杏は今までにない喜びを感じていた。こんなに心の底から笑ったのは久々である。理不尽な戦争で失っていたはずの本心からの笑顔がそこにはあった。辛酸を舐め続けた生徒会陣営にようやく勝利の女神のような存在が微笑んだような気がした。諦めなければ助けてくれる人たちがいる。アンツィオの支援はまさに一筋の希望の光である。杏は急かすように柚子に尋ねた。
「そ、それでアンツィオの到着はいつなの?」
「今日は、サンダースで一泊して明日の11時頃に大洗に到着になるみたいです。」
「そっかーそれじゃあ今のうちに色々と準備しておかなくちゃねー小山ーみんなを呼んで来てくれるー?」
いつもの調子で杏は柚子に生徒会役員と兵士、そして教員たちを中心に人を集めるように指示を出した。アンツィオの面々を乗せたサンダースの輸送機を受け入れる準備のためだ。今のうちにできることはやっておかなくてはならない。運動場に置いてある諸々の用具等を片付け誘導灯を設置した。皆、アンツィオが食料支援をしてくれると話したら喜んで協力してくれた。その時だった。上空に突然飛行機が超低空で現れた。もうアンツィオ一同を乗せてサンダースの輸送機が到着したのか。連絡では明日到着だったはずなのにおかしいなと杏は上空を見上げた。その飛行機には胴体、主翼、垂直尾翼に丸い迷彩で知の字に波が描かれた校章があった。間違いない。杏は確信とともに青い顔をして声を震わせながら叫ぶ。
「知波単だ!伏せろ!機銃掃射されるかもしれないぞ!」
杏の叫び声を聞いて皆、一斉に伏せた。杏は地面にへばりつきながら飛行機の様子を伺う。飛行機は杏たちの頭上を越えて校舎と体育館がある辺りに向かった。校舎の上空に到達すると3回旋回し格納庫の扉をあけた。飛行機は何かを投下しようとしているようだった。
「ま、まさか…爆弾…か…?や、やめろ…!あそこには避難民が…!」
いくら冷静な杏でも爆弾が投下されるか否かという時に呑気に構えているわけにはいかない。急いで避難民に防空壕に避難してもらわなくてはいけない。そう思って杏が走り出そうとした時だった。柚子が杏の身体にしがみつく。
「小山!離せ!」
「会長、落ち着いてください。あれを見てください。おそらく投下されているのはビラです。心配ありません。」
小山が指差す先には確かに輸送機の飛行路に沿う形でひらひらと何かが木の葉のように舞っている。飛んで来た飛行機は輸送機のようだ。杏は安堵して全身の力が抜け、その場にへたり込んでしまった。
「なんだ…ビラか…びっくりしたよ。ははは。」
杏は顔を引きつらせながらなんとか作り笑顔を見せる。その笑顔は何処か空虚感が漂っていた。その姿を見て柚子は申し訳ない気持ちだった。自分の親友にこんなに無理をさせているのだ。杏が心が折れそうになるのも頷ける。なぜ、杏だけこんな思いをしなくてはならないのか。全ては戦争と西住みほの野望のせいだ。柚子は拳を強く握りしめて、上空の輸送機を睨んだ。
「こんな戦争が起きなければ会長は…こんな思いをしなくても……よかったのに……許せない……絶対に許せない……」
「小山……何か言ったか……?」
「いえ、何も……」
輸送機はまるで柚子の声が聞こえたかのように旋回してこちらに向かって来た。輸送機は再び格納庫を開いてビラを投下する。杏は小さな身体で背伸びしながら手を伸ばしてひらひら舞うビラを掴んだ。
「あははは。見てよこれ。うちらの首に懸賞金がかけられてる。しかもすごい額だよ。生け捕りしたら2人で6億円。死んでても3億円だって。」
杏はビラを呑気に片手でひらひらさせている。柚子も近くに落ちていたビラを手に取った。ビラは両面刷りになっていて表には杏と柚子の写真と懸賞金の額が、裏側には[生徒会軍兵士と役員並びに避難民諸君に告ぐ]と題して何やら文章が書かれている。
「何を今更……!桃ちゃんを残虐な処刑で殺しそれだけでは飽き足らず罪のない市民を虐殺してこの期に及んで……!こんなの嘘に決まってます!」
柚子は烈火の如く怒っていた。柚子は言葉に怒気を孕ませながら手に取ったビラをぐしゃぐしゃに握りつぶした。柚子が怒るのも無理もない。ビラに書いてある内容は到底信用できるものではなかったし、虐殺の被害にあった遺族の感情を逆撫でするような内容であったからだ。ビラには次のように書かれていた。
[生徒会軍兵士と役員並びに避難民に告ぐ 現実を見よう。諸君の敗北は火を見るよりも明らかである。プラウダは我が軍に同調し白熊の手は諸君の背後を脅かす。このままでは諸君は四肢が飛び肉片となり無残な屍を我々の前に晒すことになるであろう。諸君は勇敢に戦われた。我々はこれ以上未来ある諸君が苦しみ喘ぎながら死にゆく姿を見たくはない。我々には人道主義に則り諸君を保護する準備がある。速やかに角谷杏、小山柚子両名の身柄引き渡しと諸君の投降を求める。諸君の安全は白地の布を振れば投降したものとみなし保障する。なお、今から12時間後になっても投降しない者は自動的に戦闘員と断定し総攻撃の対象とする。どちらを選択するかは諸君次第であるがよく考えて行動されよ。大洗女子学園反乱軍総司令 西住みほ]
「まあ、嘘だろうね。西住ちゃんのことだ。のこのこ出ていったら皆殺しにされるかもしれない。今までだって罪のない避難民を"人間狩り"の名目で虐殺して生き残った人たちもどこかに連れていかれたみたいだし、食糧増産施設での戦いでは投降した子たちがどうなったかもわからない……生きているのか死んでいるのかさえもね……どこかで生き延びてくれていたらいいけど……」
「彼女たちの情報って一切無いんですか?」
杏は無表情かつ無言で首肯した。現実というものはなぜこんなに冷酷なのだろうか。杏は静かに告げる。
「いずれにせよ、このままでは確実に我々は殺される。今は進むも地獄、退くも地獄という状況だよ。生き延びる道はただ一つ。勝つことだ。この戦争に勝利するしかない。それだけだ。それができなければ我々に待っているものは死。それもただ死ぬわけではなく西住ちゃんのことだから一番残虐な死を与えられるだろうね。」
杏は怖がることも感情を乱すこともなく淡々と語る。まるで自分には関係ないといった口ぶりだ。柚子は恐る恐る杏に尋ねた。
「会長は怖くないんですか……?死ぬかもしれないのに……」
杏は微笑みながら柚子の問いに答える。
「怖くないって言ったら嘘になる。でも、私は学園艦を守るためならなんでもやる人間だし、どんな悪事も働ける自信がある。学園艦のためなら西住ちゃんより酷いこともきっとできる。学園艦のために死ねと言われたらきっと喜んで死ねたと思ってる。もともと廃校を撤回させることだって命がけだよ。政財界や官僚たちの世界は甘くはない。きっといろんな利権が結びついている。だから、もしかして逆恨みされて殺される可能性もあった。だから自然に死ぬ覚悟ができていたのかもね。」
柚子は少しだけホッとした。ここでもし、「死ぬのは怖くない」などと杏にあのいたずらっ子のような笑みで言われたときにはどうしようかと思っていたからだ。杏もやはり人間である。共通認識として死は怖いと感じていてくれて自分と同じ境遇の人がいてくれて少し安心した。しかし、杏が持っていて柚子が持っていないものもあった。それは、「死の覚悟」である。やはり、杏は並大抵の人間ではない。流石、約3万人の頂点にいるだけのことはある。柚子は改めて自らの腹心の友がいかに素晴らしい稀代な人物であるか噛み締めていた。そして、改めて杏への忠誠を誓う。
「会長!私はこれからもずっとあなたについていきます。あなたのそばでずっと支えていきます。それが私の誇りです。」
杏は無言で頷き、柚子を頼もしげに見つめている。そして杏は太陽のような笑顔を柚子に見せた。思えば、柚子と初めて出会った中学生の時、三役として就任する前、共に生徒会という大きな組織の中の一役員に過ぎなかった頃から比べれば随分頼もしくなったものだ。出会った当初、柚子は杏に振り回されてただ杏の背中についてきているだけだった。それがいつの間にか一緒に同じ道を走るようになっていた。杏は目頭が熱くなってとっさに後ろを向く。
「私も……小山は誇りだ。いつの間にか頼もしくなったな。出会った時は私に振り回されてばかりだったのに。」
「ふふっ……それは今でも変わりませんよ。会長には毎回振り回されてばかりです。思えば、最初の頃はやりたい放題の会長とよくぶつかったりしてましたね。懐かしいです。」
「そうだったなあ。小山、怒ると怖かった。今でもだけど。普段怒らない人が怒ると怖いっていうけどありゃ本当だね。」
「そんなに怖いですか?でも、会長の選択は今では間違っていなかったなって思っています。結果として学校は楽しくなっていったんですから。」
「怖いよ!それなら良かった。いろんなことしたよなあ。泥んこプロレス大会に仮装大会……あと……なんだっけ?」
「自分で何やったかも覚えていないんですか。ふふふ。よく、学校に泊まり込んで準備しましたよね。あの時が懐かしいな……あの時はまさかこんなことになるなんて夢にも思っていませんでした……」
杏と柚子は平和だった日々を噛み締めながら懐かしそうに遠くを見つめる。しかし、そんな幸せな日々はもう二度と来ないのだ。戦争が終わっても、桃や命の花を散らした者たちは決して生き返ることはない。それが現実である。杏が肩を震わせる。杏は下を向きながら拳を強く握って声を殺して泣いていた。
「河島……みんな……すまない……本当に……すまない……」
杏はボソボソと消え入りそうな声で謝罪を繰り返している。その姿は見るに堪えなかった。強がって見せてはいるが、杏の心も限界に近いだろう。あまりにも辛すぎる現実は杏の心を抉り深い傷をつくった。杏はしばらく唇を噛み締めていたがパンっと頬を両手で叩いた。柚子は心配そうに杏に声をかける。
「会長……?大丈夫ですか……?」
すると杏は笑顔を作ってすぐに振り向いた。
「うん。大丈夫だよ。心配かけて悪いね。それじゃあ、着陸場所の確保も終わったし生徒会室に帰ろっか。」
「え?あのビラ、放っておいていいんですか?」
柚子は投下されたビラに唆されて良からぬ動きがあるのではないかと警戒していた。杏は腕を組み少しの間考えを巡らせる。
「うーん。多分、大丈夫だと思うよ。今更騙される子はいないでしょ。噂で人間狩りの話や大虐殺の話が出てるから多分、みんな怖がって西住ちゃんのところに行こうなんて考える子はいないと思うし。」
「確かにそうですね。今、過剰に反応するよりも静観した方がいいかもしれません。」
「うん。でも、何かこの嘘がバレバレなビラを今、この段階で投下したことは何か意図がありそうな気がする。これは分析した方がいいかもね。外交部に案件回しておいて。」
「わかりました。」
「ただ、対策は考えておいた方が……いいかもねえ」
「え?対策って何ですか?」
「ん?まあ、見ててよ。さ、戻ろっか。」
杏と柚子は艦橋にある生徒会室に戻っていった。生徒会室はまるで大洗町の町役場を縮小したような場所である。学園艦で生活する上で大抵のことはこの大洗女子学園生徒会の役員たちが掌っており、生徒会室では今日も忙しく役員たちが働いている。その巨大組織の中の一組織に外交部は存在している。もともとは桃を筆頭とした広報部が渉外も掌っていたが、みほに最後通牒を突きつけられた時に、他の学園艦との交渉を行う専門機関設置が必要であるとし杏の指示のもと作られた比較的新しい部署である。外交部は外交部部長のもと第一課から第三課まであり、それぞれ第一課が渉外一般第二課が文書の分析、第三課が諜報活動を行なっていた。外交部の詳しい職務内容を知っているのは会長である杏と副会長の柚子、その他は外交部の職員のみという極秘部署であった。他の部署とは違い外交部に務める役員は全員厳しい試験によって選抜されたいわゆるエリートである。それだけ重要な機関であるということがうかがえる。彼女たちは外交部に赴任すると知り得た情報を第三者に提供することを禁じる罰則規定付きの宣誓書を書かされるなど徹底的な情報統制が行われていた。罰則は銃殺まではいかないにしても最高刑で無期禁固というかなり厳しいものである。また、外交部は一度赴任すると転任がないという特徴がある。通常他の部署例えば学園艦での生活に関する庶務を掌る生活委員や保健衛生を掌る保衛委員は一年に一度人事異動で人が入れ替わる。しかし外交部は一度任命されると卒業するまでずっと外交部で務め続けなければならないのだ。だから、外交部に任命されるということはエリートであると認められた証拠であるから名誉でもあるが卒業まで罰則に怯えながら生活していかなければならないという恐怖でもあった。さて、杏たちが生徒会室に戻り、中に入るとちょうどタイミングよく目の前を外交部部長の佐野亜寿香が通りかかった。
「あ、佐野ちゃん。ちょっといいかな。佐野ちゃんに頼みがあるんだ。」
「あ、会長、副会長。お疲れ様です。頼みって何ですか?」
「うん。実はね。これを分析してほしい。」
「これは……?」
佐野は杏から、投下されたビラを受けとると怪訝そうな表情を見せた。
「見ての通り、西住ちゃんからの投降勧告ビラだ。このタイミングで内容が嘘であるとバレバレなこのビラを撒くというのは何か意図的なものを感じる。だから、このビラを分析して西住ちゃんが何を企んでいるか、次にどんな行動を起こすつもりなのかを知りたい。できるかな?」
「なるほど。そういうことですか。軍事関係の分析ということか……それならもしかしてあの子が……」
佐野は少し考えると確信したように頷く。
「はい。わかりました。引き受けましょう。適任者がいますから紹介しますね。少し待っててもらっていいですか。」
佐野はそういうと外交部に向かい1人の女子生徒を連れて戻ってきた。
「紹介します。彼女は外交部第2課で分析を行っている橋本由梨です。実は彼女、軍事関係にも造詣が深いので、もしかして何か役にたつかもしれません。」
橋本と紹介された彼女は杏たちを眺めると無表情のまま手を差し出した。
「橋本です。よろしくお願いします。早速ですが、ビラを拝見させていただきたい。」
「これなんだけど……」
杏はおずおずとビラを橋本に差し出す。橋本は杏の手からビラを取り上げると30秒ほど眺め、すぐに杏にビラを返した。杏は橋本の真意を測りかねていた。橋本の行動は協力を拒否されたということなのだろうか。杏は橋本の冷たい目に内心で怯えながらじっと橋本の様子を伺っていた。橋本は再び杏たちを眺めて無表情のまま口を開く。
「おそらくこれは無差別攻撃の正当化であると見て間違いないです。」
「どういうこと?」
「会長。会長はジュネーヴ条約というものをご存知ですか?」
そういうと橋本は生徒会室の扉を開いて外に出ようとした。
「橋本ちゃん。どこに行くの?」
「私の寮です。資料を取ってきますからしばらく待っていてください。」
15分ほどして橋本が資料を片手に戻ってきた。橋本の手には前に防衛省のホームページから取得したジュネーヴ諸条約の全文が握られていた。橋本は57条と書かれたページを見せた。その資料には次のように書かれていた。
[第四章 予防措置
第五十七条 攻撃の際の予防措置
1 軍事行動を行うに際しては、文民たる住民、個々の文民及び民用物に対する攻撃を差し控えるよう不断の注意を払う。
2 攻撃については、次の予防措置をとる。
(a)攻撃を計画し又は決定する者は、次のことを行う。
(i)攻撃の目標が文民又は民用物でなく、かつ、第五十二条2に規定する軍事目標であって特別の保護の対象ではないものであること及びその目標に対する攻撃がこの議定書によって禁止されていないことを確認するためのすべての実行可能なこと。
(ii)攻撃の手段及び方法の選択に当たっては、巻き添えによる文民の死亡、文民の傷害及び民用物の損傷を防止し並びに少なくともこれらを最小限にとどめるため、すべての実行可能な予防措置をとること。
(iii)予期される具体的かつ直接的な軍事的利益との比較において、巻き添えによる文民の死亡、文民の傷害、民用物の損傷又はこれらの複合した事態を過度に引き起こすことが予測される攻撃を行う決定を差し控えること。
(b)攻撃については、その目標が軍事目標でないこと若しくは特別の保護の対象であること、又は当該攻撃が、予期される具体的かつ直接的な軍事的利益との比較において、巻き添えによる文民の死亡、文民の傷害、民用物の損傷若しくはこれらの複合した事態を過度に引き起こすことが予測されることが明白となった場合には、中止し又は停止する。
(c)文民たる住民に影響を及ぼす攻撃については、効果的な事前の警告を与える。ただし、事情の許さない場合は、この限りでない。
3 同様の軍事的利益を得るため複数の軍事目標の中で選択が可能な場合には、選択する目標は、攻撃によって文民の生命及び民用物にもたらされる危険が最小であることが予測されるものでなければならない。
4 紛争当事者は、海上又は空中における軍事行動を行うに際しては、文民の死亡及び民用物の損傷を防止するため、武力紛争の際に適用される国際法の諸規則に基づく自国の権利及び義務に従いすべての合理的な予防措置をとる。
5 この条のいかなる規定も、文民たる住民、個々の文民又は民用物に対する攻撃を認めるものと解してはならない。]
杏は57条に書かれた文字を一文字ずつ目で追う。杏はこの条約と先程のビラの関連性を見出せないでいた。
「この条文とさっきのビラ。何か関係性があるの?私にはわからないな。だってこれは国際間の条約でしょ?今回は適用されないと思うんだけど……」
すると橋本は学者然とした口ぶりで自らの思考を披露した。
「同じです。今回は誰もこのような事態を想定していなかった。しかし、基本となる法は恐らくこのジュネーブ条約になるはずです。現在の戦時国際法ですから。さて、会長。結論から言うと西住さんは恐らく大規模な無差別攻撃をここ数日のうちに仕掛けるでしょう。間違いなく。」
「やっぱりか……それでもなんでわざわざ今更になってビラを……?」
「簡単なことです。西住さんは国際法を守りつつ攻撃しようとしているんです。」
杏の脳はますます混乱した。みほに人道主義に則った国際法を遵守するなどという考えがあるようには思えないのだ。杏は橋本に疑問点をぶつける。
「西住ちゃんがそんなことするかな?だって西住ちゃんは人間狩りをしたんだよ?人道主義に則ることなんてないと思うけどなあ。」
すると橋本は少し考えてあくまで自分の考えだと断りを入れた上で答えた。
「今回のケースは恐らく人道主義については全く考えられていないでしょう。あくまでこれから行われる無差別攻撃をこの法の条文に則りながらいかに正当化するか、この点に注意が注がれていると思われます。要は法の解釈の問題です。57条に書かれているのは民間人保護に関する条文ですがその中に"攻撃の手段及び方法の選択に当たっては、巻き添えによる文民の死亡、文民の傷害及び民用物の損傷を防止し並びに少なくともこれらを最小限にとどめるため、すべての実行可能な予防措置をとること。"とあります。つまり、西住さんはこの投降勧告ビラを撒くことにより、文民とされる非戦闘員の傷害を最小限に留めたという口実を得てそれに加えて期限内に投降しない者を全て戦闘員であるとみなすことにより非戦闘員への攻撃禁止の壁を乗り越えて無差別攻撃を正当化しようとしていると考えられます。」
「用意周到だね……」
杏は戦慄して唇を震わせながら呻き、目を閉じて上を向く。瞼にみほの姿が浮かんでくる。瞼に浮かんだみほは血に濡れて高笑いしている。杏は鋭いナイフで背を撫でられた感覚に陥った。杏は息を荒げる。
「会長。大丈夫ですか?」
近くで見守っていた柚子が心配そうに見ている。杏は手で大丈夫だという意思を伝えた。橋本は相変わらず興味なさげな冷たい目で見つめていた。
「相手にも相当なキレ者がいるようですね。とにかく、ここ数日のうちは警戒しておいてください。私が言えるのはそれだけです。」
「冷泉ちゃんがいるからね。わかった。分析ありがとね。」
「冷泉麻子さんが……なるほど。彼女なら考えがつきそうですし、西住さん自身も恐らくこのジュネーブ条約についての教養はあったのでしょう。戦車はもともと戦争に使うものですから、教養として戦争に関する法については必須でしょうし……外交部含め我々生徒会役員一同は懸命に職務遂行に努めますから、私たちを信頼してください。」
「ああ。任せたよ。」
杏はニカッと笑うと生徒会室の奥、三役の部屋に消えていった。杏は生徒会長のイスに腰掛けると柚子に意見を求めた。
「小山。どう思う?西住ちゃんが行う無差別攻撃って何だろう?」
「そんなこと、私が分かるわけないじゃないですか。でも、最大限の警戒はしておいたほうがいいでしょう。戦災対策本部を設置して警戒させます。」
「うん。お願い。」
柚子と杏はそれだけ言葉を交わすとそのあとは各々仕事をしてその日は早めに眠ることにした。しかし、杏はその日、なかなか眠れなかった。ここ数日のうちに一体何が起こるのか。想像もつかない。大規模な無差別攻撃とは一体何であろうかと考えていた。怖くて仕方がない。音ひとつない静かな夜、不安に押しつぶされそうだ。真っ黒な闇が杏を容赦なく包み込み杏の心を抉り続ける。杏は声を押し殺して泣いていた。柚子は毎晩杏が身体を震わせて泣いていることを知っていたがあえて気がつかないふりをしていた。しかし、毎晩杏の堪えるような泣き声を聞くのは辛い。柚子は布団をすっぽりとかぶり直して再び眠りにつく。杏の泣き声も聞こえなくなり、寝息が聞こえてきた。杏も柚子もいつの間にか眠ってしまったようだ。夜は静かに更けていった。
翌朝、柚子が目を覚ますとまだ杏は眠っていた。時計の針は7時を指している。杏の顔を見ると杏は眉間にしわを寄せ、額に汗をびっしょりかいている。悪夢でも見ているのだろうか。柚子は清潔なタオルで杏の額から汗を拭き取った。
「…誰…か…誰か……助けて……助けて……」
杏は先ほどよりも一層苦しそうな表情をして寝言を繰り返す。その姿は見るに堪えない。しかし、夢の中にまで助けにはいけないのだ。柚子はもどかしい思いで杏を見ていた。
「会長……」
「助けて…助けて…うううわあああああ!!あれ…?」
杏は叫び声をあげて目を覚ました。柚子は驚いて目を丸くしている。しばらく沈黙が続いた。杏が頭を掻き恥ずかしそうに目をそらすと柚子が覆いかぶさってきて思い切り杏を抱きしめた。
「会長……!」
「小山?どうした?」
「どうした?じゃありません!」
「心配かけてごめん……」
「それで、どんな夢を見ていたんですか?」
柚子は真剣な眼差しで杏に迫った。杏は思わず後ずさる。そして、柚子から目を逸らし、ためらいながら話し始めた。
「みんなが……私を裏切って……ひとりぼっちになって……私は西住ちゃんの前に引き出されて……処刑されそうなところで目が覚めた……今見た夢が……今までなら何でもない夢だったのに……今じゃ本当になりそうで怖い……」
杏はカチカチと歯を鳴らして震えている。柚子はまた強く抱きしめて杏の背中を撫でた。
「大丈夫……大丈夫です。私は絶対に会長を1人になんてさせませんから……絶対に裏切りません……」
「ありがとう……小山……ありがとう………なあ、小山。本当はこんなことしたくないが、やっぱりここのところで一度抑え込みをしとこう。風紀委員が西住ちゃんについて行ってしまった今、暴動が起きた時に専門的に対処予防する機関がないのは危険だ。食料不足はこれからも続くだろうし、これからもみんなに我慢してもらうことが前提の運営をしていくことになる。今回のアンツィオによる食料支援のおかげで少しはガス抜きできるけど、アンツィオもそう毎回食料を提供してくれることはできないだろう。それにまた食料不足に陥った時に不満がたまって今度こそ暴動が起こるかもしれない。そこで、今回食料を提供することと引き換えに戒厳令と特別高等警察の設置をしたい。」
「特別高等警察に戒厳令……なるほど、対策ってこれのことだったんですか。それにしても二つとも何とも悪辣な名前ですね。」
「まあね。同じ思想警察だからこの名前にしてみた。体制に反発する人たちを取り締まる部署だし、ちょうどいいっしょ。それに、なんだか威圧できる気もするし。2つとも今日設置発令を知らせて早速今日から取り締まりを始める。ただ、私から話すから小山は正式発表まで他言しないで。」
柚子は手を顎に当てて少し考える。しばらく頭の中で考えをまとめていたがやがてまとめ終わったのか杏の方に向き直り心配そうな顔つきになった。
「他言するなってことはわかりました……でも……大丈夫でしょうか……生徒会の権限を大きく超えるような命令と組織……根拠が……」
すると、杏はまっすぐに柚子の目を見つめながら言った。
「実はあるんだよねえ。それが。有名無実化してるけどかつて学生運動が盛んだった頃に作られた特別規定が、廃止されずに残ってる。」
杏は山積みになった書類の中から一枚の古い命令書を取り出して柚子に渡した。柚子がその命令書の中身を確認するとそこには確かに[緊急事態宣言に関する規定]と題した特別命令が1960年10月に出されたことが記されていた。その頃といえば安保闘争が激しかった頃である。どうやら当時の生徒会長は秩序が乱れるとして風紀委員を使ってこうした学生運動を厳しく弾圧したらしい。この命令はその頃の名残である。本来は一時的な命令だったはずが忘れていたのか意図的なのかはわからないが放置されてずっと有効なまま残っていた。だが、そのあとは誰もこの規定を使おうとは考えずに有名無実化した規定であった。だが、現在有効なのは事実であるので杏さえ首を縦に振ればすぐにでも発動可能である。しかし、この命令は現行の生徒会規則を停止し生徒会長に全ての権限を集中させるというものである。今この命令は発動すれば反発は免れないだろう。柚子はどうしたものかと考えていた。どう考えても危険すぎる。柚子は杏に懸念を伝えた。
「しかし……大丈夫でしょうか……今までなんら規制を行ってこなかったのにいきなり強力な規制かつ会長に全ての権限を集めるなんて……みんな納得してくれますか?」
「認めさせるしかない。無理矢理にでもどんな手を使ってでもね。私たちの手で掌握できる暴力装置は絶対必要だし、いよいよ西住ちゃんが迫ってきている時に議論などしている暇はない。だから特高警察も非常事態における緊急権も絶対に必要だ。本当はみんなを抑圧することなんてやりたくないけどやるしかない。それがみんなを守るためだ。批判は私が全て受ける。だから小山は粛々と仕事を進めて。早速だけど、小山。この子を呼んできてくれないかな?多分運動場にいると思う。話はもうずっと前にしてあるからさ。特高警察の件って言えばわかるはず。」
「わかりました。会長の判断に任せます。」
柚子は身支度を整えて部屋から出て行った。杏から渡された紙には顔写真とその生徒の詳しい住所などが書かれていた。どうやら避難民のデータを引っ張り出してきたようだ。柚子はその紙をもとにその女子生徒の元を訪ねた。その生徒は運動場で道着を着て何やら練習をしていた。どうやら武道を嗜んでいるようだ。
「東條舞花さんですか?特高警察について少しお話が。」
「わかりました。ちょっと待っててください。おおい!みんな!ちょっと呼ばれたからそのまま練習しておいて!」
東條は大きな声で運動場のトラックを走っていた同じく道着を着た生徒たちに声をかけた。
「わかりました!」
向こうからも大きな声で応答が返ってきた。東條は満足そうに頷くと柚子の方を向き頭を下げる。
「すみません!自己紹介がまだでした!東條舞花です!よろしくお願いします!」
「はい。小山柚子です。よろしくお願いします。東條さんは何の武道をやられているんですか?」
「柔道をやっています!あの子たちも私と同じ柔道部です!」
「なるほど。」
確かにこの子たちなら体力的には大丈夫そうだ。だが、捜査については大丈夫だろうか。どうにも心配である。そんな気持ちを持ちながら柚子は生徒会室に戻った。すると、先ほどの杏とは打って変わっていつもの杏の姿がそこにはあった。
「やあやあ!東條ちゃん!朝早くごめんねー。いつか話した特高警察の件なんだけど、今日から早速活動を始めてもらおうと思うんだ。だから早速柔道部の子たちを率いて警戒に当たって欲しい。今日、戒厳令も発令するから少しでも怪しい動きを見せる子たちがいたら逮捕しちゃって。裁判については新設する法務委員会で審議するから。」
「難しいことはわかりませんが、とにかく怪しい人たちやおかしな動きを見せた人たちを捕まえてこればいいんですね?」
「うん。具体的な指示はこれもまた新設する警務委員会の指揮で動いてもらうから東條ちゃんたちには主に現場で逮捕してもらう役目を担ってもらうことになるかな。あと、逮捕に向かう時はなるべく制服で頼むね。その格好だと目立っちゃうから。あと、普段は普通に暮らしてもらってていいから。逮捕が必要な時またこうして呼ぶね。このことは正式発表まで誰にも言わないでくれるかな?それじゃ、ということでよろしく!」
「わかりました!また何かあったら呼んでください!それじゃあ練習に戻りますね!」
そう言うと東條は戻っていった。柚子は不安そうな顔をして杏に尋ねた。
「彼女たち、大丈夫ですか?確かに身体的能力は高そうですけど……」
「彼女たちを信じるしかないよ。それに、彼女たちの上には私が信頼できると判断した子たちをつけるつもりだ。小山。私を信じてよ。」
杏は柚子の目をまっすぐ見つめながら言った。杏がそう言うのなら大丈夫だろう。柚子は杏を信じることにした。
「わかりました。会長を信じます。」
「小山。信じてくれてありがとね。それじゃあアンツィオの受け入れ準備始めちゃおうか。」
杏は満面の笑顔を見せた。
つづく