ワールドブレイク・ザ・ブラッド   作:マハニャー

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 ……すいませんでした。なんやかんやあって一か月ぶりになってしまいました。
 ようやく完成させることができたので、更新させていただきます。
 けど前回ちょっと尺を間違えたせいで、変なところで切ってしまいました。ご容赦ください。
 それと今回アスタルテは出て来ません。どっちかというと浅葱がヒロインになります。
 ではではどうぞー。


2‐4 テロルの胎動 ―Revelation Of The Terrer―

「静乃が来てない……?」

 

 朝の教室。古城は少し信じ難い思いで呟いた。

 愕然とした古城に、古城の机の前に立つサツキが、釈然としないような顔つきで頷く。

 

「うん。何か、家庭の事情だって。朝メールが来てたわ」

「どういうことだ?」

「分っかんない。とにかくそう先生に伝えとけ、って、それだけ」

 

 サツキの言葉に、古城は無言で視線を巡らし、誰も座っていない静乃の席へと視線を移した。

 

 ……家庭の事情。漆原家。

 静乃が実家と上手く行っていないことは、古城も前から知っていた。ことあるごとに兄への辛辣な言葉を口にする静乃を見れば瞭然だった。

 それだけで古城の胃を重くするには十分だったが、加えて、昨夜の一件。ヴァトラーに目を付けられた静乃。

 いつもは憎まれ口ばかりのサツキも不安を覚えたのか、落ち着かなげにソワソワとしている。

 

 電話をしてみても、一向に出てくれない。メールを送ってもなしの礫。

 

「くそっ……」

 

 静乃は昼行燈というか不真面目な生徒だが、しかし一日たりとも欠席したことはなかった。

 本当ならば、そこまで気にすることでもないのだろう。だが、古城の心には今も重く暗い不安がのしかかっていた。

 

 この何とも言えない、まるで古城の与り知らぬところで、大変なことが起こっているような胸騒ぎは、一体何なのだろうか。

 

 

 

§

 

 

 

 静乃のことも気になるが、生憎とそれだけに拘っているわけにもいかない。

 黒死皇派の捜索。及びその撃破。ディミトリエ・ヴァトラーからこの島を、ひいては静乃を守るために、今は行動しなければならない。

 

 昼休み。古城、サツキ、そして中等部からやってきた雪菜を加えた三人は、高等部の廊下で落ち合っていた。

 

「それで、これからどうするの?」

 

 真面目な顔でそう訊いたのは、古城の右隣を歩くサツキだった。

 

「黒死皇派の捜索のことですね」

 

 返したのは古城の左隣を陣取る雪菜。朝のアスタルテの一件で不機嫌になっていた彼女だったが、今は表面上は落ち着いている。

 肩には相変わらずの黒い楽器ケース。中に入っているのは例の槍だろう。

 重々しく頷き、古城も彼女たちの会話に入った。

 

「前のオイスタッハのオッサンの時みたいにはいかないだろ」

「何の手がかりもなしにテロリスト探すなんてね。ドラマとかだと、テロリストを匿ってる悪の組織とか居るもんだけど」

 

 冗談めかして言うサツキに、雪菜も思わず、といった調子で微笑んだ。

 

「ええ、そうですね。ですから、最初は情報を持っているであろう方のところに、話を聞きに行きましょう」

「え? 姫柊さん、情報屋の知り合いとか居るの? ホントにドラマ?」

 

 いやまあ、政府直属の機関のエージェントなどという肩書を持つ彼女ならば、居てもおかしくはないのだが。

 しかし雪菜は微笑んで首を振り、

 

「ですけど、アルデアル公が言ってましたよね。絃神島の攻魔官も、黒死皇派を捕まえようとしてるって」

「「攻魔官?」」

「はい。攻魔官です」

 

 オウム返しに訊き返した古城とサツキは、二人で顔を見合せ、

 

「「おおっ!」」

 

 なるほど、とでも言うように手を叩いた。

 

 

 

「ってなわけで那月ちゃん。聞きたいことがあるんだが」

「……何かは知らんが、面倒事はごめんだぞ。それと、教師をちゃん付けするな」

 

 職員室棟最上階の、那月の執務室で。

 テーブルに手をついて迫る古城に、部屋の主の南宮那月は鬱陶しそうに扇子をヒラヒラとさせて、ビロード張りのアンティークチェアによりかかった。

 

「ふん。嵐城に中等部の転校生まで一緒か。ゾロゾロと何の用だ? 子供の作り方でも訊きに来たのか?」

「は?」

「はい?」

 

 一瞬何を言われたか分からず呆然としていたサツキと雪菜は、次の瞬間顔を真っ赤にしてブルブルと首を横に振った。

 固まっていた古城も、再起動するなり言う。

 

「んなわけねぇだろ。何言ってんだアンタは!」

「……何だ違うのか。つまらんな」

 

 ハァ、と溜め息を吐く那月に、古城は呆れながらも居住まいを正す。

 

「クリストフ・ガルドシュって男を探してるんだ。何か知ってることがあったら教えて欲しい」

「……貴様ら、どこでその名前を聞いた?」

 

 古城が訊いた瞬間、那月の小さな体から、息苦しいほどの威圧感が滲み出した。

 

 やはりか。古城は、彼女がガルドシュについての情報を持っていることを確信した。

 南宮那月は絃神島でも五指に入るほどの実力者。ならば、彼女の元にもガルドシュという大物犯罪者の情報は回っているはず。そういう考えの元の質問だったが、

 

「ディミトリエ・ヴァトラーだよ。あのでかいクルーズ船の持ち主。アイツ、〝戦王領域〟からガルドシュを始末するために来たんだと」

「あの蛇遣いの軽薄男め……お前を呼び出す可能性は予想しておくべきだったか。全く余計な真似を」

 

 忌々しげに吐き捨てる彼女の様子は、まるでヴァトラーの知己であるようだった。

 古城がそのことについて訊くより前に、那月は投げやりに尋ねてきた。

 

「それで、ガルドシュの居場所を聞いてどうする?」

「捕まえます。彼がアルデアル公と接触する前に」

 

 那月の質問に答えたのは雪菜だった。

 即答した雪菜にチラリと視線をやり、次に古城とサツキを見て、那月はおおよその事情を察したらしかった。

 しかし那月の答えは素っ気なかった。

 

「無駄だ。止めておけ。お前たちがそんなことをする必要はない」

「え? 那月ちゃん、それどういう……那月先生、どういうことですか?」

 

 訊き返したサツキに、那月は鋭い一瞥をやる。怯えたサツキはすぐさま言葉を直して再び問う。

 

「黒死皇派はどうせ何も出来ん。ヴァトラー――〝真祖に最も近い存在〟とすら言われる怪物が相手ではな」

「けど、黒死皇派って、第一真祖を倒すのが目的なんでしょ? 絃神島に来たのって、そのために必要なものとか、そんなのを探しに来たんじゃないの?」

「そうだな。だから無駄なのさ。ガルドシュの目的はナラクヴェーラだ」

「「「ナラクヴェーラ……?」」」

 

 聞き慣れない言葉に、古城とサツキ、そして知識になかったらしい雪菜がオウム返しに返した。

 

「南アジア、第九ヘルメガル遺跡から発掘された先史文明の遺産だな。かつて存在した無数の都市や文明を滅ぼしたと言われる、神々の兵器だよ」

「神々の兵器……って、何だそのヤバそうな響き。まさか、それが絃神島にあるとか?」

「表向きにはあるはずのないものだが、実はカノウ・アルケミカルという企業が遺跡から出土したサンプルの一体を非合法に輸入していたらしい。もっとも、そいつは少し前にテロリストに強奪されていることが、昨日判明したんだが」

「あんのかよ!? しかも盗まれた後!? ……あ、昨日ってもしかして、アスタルテを連れて行ったのって、それか?」

「ああ。お前のメイドにはいろいろ役に立ってもらったぞ。一応礼を言っておく」

「いやまあ、別にいいんだが……。それより、今はそのナラクヴェーラとか言うのだろ」

「九千年も前に造られた骨董品のことで、お前は何を焦ってるんだ?」

 

 那月は、ハッと嘲るように言った。

 

「奪われたのはせいぜいとっくに干からびたガラクタ。仮にまだ動いたとして、どうやって制御する?」

「……制御する方法に心当たりがあったから、黒死皇派はその古代兵器に目を付けたのでは?」

「流石にいいカンをしているな、転校生。確かにナラクヴェーラの制御コマンドとなる呪文だか術式だかを刻んだ石板が、最近になって発見されたらしい」

「だったらやっぱり、その……ええっと、ナラ……奈落? ナポリタン? ナラクヴェーラ? っていうのが使われる可能性があるってことじゃないの?」

 

 僅かに表情を硬くしたサツキの問いに、やはり那月は素っ気なく、

 

「世界中の言語学者や魔術機関が寄ってたかっても解読の糸口すら掴めないような代物だぞ。テロリストごときが今更どうしたところで何も変わらん。絃神島に潜伏していたその研究員も昨日捕まえた。密入国したテロリストどもがバカでかい荷物を抱えて潜伏できる場所など限られている。特区警備隊(アイランド・ガード)は今日明日にでもガルドシュを狩り出すつもりだ」

「狩り出す……って、もしかして那月ちゃんも助っ人に行くのか?」

「いや? 私の仕事はもう昨日終わったからな。後は特区警備隊(アイランド・ガード)の仕事だ」

「けどよ、相手は凄腕のテロリストなんだろ? 本当に大丈夫なのか?」

「それはお前が気にすることじゃない。……どうした、やけに食い下がるな。何か事情でもあるのか?」

 

 軽蔑などの色を含まない那月の眼差しを受けて、古城は言葉を詰まらせた。

 何でもない、というのは簡単だが、いつも相談に乗ってもらっている那月に隠すというのも、何だ気が引けてしまう。

 

「いや、実は……」

 

 迷った結果、古城は話すことにした。

 昨日の夜、あのクルーズ船でヴァトラーに出会ってからの成り行きを、全て。

 

「ってわけなんだが」

「なるほどな。暁……お前バカか?」

「うぐっ……!」

 

 呆れたようなその言葉に古城はショックを受けて後退る。確かに、後先考えずに発言してしまったことは否めない。

 しかしあのままでは、静乃がヴァトラーに連れ去られてしまう可能性もあった。それだけは嫌だ。絶対に嫌だった。

 だから古城は、あの発言を後悔などしていない。ヴァトラーが何を考えていようが、古城から静乃を奪っていくというのなら、古城は絶対に許さない。

 

「フン……まあ事情は分かったが、これは少し厄介かもな」

「何がだ?」

「ヴァトラーにとっては適当なんだろうが……選ばれたのが、よりにもよって漆原だったということだ。もっと言えば、漆原静乃が漆原家の娘だった、ということか」

「漆原家……」

 

 ああ、と頷き、那月はビロード張りの椅子に深く腰掛け、少し不機嫌そうに続けた。

 

「漆原家の連中は、基本的に全ての人間を、自分の出世の駒としか思っていない。同じ立場に居る者は身内であろうが容赦なく蹴落とし、利用できるのであれば、発言権のない弟や()であろうが、平気で利用する」

「……っ!」

「この場合、漆原の両親のことは考えなくてもいい。あの家は絃神島のことは漆原の兄、つまりこの学園の理事長でもある漆原賢典に一任している。そしてヤツは人工島管理公社内での権威争いにご執心だ。そんな中で〝戦王領域〟からの吸血鬼の貴族の来訪――ヤツにとってはまたとないチャンスだったはずだ」

「…………」

「ヴァトラーのヤツのことだから、大して賢典に関心は払ってないだろう。期待していた成果が得られず気落ちしていたところに、もしあまりよく思っていなかった妹がヴァトラーに見初められた、と知ったとしたら?」

「……何が何でも、利用しようとする?」

 

 正解、とでも言うように那月は緩く頷く。

 

「そうだ。漆原はあの能面みたいな無表情のせいで、親族からは嫌われているらしくてな。ああいや、ヤツの祖父である爺は気に入っているという話だったか。どちらにしろ漆原があの家の中で最も立場が低い」

「じゃあ、アイツが今日学校に来てなかったのは……」

「もしかしたら、関係があるのかもしれないな」

 

 古城はギリッ、と歯軋りをした。

 溢れ出る怒りを治めるために、力一杯拳を握らなければならなかった。

 

「そんな……」

「何よそれ……実の妹を何だと思ってるワケ!?」

 

 雪菜が信じられない、と言わんばかりに口元に手を当てて呻き、サツキは義憤も露わに吐き捨てた。

 

 静乃がいつも家族に辛辣な評価を下していた理由が、今ようやく分かった。

 自分の妹の人生すら自らのものとしようとする兄と、全く関心を払おうとしない両親。

 むしろこれまでで、静乃の精神が歪まなかったことが驚異的だった。

 

「……ありがとな、那月ちゃん。色々、よく分かったよ」

「礼は要らん。だが暁、お前はこの話を聞いて、どうするつもりだ」

 

 真剣な表情で投げかけられた問いに、古城は何かを言いかけて口を噤み、自分の右手へと視線を落とした。

 

「……俺に、何が出来るんだろうな」

「さあな。……それは、お前自身が決めることだろう」

「そうだよな」

 

 頷き、古城は那月に背を向け、扉へと歩き出す。

 進むべき道は未だ見えない。だがそれでも、自分が何をしたいかははっきりと分かっている。

 彼女を取り巻く状況に、ヴァトラーの思惑。それらは確かに厄介なものだが、古城にとって絶対に譲れないものとは、関係のないことだった。

 元より、古城のすべきことなど決まっていたのだ。

 

「それからもう一つ、忠告してやろう。暁古城、ディミトリエ・ヴァトラーに気を付けろ」

 

 那月の静かな声を聞いて、ドアノブに手をかけていた古城はピタリと動きを止める。

 

「ヤツは自分よりも格上の〝長老(ワイズマン)〟――真祖に次ぐ第二世代の吸血鬼を、これまでに二人も喰っている」

「――同族の吸血鬼を……喰った? アイツが!?」

「ヤツが〝真祖に最も近い存在〟と言われる所以だよ。お前も、せいぜい喰われないように気を付けろよ」

 

 那月が少しだけ真剣な声で言う。その様子に得も言われぬ不安を覚えた古城は、素直に頷いた。

 

 

 

§

 

 

 

「南宮先生の話、本当でしょうか」

 

 那月の部屋を退出した古城たちは、どことなく重い足取りで自分たちの教室へと向かっていた。

 その道中で、立ち止まった雪菜がポツリと呟いた。

 

「まあ、人格的に少し問題はあるけど……」

「那月ちゃんて基本嘘は吐かないからねー」

 

 彼女のことをよく知る古城とサツキは顔を見合わせて、曖昧な感想を述べる。雪菜もそれを見て微苦笑を浮かべた。

 

 あの傍若無人で傲岸不遜な南宮那月が、わざわざ古城たちに嘘の情報を教えるような、面倒臭い真似をするはずもなかろう。

 信頼というには微妙だが、そこら辺は信用している古城たちだった。

 

「〝長老(ワイズマン)〟って、第二世代の吸血鬼、って言ってたわね」

「はい。真祖に認められて彼らの〝血〟を分け与えられた者たちです。必ずしも真祖の実の娘や息子というわけではありませんが」

「つまり、〝最も旧き世代〟の吸血鬼、ってことか。ヴァトラーは、そういう意味では第一真祖と直接繋がってるわけじゃないんだな」

「そうですね。純血の吸血鬼とは言っても、所詮は〝長老(ワイズマン)〟たちの遠い子孫ですから。――だというのに、アルデアル公が彼らを喰ったというのなら、血の濃さを覆すほどの、何か特殊な能力を持っているのかもしれません」

 

 深刻そうな口調の雪菜の言葉を訊いて、古城は自分の手の平を見る。

 

 不老不死の吸血鬼にとって〝血〟とはすなわちそのまま、吸血鬼の存在そのものである。

 長く生きた吸血鬼はより多くの血を吸うことで、その身により強大な魔力をその血の中に蓄える。

 それこそが若い世代の吸血鬼と比べて〝旧き世代〟の吸血鬼たちが強力な力を持つ理由だった。

 

 だが、それはつまり、若い世代の吸血鬼が強い力を手に入れるには、強力な吸血鬼の血から直接、その魔力を奪うのが手っ取り早いことを示している。

 吸血鬼が、他の吸血鬼の〝血〟を吸い、その力を奪う――俗に言う、〝同族喰らい〟である。

 

 しかし普通は、相手の血を吸い尽くしたとしても、その吸血鬼が自らより強ければ、体の内側から肉体と意識を乗っ取られて、結局喰うことは出来ない。

 つまり、ヴァトラーが〝長老(ワイズマン)〟を喰ったというのは、普通ならあり得ないことなのである。

 

「喰われないように気を付けろ、か」

「あれってやっぱり、古城が第四真祖だからかしら?」

 

 サツキの疑問に、雪菜は頷く。

 

「恐らくは。アルデアル公は先輩の〝血〟に執着していましたからね」

「俺じゃなくて第四真祖の〝血〟だろ」

 

 言い返してから、古城は苦々しく息を吐いた。

 

「多分、今の俺じゃアイツには勝てない。通力(プラーナ)魔力(マーナ)を全力で使っても、アイツはそっちの方面でも俺より数段上だからな。加えて九体も居る眷獣に特殊能力、さらには……」

「〝白騎士〟……あの〝鎧〟ね」

 

 重々しく呟くサツキ。同じことを思っていた古城も無言で首肯する。

 古城自身が所持する王家の秘宝、聖剣サラティガと対を成す、白銀の甲冑。

 今の古城の持つ力では、あの鎧を破ることはかなり難しいだろう。

 

 考えれば考えるほど、ロクでもない想像ばかりが浮かんでしまう。

 頭を振って思考を追い払う。今はそれよりも考えるべきことがある。

 

「それより、静乃のことはどうするべきだろうな……」

「んー……ねえ古城。思うんだけどさ、あの漆原が、黙ってそんなふざけたことに従うかしら? むしろ何が何でも断ろうとすると思うんだけど」

「ああ……。確かにそうだな」

 

 サツキの言葉に、古城は納得の頷きを返した。

 言われてみれば確かに、あの昼行燈の割に頑固な静乃のことだ。そんな彼女が自分が望まない命令に、はいそうですかと従うはずがない……とは、思うのだが。

 気になるのは、静乃の〝兄〟の動きのことだ。

 管理公社内での権力争いに夢中だという彼ならば、あらゆる手段を用いて静乃をヴァトラーの元に送り込もうとするだろう。

 最悪の場合、古城たちを人質に脅迫、あるいは懐柔を迫る可能性もある。

 そして、そんな手段が実際に取られたとき――静乃はどんな行動を取るだろうか。

 

「…………クソッ」

 

 案の定、悪い方向にしか考えが進まなかった。

 小さく毒づいて、再度思考を切り替えた。

 

 静乃のことを気にかける必要はある。だがそれだけに拘っても居られない。

 

「今の段階では情報が少な過ぎて、判断に困りますね」

「情報かー……。確か、ナラクヴェーラっていうのを密輸したのは、絃神島内の企業って話よね?」

「カノウ・アルケミカル・インダストリー社ですね。錬金術素材関係の準大手、だったと思いますけど」

「……もしかしたら、そっちの方面から何か調べられるかもしれないな。悪いけど姫柊、中等部の方に戻っていてくれ。後でまた連絡するよ」

「先輩が何を考えているのか、薄々想像はつきますけど――」

 

 どことなく拗ねたような表情で何かを告げようとした雪菜は、しかし不意に顔を上げて、ゆっくりと周囲を見渡した。同時に古城も眉根を寄せて視線を周囲に走らせていた。

 

「古城? 姫柊さん?」

「いや……」

「誰かに見られていたような気がしたんですけど」

 

 どうやら気のせいだったようです、と言って雪菜は首を振った。

 

 

 

§

 

 

 

「お、浅葱!」

「あ、古城? アンタ、今までどこに……って、ちょっ、な、何!?」

 

 昼休みも終わり頃。次の授業の予鈴が鳴った直後に教室に駆け込んだ古城は、目当ての人物の姿を見つけると、一目散にその席へと向かった。

 突然居なくなった古城を睨むようにしていた浅葱だったが、古城が真剣な顔で歩み寄ってくるのを見て頬を赤らめ始めた。

 その反応を古城は不思議に思ったが、構わずに突き進み、浅葱の隣に屈み込む。

 彼女の耳元に顔を寄せると、さらに赤くなった。何だコイツ。

 

「浅葱、今からちょっといいか?」

「え、え? 何よいきなり、授業始まるわよ!?」

 

 浅葱の反論を黙殺して、古城は彼女の腕を強引に掴んで教室を出て行こうとする。

 クラスメイト達の興味深そうな視線が突き刺さるが、古城は努めて無視した。

 

「サツキ、先生には上手く言っといてくれ」

「むー……。分かったけど、二人きりだからってヘンなことしないでよ古城!」

「え、ちょっと、だから! どこに連れてくつもりなのよ!」

 

 サツキの不満げながら全てを了解したような受け答えにますます疑問を深める浅葱だったが、自らの二の腕を握る古城の手を振り払おうとはしなかった。

 

 教師たちと鉢合わせないように、古城は浅葱の腕を引いたまま足早に廊下を進みながら、

 

「悪いな。どうしても浅葱に頼みたいことがあって」

「何ソレ。嫌な予感しかしないんだけど」

「そう言わないでくれよ。……カノウ・アルケミカルって会社のことについて調べて欲しいんだ」

「は? 何であたしが授業をサボってまでそんなこと……まさか、あの姫柊って娘に頼まれたの?」

「え? いや、別にそういうわけじゃ」

 

 動揺する古城を睨みつけた浅葱は、不機嫌そうに鼻を鳴らし、

 

「イヤよ。あの娘の手伝いなんて、あたしは絶対イヤ」

「……お前と姫柊って、何かあったのか?」

 

 以前から薄々感じてはいたが、浅葱と雪菜はどうも相性が良くないらしい。

 いきなりケンカになるほどではないが、やたらと関係がギスギスしているのだ。

 心底不思議そうに尋ねた古城に、浅葱は額に青筋を浮かべて、

 

「全部アンタのせいでしょうが……っ!?」

「いて、いててて! ちょっ、抓るなって!」

 

 浅葱に耳をギュッと抓られて、古城は悲鳴を上げた。絶妙に捻りがかけられていてかなり痛い。

 何だかよく分からないが、古城の不用意な言葉に腹を立てているらしいことは分かった。

 解放してもらうためにひたすら謝罪しながら、用件を伝える。

 

「ごめん、悪かったって! ソイツらが輸入したナラクヴェーラってヤツのことが知りたいだけなんだ!」

「ナラクヴェーラ?」

 

 何故か意外な単語に浅葱が反応した。その拍子に抓られていた古城の耳たぶは解放されたが、代わりに今度は胸倉を掴まれて引き寄せられた。

 

「それって何? アンタ知ってるの?」

「いや、第九、ヘル、ヘルメ……まあ、何とか言う古代遺跡から発掘された古代遺産らしいってことぐらいしか」

 

 耳を擦りながら、古城はうろ覚えの記憶を引っ張り出しながら答えた。

 

「古代遺産……ねぇ。それがカノウ・アルケミカルと関係してるってわけ?」

「ああ。多分」

「ふーん。…………いいわ、ちょっとだけ興味が湧いたから、付き合ってあげる」

 

 そう言ってニヤリと笑う浅葱。

 どういう風の吹き回しか知らないが乗り気になってくれたらしい。

 

「助かる。どうすればいい?」

「とりあえずネットに接続できるパソコンが要るわね。この時間だったら生徒会室かしら」

 

 それだけ言って弾むような足取りで生徒会室へと歩き出す浅葱の後を、古城は慌てて追う。

 古城と二人っきりの状況を楽しんでいるようにも見える浅葱だったが、彼女の気まぐれに慣れている古城は特にどうとも思わなかった。

 

 やがて生徒会室の前に到着した二人だったが、そこで古城はようやく、生徒会室には警備会社に繋がる電子ロックがかかっていることを思い出した。

 そのことを浅葱に訊こうとするも、浅葱は何ともなさそうに携帯電話を取り出してドアに当てた。

 

「この程度の暗号化が通用するのは幼稚園児までだっての……ほらね」

 

 物凄い勢いで画面上を数字が流れるのを呆然と見守ること数秒、鍵が開く気配がした。

 どういう手段かは一切全くこれっぽっちもわからないが、電話機に内蔵された電子マネー端末を利用して警備会社製の電子ロックをハッキングしたらしい。

 

 何の抵抗もなく開く扉を見つめながら、古城はポツリと呟いた。

 

「……お前って、実は凄いヤツだよな。いまさらだけど」

「こ、こんなの感心されるようなことじゃないってば。止めてよね、恥ずかしい」

 

 まあ確かに、完全に違法行為ではあるか。

 浅葱は赤らんだ頬を隠すようにしてタタッと生徒会室の中へ駆け込み、部屋の奥に置かれていたパソコンを起動した。

 

「さってさて、ナ、ラ、ク、ヴェー、ラに、カノウ・アルケミカルっと」

 

 しっかりと扉を閉めた古城が彼女の元へ行きその手元を覗き込んでみると、画面には数字だらけの見たこともないコマンドが羅列されていて、それを見た瞬間古城は理解を諦めた。

 こんなもの、シュウ・サウラの知識にもない。完全に埒外である。

 

「あっ、あったあった。古城が言ってるの、多分これのことじゃない?」

 

 浅葱が表示したいくつかの大きな画像ファイルには、ずんぐりした卵型の石の塊が映っていた。

 丁度体を丸めた昆虫の姿に似ている。あるいは、分厚い装甲で身を固めた戦車にも――

 

「二十世紀末に休眠状態で発掘された出土品……というか一種の無機生命体。生物兵器ね」

「生物、兵器?」

「現代風に言うところの無人戦闘機。多数の武装と飛行能力を持っていたと推定され、インド神話の〝天翔る戦車(プシュパカ・ラタ)〟や、道教で崇められる人造神〝ナタ太子〟のモデルとなったと考えられる――って」

「よく分からんが、危険なものだってことは分かった」

 

 具体的にどういうものかは分からないが、それが本当に神話レベルで描かれるものだとしたら、途轍もない力を秘めているのは間違いない。那月の言っていた〝神々の兵器〟というのもあながち誇張ではないのだろう。

 確かにこれなら、第一真祖とも十分に戦えそうだ。黒死皇派が目を付けるのも納得だった。

 

「――っ!」

 

 古城が真剣な表情でディスプレイを見つめていた――その直後、浅葱が猛然と古城の首筋に手を回し、床の上に引きずり倒した。

 浅葱にホールドされる形になった古城は混乱するも、浅葱はそれを取り合わずに、パソコンデスクの下に自分と古城の身体を無理やり押し込んだ。

 

「あ、浅葱!?」

「しっ! 黙って!」

 

 小声で言った浅葱が睨むのは、生徒会室入り口のドア。内側からかけておいた鍵を開けて誰かが入ってくる気配があった。

 

「……誰だ?」

「マツイ先生かしら。生徒会の顧問の。意外と仕事熱心なのね」

 

 生徒会室に入ってきた中年の男性教師はパイプ椅子に座って書類整理を始めた。

 彼の目に留まらずに生徒会室を抜け出すのは不可能に近い。というか今の状況も十分危ない。近づかれれば即バレる。

 

「感心してる場合か! どうすんだよ!?」

「だから静かにしてなさいってば! ちょっ……どさくさ紛れにどこ触ってんのよ!?」

「狭いんだから仕方ないだろ! 不可抗力!」

 

 小声で囁く浅葱の吐息が、古城の耳にかかる。

 

 接触しているのはそこだけではなく、古城の二の腕は浅葱の胸の膨らみに当たっていたし、いつの間にか古城の手首は彼女の足の付け根に挟まれる形になっていた。

 一応古城も少しだけ通力(プラーナ)を開放して、物音を消す《神速通》の派生技、《廉貞》を行使していたのだが、古城が身動ぎする度に浅葱が敏感に反応するので、気になって仕方がない。

 

 しかし浅葱をここで突き放すわけにもいかない。

 流石に静乃には及ばないが、浅葱も雪菜やサツキとは胸元のボリュームが違う。香水だかシャンプーだか知らないが、オシャレに気を遣っている浅葱の髪から仄かな匂いも漂ってきて、古城は奥歯を噛み締めなければならなかった。

 心臓が昂ぶり喉が渇き、犬歯が疼き始める。吸血衝動の前兆だった。

 

 とにかく意識を別なものに逸らそうとして、古城はふと浅葱に耳元に目を留めた。

 

「浅葱……ひょっとしてそのピアスって……」

 

 小さな石の嵌まった金色のピアス。それは彼女の誕生日に古城が贈った、というか買わされたものだった。

 石の色は緑がかった薄い藍色。浅葱色だ。

 

「……気づくのが遅いのよ、バカ古城」

 

 古城の呟きに、浅葱は少し潤んだ目で古城を見上げ、ニヤリと微笑んだ。

 昂ぶっていた心臓が、一際強く鼓動を打つのを古城は感じて――丁度そのタイミングで、マツイ教師が出て行く気配がした。

 そこで、古城の緊張感はついにプッツリと途切れて、

 

 ――ブッ。

 

「こ、古城!? アンタ、大丈夫なのそれ!?」

「うおっ!?」

 

 直後に古城の鼻から、大量の鮮血が噴き出した。

 危険な域まで高まった吸血衝動が霧散していく。吸血衝動の源は確かに性的興奮である。だが、何も他者の血液でなくてもいいのだ。例えば、自分の鼻血であっても血液であれば事足りる。

 

「まあ、何て言うか……アンタにムードとかそういうのを期待したあたしがバカだったわ」

 

 そう言って、浅葱は弱々しい溜め息を零した。

 

 

 

§

 

 

 

「少しは落ち着いた?」

「おー……」

 

 浅葱の気だるげな問いに、ベンチに深々ともたれかかった古城はヒラヒラと手を振って答えた。園花にはティッシュが詰め込まれている。

 

 生徒会室を抜け出した古城たちが向かったのは、屋上庭園だった。人工島内という立地上、敷地不足気味の彩海学園では、緑化した屋上に花壇やベンチを置いて、普通の学校で言う中庭の代わりに生徒に開放しているのだ。

 とはいえ流石に日差しがキツく、利用する生徒は少ない。吸血鬼である古城にとってもかなり厳しい環境だった。

 

 はぁ、と溜め息を吐きながら、古城は思考する。

 ナラクヴェーラの正体は分かったが、那月の言った通り、サンプルはすでに盗み出された後だった。現在の所在地は一切不明。恐らくはガルドシュ達の手元。

 那月の言うように、制御用のコマンドが解読されない限り、例えナラクヴェーラをガルドシュが所持していたとしても、警戒する必要はないのかもしれないが……だが何故か、古城には酷い胸騒ぎがしていた。

 俺たちは、何か重大なことを見落としている――そんな漠然とした不安。

 

「ねぇ……古城」

「ん?」

「さっきのナラクヴェーラってやつ、変な石板もセットで密輸されたのよね?」

「ああ。らしいな」

「それって、解読されたら……まずかったり?」

「そりゃあなぁ。普通なら危険極まるだろ……って、何でお前がそんなことを?」

「え!? ううん、別に何でも!?」

 

 自分から訊いてきたくせに不自然に目を逸らした浅葱を不審に思って問い詰めようとしたそのタイミングで、古城の腹が間抜けな音を鳴らした。噴き出す浅葱。

 

「アンタ、朝ご飯は?」

「喰ってるわけないだろ、あの状況で!」

 

 古城の苦情もどこ吹く風。浅葱は全く悪びれずに笑って、

 

「それもそうね。仕方ないから、優しい浅葱お姉さんがお弁当を分けてあげるわよ」

「お前が腹減ってるだけだろ。くれるってんならありがたく貰うが」

「もっと感謝しなさいよね。このあたしが誰かに食べ物を分け与えるなんて滅多にないわ」

「……とか言ってるけど、お前よく俺にメシを奢らせてるよな。おい、答えろよ」

 

 ジト目で睨む古城をさっぱり無視して、浅葱は教室から持って来ていたポーチの中から弁当箱を取り出した。割と大喰らいの浅葱からしたら、随分と控えめなボリュームだった。

 しかし箸が一膳しかない。さてどうするか、浅葱は少し逡巡したようだが、一つ頭を振って気を取り直し、卵焼きを摘まんで古城の口に放り込んだ。

 

「……美味いな」

「そうね。あたしも母親(あの人)の料理の腕は認めてるのよね」

 

 まるで他人事のように母親のことを語る浅葱。彼女の両親は二年前に再婚したばかりで、今の母親とは血が繋がっていない。不仲というわけはないが、微妙な関係らしい。

 コメントし辛い話題を気まずく思った古城だったが、幸いにも浅葱の方から話題を変えてくれた。

 

「そう言えば、今日漆原さん来てなかったわね。どうしたのかしら」

「さあな。家庭の事情らしいけど」

「さあ、って……。アンタ、心配じゃないの?」

「……心配に決まってんだろ」

 

 苛立ちが混じり、つい強い口調になってしまった。

 浅葱の瞳に怯えが過ぎったのを見て、古城は溜め息を吐いて精神を落ち着かせ、ゆっくりと口を開く。

 

「けど、どんだけ連絡しても全然出て来ねえし、メールを送っても返信すら出さないしな。正直どうなってんのか、俺にもさっぱりなんだよ」

「アンタにも言わないなんて、珍しいわね……。家庭の事情、か」

 

 独りごとのように呟く浅葱。

 浅葱は静乃の家庭環境を以前から知っており、本人もまた家族関係で少なからず苦労している。何か思うところもあるのだろう。

 

「大丈夫かしら、漆原さん。何ともなければいいんだけどね……」

「…………」

「な、何よ?」

 

 本気で静乃の身を案じているような浅葱の口ぶりに、古城は思わず目を見開いて彼女の横顔を見つめてしまった。

 

「お前、静乃のこと、心配してくれてるのか? 仲悪いんじゃなかったのか?」

「え? あたし?」

 

 古城が訊くと、浅葱はおとがいに指を当てて少し考えて、

 

「んー……仲が悪いって言うか、反りが合わない、って感じよね、あたしと漆原さんって。でもまあ、だからって言って嫌ってるわけでもないし、割とよく話すし……。向こうがどう思ってるかは分からないけど、あたしは漆原さんのこと友達だと思ってるわよ」

「そう、か……」

 

 漆原静乃という少女は、あの能面のような無表情と皮肉げな言動で、他人から誤解されやすいところがある。

 本人も特にそれを気にせず、ただ古城にのみ固執しているため特に直そうとはしていないようだが、そのため彼女には友人と呼べるものが多くない。

 せいぜい古城やサツキ、凪沙などその辺りぐらいしか居なかったはずだ。

 

 だが今、浅葱は、何の躊躇も忌避もなく、静乃のことを友達だと言い切った。

 例え反目し合う中であっても、静乃にとって、やはりそれは必要なものであるはずで――

 

「……浅葱」

「何よ、そんな真剣な顔して」

「ありがとな」

「は? 何のこと?」

「いや……」

 

 古城の礼の意味が分からず混乱する浅葱を見て、やっぱりこいつはいいヤツだな、と古城は確認出来て、思わず笑ってしまった。

 

「今度は笑ったりして、何なのよもう……」

「悪いな。ただ……俺は、お前のそういうとこが好きだよ」

「………………ふぇっ!?」

 

 微笑みながら言うと、浅葱は珍妙な声を出して、一瞬で耳まで真っ赤になってしまった。

 

「おい、浅葱?」

「あ……な……す……!?」

「ん、何だって?」

 

 パクパクと、まるで金魚のように口を開けたり閉じたりする浅葱を不思議に思って顔を近づけると、今度は露骨に後退られてしまった。

 微妙にショックを受ける古城だったが、急に動いた拍子に浅葱の膝の上に乗っていた弁当がぐらりと傾き、そのまま地面に落下しそうになる。

 浅葱は未だ何やら使いものにならない様子だったので、古城は慌てて手を伸ばし、

 

「あっぶねぇっ! ……うおっ!?」

「え? ちょっ、きゃぁっ!?」

 

 間一髪弁当箱はキャッチできたが、勢い余って前に倒れ込みそうになった――浅葱の上半身を巻き込む形で。

 完全に無防備だった浅葱はされるがままで、気付いた時には古城と浅葱の顔はほとんど密着してしまっていた。

 弁当箱をキャッチしたのともう片方の手は浅葱の耳元に置かれ、古城の上半身は浅葱を押し潰すように覆い被さっている。傍から見れば、古城が浅葱を押し倒したようにしか見えない。

 

「こ、古じょ、う……」

「浅、葱……」

 

 図らずも至近距離で見つめ合う形になった二人は、呆然としたままお互いの目と目を合わせて固まる。

 

 すぐに退こうと思うのに、古城の身体は従ってくれない。

 後少しでも動けば、支えとしている手を動かせば、肌が触れ合ってしまう

 なのに古城の意識は何故か、全く関係ないところにばかり引き寄せられいた。

 

 大きく見開かれた瞳と、その縁を彩る長く手入れされたまつ毛。乱れた髪が艶のある肌にかかって妙に色っぽく、身動ぎする度に甘い匂いが鼻腔を擽る。

 そして、戸惑うように小さく動く唇に、目が吸い寄せられて離せない――――

 

 見つめ合っていた時間は数秒程度。その数秒間、二人の間には邪魔するものなど何もなかった。

 お互い以外は目に入らなくなり、衣擦れと吐息以外は耳に入らなくなった。

 だが、その時間は、零れ落ちた箸が地面に墜落する、カランカラン、という音で呆気なく消え去ってしまった。

 

「…………っ!?」

「……~~~~っ!?」

 

 その音が聞こえた瞬間、古城は弾かれたように跳び上がり、浅葱は椅子の限界まで古城から後退る。

 これ以上なく混乱した頭で古城が浅葱を見つめると、浅葱はこれ以上なく真っ赤になった顔で古城を見つめ返していた。

 言葉が出てこない。そもそも論理的な思考すら保てない。

 

 どうして、俺はあんなことしたんだ……?

 

「あ、浅葱……」

「あ、あたし、飲み物買ってくるわね! あ、残り全部食べちゃっていいから!」

 

 早口で言うなり、拾った箸を古城に押し付けて、浅葱は物凄い勢いで走り去って行った。

 呆然とそれを見送っていた古城は、鼻の辺りに感じる熱い液体の感触で我に返った。

本日二度目の鼻血。どうやら気付かない内に吸血衝動が起こっていたらしい。

 

「っはぁぁぁ~~…………」

 

 浅葱が居なくなって緊張感が途切れたせいか、肺の中の空気全部を吐き出すような溜息が漏れた。

 既に考えなければならないことは山積みだというのに、この期に及んでまた一つ増えてしまった。

 差し当たっては――これから浅葱と、どんな顔で向き合えばいいというのか。

 

 何気なく見上げた空の眩しさに眉を顰めた。

 古城が座っていたコンクリート製のベンチが、轟音とともに砕け散ったのはその直後だった。

 

「――ッ!?」

 

 その寸前でどうにかその予兆を感じ取った古城は、遮二無二通力(プラーナ)を解放。全力でその場から飛び退いていた。一瞬遅れて爆風が炸裂する。

 瓦礫が屋上の床を転がり、古城は衝撃に翻弄される。

 ベンチが爆発したわけではない。さっきまでベンチがあったはずの場所には、半径一メートルほどのクレーターが穿たれていた。

 火薬の匂いはせず、漂ってくるのは呪力の残滓のみ。雪菜の得意とする発勁に似た、呪術を応用した物理攻撃である。

 

「――授業をサボってクラスメイトと逢い引きとは、随分いいご身分ね暁古城」

 

 頭上からかけられた蔑むような声に、咄嗟に振り仰いだ古城の眼に映ったのは、一人のすらりとした少女だった。

 どこかの学校のものであろう制服を着込み、銀色の巨大な長剣を左手に下げたポニーテールの少女が、はっきりと敵意の籠もった視線で古城を見据えていた。




 古城のタラシレベルが上がりました。積極的に浅葱を攻略しに行ってますね、さすがハーレム主人公。フラグを見逃さない。
 本当ならガルドシュ乱入まで行きたかったんですが、ちょっと無理でした。
 次はできるだけ急ぎたいと思いますので、よろしくお願いします。

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