その日はとても嫌な目覚めだった。
妹が私の背中を叩き切った。痛い。だが、肉体的な痛みではない。私の背中にあった艤装が大きな音を立てて海に落ちた。
私はその音で目が覚めた。思わず背中に手を回す。当然の事だが何もない。
「どうして今更……」
こんな夢を見たのだろうか。
演習ではなかった。実弾の装填された艤装を背負って私は日向と海で対峙した。その時の日向は困った顔をしていた。多分私もそんな顔だったのだろう。私は負けた。力を失った。艤装の無くした私は海に沈むはずだった。死を覚悟した。いや、覚悟と呼べるだろうか。艤装を失い、力を失った私は死を望んでいたのではないか。深海棲艦ではなく、自分の妹に殺されるのなら構わない。心のどこかで納得していたのではないか。覚悟とは何だろうか。理不尽な事を受け入れることなら、きっと私は覚悟をしたわけじゃない。
「雨の匂いがするわね」
私は開け放たれた窓から外を眺めた。遠くに見える地平線に黒い雲がかかっている。あの時と同じ様な空模様だ。
「殺すと……そう言ったはずなのに、日向は何故私を助けたのかしらね」
私は日向に助けられた。沈むはずだった私を日向は抱きかかえた。そのまま陸まで運ばれると、日向は何も言わずにどこかに行ってしまった。
「嫌な空」
私はただ呆然と外を眺め続けた。
ーーーー
ただ海を眺めているのも飽きた。別に嫌な夢を見ることが悪いことが起きる前兆……そんな都合のいいこともなく、先程まで遠くで立ち込めていた黒い雲はどこかに消えていた。
「煙草が心もとない……」
私は半分が潰れた煙草のソフトケースを見ると、ため息をついた。買いに行くしかあるまい。川内が今日来るかもわからないし、来ても煙草を買って来てくれるとは限らない。
外行き用の服に着替え、外に出ると、先程までの重苦しい空模様が嘘の様なぴーかんだった。上から照りつける日差しがうざったい。日が陰ってから出かければよかった。そんなことを考えながら歩いていると、大きめの公園の横にいた。大きな新緑樹が作った日陰にベンチが設置されている。私はそこで休むことにした。海の上にいた頃は陽が当たる場所に何時間いようとも苦にならなかったが、今は違う。
「灰皿があるってことは禁煙ってわけじゃないでしょう」
私はポケットから煙草を取り出し、火をつけた。公園には二人の女児がボールで遊んでいるだけだった。目を瞑り、上を向くと、肺に吸い込んだ煙を大きく吐き出した。心地よい。ちょうど風の通り道にいるのだろう。気が風に揺れる音と心地よい風の中にいる。このままここで寝てしまおうか。そんなことを考えていた。
「ちょっと、ここは公園よ。煙草なんて吸ってなんて非常識なの⁈」
私の束の間の休息は甲高い金切声によって奪われた。ゆっくり目を開け、声の方を見ると化粧の濃い女が私を睨んでいる。
「灰皿があるってことは禁煙ってわけじゃないでしょう?」
たった数分前、独り言で呟いた言葉を彼女に問いかけると、彼女は更に声を荒げた。
「公園はみんなの場所よ!そんな所で煙草を吸うなんて非常識にも程があるわよ!」
非常識、非常識、この女は何回その言葉を言えば気がすむのだろうか。もう煙草も灰皿の中だし、これ以上この女の言うことを聞かなくてもいいだろう。だがまだ動きたくなかった私は話を聞き流していた。それが気に食わなかったのだろう。女は更に声を荒げた。
「ちょっと聞いてるの?最近の若い子は本当にだらしない……」
若い子。艦歴だけならあなたよりも歳上です。そう言いかけたがやめた。そして恐らく言ってはいけない言葉が口から漏れてしまった。
「うざったいな……」
言ってからしまったと思ったが、もう遅い。目線だけで彼女を見ると、その顔は真っ赤に染まっていた。汗で目元の化粧が崩れているのも相まって面白い顔になっている。笑いを堪えるのに必死だった。
「あなたねぇ!」
私に食ってかかろうとした彼女に、思いがけないことが起こった。私の位置からは全てが見えている。ボールで遊んでいた女児の片方が暴投し、ボールが彼女に当たったのだ。私は笑いが堪えきれなかった。ボールを当てられた彼女は物凄い形相で彼女達を睨んだ。背の高い方がこちらに走ってくる。その後ろに小さい方がピッタリとくっついている。よく見ると二人とも顔がよく似ている。姉妹だろうか。
「ごめんなさい、大丈夫ですか?」
背の高い方、恐らく姉が彼女に謝る。それにつられて、後ろにいた小さい方も頭を下げた。
「あんたたち、公園でボール遊びなんて」
「また非常識?」
私が茶化す様に言うと、今度は私の方を向く。全く忙しい女だ。私は席を立つと、転がっているボールを拾い上げた。なんてことは無い。柔らかいビニールで出来たボールだ。空気も少し抜けている。こんなのが当たった所で何ともないだろうに。
「ほら、気をつけなよ」
ボールを姉の方に手渡すと、姉は再び頭を下げた。だが妹の方はジッと私を見ている。
「非常識な親を持つと、子供も非常識になるのね!」
彼女がそう言った。その途端、姉妹は睨む様に彼女を見た。顔見知りの様だ。姉妹はジッと黙って彼女を睨んでいた。その目はとても悔しそうだ。私はため息をつくと、ポケットから煙草を取り出して再び火をつけた。また面白い顔を私に向けてきたが気にせず、私はベンチに座った。
「非常識、非常識って、あんた、ちゃんと彼女たちは謝ったじゃない。それともここらでは子供が公園で遊ぶことも非常識なの?」
「公園で煙草を吸う様な人が何を言っているの⁈」
「ちゃんと灰皿がある場所で煙草を吸っている人間と、人ん家の子供の前でその親を馬鹿にするのと、どっちが非常識?私はどっこいどっこいだと思うけど」
「あなたと一緒にしないで」
「そう。じゃあ少なくとも、ちゃんと謝った彼女たちよりはあんたの方が非常識ね」
私がそう言うと、姉妹たちは嬉しそうな目で私を見ていた。言いたいことは言ったがこれからどうしようか。ゆっくりと煙を吐き出しながらぼんやり考える。
「お前たち!またここにいたのか!」
公園の入り口から聞き覚えのある声が聞こえてきた。そっちを見ると、褐色の肌をした銀髪の眼鏡をかけた女性……見間違うはずがない。Tシャツにジーパンというラフな格好をした武蔵がいた。
「親……?」
私は絶句した。武蔵に子供がいるとは思わなかった。武蔵の方も私に気がつき、驚いた表情をしていた。
「ここは日本よ!あなたの国のマナーを……」
「いや……見た目はあんなだけど、彼女は純粋な日本人よ…」
私がそう言うと、彼女は驚きの表情を見せた。当然だろう。あの特徴的すぎる見た目はどう見ても日本人には見えない。それに加えてあのラフな格好じゃ、東南アジア系と言われても納得だろう。
「知り合い?やっぱり非常識同士……」
「お前たち!何をしたんだ!」
武蔵が姉妹に怒鳴る。怒鳴られて怯えたのは姉妹だけじゃない。このうるさい女も黙った。
「ボールをぶつけちゃって……」
姉が泣きそうな声でそう言う。あの武蔵に怒鳴られて泣かないということはきっと強い子なのだろう。
「ここで遊んじゃいけないと何度も言ったじゃいか!」
武蔵はそう言うと、一瞬だが私の目の前にいる女を見た。どうやら非常識な親というのは武蔵のことで間違いないようだ。私は火を消した煙草を灰皿に放ると、ベンチから離れ、しゃがんで今にも泣きだしそうな姉妹達の肩を抱いた。
「ねぇ、怒鳴る前に保護者としてこの人に謝りなよ。子供が謝ったのに保護者が謝らないわけにはいかないでしょ」
私がそう声をかけると、武蔵は慌てた様子でこちらに歩み寄ってきた。
「この子達が迷惑をかけてすいませんでした」
ガサツなイメージのある武蔵が丁寧に謝るのを見ると、なんだか情けなく思えた。これが親と言うものか。
「違うもん……」
私の腕の中で妹の方が小さく呟いた。
「何が違うの?」
私が妹の方に声をかけると、彼女は力強い口調で言った。
「あの人がこのお姉ちゃんに先に迷惑をかけたんだもん」
まさかこの子、私を助けようとわざとボールをぶつけたのか。妹の声を聞いた武蔵はこちらを睨んだ。黙っていろ。そういうことだろうか。私はそれが気に食わなかった。武蔵を睨み返すと、姉妹を両脇に抱き上げた。急に抱き上げられた二人は慌てて私の頭を掴んだが、私の二の腕にちゃんと座りバランスを保つと、頭から手を離してくれた。
「私もそう思う」
私が子供に同調すると、目線が高くなった姉妹は攻勢に転じた。初めて大人を見下ろす立場になったことが、彼女達に発言する勇気を与えたのだろう。
「このお姉ちゃんはちゃんと灰皿のある場所で煙草を吸っていたし、煙がこちらに来ないように上を向いて吐き出してました」
今度は姉の方が口を開いた。子供はよく見ているもんだ。彼女達に気を使ったわけじゃなく、偶然の産物だが彼女達には自分らに気を使っていると思ったのだろう。
「それにちゃんと謝ったのに、おばさんのことをひじょーしきだって言ったもん」
次は妹の方だ。さっきまで泣きそうだったとは思えない。
「そーだ、そーだ、非常識なのはどっちだー」
私は腕を揺らしながら二人を煽った。これは意外と楽しいかもしれない。
「それに子供がここ公園でボールで遊ぶことの何がいけないんだー」
私がそう言うと、二人が楽しそうに「そーだ、そーだ」と声をあげる。先程まで甲高い声を上げていた女と、怒鳴り声をあげた武蔵は呆気に取られた表情で私達を見ている。先に我に帰った武蔵が私の上の二人を睨んだ。姉妹は一瞬身を震わせた。
「大丈夫、私がいる。ちゃんと後で怒らないように言ってあげるから」
「でも……」
姉の方が不安そうに私を見た。
「自分は間違っていない、理不尽だと、そう思うのなら納得するまで戦い抜きなさい」
「もういい。それ以上はよせ」
武蔵がそう言った。私は話すのをやめたが、妹の方はやめる気は無いようだ。
「だってあの人が来てからこの公園に来る人がいなくなっちゃったもん。友達も来なくなった!」
「みんなのものって言いながらあの人が独り占めしたの?」
「「そう!」」
姉妹は揃って頷いた。さすがは武蔵の子だけあって、その気になればはっきりものを言う。ふと女の方を見ると、般若面の様な形相をしていた。子供に好き勝手言われて面白く無いのだろう。だがそれよりも気になることがあった。
「ひじょーしきな顔してる人にひじょーしきって言われたくないもん!」
妹の方が言ってはいけない事を言った。私は大笑いしてしまったし、武蔵の方も笑いを堪えるので必死の様だった。それもそうだ。この炎天下で、そんな顔をしていれば汗もいつも以上にかくだろう。それに加えてその厚化粧だ。崩れるのは当たり前だ。
「もういいわよ!本当に非常識……なんなの一体!」
子供達に散々言われた女は、足早に公園を後にした。
ーーーー
「子供達が迷惑をかけたな……」
女が去った後、私と武蔵はベンチに座っていた。姉妹は再びボール遊びに夢中になっている。どうやら武蔵も以前ここで煙草を吸っていてあの女にあやをつけられた様だ。
「それ……なに?」
私は武蔵が咥えている万年筆の様なものが気になって仕方なかった。
「これか?電子タバコというものだ」
「煙草なの、それ」
「そうだ。子供達に煙を吹きかけるわけにはいかないだろう」
言われてみると武蔵の吐き出す煙はすぐに消えてしまう。
「へぇ……ちゃんとお母さんしてるんだ。だったら禁煙すればいいのに」
「出来たら苦労ない……ん?お母さん?」
武蔵が怪訝な表情で私を見た。
「そうよ。相手は誰なのよ?」
「何を勘違いしている。あの子達は提督の親戚の子供だ。あの子達の親が共働きだというから面倒を頼まれているだけだ」
「なんだ。そういうことだったの。どおりで肌が白いと思ったわ」
「言ってくれるな」
武蔵は大きく息を吐いた。
「しかし、お前、いつまでそんなことをしているつもりだ?」
武蔵の言っているの意味がわからなかった。武蔵の方を見ると、真面目な顔で私を見ていた。それも普通じゃない。海の上で何度も見た顔だ。
「どういうこと?」
武蔵は知っている。私が今、何をしているのかを。とぼけても無駄だとはわかっていた。
「納得するまで戦い抜けと言っていたが、お前はいつになったら納得するんだ?」
「死んだら……かな……」
「せっかく生き長らえた命を無駄にする気か?」
「あなたは今が幸せなの?」
私がそう聞くと、武蔵は少し考える素振りを見せた。だが、それが素振りなのはわかっている。武蔵が子供達を見ているその目は母親のそれと同じだ。
「以前はお前と同じだった。戦えない自分など価値がないと思っていた。だが、あの子達と会ってからは変わったよ」
「でしょうね」
「お前も今に生きる価値を見出せ」
「もう見つけたわよ」
私はそう言うと立ち上がり火を消えた煙草を灰皿に放り投げた。背中に武蔵の視線が痛いほどに突き刺さる。
「私は私なりのやり方でこの国を護る」
「それはお前だけの自己満足だろう?」
「それでもいいわ」
後ろから大きなため息が聞こえた。
「今の私にお前は止められない。だが、お前を止めたいと思っている者の気持ちも考えてみろ」
「関係ないわ」
私は武蔵に背を向けたまま歩き出した。途中子供達とすれ違う。
「お姉ちゃん、行っちゃうの?」
妹の方が私に声をかけた。
「えぇ、買い物に行かなきゃいけないのよ」
「また会えますか?」
姉の方が尋ねてくる。きっともう会えないだろう。私はそう考えていた。
「そうね、武蔵おばさんの言う事をちゃんと聞いていればまた会えるわ」
「本当に⁈今度一緒に遊ぼうね!」
「えぇ、じゃあ、またね」
武蔵のいる日常と私のいる日常はあまりにも違う。私がそちらに行くのは死んでからだろう。日向が残したこの命、今は何の為に使おうとも私の自由だ。