちらするのでやっと週末になって蛍光灯を買ってきたのだという。
「この機会にLEDに換えようと思っていたのですが、ソファーに乗せた椅子が不安定でバランスを崩しました。」
ソファーに椅子?しかも思い出してみると転げていたのはひょろりとしたそもそもの安定も悪そうなスツールだった。
「管理事務所に言えば良かったのに。」
いや、俺に言えばよかったのに…。
「そんなことぐらいって思ったんです。」
「それでこんな大怪我してりゃ意味ねーし、あほじゃねーの!」
オノデラ自身がオノデラを怪我させた事に、矛先の定まらない怒りを投げてしまいオノデラがそこでぐっと言葉を詰まらせる。
しまった。一番後悔しているのは本人だろうに…。
「わ…「ご迷惑をおかけしました。いろいろありがとうございました。」」
悪いと謝るつもりがさえぎられ逆に謝られて機を逃してしまった。オノデラは俺にそう言ったあと、横を向いて二度と口を開こうとはしなかった。
▽
世間は狭い。
こんな形で再開するとは思わなかった。
再開…。
実は俺とオノデラは昔ほんの少しの間付き合っていたことがあった。男同士だけどな。
しかし俺はオノデラを何かで怒らせたらしく、オノデラは俺に回し蹴りを食らわせそのまま姿を消した。
まるで幻だったのかと思えるぐらいオノデラは縞麗に消え、俺も家のごたごたで引越しと転校でオノデラを探すことはできなかった。
そもそも「オノデラ」ってなんだ?
あの頃「オダ」だったよなって思ったけど、自分の境遇を省みても苗字が変わるという事は…、ないことではない。
俺は親の離婚、こいつは??
ひとり身だから婿に行ったとかなさそうだし、やっぱり親が離婚したのか?
想像を巡らせても本当の答えにはたどり着かない。
教えてもらわなければ分からない。
避けられ続けているために事の真意も結局今でも確かめられないけど、確かに十年前の俺たちには何か見えなくてどうすることもできない負の運命が存在していたのだろう。
だけど、昔の別離を神様とかなんか上の方から見ているやつが可愛そうだと思ったのか、隣に越して来た上に、俺の勤める建築事務所にオノデラが転職してきたのだ。
もともとオノデラは大手建設会社(ゼネコン)の直系の御曹司で、大学を卒業後はそこで勤めていたそうだけど妬みなどの社内でのいざこざや、公共工事の入札にかかわる生臭い意向や自分の立ち位置にぐらぐらしてしまってこの丸川デザイン事務所に入ってきたのだ。
もともとチームを組むような大きな構造建築などを手がけていたのに一般家庭の住宅やリフォームなどのチマイ仕事を扱う畑違いの仕事に毎日目を丸くして驚いている。
「こんなところにカウンターつけるんですか?しかもむくの一枚板だなんて無理でしよ?」
「クライアント様がそれでいいって言ったらそうするのが俺たちの仕事だ。」
「そんな馬鹿な!構造的にもデザイン的にも意味不明じゃないですが。」
「家ってのはな、理屈じゃねーんだよ。夢なんだ、夢。それをいかにかなえてやるかが俺たちの仕事だ。無理とか言ってねーでどうしたら実現できるか考えろ!計算式じゃ出ねーよ。」
「工メラルドチームはママやパパの味方だからね~タカノさん。」
そう、俺たちは主にオトメチックな希望をかなえることが多い部署としてピカピカキラキラ工メラルドチームと呼ばれている。
たいして金にはならなくても、みんなの夢をできるだけかなえてやりたいと思って仕事をしている。
おお、横道にそれた。
そんなこんなで家も隣で上司と部下、ついでに同じ種類の猫を飼っているという非常に近い関係にも関わらず、オノデラからは過去のことでプライペートな通信を一方的に切られている。
それでオノデラだけど…。
左手の骨折。足の捻挫、身体の打ち身(頭の怪我は、傷自体はそれほどたいした事はなかった。)で、全治ーケ月となった。
図面引きなど家でも出来るから問題ないんだけど、そもそも歩行も困難な状況は否めない。
何しろ足が痛くて杖を突いて歩くのに支える手も痛い。すがるものにすがれない状況でどうやって生活するのか考えれば答えは一つだけ。
リフォームのプロとしては早速(本人には断りなく)話を進めていくしかないのだった。
[1201号室 リツにゃんこ]
タカノが俺の頭を撫でてオノデラと一緒にいなくなって、いや、その前からマサムネはぼうっとしているみたいだった。
隣に俺が来てやったのに分かってないみたいで、まるで置物の猫のようだ。
マサムネがこんな風になるなんて初めてでちよっと怖かった。
マサムネのことは赦していないけど「来いよ。」とマサムネの首にかじりついて、このムッとするいやな臭いのこもった部屋からタ力ノの部屋に行こうと促すと、初めてマサムネはパチパチと瞬きをして俺を見た。
「どうしよう…。オノデラもあのいやな臭いに連れて行かれたら・・・。」
いつもの強気の黒い目は不安に揺れていた。
「俺はまた一人ぼっちになってしまう…。」
そこには強くて頼りがいのあるマサムネはいなくて、大事な人がいなくなるかもしれないことにおびえる弱々しい猫だけがいた。
そうだ、マサムネはおばあさんが動かなくなった時も見ていたんだ。そして俺がいなくなった時も。
まあ、俺はマサムネが無理やりに追い払ったようなもんだけど。
「い、今のお前には俺もタ力ノもいるじゃないか。一人になんてしないし!きっとオノデラだってすぐに戻ってくる。」
オノデラをみるタカノの目が優しくてむかつくけど今はそれを許してやる。うん、仕方ないから許してやる。マサムネが弱ってるから許してやる。
自分よりー回り大きなマサムネがタカノの部屋に入ると同時にふらりと横になって、自らを抱きしめるようにくるりと頼りなげに丸くなった。
俺はなにも言わずに横に行って、その首元に頭を乗せて黒い塊に沿うように丸く寝転んだ。
少しだけ俺の熱を感じてくれればいいと思った。
規則正しく上下するマサムネの身体に揺られているとだんだんと眠くなってきて、きっとオノデラのことはタカノがどうにかしてくれるに違いないと信じられた。
マサムネに夢うつつでそう言ったけど、声が出たのか出なかったのか分からなかった。
けど、きっとマサムネにだって通じたと信じた。
そして、今だけはみんなで幸せになれると信じた…。これもきっとマサムネに通じたと信じた…。